最終話 未完成エンド!


作 0 者


 元日に投稿される、『妹ハッピーエンド!』の番外編、『妹ハッピーシーズン!』も見てあげて下さい!


祝 1 也


 人の噂もしちじゅうにち、ということわざがある。

 此度のすったもんだでは、様々な噂が、情報が、短期間に錯綜していたので ――― つまり噂がすぐに別の噂に置き換わったり、いつの間にか消滅していた情報があったりしていたので、ひとつの噂が七十五日も跋扈ばっこしたということは殆どなかった。まあこういう身近な例だけでなく、昨今の情報社会やインターネットの普及などの事情も諸々に鑑みると、この諺は、令和の時代を生きる我々には、もう死語なのかもしれない。それならいっそ、『人の噂も七日しちにち』などと、それこそ諺の情報を置き換えても良いのかもしれない。

 しかし、この意見に対し、意外や意外、田中は「うーん、そうかな?」と難色を示していた。

 彼は、宛ら音速のように流れていくような情報を司る究極アルティメット情報通インテリジェンスの通り名を掲げている程の人間なので、てっきり今回のぼくの持論には賛同してくれると思ったのだが、どうやら、彼には彼の持論があるらしかった。

「まあより厳密に言うなら、賛成反対半々といったところかな ――― 噂や情報というのは、つまるところ波の性質を帯びているんだよ。確かに色々な情報が絡み合うような社会の様相は、如何にも現代社会のイメージにぴったりだが、現代でも案外、ひとつの情報がしばらく停滞したり、そもそも何の噂も、ブームもない期間だってあったりすると思うよ」

 波。

「そう、波の満ち引きのように、ね。同じように今回の一件を例にとってみると、菜流未さんの存在しない兄探しの噂は、畝枝野 凪くんが笹久世 菜流未さんを好いているという噂に置き換わるまでに、それこそ約二ヶ月、期間が空いていた ――― 停滞していた」

 二ヶ月 ――― すなわち、七十五日と言っても差し支えがない期間だ。

「では、具体的には、どういう場所では情報が密になり、どういう場所では情報が停滞するだろうか」

 どういう場所で波は荒れ狂い、どういう場所で波は立たなくなるのか。

「まあ結論から言ってしまうと、緊迫した場所では情報が密になりやすい。情報が停滞しやすいのは、その逆といったところだ。人ってのは、緊迫した状況に立たされると、情報を集めようと躍起になるところがあるから、それに拍車をかけるように、情報自体も膨れ上がりやすくなるわけだね。これも今回の一件を例にとるとわかりやすいが、菜流未さんの兄探しの噂は、皆そこまで重要視していなかったから、しばらく停滞したが、畝枝野くんが菜流未さんを好いているという噂は、学園の人気者のワンツーがカップルになるかも、という状況を生み出し、皆が更なる情報を追い求め始めたから、情報が密になり始めた、というわけだ」

 田中はまたも長ったらしく、けれどもわかりやすく、持論を解説したところで、「ところで」と話を変える。

「噂にまつわる諺を、君は他に知っているかい?」

 噂にまつわる、諺。

「噂をすれば影が差す、くらいしか知らないな」

「まあ、一般的にはそのふたつくらいしか知られていないよね。でもあとふたつ程あるのさ」

 田中は手でVサインを作りながら言う ――― やはり、噂や情報に関することならば、そういった一般知識にも、精通しているといったところだろうか、と思ったが「とは言っても、僕も別に勉強がそこまで出来るというわけではないから、もしかしたらこのふたつ以外にも僕の知らない噂にまつわる諺がまだあるかもしれないけれど」と珍しく謙遜するようなことを言った。

「『人の噂は倍になる』と、『噂は遠くから』だ。特にふたつ目の『噂は遠くから』という諺は、身につまされるね」

 噂は遠くから。

「どういう意味なんだ?」

「噂とは、往々にして、真実を知っている人間からではなく、外部の、全く関係のない人間から発生することのほうが多い、といった意味だよ」

 と、田中が諺の意味を、ぼくに手解きしてくれたところで、スマホの着信音が鳴る ――― ぼくのではなく、田中のスマホだ。

「ああ、失礼。さすけからだ。他の生徒を寄せ付けないために、すぐ傍で警備をしている筈なのに、わざわざ電話してくるなんて、そこまでして僕の言いつけを守らなくても良かったのに」

 と言いながら田中は着信に応じる……、言いつけというのは、この教室を田中ひとり(厳密にはぼくを入れてふたりだが)にすることか。

「はい、僕だ。どうした……、ああやっぱりか。それで、用件は? …………何だって? ……ああ、そうかい、わかったよ。じゃあ、後ほど合流しよう。うん、それじゃあ」

 そう言って田中は溜息をひとつ吐きながら、スマホを耳から離し、通話終了のボタンをタップする。いやまあ、こいつらの話に必要以上に首を突っ込むことはないのだろうが、何となく胸騒ぎがして「どうしたんだ?」と黒板に走り書きをする。

「噂は遠くから、またやってきたみたいだよ」

 おいおい。

 これはどちらかと言うと、噂をすれば影が差す、のほうじゃあないのか?


祝 2 也


「お待ちしておりました、祝也さん」

 田中と今後の作戦について、手短に整合した後、ぼくは帰路につこうと校門を潜ろうとしたら、そこに長女の未千代が待ち構えていた。普段あまりお目にかかれない制服&伊達眼鏡姿で、優雅にお辞儀してくる。

「馬鹿。ぼくは周りには見えていないってこと、忘れたのか。周りから見たらお前、誰もいない空間にお辞儀して喋ってる奴だぞ」

「祝也さんこそお忘れですか? 私は周りの目など、一切気にしていないので大丈夫です」

「お前はそういう性格でも、お兄ちゃんが気になるんだってば……、大体何でまた校門で待つような真似を? いつも経過報告やら情報交換やら会議やらは、家でするのに」

「急ぎ、お耳に入れておきたいお話がありまして」

「またかよ……」

「また、とは?」

「いや、すまん、続けてくれ」

 田中からの新情報に続き、未千代からも何やら新情報がもたらされるようだ。

 本当に、今回の一件では、情報が錯綜しているな……。

「菜流未さんと恋倉 愛華さんは、その昔、具体的には小学三、四年生くらいの頃、ちょっとした関わりがあったようです。全く交流がないおふたりかと思っていたのですが、まさか接点がおありだったとは、個人的には意外でした」

 確かに、その情報はぼくも初めて聞いた。まさか今だけでなく、昔にも関わりがあったのか。畝枝野と菜流未、畝枝野と恋倉ちゃんという線は元から見えていたが、菜流未と恋倉ちゃんにも線が『ある』のだとするなら、これはいよいよ三角関係というヤツにしゃれ込みそうだ。

 そう、『ある』。

『あった』のではなく『ある』だ。

 先程さすけという男から田中へ電話が来た際に、奴から告げられた新情報というのが、つまりそういった内容だった。


「さすけの知り合いの後輩が、中等部の家庭科室で、笹久世 菜流未さんと恋倉 愛華さんが、何やら口論をしていて、最終的に菜流未さんが家庭科室を飛び出して行ったのを見たらしい」


「……ちなみにちょっとしたって言うのは、具体的にどういった関わりだと言うんだ?」

「ええっと……、これはそもそも菜流未さん本人から伺った話ですので、詳しくは伺っていないのです。申し訳ありません。それでも、何やらあまり良好ではない関わりだったらしいのは、菜流未さんのお話しになる雰囲気から、感じ取ることが出来ました」

 ふむ。そうなるとやはり、当時からそのふたりには、何かしらの確執があったと見るべきだな。

「ふう、流石にこれ以上は菜流未さんのプライバシーに関わりますものね。秘密にしておかないと……」

「? 何て?」

「いえいえ何でもございませぬ」

 ぬ?

「それよりも、祝也さんのほうはどうだったのですか? 本音を言わせて頂くと、確かに、急ぎお耳に入れておきたいお話があったのは事実ですが、本当は、祝也さんの素晴らしい計画の結果を早く伺いたくて、ここで待たせて頂いていたようなものなのです」

 いやぼくとしては、菜流未と恋倉ちゃんの関わりのほうが大事なんだけれど……、まあ良いか。

 情報は、どちらかが一方的に与えたり、貰い受けたりするのではなく、お互いに交換し合うもの、と田中も言っていた。とすると、ぼくだけが一方的に未千代から情報を引き出そうとするのは、ナンセンスだ。

「結果、ね。まあまさしくその結果から先に言うと、失敗した」

「え?」

「それも大失敗だ」

「そんな……、なぜです? 私は勿論、あの兎怜未さんも太鼓判を押してらした祝也さんの計画が大失敗だなんて、にわかには信じがたい話です」

「んー、まあその理由を、失敗した経緯と一緒に話すとだな」

 こうしてぼくは、未千代にぼくの穴だらけであった計画の末路を語った。その最中、未千代の言葉にあった、兎怜未がこの計画に太鼓判を押していたのに失敗するなんて信じられない、という指摘を思い出す。確かに頭が良く頭が切れ、こういった暗躍の計画を立てるのも大の得意な兎怜未が太鼓判 ――― とまでは言わなくとも、承認印を押してくれた計画が、こうも容易く瓦解するのは違和感がある。失敗が露呈した直後は、ひたすらに自分の詰めの甘さに、或いは未熟さに悲観し、それどころではなかったが、こうして、改めて落ち着いた状況で、第三者(と言うと距離を感じる言い方で未千代には嫌がられるかもしれないが)に語ってみると、新たな疑問が湧くものなのだな。

 それこそまさか、兎怜未が未熟な妹だから、ぼくの計画の穴を見つけられなかった、ということはあるまい。

「いえ、申し訳ないですけれど、そういうことでしたら、失敗して当然だと思います」

 あれ、未千代さん、珍しく辛辣。

「と言いますか、これは私と兎怜未さんにも非がありますね……、私たちは祝也さんが、そういう基本的なこと、いえ、初歩的なことを、きちんと詰めた上で計画しているものだとばかり思っていましたので、あの場では賛同していたのですよ。厳密には兎怜未さんは、本人に訊いてみなければわかりませんが、少なくとも私はそう思っていました」

 まさか筆跡の対策をしていなかったとは、と未千代はぼくを軽蔑するような目で見て ―――

「それでこそ、祝也さんですね! やはり頭の切れる祝也さんは祝也さんではありません、私、惚れ直しました!」

 なかった。

 むしろ惚れ直された、なんでやねん。

「というか、筆跡の対策自体はしたんだって。その対策が間違っていただけだ」

「『だけ』と仰いますけれど、それが今回の計画の致命傷となったのですよね?」

 追及が容赦ないぜ。

 口では惚れ直したとか言っているが、やはり心の中では、アホなイージーミスをしでかした兄に、ムカついているのかもしれない。

 しかし、ぼくはここで、敢えてドヤ顔で「ふふーん」と鼻息を鳴らして、未千代を見る。

「なんですか、祝也さん、そんな鼻息を荒げて。もしかして、普段見慣れない私の制服と伊達眼鏡の姿を見て、興奮されたのですか? それならどうぞ召し上がれ」

「召し上がらないよ⁉」

 その文脈だと、いかがわしいというより、単純にぼくに制服と伊達眼鏡を召し上がって欲しいみたいなニュアンスに聞こえてしまう。

 ぼくに女装趣味はない。

「確かに、致命傷になったが、同時にそれは怪我の功名にもなったのさ」

 ぼくは続けて言った。

「なし崩しとはいえ、ぼくは田中と、というか妹以外の一般人とコミュニケーションを取る手段を発見し、しかもその田中と協力体制を取ることに成功したんだ」

「っ……。そ、そうですか。それは……、おめでとう、ございます」

 ん? 何だか未千代の反応が悪い気がするが……、ともかく今度はぼくがなし崩し的に得た収穫話の詳細を語って聞かせた。

 筆談ならば、コミュニケーションを取ることが可能であったこと。

 さっきは便箋が偽物だと見破られたという話だったが、それとお前たちの兄探索がきっかけで、田中にはぼくの具体的な部分 ――― 笹久世家の長男であると信じてもらえたこと。

 ぼくが田中たちの邪魔をしたのは、菜流未の兄貴として、将来の恋人になるかもしれない畝枝野 凪のことをしっかりと見極めたかったからだ、と正直に話したら、田中が「そういうことなら、僕も協力をしよう」と言ってくれたこと ―――

「……そうですか」

「おい、ちゃんと聞いてくれてるか? ぼくの話」

「もう、もうなんですね。もう、私たちだけの祝也さんではなくなってしまったのですね」

「どういうことだよ」

「…………」

 ……何だか、嫌な予感がする。

 きっとまた、未千代の心は、乱れているのだろう、それなら。

 それが行動や言動に現れてしまう前に、静めてしまおう。

「しゅ、祝也さん⁉」

 ぼくは、並んで歩いて帰っている未千代の顔は見ずにポン、と自分の手を、未千代の頭に乗せた。

 そして、優しく撫でてやる。

「ぼくは元々お前たちだけのものじゃあない」

 むしろ、お前たちのものになった覚えなど、一度もない。

 我ながら、厳しいことを言っている自覚はあるが、敢えて続ける。

「それでも、お前を見捨てることはしない……、まあ今回の件で色々世話になってるから、それより前みたいな、何もコミュニケーションを取ろうとしない、みたいな態度も、もう取らない。そう誓うよ」

 それと。

「それと……、ありがとな。何やらお前ら、それぞれの知り合いにぼくを認知している人がいないか、捜査してくれてたみたいじゃないか。ぶっちゃけ、嬉しかった。ぼくは、お前たちが嫌いだけれど、それでも」

 自慢の妹たち。

 なのかもしれない。

「……もう」

 すると、未千代はなぜか不機嫌そうに頬を膨らませた。

 あれ、ぼくの頭なでなでを、もろに食らって不機嫌になるなんて、そんなことあるのか。

「嫌いだなんて、真面目な時に言われたら、それ以外に何と言われても、何をされても不機嫌になりますよ」

 ああ……、いやまあ真面目だし、本音なのだが、今それを言うべきではなかったのは間違いないな。

「す、すまなかった」

「では、仲直りの印に、ここからの帰り道は、久し振りに手を繋いで帰って頂けるなら、許して差し上げます」

「付け上がるな」

 ……まあ、でも。

「あっ……、祝也さん……」

 たまには、いいか。

 ぼくは、田中から教えてもらったを、未千代に告げるタイミングを見失ったまま、彼女の手を握り、帰路へと着くのだった。

 

「ああ、それともうひとつ。先程僕から君に協力すると告げたばかりだというのに、非常に申し訳ないけれど、その機会は、どうやらなくなりそうだ。というのも」

 君の偽の便箋を不審に思った畝枝野 凪くんが明日、笹久世 菜流未さんに告白することを決めてしまったらしいんだ。


祝 3 也


 帰宅。

 未千代が「兎怜未さんには、私から経過報告をしておきます。祝也さんは菜流未さんを……、必ず助けてあげてくださいね」と言ってくれたので、言ってくれてしまったので、ぼくは遂に、あいつと向き合わねばならなくなってしまった。

 笹久世 菜流未。

 笹久世家の次女にして、ぼくの二番目の妹で。

 未完成の妹。

 彼女の話を終わらせるために。

 幸せな終わりハッピーエンドに辿り着くために。

 ぼくはあいつと話さなければならない。

「菜流未……、入るぞ」

 ノックし、声をかけても返事がない。やむを得ず、ぼくは菜流未の部屋のドアを開ける。

「……返事してないのに、勝手にドア開けるとか、デリカシーなさ過ぎでしょ、シュク兄」

 そこには、もう外が暗くなっている時間帯にも関わらず、電気も付けずにベッドで突っ伏している制服姿のままな、菜流未の姿があった。

「じゃあ居るのに返事をしなかった理由を教えろ」

「……だからぁ、なーんでわかんないかなぁ。そういうこと訊くのも、デリカシーがないってことにさ」

 ……いかんいかん。ぼくはこいつと喧嘩をしに来たわけではない。話をしに来たのだ。

 とは言っても、こいつとは長年喧嘩ばかりしてきた、いや最早喧嘩しかしてきていないと言っても過言ではないので、真面目な話を切り出したくとも、どのような言葉を選べば自然な感じで会話を交わすことが出来るのかわからない、というのも正直なところだ。

 と、とにかく謝って、ご機嫌を取れば良いのかな。

「ご、ごめんごめん。今のはシュク兄が悪かったな。日頃から自己鍛錬は怠らないようにしているから、基本的には人格者であるおれだが、デリカシーがない、というそこだけが、その一点だけが、おれの唯一の瑕疵かしなんだよな。いやーまったく、人間やっぱり誰しも何処かに必ず欠点があるもんだよな ―――」

「……さい」

「……え?」


「うるさいっ‼」


「っ⁉」

 菜流未の部屋に、絶叫が轟く。

「この場を取り繕えれば良いやと思って、謝ればあたしの機嫌が直ると思って適当なこと言って!」

 憤慨が。

「あたしがどんな思いでいるか、知りもしないくせに、知ったようなこと言って!」

 憤怒が。

「どうせあんたは、自分の存在を戻すためだけにあたしたちの問題を解決しようとしてるだけでしょ⁉」

 激怒が。

「あたしたちの気持ちなんて、一秒も考えたことないんでしょ⁉」

 激昂が。

「本当の意味での善意なんて、一ミリもないんでしょ⁉」

 ちょうもくが。

「どうせ、あたしたち妹のことなんて、自分の存在を回復するための道具ぐらいにしか思ってないんでしょ⁉」

 はつしょうてんが。

「もうシュク兄とは一生口利きたくない! 目も合わせたくない!」

 ごんどうだんが。

「出てって! あたしの部屋から今すぐ出てってよ!」

 せっやくわんが。

 轟く。

 言わずもがな、こんな菜流未は初めて見た。

 普段から、考えるよりも先に、口を突いて出るみたいな奴ではあったが、というか手が先に出てくる時もある奴だが、ここまでのヒステリーを起こすことは、意外かもしれないが、今まで一度もなかったのだ。考えなしの発言の中でも、そこの線引きを、菜流未からは感じていたのだ。しかし同時にその線は枷となって、菜流未の気持ちを抑圧し続けていたのかもしれない……、その結果がこれだ。

 この有様だ。

「……そうかよ」

 もう駄目だ。

 その枷が今や完全に外れてしまっている。多分今の菜流未に何を言っても、その声は届かないだろう。

 ぼくは後ずさりするように菜流未の部屋を後に ―――


「祝也さんは菜流未さんを……、必ず助けてあげてくださいね」


 …………ああ。

 余計なこと、思い出したな。

 ……本当は、本心では、そう思っていない筈なんだ、未千代は。

 あいつにとってはきっと、ぼくとの距離が急接近した、ここ最近のぼく、すなわち、存在がなくなってしまったぼくと居ることが一番幸せなんだ、だからもしかしたら、存在を回復するかもしれない菜流未の手助けを、ぼくにして欲しくないと思っている筈なんだ。

 それくらいはわかってる。ぼくは鈍感系主人公ではないので、あいつの本当の気持ちが、わかってる。

 たとえあいつが未知の妹だとしても、それくらいはわかってる。

 それでもあの時、未千代がぼくにそう言ったのは、一緒に居たい相手が、誰よりも元に戻るのを望んでいることを、あいつもあいつでわかっているからだ。

 笹久世 祝也が元に戻りたいと思っていることを、笹久世 未千代はわかっているし、笹久世 未千代が元に戻って欲しくない心を隠して背中を押してくれたことを、笹久世 祝也はわかっている。

 ……筈なのに、今のぼくは、何をしようとしている?

 ここで菜流未の部屋から出るという行為は、未千代の厚意を踏みにじる行為そのものじゃあないのか?


「祝也さんは、人の厚意による行為を無下にしてまで庇おうとする人たちとは違いますもんね?」


 ははっ。

 今度はまた、くだらない言葉を思い出してしまった。

 しかし今回のことで言えば、今ぼくがしようとしていることのほうが遥かにくだらない。未千代の厚意による行為を無下にして、庇うどころか逃げ出そうとしているのだ。

 くだらな過ぎて、くだらな過ぎて、滑稽だ。今回のことで、ちょっとはマシな人間に成長出来るかもしれない、と思っていた自分が酷く、空しく、滑稽だ。むしろ前に逆戻りしようとしているじゃないか。

 妹たちから逃げ続けていた、前のように。

 この部屋から自分の部屋に戻ることは、つまり前のように戻るという意味なんだ。

 その点、やはり未千代の成長は素晴らしい。この短期間なのに、そして彼女自身には何の変化もない筈なのに、彼女のほうが、余程成長が見られる。ぼくの存在を元に戻す糸口がまだ見つかっていない時に、心が乱れてしまっていたのが、今では既に少し懐かしくさえ感じる程、今の未千代は大人になったように思う。

 ……ああ、なるほど。

 先程の菜流未の発狂、彼女から発されたものは、確かに初耳だったが、何処かで聞き覚えがあると思ったら、未千代のあの時と、今の状況が似ているんだ。

 あの時もぼくはどうして良いかわからなかったが、決して逃げはしなかった……、では何をしたか。

「ちょ、シュク兄⁉」

 あの時、未千代にしたことを、菜流未にもしよう、言おう。

「すまなかった」

「……ふんっ。口先だけの謝罪なんて要らないよ」

「本当にそう思っている。だからお前の気が済むまで、何度でも謝る。今のことだけじゃない、今までのお前に対する態度、すべてにだ。本当はもっと言葉を尽くして謝りたいが、口下手で何て言えば良いのか、おれには ――― にはわからない。それでもぼくの申し訳ないという気持ちは、本当だし真剣なんだ。それに」

 お前を……、菜流未を助けてやりたい、という気持ちもな。

 ぼくは、菜流未の頭を抱いたまま、言った。

「確かにぼくは、菜流未がどんな思いで過ごしてきたのかを知らないし、始めは、自分の存在を戻すためだけにお前たちの問題を解決しようとしていた。でも、お前たちの気持ちを考えたことがないってことも、今は本当の善意がないってこともない。勿論、お前たちを道具としてしか見ていないなんてこともない」

「じゃあ……、あたしたちは何だって言うのよ」

 菜流未が涙声で、ぼくに問いかけてくる。それにぼくは、

「決まってんだろ」

 と言いながら、菜流未から身体を離し、笑顔で答える。

「ぼくの嫌いな自慢の妹たちだ」

「…………」

「ってああ、しまった。また『嫌いな』って言っちまった。未千代に指摘されたのに、同じミスをしちまった! ったく、だから口下手が無理するとこうなるから嫌なんだよな……」

「……ぷっ」

 と。

 何かが噴き出す音がした。

 と言うか、誰かが噴き出す声を発した。

 と言うか、菜流未だった。

「な、なる ―――」

「あっはは!」

 次の瞬間、菜流未が大笑いし出した。

「はー、ホント、シュク兄は変わらないねー」

「な、何だよ。そんなに成長してないか、ぼく」

「いやいや、この場合は『成長してない』って意味じゃなくて、もっと良い意味での『変わらない』だから」

「あう? どういう意味?」

「……ありがとね、シュク兄」

 ぼくの質問を華麗にスルーしやがったと思ったら、今度は突然感謝された。

 これこそどういう意味の感謝だ?

「自慢の妹って言ってくれて、あたし、嬉しかった」

「ああ、そういうことか……、いや、それで言うならぼくのほうこそ。いやさっきまで知らなかったんだが、何でも、ぼくの存在が消失した直後から、色んな人に、ぼくの存在を確かめて回っていてくれてたそうじゃないか」

「げ、それミチ姉から聞いた?」

「いや未千代じゃなくて……、あー、その話もしないといけないのか」

 こりゃあ、中々本題に入れそうにないな。

「ううん、待って」

 と思いながら、今日の顛末を未千代にしたのと同じように語ろうと、口を開きかけたら、菜流未に制された。

「先に、あたしの話を聞いてくれないかな」

「菜流未の話……、ってのは、今日の放課後にあったことか」

 ぼくが言うと、菜流未は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに感心したように、

「流石シュク兄、あたしが放課後、どんなことに見舞われていたのか、知ってるんだ」

 と言ってきた。

「いや、あくまで概略だけ知っているだけで、詳しくは知らない」

「そうなんだ……、まあ、そうだね。あたしの話は、確かにそれもあるけれど」

「それも?」

「あたしが話したいのは、もっと昔のことからだよ」

 それから菜流未は、決してはきはきと、筋道を立ててというわけではなく、むしろぽつぽつと纏まらないといった感じではあったが、ぼくに語って聞かせた。

 ぼくと菜流未がまだ幼少期の頃、菜流未がぼくに抱いていた気持ちの話。

 それを恋倉 愛華によって是正されたときの話。

 かと思っていたら、本当はただ恋倉 愛華の身勝手に振り回されていただけなのだと知ってしまった話。

 大まかに言うと、そんな話だった。

 ……信じられない、というのが、最初に感じたぼくの印象だった。

 記憶力の悪いぼくでも、幼少期の菜流未が、確かにぼくにべったりな妹だったというのは、頭の片隅で辛うじて記憶していたが、あくまでそれは今となっては、みたいな話だし、菜流未曰く、小学三、四年生辺りで転機があったとは言っていたものの、感覚的にはもう、兄嫌いな菜流未と関わってきた時間のほうが、長く感じていたくらいだったので、その転機の経緯を説明されたところで、はいそうでしたか、とすべてを納得するのは難しいものだった。否、菜流未がこの期に及んで、ぼくに冗談や嘘を言っていると疑っているわけでは勿論ないが、しかし戸惑いを禁じ得ないことも確かなわけで……。

「えっと、シュク兄?」

 おっと、どうやらそんな思いが表情に出てしまっていたらしい、菜流未が心配そうな顔で、ぼくを覗き込んできた。いや、簡単に『心配そうな顔』と流すようにひと言で言ったが、菜流未のこんな表情だって、思えばあまり見たことがない。嫌われている期間中なんて、ぼくを心配するなんてこと、こいつにはなかっただろうし、こう、何だろう、改めて見ると……。

 ……そうか、そうだったんだ。ぼくは菜流未の心配そうな顔 ――― 具体的には、ぼくの顔を覗き込む際に小首を傾げ、その時に茶髪のポニーテールがファサッ、と女の子の香りを漂わせ、眉を『ハ』の字に曲げ、桃色の瞳を潤ませ、絶妙な位置にある唇を小さく開き、一抹の不安さえ感じさせる顔を見て、気付いてしまった。

「ぼくの二番目の妹って、こんなに可愛かったんだな……」

「え、へぇあ⁉ ちょちょちょちょ、と何イテルのー‼」

「ぐへええぇ!」

 カタコトな日本語を話す中国人みたいな口調で叫んだと思ったら、なぜか、おたまで顔面を突かれた。

 おたま右ストレートを顔面でもろに受けた。

 ふつーに吹っ飛んだ、ベッドから部屋のドアに叩きつけられるくらいに。

 ついにおたまで『叩く』じゃなくて、『突いて』きたよ、本格的にこいつの殺傷力が、本当に殺傷出来てしまうレベルにまで辿り着いちゃいそうだよ。そもそも何で菜流未ってその細腕で、そこまでのパワーが出るの? 実は袖を捲ったら上腕二頭筋が、えげつないことになってたりするのかな。

「ああ! ごめん、シュク兄! わざとじゃなくて……、いや、というか何であたしが謝らなきゃいけないの! 急にあんな妹を虜にするようなことを言うシュク兄が悪いんじゃない! むしろこれはシュク兄が謝罪するべきだよね、さあ謝れ」

「なんだこいつ!」

 頭がパニックになり過ぎて言ってることわけわからんし、かつてない口調になってますよさっきから。

 元から乱暴な妹ではあったけれども、あなた口調は「謝れ」とかそんな荒れてなかった筈でしょうが。

 ツンデレの本家は、一体何処へ旅に出てしまったのやら、このままではただの、暴力と暴言を振りかざす、やべー女という位置付けになっちゃうぞ、お前。

 さておき。

「……なるほどね」

 話を戻し、と言うより次にぼくは、今度こそ本日の放課後の出来事を、菜流未に聞かせた、そう言えば菜流未には、ここ最近のぼくの計画から説明していなかったのを思い出したので、先ずそこからの説明になってしまった……、よってすべてを話し終えるのに結構時間を取った。

「良かった。正直シュク兄のことだから、時間をくれ、と言いつつ何もしていないんじゃないかと疑っていたけれど、そうじゃないとわかっただけでも、あたしはひと安心したよ」

「信頼もへったくれもないな!」

「で……、答えは出たの?」

 …………。

 そうだ。

 元々の目的、最終目的は、菜流未が畝枝野と付き合うことについて、ぼくはどう思うのか、菜流未にこれからどうなって欲しいのか、それを自分の中で理解し、納得出来る答えを探すことだ。どうもその道程で空回りな画策ばかりして、最近はその目的を見失っていた ――― 最終目的を達成するための途中の事柄に躍起になってしまい、最終目的がいつしか見えなくなってしまう、なんてことは学生でも、社会人でも、人生の中でままあることだが、今回ぼくはもしかしたら、まさにそうなっていたのかもしれないと反省した。

 仕方ない、と言えばそれまでである ――― 実際頭の中ではそう思っていても、気付かぬ内にまたもついつい目的がブレてしまっていることだってあるだろうし……、特にぼくのような、人生を何となく、なあなあで生きている奴なんて、まさしくその術中に嵌りやすいだろうから。

 だが……、答えねばならない。

 正直まだまだ全然、畝枝野 凪のプロファイルなど出来ていないが……、それでももう、答えなければならない。なぜなら。


「ああ、それともうひとつ。先程僕から君に協力すると告げたばかりだというのに、非常に申し訳ないけれど、その機会は、どうやらなくなりそうだ。というのも」

 君の偽の便箋を不審に思った畝枝野 凪くんが明日、笹久世 菜流未さんに告白することを決めてしまったらしいんだ。


 そうでなければ、ここは菜流未に頼み込んで、結論を更に先延ばしにしてもらう選択肢もあったかもしれない。ぼくの思いを、本気の思いを知ってくれた菜流未は、多分ぼくのその選択を蹴るということもないだろうから。

 しかしそれはもう、出来ない。

 ぼくはここで、菜流未に答えを告げなければならない。

 田中からの宣告を思い出しながら、ぼくは覚悟を決める。

「正直ぼくとしては、完璧に準備完了とは言えないが……、出たよ、答え」

「っ! そ、そう」

 ぼくは言う。

「お前は怒るかもしれんが、敢えて言おう。菜流未は、畝枝野と付き合っても、問題はないと思う。それが客観的に見た、ぼくの正直な感想だ」

「…………」

 菜流未は沈黙する。苦虫を噛み潰したような顔をしながら沈黙する。

 その顔もまた、ぼくはあまり見たことのないものだった。

 ……それでもぼくは、続ける。

「ぼくのプロファイルだけでは、やっぱりどうしても確信を得られなかったけど、田中 ――― 究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえすから、畝枝野の情報を貰えたんだ」


「……ああ、機会がない、とは言っても、それでもまだ僕が君の役に立てることがあるならば、遠慮なく言っておくれ」

「じゃあふたつだけ訊きたいことがある。ひとつは畝枝野 凪という奴が、どういう男か、教えてくれ」

「……ふむ、なるほど。そういうことか」

「ん?」

「ああ、すまない。どうして君が僕たちの邪魔をしたのかが、今の君の質問で、はっきりとわかったのでつい、ね。安心して良いよ。彼は真面目で、実直で、周りからの信頼も厚い、欠点がひとつもないのではないかというくらいの、完成された男であり、君の調査結果の通りの男さ」

「そうか。というかぼくがあいつの調査をしているってお前には言ってない筈なんだけれど」

「そうだったっけ? 僕から見たら、実際にはっきりと言っていようが、言っていまいが、最早バレバレなんだがね。まあそういうわけだから、彼と菜流未さんが付き合うこと自体は、全然無問題だ ――― と思う」


「だからその情報を含めて考えても、菜流未が畝枝野と付き合うことは決して間違っていない、むしろみんなから祝福されるような、過去から見ても啓舞学園イチのビッグカップルの誕生と喜んでもいいくらいなんだ。でもな……」


「思う? 何だか意味を含めたような間で言った気がするが」

「鋭いね。客観的に見たら、確かに全然無問題なんだが ――― 今回僕は究極アルティメット情報通インテリジェンスとしては、やや失敗、というか失態が続く結果だったからね。僕が畝枝野 凪について、見落としている事柄が完全にないとも言い切れない。そして相性というのもあるだろう。確かに学園の皆のムードを盛り上げるという意味では、最高のシナリオなのかもしれないが、実際に付き合ってみたら全然ソリが合わなくてすぐに破局、というような末路も決して否定できないし、上手くいく保証も出来ない。僕は究極アルティメット情報通インテリジェンスではあっても、未来まで見通せる予言者と言うわけではないからね。それに何より ―――」

 菜流未さん自身の思い、という問題もあるし、君の気持ちというのもあるだろう。

 まさか、気付いていないとでも思ったのかい? 君は ―――


 ぼくは。

「ぼくは……、菜流未が誰かと付き合っちまうのは、嫌だなって思うんだ」

 

夢祝 4 也夢

 

「昨日は、ほんっとうに、ごめんなさい!」

 ぼくが妹奈から手を叩かれ、呆気に取られてしまった日の翌日、放課後の部活動の時だった。日中、ぼくは今回のことでまたも妹奈と距離が開いてしまうのでは、疎遠になってしまうのでは、と落胆していたが、あまりにもすんなりと、あっさりと、妹奈が自分からぼくに近寄ってきて、謝罪を口にしてきた。

 ……何だかこういうことを思うのは不謹慎なのだろうけれど、こんなにあっさりと仲直り出来るなら、昨日ぼくが妹奈を追いかけないで後悔したことが、馬鹿みたいだなって思うと同時に、無理に追いかけないで良かった、とも思ってしまうのだった。

「お、おう。少し、というかかなり驚いたし、不安になったけれどな。まあこうしてまた話しかけてくれただけでも、ぼくは安心したぜ」

 とりあえず、黙っているわけにもいかず、ぼくはそんな当たり障りのない返事をする。

 本当は「昨日のアレは結局どういうことだったんだ?」と訊きたいところではあったが、どう考えてもその問いは地雷だったので、流石に触れないでおく ――― 地雷は地雷でも、隠す気の全くない更地の上に配置された巨大な地雷だった。だからこそ、避けなければならない、とすぐ判断出来るし、またその難易度も決して高くはなかった。その代わり、万一それを踏み抜いてしまったら、その足が吹き飛ぶどころか、全身粉々になる威力だろう。

「……昨日、どうしてぼくを叩いて逃げたのか、って訊かないの? 祝也くん」

 マズい。

 何がマズいって、この問いは、答え方次第では、嘘をつくことになり、ぼくの性質上、その嘘は一瞬で妹奈にバレてしまう。

 地雷を避けたと思ったら、まさかその地雷がこちらに突っ込んでくるとは、誰も予想できまい。それは最早地雷ではなく、大砲と言ったほうが適切だろう。

「訊かない」

 結局下手に言葉を並べると、それこそ自爆しかねないので、ぼくとしては珍しい、かなり短い返事をするのみにしておいた。

「ふうん、まあ、そうしてくれるほうが、わたしとしても有難いけど」

 ここでなぜ訊かないのか、と理由まで訊かれていたら、流石に八方塞がりだったが、妹奈としてもやはりその話には触れたくないのか、早々に引き下がってくれた……、この辺りは本当に有難い、妹たちなら、たとえそれが己についての地雷となり得る話でも、どんどん詰め寄ってくるからな、まさに大砲の如く。

 ……妹、か。

 そうだった、昨日は只々、呆気に取られてしまって考察していなかったが、良く考えると、昨日の妹奈の様子が劇的に、刺激的に変わったのは、ぼくが妹の ――― 菜流未の話をしようとした時だった。

 もしかしたら、妹奈にも妹がいて、そしてその妹に何らかのトラウマを抱いているのかもしれない ――― ぼくのように。

 いや、結局ただの予想なんだけれども。

「ま、とりあえず今は部活に集中しようぜ。何にせよ、話をするなら部活が終わった後のほうが、何かと良いだろ、またぞろ他の部員に、変な勘繰りされるのも嫌だろ、お互いにさ」

「まあ、そうだね」

 今回のではなく、先日のほうのぼくと妹奈のいざこざに巻き込まれた吹奏楽部員を思ってか、或いは慮ってか、またもあっさり、ぼくの提案を飲む妹奈。

 こんな従順な奴だったっけ、こいつ。


 で、部活終了後。

 いつものようにぼくはオレンジジュースを、妹奈は炭酸オレンジジュースをそれぞれ買い、共に帰路につく。

「それで祝也くん、本日のアジェンダはどのようになってるの?」

「あじぇ……?」

「アジェンダ。簡単に言えば、議題、ってところかな」

 ちなみに、政治的な分野では行動指針という意味もあるらしいよ、と得意気に話す妹奈。

 なら最初からそう言ってくれよ、と突っかかりたくなったが、これ以上の討論は只々、ぼくの無知を晒すだけなのでやめておいた。

 しかし何でだろう、妹が、具体的には兎怜未辺りが、こんな感じで得意気に言葉の意味を説明して来たら、絶対に腹が立つのに、妹奈には全然そういうイラつきとかムカムカといった感情が生まれない。得意気なことには変わりないのに。

「議題、か」

 そう言えば、あれから色々あってすっかり忘れていたが、そもそも菜流未に例の発言をされるに至った道程には、ぼくが火殿 妹奈を好きなのかどうか、という議題で話し合うというものがあった。その議題で最終的に菜流未が発したのが、あの例の発言であったわけだが、あいつはもうひとつ、もっと現実的な結論もひとつ出していたじゃないか。


「だから、とりあえずは、その妹奈さんって人のことをもっとよく知るべきだと思う。今よりもずっとよく、ね。そうすれば、自分の本当の気持ちに気付けるかもしれないし」


 だとしたら、今回ぼくが火殿 妹奈と繰り広げるべき議題は、アジェンダは、ここ最近あったごたごたのほうではなく、そちらの方向で押し進めていくべきだ。

 推し攻めていくべきだ。

「ぼくがきみの恋人になるか否かの件なんだけれど」

「ええ⁉」

 しかし、妹奈にとってそのアジェンダは、全くの予想外だったらしく、露骨に狼狽する。

「いやいやいやいや、確かにわたしにとっては、思わぬ方向から矢が飛んできた、みたいな気持ちだったけど、それよりもそんな重大発表をさらっとしようとする祝也くんの肝の据わり方に、わたしは今、狼狽しているんだよ」

「いやあ、とは言っても、ぼくたちがギスギスしていた時の話を蒸し返すよりは、まだ建設的じゃないか?」

「だからって、やっぱり急過ぎないかなあ、こっちにも心の準備というものがあるのだけど」

 そりゃぼくだって、全く羞恥心がないと言ったら、嘘になる。だから決して口には出さない、バレるから。

「あれ、もしかして祝也くんも照れてる?」

 言ってないのにバレた。

「黙秘権を行使する」

「なるほど、黙秘すると、ある程度の嘘が突き通せるのね、祝也くん」

 いや嘘ってきみにバレている時点で、突き通せてないじゃん、嘘。

「さておき、ひと先ずの返事をしたいんだけれど」

「待って、少おし待って」

 妹奈はそう言うと「すう、はあ、すう、はあ」と深呼吸を、結構深めな深呼吸を数回したのち、

「よし、ばっちこい!」

 と気合を入れた ――― 気合の入れ方が女の子っぽいように見えてそうでもない、そんなところも可愛い妹奈だった。

 そんな可愛い妹奈に、ぼくは告げる。少しずつ、菜流未の案を自分の言葉に落として告げる。

「ぼくときみは、これまで約半年、色々話したけれど、まだまだお互いがお互いを知らない状態だと思うんだよ」

「……うん」

「だからひと先ずは、さ。友達以上恋人未満みたいな関係でやっていけないかなって。これまで以上により密接に関わっていくことで、お互いをもっと良く知ってから、最終的な結論を出しても遅くはないんじゃないか。勿論ぼくがきみを好きになるかどうかの判断をする期間でもあるけれど、同時に、今の段階できみはぼくを好いてくれているみたいだけれど、ぼくという人間をより深く知った結果、愛想が尽きるということもあるだろうし、これはお互いのためになる提案だとは思わないか? 尤も、これはあくまでぼくからの提案であって、そんな女々しいこと言う男には、現時点をもって愛想が尽きたというなら、ぼくの提案を蹴って恋人になりたいという申し出も取り下げてくれても良いけれど」

「……祝也くん、まあまあキモいよ」

「ぐはっ!」

 ぐはっ! とは呻いてみたものの、確かにこれって要するに、女の子からの告白を受けて、口八丁で保留に持ち込もうとしている女々しい男の図だもんなあ。

「うーん、こればかりは確かに妹奈の言い分が正しいな」

「いやそこはいつものように『ぼくってそんなにキモいのか?』って訊いてくれないと、わたしが、うん、って即答出来ないじゃない。いつものやり取りができないじゃない。つまらないじゃない」

「つまらないって……、そこまで言う? そんなにいつものやり取りって大事なの?」

「うん」

「即答かよ」

「うん」

 おお、つまらないからって、いつものやり取りを強引に捻じ込んできやがった。流石学年一位の才女だな、応用力がある。

「はあ……、というかキモいと言うより、単純に卑屈になり過ぎだよ、祝也くん」

 妹奈はぼくを窘めるような調子でそう言った。何だかその口調も懐かしく感じる。

 溜息をついて、やれやれ、といった感じの妹奈 ――― うーん、良い。

「大体、祝也くんのキモさなんて、今に始まったことじゃないし、返事の先延ばしくらいで愛想を尽かしていたら、きみの相手なんて務まらないし……、告白も、しない」

「卑屈になるなって言っている相手の心の傷を抉りつつときめかせるの、やめて貰えます?」

「ときめいたなら良いじゃない」

 良い……、のか?

「だからわたしは祝也くんの提案に、全面的に乗るつもりだよ。わたしと付き合いたい、好きだって祝也くんに思って貰えるように頑張るね」

「……ひとつ疑問に思っていることがあるんだが、訊いても良いか?」

 ぼくはずっと引っ掛かっていることを訊いてみることにした。

「ん? なあに?」

「妹奈、ぼくとのごたごたがあってから何つーか……、素直になったよな、前まではぼくの意見や提案には、基本的に対抗するような姿勢だったような気がするんだけれど、何かきみの中で心境の変化でもあったのか?」

「うん? 別にわたしの側には、祝也くんと話せなくて悲しかった、という心境以外は特に何もないけど……、それを言うなら、祝也くんの側に、変化があったと見るべきじゃない?」

 ぼくの側に?

 どういう意味だ?

「勘違いしているようだから言っておくけど、別に今までのわたしだって、祝也くんの意見や提案をすべて否定してきたわけじゃあないよ? わたしが納得できるものは賛成してきたつもり。だから祝也くんがわたしのことを、前より素直になったと感じたならそれは、祝也くんが前より素直で一般的な意見、提案を出すようになったってことなんじゃないかな?」

「な、なんてことだ……」

「はい?」

 ぼくの反応に妹奈が呆けたような表情をする。

「世の中の一般論に、常に反論していくのがぼくのルーティーンなのに、いつからぼくはそれを捨ててしまったんだ」

「ええ、何そのしょうもないルーティーン」

 というかルーティーンという横文字は知ってるんだ、と妹奈はジト目になりながら言う。うむ、やはり変な意見に対しては、呆れたような態度の妹奈を見ると、ぼくの側が変わったという、妹奈の説は、正しいのかもしれない。

「ま、ともかくこれからはそんな感じでよろしくな、妹奈」

 気付けば、ぼくと妹奈が別れる十字路まで来ていたので、少々強引かもしれないが、ぼくは話を切り上げるように言った。

「ああ、祝也くん、最後にひとつ、訊いても良い?」

 ? 何だろう。

「友達以上恋人未満……、具体的に言えば、お互いにお互いをより深く知るための関係になることには、さっきも言ったように全面的に同意するんだけど、それって結局何をするの?」

「…………」

 え?


祝 5 也


 翌朝。

 ぼくは、菜流未とともに、朝早くに登校することに決めた……、というか厳密には、菜流未に頼まれた。

 明日の朝はあたしと一緒に中等部までついてきてくれない? と。

 それがどのような意味を持つのか、菜流未がどうしてぼくにそう言ったのか、わからないぼくではない。

「……大丈夫か、菜流未」

 ぼくはおっかなびっくり通学路の歩みを進めている菜流未に声をかける。

「だだだだだだだだだだだだだだだ大丈夫」

「全然大丈夫じゃなさそうだけど」

 ……結局、菜流未が畝枝野の告白を受けるのか否かを、ぼくは昨晩聞かなかった。その理由を求められると答えに窮するところなのだが、強いて言うなら、菜流未にあんなことを言ってしまった手前、その結論を直後に聞くというのは、流石に神経が図太過ぎるだろう、と思ったためである。それよりも改めて、考えてしまう ――― なぜぼくは、あんなことを口走ってしまったのだろう。

 なぜあんな戯言ざれごとを吐いてしまったのだろう。

 ……と、改めて考えてみても、やはりその理由だけは挙げることは出来ない。強いて言うことも出来ない。

 しかし、これだけは言える。

 あれは確かに戯言だったのかもしれない。しかしじゅん、もとい矛盾はなかった。それはあくまで虚言でないという保証しかないけれど。

 虚言はなくほこを携え、戯言になった。

「……あ」

 と。

 そんなことを考えていると、いつの間にやら、ぼくたちは中等部の校門前に辿り着いていて ――― そのタイミングで、菜流未が小さく声を上げた。

 前方に見える人影に気付いたからだろう。

「……恋倉、さん」

 だった。

 恋倉 愛華ちゃん。

 畝枝野 凪の幼馴染であり、我が二番目の妹、笹久世 菜流未のぼくへの想いを、私情で捻じ曲げた女の子。

 その子が校門前に、ぼくたちの行く手を阻むように、立ちはだかっていた。

 まるで、「ここを通りたくば、私を倒してから通れ」と言っているよう……、ではないかな、流石に。

「おはよう、笹久世さん」

「……おはよう、恋倉さん」

 昨日の放課後、ぼくが田中と戦っていたように、何やら菜流未と恋倉ちゃんの間でも、ひと悶着あったことを、ぼくは既に聞いている。だから、恋倉ちゃんからの挨拶を、ばつが悪そうに返している訳も察せられなくはないが、それにしたって露骨に不機嫌である。

「笹久世さん、凪からの告白に、どういう答えを返そうと思っているの?」

 と、恋倉ちゃんはいきなり、ぼくが昨日菜流未に訊こうか迷っていたことを、あっさりと訊いた。きっと恋倉ちゃんは、ぼくたち笹久世家の人間と違い、雑談をしたがるタイプではなく、必要最小限な会話のみを好むタイプなのだろう。

「……それを恋倉さんに言う必要があるの?」

「うん、もし受け入れるようなら、私は力ずくでも貴方を止めなければならないからね」

 あれ、これは、「ここを通りたくば、私を倒してから通れ」とか想像していたぼくの考えも、強ち間違っていない、むしろ現実味を帯びていたぞ。

「きみにあたしが止められるとは思えないけれど?」

 まあ確かに、運動神経抜群で戦闘力も高い菜流未を、ただの女子中学生の恋倉ちゃんに止められるイメージはしにくいけれどそれはともかく、菜流未、何だかバトル漫画の登場人物みたいな台詞を言うなあ。それこそ、「ここを通りたくば、私を倒してから通れ」と並んで語られるような台詞だ。

「……昨日私に言われたことが、随分と気に食わないみたいだね」

 ほら、そんな感じだから、ぼくだけじゃなく、恋倉ちゃんにもバレちゃったよ。

「差し支えがなければ昨日、怒った理由を訊きたいな」

 まるで、本当に記憶が全くないんだと言うように、恋倉ちゃんは菜流未に訊いた ――― 否、本当に記憶がないのだろう、どうやら、ぼくの存在が消える前の恋倉ちゃん、というか妹以外の全員のぼくにまつわる記憶は、軒並み抹消されているらしい。そしてそれは、菜流未もわかっている筈……、如何に頭が弱い菜流未でも、それくらいの理解は訳ない筈なのだが……。

 きっと、頭ではわかっていても、感情がそれについていけていないのだろう。

「だから……、怒っている理由をわからないというのが、あたしにとっては、どうしようもなく腹立たしいんだよ!」

 ついに菜流未はその感情を隠すこともなく、恋倉ちゃんに吠えた。

「……何で貴方は私に怒りをぶつけるの」

 それに対し、恋倉ちゃんは、またも同じ質問を投げかけたかと思うや否や、

「何で貴方に私を怒る資格があるのよ⁉」

 今度は恋倉ちゃんが吠えた ――― そのあまりの剣幕に圧倒され、ぼくは思わず生唾を飲み込んだし、菜流未はとっさに後ずさりしてしまっていた。

「本当は私が貴方のような人気者になる筈だったのに……、貴方が居なければ、私が貴方になれていた筈なのに……!」

 ん?

 どういうことだ?

「それって……、どういう……」

 菜流未もぼくと同じで、意味が、或いはわけがわからなかったのか、恋倉ちゃんに、言葉にならないながらも、そう訊いていた。

「貴方だって、私が怒っている理由、わからないんでしょ? 自分のことは棚に上げて、私を非難するなんて貴方、自分がどれだけ身勝手なことを言ってるか、わかってる⁉」

 恋倉ちゃんはなおも大声で言ったが、少しして「……いいえ、違う」と、先程の剣幕が嘘のように小さく呟いた。

「私だって貴方に身勝手なことを言っているよね、わかってる……、貴方がそう言いたいのも含めて、わかってる。本当私たちってなんだね」

 似た者同士?

 そう言えば、昨日の朝にそんな考察を、ぼくはしていたのではなかったか。

 しかしその時のぼくは結局、菜流未と恋倉ちゃんに、外見も、中身も、似たところは殆どない、むしろ相違点しかない、という結論に至っていた。

 なのに今、恋倉ちゃんは、自分と菜流未が似た者同士だと、これまたあっさり言ってのけたのだ。

「自分で言うのも何だけれど私、これでも昔は ――― 小学校低学年くらいまでは、凪の影響に関係なく、人気者だったんだよ。凪と私で、啓舞学園創立以来の人気を誇る男女だったの。性格も今よりずっと明るかった。それこそ、今の貴方のように」

「あ……、そうだった、かも」

 思い当たる節があったらしく、菜流未は頷きながら呟いた ――― ちなみにぼくは、全然知らなかった。当時は恋倉ちゃんのことどころか、畝枝野のことすら知らなかったと思う。

「そして貴方は当時、まだ今ほどの人気はなかった。と言うより、はっきり言ってしまって、当時の貴方は無名だった。性格も今みたいに明るく活発というよりは、静かで暗い印象だった。それこそ今の私のように……、そうだよね?」

「……そうだね」

 そうなのか?

 ぼくの菜流未に対するイメージとはかけ離れている……、というかイメージも何も、実際に体感している。

 この身で実感している。

 こいつは、昔から明るく活発どころか、無邪気にぼくをおたまで殴ってくるような、アグレッシヴな奴だ、静かどころか暗い奴なんて、そんな矛盾した性格など間違っても ――― いや、待て。

 そうじゃない。

 それはあくまでぼくの前での菜流未であるわけで、だとしたら、ぼく以外を前にした当時の菜流未は、違ったということなのか。

 ぼくの前での菜流未と、学園のみんなの前での菜流未が、違ったというのか。

 てっきりぼくは、菜流未とは兄と妹という関係なのだし、疎遠である時期があったとしても、今も昔もある程度はわかっているつもりであった。しかしこれが本当だったら(というか他でもない、菜流未本人が「そうだね」と肯定しているので、本当なことこの上ないんだが)、ぼくは、菜流未のことを何もわかっていなかったということになる。

 しかし、これは兄妹という密接な関係であるからこそ、気付かなかった穴であったとも思う ――― 密接な関係にある人間にこそ見栄を張ってしまい、本性を隠してしまう……、それは兄妹でなく、恋人同士なんかでも当て嵌まるだろう。妹たちだけでなく、恋人である妹奈にも見栄を張りまくっているぼくが言うのだから間違いない。

 そして、ぼくの見栄がどうかはさておき、そのように性格を見栄によって脚色されてしまうと、案外見破るのが困難であるのも、また事実で……、特に今回、嘘や演技を見抜けないぼくだ、菜流未の見栄でも、未完成な虚勢でも、コロッと騙されるのは、読者諸君でも想像に難くないだろう。

 ……それに。

 やはり、ぼくの前での当時の菜流未も、あれはあれで立派に菜流未だったのだとも、ぼくは思う。嘘でも、演技でも、見栄でも、虚勢でもなく、あの乱暴な菜流未も、れっきとした笹久世 菜流未だった筈なんだ。

「境遇があべこべではあるけど、そっくりでしょう、私たち」

 それで言うなら見た目だって、やっぱりあべこべでも似てはいるし……、これはあれか、つまり、完全なる相違と相似は表裏一体だ、とでも言いたいのか。

「当時の私はとても満たされていたよ……、みんなからの羨望の眼差しで見られる度に、黄色い声を受ける度に、ね。自分のことも『私』じゃなくて、『あたし』って言っていたかな、そういう小さなところでも貴方と似ているね」

 だから。

「だから、今の私はあまりにもみじめで、恰好悪くて、悲しさすら感じられない、嘆くことさえ出来ない。それ程には絶望した」

 でも。

「でも貴方は違った。私と貴方は似ているけれど、確かにその一点だけは決定的に違った。私は絶望したのに、貴方はクラスのみんなから浮いていても、仲の良い友達がひとりも居なくても、幸せそうに私に自慢話をしてきた」

「っ⁉ それって……」

 そうだ、そのエピソードは。

 菜流未が、ぼくの話を恋倉ちゃんに自慢気に話したという、あれだ。

 おかしい、なぜぼくの存在が抹消されている筈の恋倉ちゃんの口から、そのエピソードが出るんだ?

「なぜか具体的には思い出せないけれどね……、だからどんな自慢話だったかは、思い出せなかったんだけれど、その事実だけは思い出せたよ、笹久世さんが昨日、怒って家庭科室を飛び出した後にね。だから多分だけど、笹久世さんはそのことで怒ったんだよね?」

 そうだったのか。

 今までぼくは、ぼくの存在に関わるみんなの記憶は、完全に抹消されているものだと、勝手に解釈していたが、恋倉ちゃんの発言を汲む限り、どうやらそれは誤りで、何かきっかけがあれば、部分的ではあるが、思い出すことが出来るらしい。

「さておき、その時には既に、私の人気者の波が徐々に収まってきていた ――― だから、当時の私は貴方に嫉妬してしまった、何で学園では暗く過ごしているくせに、こんなにも幸せそうな顔で、私に自慢話をして来るのだろう、私の悩みも知らないで、自分が充実していることを、不躾に主張してくるのだろう、と」

 だから。

「だから私は貴方に、ある指摘をしたん……、だよね?」

 曖昧な記憶に不安があるのか、恋倉ちゃんは確認をするように、菜流未に訊いた ――― やっぱり、具体的にどんな指摘をしたのかは、憶えてないんだけれど、という言葉を添えて。

「ああ、思えばあの頃だったな、周りからの評価が私と笹久世さんで入れ替わり始めていたのは。本当、全く、何でこうなっちゃったのかな……、あのままだったら、今でも私は『あたし』であれた筈なのに」

「……違うよ」

「シュ、シュク兄?」

 思わず、と言うか気が付いたら声が出ていた。その声に驚いたのか、つい、菜流未がぼくに呼びかけたが、ぼくはそれに構わず続ける ――― たとえ、恋倉ちゃんに全くこの声が届かないとしても、ぼくは続ける。

「きみと菜流未ではやっぱり全然違う……、きみは互いの人気がない際の捉え方をただ一点の違いとして見ていたみたいだけれど、そんなことよりもっとふたりには、違うことがある。何よりきみたちの一番の相違点は『誰のためを思って行動しているか』なんだ」

 恋倉ちゃんは、常に自分の利益ばかりを追い求めて行動している節があった。確かにぼくと初めてすれ違った際に、陰ながら畝枝野のことを応援していたり、自主練の際の話し相手になったりと、一見畝枝野のために行動しているようにも思えるところが見え隠れしていたが、あれも突き詰めれば、否、突き詰めなくとも、畝枝野を自分に振り向かせようとアピールしていたのだと考えれば、結局は自分のためにしている行為であったと言える。

 それに比べ、菜流未は。

 我が妹、笹久世 菜流未は、

「こいつ、何だかんだと言いつつ、いつもみんなのために動いてるんだ。ぼくと妹奈の関係が揺れ動いた時も協力してくれたし、ぼくの存在がなくなってしまった時も、いち早く、そして一番多くの人にぼくの存在の有無を確認してくれた ――― 勿論ぼくだけに協力的なわけでもない、どんな人でも、分け隔てなく話を聞き、協力してきたのだろう。それは今までのこいつの、ドン引きするレベルの信仰っぷりが、何よりの証拠だ」

 だから。

「だから、ぼくはこいつが妹で、本当に誇らしく思うし、自慢できる妹なんだ」

「シュク兄……!」

 ……いやはや、我ながら、よくもまあ、こんな顔から火が出るような台詞を、ドヤ顔で言えたものである。菜流未にはうっとりした顔で見つめられるし、恋倉ちゃんには恥ずかしい思いをしたというのに、一切合切声が伝わっていないし。

「……んあーもう! うるっさいなあ!」

 と。

 そんなこっぱずかしいムードを叩き壊したのは、誰あろう、恋倉ちゃんだった。

「人が思い出したくもない昔の話を、『あたし』が『私』に落ちぶれていく話を懇切丁寧にしてあげたのに、口を開いたと思ったら『シュク兄、シュク兄』って何なの⁉ そもそも誰なんだよ、その人!」

 するとさっきまでアホみたいなうっとり顔をしていた菜流未は、すぐに真剣な表情にチェンジしつつ、恋倉ちゃんに向き直って、こう言い放った。

「あたしの誇りで、自慢のにい、笹久世 祝也だよ!」

「……ああそう、そうですかそうですか」

 恋倉ちゃんは、まん丸で大きな瞳を鋭く細め、続けざまに言った。

「気色わる」


祝 6 也


「じゃ、決闘といこうか、笹久世さん?」

 恋倉ちゃんは、菜流未(とぼく)を引き連れ、グラウンドの一角に移動し、そのまま背を向けたまま、ひとつ大きく伸びをした。

 この場所は、いつか中等部校舎から見た、畝枝野の自主練エリアだった。

「どうあれ、笹久世さんは凪のもとに向かう。だから私は何としても、貴方を行かせるわけにはいかないんだから」

「決闘って……、具体的に何をするの?」

「決まっているじゃない」

 喧嘩、だよ。

 恋倉ちゃんは、笑顔でそう言い切った ――― 今時の女子中学生とは思えない、危険思想の持ち主だ。

「じょ、冗談だと思っていたのに、ホントにするの?」

 これにはさしもの菜流未も困惑を隠せない。

「もっと女子らしい決着の付け方にしたほうが良くない? 料理対決とか」

「さらっと自分が圧倒的有利な種目を挙げないで」

 そりゃそうだ、今のは流石に菜流未のほうが悪い。

「いやでも仮に料理じゃなくて喧嘩で決着をつけるにしても、あたしのほうが圧倒的有利なのは、やっぱり変わらないと思うんだけれど……」

 それもそうだ、先程、菜流未自身も言っていたが、ぼくの二番目の妹は、元の運動神経の良さもさることながら、ぼくとの取っ組み合いの喧嘩により、動体視力なんかもかなりのレベルのものに仕上がっている。どう考えても線の細い(と言っても、別に線の細さだけで言えばふたりとも大差ないが)恋倉ちゃんでは、勝ち目はないように思えるが……、もしかして実は何かしらの武術を会得しているとかいうオチか? だとすれば一気に菜流未が不利となる……、流石に本物の武術家に勝てる程の腕っぷしは、菜流未にはない。

 そう言えば、武術を心得ている者は、一般人相手にその術をいたずらに行使すると逮捕される、という豆知識を妹奈から聞いたことがあるが……、この場合はどうなるんだろう。

「えい!」

「おっと」

 ……どうやら、その心配は現時点を持って、杞憂に終わったらしい。

 完全に素人のパンチだった。それを菜流未は軽々と避ける。

 何と言うか……、ぼくは一般の女子中学生のパンチを喰らったことはおろか、見たこともないので、正確には言えないけれど(勿論、菜流未は一般の女子中学生ではないので、この前提からは外れている)、多分平均を大きく下回るパワーとスピードに感じた ――― それこそ、『へろへろ』という擬音が聞こえてきそうなくらいにはへろへろだった。

「はっ!」

「よっ」

「とう!」

「うん」

「やあ!」

「…………」

 果敢にも恋倉ちゃんは何度も菜流未に攻撃をするが、それらはすべて、空を切る結果に終わる。

「……おい、菜流未。返事はしなくて良いから聞くだけ聞いてくれ」

 ぼくは、余裕を見せている菜流未に、念のための忠告を今のうちにしておこうと思い、話しかける。

「わかってるとは思うが、恋倉ちゃんを殴っちゃダメだぞ? 自分の妹が喧嘩で警察の世話になったなんてことがあったら、ぼくはもうお前を誇りに思えないし、自慢も出来なくなるからな」

 すると、そんなことわざわざ言わなくてもわかってるよーだ、と言わんばかりに、菜流未はぼくのほうを睨んだ。

 しかし……、そうするとなると、一体菜流未はこの決闘を、どう切り抜ければ良いのだろう。殴ってはならない、ということ自体はそこまで苦労せず成し遂げられるとしても、それをすると自動的にこちらの勝利を放棄することと相成ってしまうわけで。

 菜流未に反撃を禁じた手前、その打開策を提示するところまでが、提案者としての、そして兄としての責任だろう。

 うーん…………、元々頭を使うキャラではないので、咄嗟に妙案が思いつくということは全然ないんだけれど、差し当たってふたつ程、案が出た。

 先ずは決闘など放棄して、逃げてしまう、とかか?

 そもそもこの決闘は冷静に考えると、こちら側が得るものは何もない、勝っても負けても負け戦みたいな戦いだ。むしろぼくたちの目的は、畝枝野のもとへ辿り着くことであって、恋倉ちゃんは、その邪魔をしている、そしてその具体的な手段が決闘というだけのことなのだ。だから、菜流未が恋倉ちゃんを上手いこと躱し、畝枝野のもとに辿り着き、告白を受ければ、その時点でこの決闘は意味を成さなくなる。

 次に……、これはあまり気が進まないし、気が済まないが、ぼくが、何かしらの道具を用いて、恋倉ちゃんを諦めさせる方法だ。

 ぼくは先日、三愚妹のささやかな頼み事を解決したことで、存在力が若干回復している。具体的には、妹以外の人間に対する直接的干渉(言うまでもなく、直接身体に触れることを指す)や声を届けることは、まだ出来なくとも、妹以外の人間に対する間接的干渉(これは耳にフーっと息を吹きかける、とかだ。田中にやって、後々ぼくの大後悔時代が幕を開けることになったが)や、物や道具に対する直接的干渉は可能となっている ――― まあ物や道具の干渉自体は初期の頃から出来ていた、それを他の人間に認知して貰うことが不可能となっていた、というのが厳密な正しい認識なのだが、それは今はともかくとして、その特性を上手いこと駆使すれば、恋倉ちゃんを足止めできるのではないだろうか。

 勿論、菜流未に暴力は駄目だと言った手前、ぼくだって恋倉ちゃんを暴力的に蹂躙することは決してしない ――― その辺に落ちている太めの木の枝で、恋倉ちゃんを殴打して撃退するなんてことはしない、ぼくがするのは、だから足止め程度のことだ。具体的には、これまたその辺に落ちている網(木の枝はともかく、なんでこんなものが? と思ったが、この辺りは野球部の練習場所なので、練習の際に破けて落ちていても、不思議ではないのかもしれない。でもそれだと網と言うより、ネットと言ったほうが、感覚的にはしっくりくるのかな)で、恋倉ちゃんをいやらしく拘束し続け、「参った」と彼女が音を上げ続けるまで決して離さないとか ―――

「おりゃ」

「いたっ!」

 菜流未に殴られた。

 菜流未が恋倉ちゃんに殴られたのではなく、ぼくが菜流未に殴られた。

 何でぼくのスケベ心を敏感に察することが出来るの、ぼくの妹たちって。

 きみの喧嘩の相手、別にいますよね?

 ……ともかく。

 ともかく、やはり後者の案は、最後の最後の手段として取っておきたい、というか出来ることなら実行したくない。いや別に、ここで第三者のぼくがこいつらの喧嘩に首を突っ込んでは、こいつらの今後のためにならない、なんて綺麗事を言いたいわけではなくて、もっと現実的に、この状態のぼくが、恋倉ちゃんを拘束したりなどしたら、ぼくと菜流未からしたら、なにも不思議はない光景だとしても(男子高校生が女子中学生を、ネットで拘束しているというシリアスなヤバさは、この場合除く)、恋倉ちゃんからしたら、自分の傍には誰もいない状態にもかかわらず、なぜかずっと拘束され続けるというホラー展開の出来上がりなわけで、そうなったら今度こそ、傍に居なくとも、近くには居た菜流未に、変な噂が付き纏ってしまい、学園から迫害を受けかねない。それは兄として、非常に忸怩じくじたる思いである。

 となるとやはり、前者の案のほうが、どちらにせよスマートではないが、まだマシなように思える ――― 逃げることは、決して負けではない、むしろ今回に限って言えば、まさに『逃げるが勝ち』であるような気もする。正攻法での勝利を封じている現状このままでは、さしもの菜流未でも徐々に体力がなくなってくるだろうし、何かミスが発生する前に逃走して、畝枝野の前に辿り着くことが出来れば、それはもう勝ちみたいなものだろう。

 というわけで、早速菜流未にぼくの案を伝えようと、菜流未のもとに駆け寄ろうと思ったその時。

 ぼくは確かに見えた。

「えい」とか「やあ」とか言いながらへろへろのパンチを繰り出していた恋倉ちゃんが、急に黙って拳を振り抜いたかと思ったら、その勢いのまま懐にその拳を潜り込ませ、中から銀色の光沢のある『何か』を取り出すのを。

「危ねえ‼」

「きゃあっ⁉」

 恋倉ちゃんが『それ』を菜流未に向けて、今までのパンチが、まさしく悪い冗談であるかのように素早く振り抜くのと、ぼくが菜流未を突き飛ばすのは、ほぼほぼ同時だった ――― ぼくが菜流未に案を伝えようと、事前に駆け出していなかったら、確実に間に合っていなかっただろう。

「いってええええぇぇぇ……!」

「シュク兄いいぃいぃ‼」

 見ると、ぼくの左腕は、血で赤黒く、赤グロく染まっていた。

「包丁、か……!」

 ぼくは左腕の激痛に耐えながら、恋倉ちゃんの手に握られていた『それ』の正体に気付いた。

「あ……、ああ…………! どうして? ……どうして笹久世さんは傷ひとつ付いていないのに、血だまりができているの……?」

 そうか。

 恋倉ちゃんにはそう見えるのか。

 ったく、油断しちまったぜ……、先程、懇切丁寧にぼくの今の存在力のレベルをおさらいしたばかりだというのに、そのおさらいが全く活きていないじゃないかよ。

 ぼくは人には直接触れられないが、物や道具には触れることが出来、またそれらを介してならば、人にも干渉することが出来る。だから、恋倉ちゃんを直接どうこうするのは無理でも、木の枝を使って恋倉ちゃんを殴打することも、網を使って恋倉ちゃんを拘束することも出来る。

 そしてそれは同じように、わけだ。

 これが先程のようにパンチだったら、ただ単に恋倉ちゃんの拳がぼくの身体を通り抜けるだけで済んでいた話だったのだが、彼女が繰り出したのは拳ではなく、刃物だった。

 普段は料理で扱うような場所であったら、日常の何処にあっても不自然ではない刃物であったが、この局面においては不自然極まりない。なぜならここは、キッチンでもなければ、家庭科室でもないし、何より、その刃物はぼくの左腕を切り裂いたことによる血液が付着したことにより、銀の光沢が、鈍い赤にかがやいていたからだ。

「ははっ……、ったく、流石の菜流未でも、今まで刃物だけは振り回さなかったのにな……、まさか、ほぼ面識のない女子中学生に刺されるとは、不覚だったぜ」

 それも、もしあのへろへろなパンチと同じスピードで刃物が繰り出されていれば、ぼくごとそれを回避することも可能ではあったと思うが、実際に繰り出されたそれは、菜流未がぼくにおたまを繰り出すスピードに匹敵する程であった……(つまりたとえ来るのがわかっていたとしても回避が困難であるレベルだ。そう考えると、この程度の被害で済んだのは、奇跡としか言いようがない。それとも、何があっても妹を守りたいと思う気持ちが、火事場の馬鹿力を生み出したのかな)、ということはあのやる気の感じられないへろへろなパンチは、ぼくと菜流未(恋倉ちゃんからしたら菜流未だけ)を油断させるためのブラフであったということなのだろうか。

「シュ、シュク兄……! 大丈夫なの……?」

 しかし、不幸中の幸いと言うべきか、咄嗟にぼくに突き飛ばされた菜流未は、それによる擦り傷程度で、刃物が当たった様子は、どうやらなさそうだった。とは言え、庇ったぼくから血が噴き出ていることと、突如として敵意を殺意に変えて襲ってきた恋倉ちゃんに、すっかり腰を抜かしてしまったようで、立ち上がることが出来ず、赤子の這い這いの要領で、ぼくに近付いてくる。

「ぼくは……、ぼくは大丈夫だから。こんなの、後で唾でもつけときゃ治るって。それ、よりも、菜流未、今すぐお前は、ここから逃げろ」

「やだ! やだやだやだ! シュク兄を置いてくなんて、あたしには溺愛!」

 溺愛?

「出来ない!」

「こんな時に噛むなって……」

 いや、こんな時だからこそ、呂律が回らなかったのかな?

 まあ良い。

「恋倉ちゃんにはぼくの姿は見えていない……、だから追撃されることもないんだ、むしろ、今もなお、危険に、晒され続けているのは、お前なんだ、菜流未……、わかってくれ、これ以上お前を庇うことは難しいんだよ……」

 ぼくがそう言ったところで、ぼうっとして立ち尽くしていた恋倉ちゃんが、ふらふらとこちらに近付いてくるのが見えた。

「さあ、早く!」

 ぼくは叫ぶ。

「む、無理だよ、シュク兄……」

「無理じゃねえ! 早く逃げろ! 何処でも良い! 人がいるほうへ、全力で走れ!」

 叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ。

「だってあたし、腰抜けちゃって、膝ががくがく笑っちゃって、言うこと聞かないんだもん!」

 見ると確かに、菜流未は膝だけでなく、全身が大きく震えてしまっていた。

 普段は、運動神経抜群で動体視力も良い菜流未だが、それでもやはりこいつも、精神面はただのひとりの女子中学生なのだ。こういった異常事態に身を置かれては、そのポテンシャルが発揮出来ないのも、無理はない。

「ねえ、シュク兄、どうしようどうしよう! あたし、ここで死んじゃうの⁉」

「落ち着け! 今、何か良い方法を考えているから!」

「……またシュク兄」

 ぼくが、こうなったらぼくの左腕が千切れても良いから、菜流未をおぶってこの場から脱出しようか、という無理難題ならぬ、無理難案を編み出そうとしていたら、恋倉ちゃんが、ボソッと何かを呟いた。

「シュク兄」

 恋倉ちゃんが。

「シュク兄シュク兄」

 何かを。

「シュク兄シュク兄シュク兄」

 ぼくのあだ名を。

 菜流未からの親しみを込めて貰ったその呼び名を。

「シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄シュク兄うるっさいんだよっっっ‼」

 叫び散らかす。

「私はその呼び名にすべてを奪われた! 何もかもを奪われた! 本当はお前が『私』で私が『あたし』になっていた筈なのに、その呼び名に! 話に! 言葉に! 単語に! 『あたし』を奪われたんだ‼」

 恋倉ちゃんは、菜流未を『お前』と吐き捨て、絶叫する。

「殺してやる……、お前を殺して、私は『あたし』に戻ってやる……!」

 恋倉ちゃんの歩みがどんどん速くなっていく。

「いや……」

 すたすた。

「いや…………!」

 すたすた、すたすた。

「いやあああああぁぁぁぁぁぁぁ‼」

「そこまでだ」

 と。

 菜流未の絶叫の中でも、はっきりと聞こえる声でそう言いながら、『そいつ』は恋倉ちゃんの刃物を持った右腕を、がしっと掴んで制止させた。

「せ、畝枝野センパイ……!」

「凪……!」

 だった。

 彼女を止めたのは、未千代でも、兎怜未でも、父さんでも、縞依でも、究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえすこと田中でも、奔る閃光 さすけでも、耀く鋼 ごーどんでも、また、中等部の誰かとか、先生方とかでもなく、ましてや、ぼくや菜流未、そして恋倉ちゃん自身というウルトラCも勿論なく、畝枝野 凪だった。

 啓舞学園に通う中学三年生で、頭が良くて、スポーツも出来て、野球部に所属していて、部長で、キャプテンで、四番で、エースで、イケメンで、人気者で、かといって、自分のその素質を、決して過信しない、謙虚で心優しい、完成された人間である畝枝野 凪が、そこには居た。


祝 7 也


 放課後。

 ぼくは高等部校門前で、菜流未と未千代を待っていた ――― 本当のところ、菜流未は中等部まで迎えに行ってやりたかったのだが、この後未千代とも合流してふたりで一緒に帰って貰った後、ぼくはぼくで田中に事後報告をする必要があったので、やむなく集合場所をここにした次第である。

「シュク兄ー!」

 と、そこに先ず現れたのは、料理部の部活動あがりだろうか、美味しそうな匂いを纏った菜流未だった。

「や、やだシュク兄、何言ってんの。妹を食べちゃいたいからって美味しそうなんて言って」

「お前が何を言っているんだ」

 今まで、ぼくとの距離間上の関係で、一番そういうトークと無縁そうに描かれてきたが、普通にこういう話もいけてしまう、我が二番目の妹だった。

「あと、これは未千代にも言ったんだが、周りから見たら、今のお前は誰もいない空間に、笑顔で駆け寄って話しかけているヤバい奴と映るんだから、もう少し声を潜めて話しなさい」

「え~……、声を潜めてって」

「ん⁉」

 これくらい……? と、菜流未がぼくの真横で背伸びをして、左耳に囁きかけてきた。

 未千代は未千代で、菜流未は菜流未で、それぞれぼくが恥ずかしくなる行動を取ってきやがるぜ。

「その……、傷、本当に大丈夫なの?」

「ああ、しま……、母さんの知り合いに医療関係従事者が居るってんで、未千代にその人へ電話して貰って、適切な応急処置を教えて貰って、未千代にそれを施して貰ったから大丈夫だ」

「ミチ姉が至れり尽くせり過ぎる」

 まあ、それ自体はいつものことだしな。

 ぼくが驚いたのは、ぼくが怪我を負ったということで、もし未千代にそのことを言ったら、それこそ気が動転して何をし始めるかわからない恐れがあるのではないか、と警戒していたが、いざ助けを求めてみたら、冷静沈着に、ことの解決へと導いてくれたことだ。縞依の知り合いを頼るという案も、口ぶりからしてぼく発信のように語ってしまったが、それは誤りで、騙りで、未千代発信のものだし。

「まあそもそも傷自体も、かなり浅かったらしいしな。逆に何であんなに血が流れたのか、不思議なくらいだぜ」

「そ、そう……、ホント? 嘘ついてない?」

「何でぼくの妹は、度々ぼくの特徴を忘れるんだろう」

 わざとなの?

 まあぼくはぼくで、一度本気でその特徴を忘却して、痛い目を見ているので(言うまでもなく、偽装便箋事件のことである)、強くは責められないけれど、それにしたって忘れ過ぎだ、特に菜流未。

「ま、未千代もガチのお医者さんや看護師さんってわけじゃないからな、ぼく自身は嘘をついていなくとも、未千代が誤診している可能性はまだ捨てきれんが」

「怖いこと言わないでよ!」

「まあまあ……、今んとこはもう、全然痛みもないし、大丈夫だとは思うぞ」

 さて。

 ぼくの容態の話はこれくらいにしておいて。

 そろそろこちらの話に移らねばならない。

「…………あのふたりは、あの後どうなった?」

 実を言うと、畝枝野が現れた直後くらいに、中等部の先生方の叫び声が聞こえ、これだけの人が来れば、もう菜流未のもとから離れても問題ない、むしろ、このままいたずらに(みんなからしたら)謎の血だまりを増やすほうが得策ではないと考え、ぼくは早々にあの場から立ち去っていたのだ。その際、出来るだけ血を垂らさないように配慮しながら去ったので、怪奇現象だ何だという騒ぎにはなっていない筈だが、まあ後でその辺りは田中に訊いてみるとして、やはりぼくとしては、その後畝枝野と恋倉ちゃんがどうなったのかが、気がかりだった……、そして何より、菜流未は、いち早くぼくの身を案じてくれていたが、ぶっちゃけぼくとしては、菜流未ともあの朝以降、顔も見てない、声も聞いていない、という状況だったので、一番は菜流未の心配をしていた。まあそれはこうしてみる限り、どうやら杞憂に終わったらしく、ひと先ず安堵したが。

 そしてもうひとつ、重要な確認も残っている。

「畝枝野とは……、どうなる運びになったんだ?」

 直接的な表現が恥ずかしく、言い方がまどろっこしくなってしまったが、要するにぼくが訊きたかったのは、菜流未は畝枝野の告白を受けたのか、振ったのか、といった意味の問いだ。

「結局あの後、警察まで来ちゃって、恋倉さんは連れていかれた。現場にはシュク兄の血痕が少なからず残っちゃってたし、大人たちは事態を重く見たんだと思う……、あたしから出た血じゃないってのは、あたしの身体を見れば一目瞭然だったから、みんな不思議そうだったけれど、それよりやっぱ恋倉さんの対応にみんな四苦八苦だったから、それどころじゃなかったみたい」

「ふむ……」

「畝枝野センパイが言うには、不可解な点も多い事案だから、少年院に入るようなことはないかもしれないけれど、もう恋倉さんがこの学園に戻ることはないだろうって ――― そして畝枝野センパイも」

「ふむ……、って、え?」

 恋倉 愛華が、啓舞学園に復帰することが出来なくなることは、まあ正直予想していたところではあったのだが、なぜ畝枝野 凪までこの学園を離れるんだ?

「畝枝野センパイ、幼馴染がこんな事件を起こして、責任を感じちゃったんだって。だから、自分の知らない学校へ転入して、新しく人生をやり直すって言ってた」

「はあ……」

 んー……? 何だか理由になってるんだか、なっていないんだか、良くわからない言い分だな。

 幼馴染の犯行を憂いて、或いは自責の念に駆られて転校するって、聞き流すと美談に聞こえるけれど、良く考えれば、言動と行動がちぐはぐと言うか、そもそもやっていることはただの逃避だし、何より完成された人間と謳われる畝枝野が取りそうな行動ではないようにも思うんだが……、考え過ぎか?

 完成された人間でも、身近の人間が非行に走ったら、正常な判断が出来なくなるものである、とかいうアレか? まあ、そう考えるほうが、まだ先程の考察よりは、まだまとまったそれであるような気もする。

「……って、それじゃあ菜流未、もしかしてお前」

「うん、畝枝野センパイから告白されることはなかったよ、そもそも」

 それも……、幼馴染が非行に走ったのに、自分だけ色恋沙汰にかまけている場合ではない、という判断なのかな。

 やっぱり何か、心に引っ掛かるが、まあ全く納得出来ないのか、と問われれば、全然そんなことはないし、むしろ九十五パーセントくらいは一件落着という気分なのだが……。

「わかるよ、シュク兄の気持ち」

 と、ここで菜流未が口を開いた。

「多分、シュク兄もあたしと同じなんだよ」

「同じ……、どの辺りが?」

「スッキリしないんだよ」

「スッキリしない、か」

 まあ確かにぼくも畝枝野の行動について、そのようなことを思っていたが……、

「ううん、そういうひとつの事柄だけじゃなくて」

 しかし、ここでは菜流未が首を横に振った。

「ほら、今回の一件って、何かにつけ、不完全燃焼で終わったじゃない。全部が上手くいって、みんな幸せになりました、っていうおとぎばなし的な展開だったら、多少の違和感を持ったとしても、誰も気にせずに物語を閉じれるんだけれど、今回は綺麗に纏まったことのほうが少なかったでしょ」

 確かに、色々な情報が舞い込んできてオーバーヒートしそうになったり、畝枝野と恋倉ちゃんのことをじっくり調べようと思ったら、盛大に失敗して、短期決戦に持ち込まれたり、畝枝野から菜流未に告白があると思ってドギマギしていたら、それもなかったり、とにかくすべて虚を突かれる展開の連続で、終始困惑したままこの一件は幕を閉じた ――― そういう意味で、ぼくは納得がいっていなかったのかもしれない、だから、畝枝野の不可解な行動も、『不可解だ』と思い込んでしまったのかもしれない。

 不完全燃焼、か。

「あたしも……、シュク兄が恋倉さんに刺された時、何も出来なかった……、それが悔しくて、悔しくて、あの時あたしがやり返せなかったことが ―――」

「それは違うぞ、菜流未」

 ぼくは、はっきりと、菜流未の発言を遮る。

「……え?」

「ぼくは言った筈だ、殴ったら駄目だって。お前があの時、もしかしたら激昂して反撃してしまうんじゃないかと、正直肝を冷やしていたが、そういう意味では、シュク兄の言いつけをちゃんと最後まで守ったんだ」

 よくやった。

 やはりお前は、ぼくの誇る、自慢の妹だ、と。

 言いながら、頭を撫でてやる。

「ま、本当は腰を抜かしてただけみたいだったけどな」

「~♪」

 あれ、「それは言うな~!」みたいに言っておたまで突っ込まれるかと思ったら、全然そんなことはなかった。ぼくの頭なでなでにご執心らしい。

「ま、良かったんじゃない」

 ひと通りぼくからの頭なでなでを堪能した後、菜流未は唐突にそう言った。

「何がだ?」

「確かに総合的に見たらスッキリしない一件だったとしても、少なくともあたしは、幸せになったよ」

 と言いながら、菜流未は先程来た道を引き返すように駆けて行ってしまう……、まだ未千代は来ていないぞ? と声をかけようと思ったら、十メートルくらい離れた位置で振り向き、叫んだ。

「悩みを解決してくれてありがとっ、シュク兄!」

 …………ったく。

「ぼくは何もしてねーよ! それよりさっき言った忠告、もう忘れたのかー?」

「もうあたしも周りの目を気にして、シュク兄に冷たくするの、やめる!」

 だって。

「あたし、シュク兄が大好きだから!」

 ……なるほど。

 だから敢えて、叫ばないと届かないくらいところまで離れて、宣言したのか。

 菜流未は言った後、また駆け足で戻ってくる……、そう言えば、それ自体は最終的には起こらなかったから、もうどうでも良いことなのかもしれないが、もし、畝枝野が告白してきていたら、菜流未は結局、どう返答していたのだろう、スッキリしないことと言えば、そこの謎もわからぬまま、ここまで来てしまったわけだが……。

 ま、良いか。

 今の言葉で、答えはわかったようなものだし。

 そしてこの瞬間、ぼくは気付いてしまった。

 そう、畝枝野 凪の、あの完成された人間の、唯一の弱点である。

 それは、完成された人間であるにもかかわらず、兄を好きになってしまうような、未完成な菜流未を好きになってしまったことである。

 そう言うぼくも……、まあ、前よりは、嫌いでなくなったと、言っておこう。

「そう言えば、スッキリしない話と言えば、あたしにももうひとつあるんだけれど、シュク兄、聞いても良い?」

「ん? まあぼくに答えられる質問ならな」

 そのタイミングで、丁度校舎から田中の姿が、そして校門前の道路の向こうから未千代を乗せた仕事用の車が、それぞれ見えてくる。

究極アルティメット情報通インテリジェンスの田中センパイから、ふたつ訊きたいことがあって、ひとつは畝枝野センパイの情報について訊いていたみたいだったけれど、もうひとつは何を訊きたかったの?」

 ああ、そういえばそれ、言えてなかったな。というかよくそんなの憶えてたな。

 でも確かにそれも、人によってはスッキリしていない事柄であると思うので、一応答えられる範囲で答えておこう、まあ結論から言って、その訊きたい答えは田中にはぼやかされてしまったので、結局はスッキリしないのだが。

「性別を、訊いたんだ」

「は?」

「お前、田中を見たことあるか? あいつマジで顔が中性的過ぎてて、男か女かわからないんだよ……、てかほら、丁度こっちに来てる奴、あれだ」

 ぼくは言いながら、田中を指さす。それにつられるように菜流未が田中を見る。

「やあ、お初にお目にかかるかな? 僕は田中 ――― 啓舞学園では究極アルティメット情報通インテリジェンス いん=いえすという名で活動させて貰っている、高校三年生さ。以後お見知りおきを、笹久世 菜流未さん」

「ど、どうも……」

 田中はまるで、端から菜流未に話しかける気満々だったらしく、流れるような自己紹介を、菜流未に披露していた。それに対し、いつになく動揺したような声で応じる菜流未。

「どうした、菜流未。様子が変だぞ」

「いや、シュク兄の言った通り、確かにこれは男の人か女の人かわからないなあ……、と思いまして」

「ふむ」

「そして、一目惚れしてしまいまして」

「ふむ……、って、え?」

「何この人シュク兄⁉ めっちゃ美形じゃん! あたし、この人とデートしたい!」

「はあ⁉」

 こいつ! さっきぼくに大好きとか言っておいて、数秒で浮気したんですけど!

 ぼくの、畝枝野に対するマウントが、今になって恥ずかし過ぎる!

「あっはっは! 中々面白い人だな、菜流未さんは」

「い、いえいえそんなことはありませんたくばさみ!」

 菜流未さん、てんぱり過ぎて、おもんないこと言っちゃってますよ。

「そう言えば先程君は、『シュク兄』と言っていたが、もしかして君のお兄さん、今隣にいるのかい?」

「え⁉ もしかして田中センパイ、あたしの兄をご存じなのですか⁉」

「いやいや、ぼくと田中の話は、ぼくから言って聞かせましたよね、何なのお前、ひょっとして馬鹿なのか」

「馬鹿じゃないやい!」

 おお、なんだか、このやり取り、随分久しぶりな気がする。やらな過ぎて、全然恒例化出来ていないやり取りだが。

「何だか楽しそうな会話をしているようだね、差し支えがなければ、僕に教えてくれないかな?」

「いえ、あの……、しゅく ――― わたしの兄が、無礼なことに、あなたの性別がわからないとか言っておりまして」

「無礼なのはお前だ菜流未」

 初めて聞いたわ、お前がぼくを『わたしの兄』と言うなんて。

「ああ、そのことか。いやあ初めてお目にかかった菜流未さんに、こんなことを言うのは、非常に申し訳ないんだがねぇ」

 それは、あらゆる情報の中でも最高機密情報なんだよ ――― と、ウインクしながら、田中は答えるのだった。


田 8 中


 放課後になって、それなりに経った時刻。

 あれから僕は、直後に合流した未千代さんが、菜流未さんを引き連れて帰っていったのを見送り、笹久世くんから、此度の顛末を聞かせて貰った後、ある場所に向かっていた。

 つまりここからの話は、笹久世家の三姉妹も、笹久世くんも知らないお話ということになる。

「おや、貴方は……、田中さん。この度はお世話になりました」

 中等部校門前 ――― 今朝、とある事件があったこの場所で、僕はを待っていた。

「やあ、畝枝野くん。いやいや、今回の仕事は完全に失敗だったよ。結果的に君の頼み事を叶えることは、僕には出来なかったわけだし、それどころか、君を転校させてしまうことになるなんて、誠に申し訳ない」

「……いえ、お気になさらず」

 そういう彼 ――― 畝枝野 凪くんの顔は、口では気を遣っているようだが、表情には、何処か疲れが見えているようであった ――― 否。

 

「申し訳ないついでに、僕の独り言を聞いてくれないかい?」

 だから僕は、確かめに来たんだ。

「……どうぞ」

「今回の一件は、一見すると、すべての事柄が起こるべくして起きた、悪い人間はひとりもいない、仕方のない事件だったのかもしれないけれど、僕からしたら、否、きっと菜流未さんや『もうひとりの男』も勘付いていたことだろうが、どうにも腑に落ちない点が少しばかりあってね」

「なるほど、それは一体何でしょうか」

「ひと言で言うなら、情報だよ」

「情報 ――― 究極アルティメット情報通インテリジェンスと呼ばれる貴方が仰ると、まさしく、といった感じですね」

 純粋に言っているのか、或いは皮肉って馬鹿にしているのか、畝枝野くんはそんなことを言った。

「先ず君が、笹久世 菜流未さんを好きかもしれない、という情報。これに関しては、特に言うべきことはない、しかし後発したふたつの情報、これらがおかしいんだ」

「ふたつの情報、ですか」

「うん、流石にそれはわかっているだろう、君なら」

「はい、ひとつは、僕が笹久世 菜流未さんに告白をしようと考えているので、その手助けを貴方がた ――― いえすさん、さすけさん、ごーどんさんのお三方に依頼したこと、もうひとつは、偽の便箋を怪しく思った僕が、告白の日を今日に早めたこと、ですよね」

「その通りだ」

「では、具体的に、このふたつの情報の何処がおかしいのでしょう」

「…………」

「えっと……、田中さん」

「……ああ、すまない」

 何だか、受け答えがいちいち白々しいと感じるのは、僕だけだろうか ――― まあここに居るのは、僕と畝枝野くんのふたりだけなのだから、そう感じるのは必然的に僕だけなのだろうけれど……、もしかして、畝枝野くん本人も、わかっててそんな受け答えをしていたりして。

「このふたつの情報の何処がおかしいかということを、先程の情報と比べながら説明すると、先ず先程の情報は、元々爆発的に広まっていた噂であるので、仕方がなかったが、後発のふたつの情報 ――― 厳密に言うと、ひとつ目の『笹久世 菜流未さんに告白をしようと考えているので、その手助けを僕たちに頼んだ』という情報以降のすべての情報は、いよいよ学園中に、緊張と混乱をもたらしてしまう恐れがあったため、情報規制をしようと結論付けた、そうだよね?」

「ええ、そうでした。僕も、自分の都合で周りを巻き込んでしまうのは心苦しかったので、田中さんから、その提案をして頂けた時は、本当に助かりました」

「うん……、しかしここで考えて欲しい。その前提だと、何かがおかしいって気付かないかい?」

「………………すみません、僕の足りない頭では、どうやら田中さんの違和感には、辿り着くことが出来ないようです」

 学園トップクラスの頭脳が良く言うねえ。

「……ひとつ目もふたつ目も、何処からか漏洩しているんだよ、情報が」

「漏洩、ですか」

「具体的には、ひとつ目は恋倉 愛華さんに……、ふたつ目は、同じく恋倉さんと、僕、さすけ、ごーどんの知り合いの中等部生徒数人に、漏洩が確認されている」

 そう、僕が笹久世くんと教室で、ふたりして話している時、さすけから電話があった際にあった報告はふたつあったのだけれど、皆さんは覚えているかな?

 ひとつは、笹久世 菜流未さんと恋倉 愛華さんが家庭科室で口論していたところを目撃したという報告、そしてもうひとつの報告が、所謂後発のふたつの情報のうちのふたつ目なのだが、実はこの情報、のちにさすけから訊いた話によると、畝枝野くん本人からもたらされた情報ではなかったのだと、さすけの知り合いから収集したものであったのだと判明したんだ。

「勿論、僕たちが情報を漏洩するなんてことは、絶対にあり得ない。究極アルティメット情報通インテリジェンスの名において、それは誓える。とすると、もう漏洩する箇所はひとつしかないんだよね」

 ……厳密には笹久世くんに言っていたが、しかしそれはタイミング的に、そして漏洩した対象的に、そこからの漏洩は考えにくい。

「……僕が漏洩した、と仰るのですか」

「ま、言ってしまえばそうだね。無論、証拠はない。それに、仮に君が漏洩の犯人だとしても、その意図が、動機がよくわからないし……、だから言ったろう? これは僕の独り言なのだから、本気で捉えないでくれよ」

「…………いえ」

 僕は言いながら、踵を返して帰ろうかと思った時、畝枝野くんが笑顔で、本当に屈託のない笑顔で言った。

「田中さんの言う通りです。僕が情報を漏洩して、愛ちゃん ――― 恋倉 愛華を唆し、笹久世 菜流未を襲わせました」


畝 9 野


 この度は、僕なんかのために、一場面分、語る場を設けて下さり、誠にありがとうございます ――― しかし、生憎ではありますが、今からするお話は、あまり『語る』程のストーリーの濃さも分厚さもオチもないお話となります。良く言っても番外編、悪く言えば蛇足、でしょうか、予めご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

 先ず、僕がお聞きしたいのは、果たして今回、僕のしたことは、正義だと思うか、悪だと思うか、なのですが……、まあ、今の段階ではどの方でも、僕を悪だと、むしろ今回の一件の黒幕であると見定めることでしょう、田中さんも、勿論そう思われているのでしょう。意外と顔に出やすいタイプなのですかね、貴方。

 まあその思い自体は、相違なく抱かれてしまっても無理はないと自覚するところでもあります……、しかしもう、、それが『上』の総意でしたし、僕も賛同しました。

 ……何の話をしているかわからない、と。

 失敬、ではお話の前に先に、僕の正体を明かしておくことに致しますか。

 僕は、とある組織から啓舞学園に派遣された、エージェントです ――― いえ、決して、痛い設定に憧れている厨二病というわけではありません、マジの組織です。組織の掟により具体的な組織名は出せませんが、代わりにうちの組織が、どういう活動をしているかを簡単に説明致しますと、『正義的活動』です。

 ……イマイチ信用されていないご様子ですね。まあ、貴方側からしてみれば、僕は正義的活動の正反対を行く、完全悪の存在ですものね。大体、僕たちの組織って、正義のためなら、少々強引な手を使うことも厭わないスタイルなので、いつも誤解されてしまうんですよね……、そもそも究極アルティメット情報通インテリジェンスの名をくみする田中さんなら、元から僕の正体も、ご存知だったのでは?

 ……そうですか、学園に関係しない情報は、敢えて収集していないスタイルなのですね。

 僕たちの組織のように、他の組織にも独自のスタイルがあることは、理解しているつもりです、それくらいのことでは落胆しません。実際に僕たちの計画を聞いて下されば、わかって頂ける筈です。

 では始めに、今回僕たちに課されたミッションを、先に開示してしまいますと、『恋倉 愛華を畝枝野 凪の周りと啓舞学園から排除すること』となりました ――― ちなみにそれまでは、啓舞学園に所属している人間の監視が主なミッションでした。

 ……愛ちゃんは、昔から ――― 具体的には小学三年生の始め辺りから、周囲からの支持が徐々に低下しはじめ、それに比例して、精神面も徐々に不安定になっていきました。特にここ最近はもう手に負えない状況まで、悪化していました。原因は前述したことに加え、ご存知の通り、笹久世 菜流未への嫉妬ですね。

 このままでは、愛ちゃんがいつ何処で犯罪行為に手を染めてしまうかわからなかった、大きな事件を巻き起こすか、わからなかった。

 だからそうなる前に、僕や組織の目の届く範囲で、最低限の罪を犯してもらうことで、僕と笹久世 菜流未のいる啓舞学園から、彼女を排除する必要があったということです。

 ……なるほど、それならわざわざ罪を犯させなくとも、事情を説明すれば、わかってくれたのではないか、と。

 ……正直、難しかったでしょうね。

 彼女は田中さんが想定している以上に、既に限界が近かったですし、何より僕から排除させようと言っているのに、僕がそれを彼女に伝えるのは、お門違いです。勿論組織の他のエージェントを使うのも論外ですし、彼女も絶対に納得しないでしょう。

 ですから、彼女を僕や啓舞学園から排除するには、彼女の同意を得る必要がない大義名分を、こちらで工作するほうが、手間がかからなかったのです。

 手始めに僕は、笹久世 菜流未に目を付けました。恋倉 愛華の興味を惹くような話題でないと、計画の成功は望めないことはわかりきっていたため、彼女が目の敵にしている笹久世 菜流未を使えば、まあ堅いでしょう。この時はまだ、田中さんたちに協力を要請していなかったため、適当に噂を流しました、「畝枝野 凪が、笹久世 菜流未のことを好いているらしい」と。

 だから正直、次のステップで貴方たちに頼った際に情報規制案を持ち出された際は、正直に言って焦りましたね。まあしかし、先程田中さんが仰ったように、不特定多数の人間を巻き込むのは、僕の組織としても、あまり褒められた手段ではないため、その案に従うことにしました……、恋倉 愛華や田中さんのお知り合いを除いて。

 ……ああ、僕がわざわざ情報規制案に乗ってまで、敢えて貴方がたを頼った理由はふたつあります、ひとつは恋倉 愛華に、僕が本気で笹久世 菜流未に告白するんだというアピールをするため、もうひとつは先程言った田中さんのお知り合い、そして田中さん本人を経由して、笹久世 菜流未に、僕が告白するタイミングを伝えることで、状況をコントロールするためです。事実、それらの影響で、ミッション完遂日の前日にふたりの間で前哨戦が行われたり、笹久世 菜流未が恋倉 愛華を必要以上に警戒して頂けるようになったりしたのは、嬉しい誤算でした。

 あとはそうですね、大体田中さんが指摘した通りです。恋倉 愛華を唆し、扇動して、笹久世 菜流未を襲わせ、頃合いを見て僕がそれを止める。あとは適当な理由をでっちあげて、僕も姿を消せば、おしまいです。

 ……最後にふたつ質問ですか、どうぞ。

 ふむ、僕が転校する本当の理由ですか。

 いえ、そこまで大仰なものではないです、ただ単に、組織から帰還命令が下りただけですよ。まあ何年もここで潜入調査をしてきましたのでね、少しお暇でも頂こうかな、と思っております。それで、もうひとつは。

 ……はあ、僕が本当は笹久世 菜流未をどう思っていたのか、ですか。それは勿論、自分の任務を完了するための道具としか思っていませんよ。他の人も含めて、ね。

 勿論貴方も。

 恋倉 愛華だけは道具ではなく、標的ですがね。

 ……はい、これで僕のお話はひと通り終了です。どうでしたか、僕たちの組織が正義のために動いているんだということ、理解して頂けましたか……、と訊こうかと思いましたが、訊くまでもなさそうですね。

 でも、本当に僕は悪いことをしたのでしょうか。

 確かに手段は卑劣だし、考え方は最悪かもしれませんが、放っておけば、もっと深刻な大事件に発展していた可能性だってあるのです。それを今回、必要最低限の被害で ――― くらいの被害で抑えたのですよ。

 それがこの僕、畝枝野 凪の ――― いや、木野ぎの 凪のミッションだった。

 そう考えるとやはり僕たちのやったことは重犯罪発生の芽を未然に枯らしたことになるわけで ――― ああ、そうですよ、勿論僕も田中さんと同じように気付いていました。

 笹久世 菜流未の兄なる存在は必ずいる筈だ、と本人が周りに言いふらしていたことや、恋倉 愛華が、笹久世 菜流未を傷付けようと振りかざした刃物は、確かに当たらなかった筈なのに、不可解過ぎる血痕が現場で発見された。それに何より僕は直接見ましたからね、誰もいないところから、一滴の血が垂れていた瞬間を ――― だから僕も彼女の兄の存在を信じた、それだけのことです。

 勿論、透明人間の理屈まではわかりませんけれど、僕、結構そういうファンタジーは、抵抗なく受け入れられるタイプなんですよ。

 僕自身が、夢物語の世界の住人みたいな設定、しちゃっていますからね。

 …………いやはやしかしこんな話、たとえ笹久世兄妹が僕と同じで、ファンタジーに抵抗がない人たちだったとしても、とてもではないですが、聞かせられませんね。だから、これで未完成だった物語が、一応完成されはしましたが、あのふたりにとって、この物語は多分、永遠に未完成の物語となるのでしょうね。

 それでは、ありがとうございました。


祝 1 0 也


 翌朝。

 昨日の時点ではまだ、ぼくの存在力の変化はこれと言ってなかった筈だけれど、果たして今日はどうだろうか ――― と気になってしまい、結局昨晩はよく眠れぬまま、朝になってしまった。

 うーん、まあ、高望みはしないでおこう、期待し過ぎると、あとで結果がそれ以下だった時、気持ちがブルーになってしまうからな ――― しかし、過度に暗く考えるのも、それはそれで精神衛生上良くない。

 菜流未や妹奈あたりから、蹴っ飛ばされかねない。

 だから、透明人間のままでも良いので、せめてみんなが『笹久世 祝也』という男子高校生がこの世界の何処かに実在する、という認識を持ってくれるくらいには回復して欲しいなー、と思っておこう。

 そんなことを考えながら、ぼくは自室から出て、リビングへと向かう。

「あ、おはよう、シュク兄!」

 そこには、キッチンでせっせと朝食の準備をしている菜流未の姿があった。

「よっ、浮気者」

「あー! シュク兄、まだ昨日のこと引きずってんの? もう、あんなの冗談に決まってるじゃない」

「冗談で連絡先を交換する奴がいるのか?」

「ギクッ」

 ちなみに菜流未は、携帯電話やスマホといった機器を持っていないため、菜流未が田中に教えていたのは、自宅の電話番号だった。

 携帯機器を持っていないし、危機管理能力も持ち合わせていない菜流未だった ――― そういう意味では一度、情報管理とは何たるやを、田中に叩きこんで貰ったほうが良い気もしてきた。

「だ、大丈夫大丈夫。あたしの一番はシュク兄だから、田中センパイとはその、ちょっとした火遊びってだけだから、あたしもちょっと寂しくなってつい ―――」

「浮気バレた奴の常套句やめろ」

 ツンデレな奴って、実は意中の人に滅茶苦茶一途というパターンが多いが、これはもしかしたら、新機軸なキャラクター性なのかもしれない。

 浮気性のツンデレ。

 まあそもそも、浮気性のヒロインというだけで、結構新機軸なようにも思えるが。

「でも……、まあ改めて、本当にありがとうね、シュク兄」

「……何だよ、本当に改まって」

 ひょっとして、何か企んでいるんじゃないのか、とぼくは警戒する。

「今回は、全体を通してみたらスッキリしないことが多かったって、でも少なくとも、あたしは幸せだった、みたいなこと、昨日言ったじゃない?」

「ああ、言ってたな、そんな感じのこと」

「何で幸せだったか、わかる?」

「え?」

 うーん、改めて、改まって、そう言われると、答えに窮するが……。

「口ではあたしたちのことを嫌いだ何だ、って言ってるけれど、結局シュク兄は何だかんだで、あたしたちを大切に思ってくれているんだな、って言葉と行動でわかったから」

 スッキリしないことが多かったけれど、少なくともそれだけはスッキリとしたから。

 それだけで、

「実は一番のツンデレってシュク兄のことを言うのかもね」

「はあ? 何だそれ……、意味わかんねっつの」

「たはは、シュク兄、可愛い」

 ぐぬぅ。

「馬鹿に馬鹿にされるって、こんなにも屈辱的なんだな……」

「馬鹿じゃないやい!」

 していると、どうやら朝食が完成したらしく、菜流未がこれまたいつものこいつとは思えない程にテキパキとテーブルに料理を並べていく。

「……あれ、これって」

 ぼくは、菜流未が並べた食器の配置を見て、思わず声を上げる。

「昨日言ったでしょ、『もうあたしも周りの目を気にして、シュク兄に冷たくするのやめる』って」

 そう、そこにはぼくの分の朝食も並べられていたのだ。

 ぼくの存在が消失してから今まで、両親の目を気にして、ぼくの分の朝食を一切作ってくれなかった菜流未だったのだが、果たしてこれはどういう風の吹き回しなのか。

「勘違いしないで! これはあくまで今回のお礼なだけであって、シュク兄の男らしさを前に、妹なのに惚れちゃって、これから毎日お味噌汁を作ってあげるね、って言う意味で作ってあげたわけじゃないんだからね!」

 まあ、それはツンデレとかじゃなくて、本当にそうなんだろうけれど。

 と言うか、そうでないと困る。

「でも本当に良いのか? お前の今している行動は、父さんや母さんを心配させて、お前を精神病院に連れて行きかねないものなんだぞ?」

「わかってる、でももうあたしは逃げないよ」

 昨日は逃げて、シュク兄に迷惑をかけちゃった分、今度はあたしがシュク兄の支えになる。

 お父さんもお母さんも、きっと言い包めて見せる。

「……ったく」

 聞き分けのない妹だ。

 そんなにデレ要素が強いツンデレは、今時流行らないぜ?

 ……まあ、それが本来のこいつなのかもしれない。

 とても明るくて、それでいて面倒見が良く、誰にでも優しい、というのも菜流未だし、お節介焼きで、頑固で、馬鹿で、暴力的で、そして兄思いなところも。

 すべてひっくるめて、笹久世 菜流未であり、ぼくの二番目の妹、未完成な妹なのだろう。

 そして。

「おはよう、菜流未、いつも朝ごはんありがとうな ――― って」

「あ、お父さん、おはよう。ああこれ? これはわざと多く作ってあるの、間違ったわけじゃなくて ―――」

「いや、そんなことではなくて ――― 君は一体誰なんだ? なぜこんな早朝に私の家に、上がり込んでいるんだ?」

「え…………もしかして父さん、ぼくのことが見えているのか?」

「父さん⁉ なぜいきなり、今日初めて出会った男に、『父さん』と呼ばれなければならないんだ⁉ おい、菜流未! こいつは一体誰なんだ?」

「え⁉ えーっと………………、そ、そう! 彼氏! 実はこの人、あたしの彼氏なんだよ!」

「「はあああああぁぁぁぁぁ⁉」」

 ぼくと菜流未の未完成な物語が幸せな終わりハッピーエンドを迎えるには、まだもう少しかかりそうなのであった。

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