第二話 妹ヌード!


? 1 ?


 どうしてでしょう。

 小学生になったわたし。

 これから、たのしいたのしい生かつが、はじまるとおもっていたのに。

 どうして ―――

 

 わたしは、小学一年生になってから、たくさんおともだちができました。

 やちよちゃん、ゆめちゃん、ようこちゃん、ららちゃん、りくみちゃん、るこちゃん、れいなちゃん、ろくろちゃん……、ほかにもたくさんできました。

 でも、女の子のおともだちはたくさんできても、男の子のおともだちはひとりもできませんでした。

 男の子は、おともだちになれません。

 みんななぜかわたしをからかってくるからです。

 とくに、クラスの、ごうがくん、さすらくん、からとくんはわたしのことをからかう ――― というより、いじめるようなことを、してきます。

 だけど、わたしは気にしていません。

 女の子のおともだちといっしょにあそんでいれば、そんなこと、わすれられるからです。

 おともだちのみんなで、いつもなかよくあそんでいました。

 おともだちのいえでおしゃべりしたり、こうえんでおにごっこをしたり、かくれんぼをしたりしました。そして、五じのかねがなったらおうちにかえる、というのが、わたしのいつもの生かつでした。

 そんなある日のことです。

 ただいまー。

 わたしはいつものように、五じをすこしすぎたじかんに、いえにかえりました。

 すると、とつぜん、

「いい加減にしろよ、禍南かな!」

 おとうさんのこえがきこえてきました。

 おとうさんが、おかあさんの名まえをよんで、おこっていました。

 おとうさんのおこったこえをきくのは、はじめてかもしれません。

「……何がよ」

「お前、今月だけで幾ら使ったと思っているんだよ!」

「……何? が生活できる分くらいは残しているんだから、何も問題ないじゃない」

 なんの、はなしでしょう。

「そういう問題じゃないだろう!」

「は? じゃあ、どういう問題なのよ」

「有意義な使い方をしているなら、まだいい。だがお前は、ホストに通うために金を使っている。俺はそういうことに、寛容であったつもりだが、ここ最近は特にひどい。家に帰って来ない時もあるじゃないか」

「うふふ。モテる女って辛いわよねえ。みんな寄ってたかって、私のことを犯そうとしてくるんだもの。ま、私も良い男に犯されるのは悪い気がしないから受け入れちゃう時もあるんだけどね」

「っ⁉ ……お前な‼」

 あの……!

 わたしは、がまんできずにとびだしました。

 もう、おとうさんのおこった、だけどどこかかなしそうなこえをききたくなかったからです。

「おお……、おかえり」

 おとうさんは、わたしのこえに気づくと、きゅうにしずかなこえにもどって、そう言いました。

「……じゃあ、私、行くから」

「おい!」

 おかあさんは、わたしになにもいわずに、出ていこうとします。

「ご飯は適当に連れて、何処かで食べておいてね。?」

「くっ……」

 おとうさんにはそういって、出ていきました。

 おかあさんは、わたしが一年生になってから、さらにわたしのあいてをしてくれなくなってしまいましたが、どうやらそれだけではなく、おとうさんにもいろいろひどいことをいっているようでした……、そういえば、わたしやおとうさんの名まえも、いまではめっきりよばなくなってしまったようにおもいます。

 すこしまえまではおとうさんのことを「香大こうだいさん」とよんで、とてもなかよくしていたのに。

 わたしのことだって ―――

 ……ああ。

 どうしてでしょう。


祝 2 也


 今、絶賛彼女持ちのぼくが言うのも何なのだが、恋愛というものは、とても面倒くさい。

 その主な要因としては、概ね『気持ち』にある。

 気持ちというものはわからないもので、そして気持ちがわからないというのは、一種の絶望だ。

 さらに自分と相手の、そのわからない気持ちというやつが複雑に絡まるので、それがふたりの間に亀裂を生じさせるか、はたまた、絶望の中での吊り橋効果的要領で逆にくっつくか、それはそのペアによって、勿論違ってくるわけだ。

 とはいえ、片方がいきなり、前触れもなしに、自分の気持ちを相手にぶつけたりしたら、両思いでもない限り、先ずは前者の方向に落ち着いてしまうだろう。両思いだったとしても、即決即断とは、もしかしたらいかないかもしれない。

 好きだったあの子に告白されたけど、今後のことを考えると、どうもむず痒くて、受け入れることが出来ない、みたいな。

 逆もまた然りだろう。

 片思いだったとしても、亀裂が生じず、むしろくっつくパターン。

 別に好きでもないあの子に告白されて、一度は断ったんだけど、あれからというもの、あの子のことが気になって気になって仕方がない、そして結局後になって付き合ってしまう、みたいな―――言っていることが矛盾しているじゃないか、と思うかもしれないが、それが気持ちというものだろう。

 気持ちは、つまり矛盾だ。

 それ程、人の気持ちというものは面倒くさい。

 恋愛というものは面倒くさい。

 とはいえ、ぼくはアニメや漫画のたぐいを見ると、つい笑ってしまう。

 主人公が愛の告白をしたら、ヒロインがそれを、必ず受け入れる ――― そんなのは、この現実社会ではあまりにもあり得ないことだ。

 それもまた、『逆もまた然り』である。

 それを、さも無理やりのこじつけでくっつけるのだから、滑稽なことこの上ない。

 そして、それはつまり自分の ――― 笹久世 祝也のことだというのだから、傑作である。

 これ程矛盾した奴、果たして他にいるだろうか?


祝 3 也


「……ん」

 どうやら、寝てしまったらしい。

 とはいえ、そこまでは寝ていないと思う ――― 時計を見ると、あれから約二時間といったところだった。

 訂正。結構寝ていた。というか、かなり寝ていた。

 もうすぐで午前授業、終わるじゃん。

 クラスの奴らはいつの間にか帰ってきていて、現在は三時限目の英語だった。

 ……英語は、マジで勘弁して欲しかった。英語は、苦手な勉強の中でも、頭ひとつ抜けて苦手だった。

 なんなら、次女の菜流未にも劣るかもしれない。菜流未もかなり頭の悪いほうだが、それ以上にぼくの英語は悲惨だった。

 多分、脳みそを全部、兎怜未に持っていかれたのだろう。菜流未の分も含めて。

 そんな愚妹たちに関する愚考をしていたら、授業が終わった。

 昼だ。

 ぼくは帰る支度を始める ――― 勿論、授業は午後もあるのだが、先程の、例の隣の女子生徒たちによると、午後は体育と技能科目(確か未千代は美術だった気がする)という、本格的にぼくが受けなくて良い授業だったので、問題なかろう。

 …………そういえば、ふと気になったことがある。

 先程、この女子生徒たちは紙を使って、ガールズトークならぬガールズ筆談に、花を咲かせていたようだったが、女子同士のお話というのは、どういったものなのだろう。吹奏楽部に所属していた(こんな身体になってしまったのだし、過去形でいいだろう)ぼくだが、妹奈以外の女子とあまりしゃべらなかったし(勿論全く喋らなかったわけではない。喋っていなかったら、女子への耐性が付かなかったからな)、当たり前だが女子同士の会話を盗み聞きする趣味もないので、そういうのには関わりが無かった。

 今のぼくは、誰にも存在を認知されない状態であり、言い換えれば、何をしても何も言われない無法状態ともいえる。

 怒られもしないし、警察のお世話になることもない。

 だから、あの紙の中身を少し覗くことくらい、なんともないのだ。

 よし見よう。すぐ見よう。

 ぼくは、小走り(英語で言うとダッシュ……、あれ、違うのだっけ)で、ごみ箱に向かい、件の紙を拾い上げた。

 さあ、果たして女の子というのは、どういう話をしているんだろう。

 ぺらっ。

 ぼくは、はやる気持ちを抑えてそれを開いた。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 …………………………捨てた。

 びりびりに破いて捨てた。

 ……何が書いてあったかって?

 それは、とてもじゃないが言いたくない。

 とりあえず、とても気分が悪くなった。疲れた。

 こりゃ、もし午後の授業が、主要五科目の小テストだったとしても帰ってただろうな。

 テスト、受けられないが。

 ともかく、さっさと帰ってゲームでもして忘れよう ――― それで、兎怜未が帰ってきたら、いつものように、追授業を開いてもらうとしよう。


祝 4 也


 そう計画していたのだが。

 人生、思い通りにはいかないものである。

 何があったか、簡潔に記すならば、兎怜未が、ぼくより早く帰ってきていた。

 兎の大きな耳のような白のリボンをいつものように付けた、銀髪ツインテールの三女 ――― 笹久世 兎怜未が。

 しかも、パンツ一丁なる姿であった。

 パンツ一丁で廊下を歩いているところを目撃した。

 パンツ一丁で、とてとてとリビングへ入っていくのを目撃した。

 白を基調とし、ピンクの縞模様、真ん中に兎さんの刺繍ししゅうが入った、それはそれは可愛らしいパンツであるのを目撃した。

 じゃなくて。

「……お前、その自宅で稀に発動させる脱ぎ癖、いつになったら治るの」

「何を言っているの、祝也兄さん」

 と、本当に何言ってんのこいつみたいな瞳で ――― くりくりとした血色の瞳でこちらを見て言う三女の兎怜未。

「裸というのは、人間のありのままの姿なの。だから兎怜未がこの姿でいるのはなにもおかしくない。むしろ、祝也兄さんが兎怜未に欲情しないようにパンツだけ履いてあげているという配慮に感謝をして欲しいくらいだよ」

「…………」

「ちなみに、兎怜未、菜流未姉さんと違って、小学生にしては発育の良いほうで、胸も少しあるから、上半身裸といっても、謎の光編集による規制によって見えなくしているから、その辺りの健全なる配慮にも有難く思って欲しいかな」

「……兎怜未。今からいくつか物申していいか?」

「? ……うん」

 ぼくは大きく息を吸う。

「お前何言ってんだよ⁉ いいかよく聞け兎怜未! 先ずお前、おれが欲情しないように全裸ではなくパンツ一丁になっている、という新事実についてだが、実の兄であるおれがお前の全裸に欲情するわけがないだろ⁉ 無論、パンツ一丁でもだが! しかし、この世の中は広くてな、全裸小学生より、何か服を着ている、所謂半裸小学生のほうが、むしろ興奮するという頭のおかしい輩がいるから気を付けたほうが良いぞ、その認識! あと、おれが菜流未のことを考えて、あえて前話において触れなかった胸の大きさについて、お前が触れちゃ駄目だろ! それこそおれの配慮が台無しだよ! どれくらい『無し』かって⁉ そんなの、菜流未の胸くらいに決まってんだろ‼ 最後に『謎の光』と書いて『編集による規制』と読むのは、まあ何か的を射た表現だったからナイス!」

 …………やり切ったぜ。

「ねえ、祝也兄さん」

「ああ? 何だ、兎怜未。おれの正論過ぎる正論に言葉も出ないか?」

「……突っ込みはもっとスマートにしないとスベるよ?」

「ぐはっ!」

 今日も、兎怜未との口喧嘩には勝てなかった。

「はい、じゃあいつもの」

「……いつもの、とは何でしょうか、兎怜未さん」

 そう、そして、口喧嘩で負けたら『いつもの』が待っているのだった。

「とぼけないでよ。決まっているじゃない」

 ご褒美……♡ と。

 そう言って兎怜未は、自室にぼくを連れて行くと、『いつもの』を始めるのだった。


「早くそこに座ってよ、祝也兄さん」

「はい……」

「じゃあ、するよ?」

「お願いします……」

「………………」

「…………あれ?」

「くふふ、ちょっと焦らしてみた」

「そんなっ……、早く……、早くしてくれ……!」

「『してくれ?』それが人にものを頼むときの態度なの? 祝也兄さん」

「……早く、してください」

「ん~? 何をして欲しいのか言ってくれないと、兎怜未何すればいいのか、わからないなあ」

「は、はやく……、おれを……、踏んづけてくだ ――― ぐっ⁉」

「はい♪ 踏んづけてあげたよ」

「いてぇ……、このドS妹が……」

「ん? 何か言った?」

「いえ! そんな! ありがとうございます!」

「わーここに妹に頭をぐりぐり踏んづけられて、よろこびにその身を打ち震わせているド変態兄さんがいるー。くふ、くふふ、くふふふ」

「くっ……、も、もっと罵ってください……」

「くふ、いいよ……、さあ、祝也兄さん! 兎怜未にもっとその姿を見せて! 兎怜未に虐められているのに必死にすがり付く、哀れなその姿を! くふふふふふ」


 もしかしたら今、変な場面が挿入されたかもしれない。

 もしそうなら、是非気にしないで欲しい。

 というか、気のせいだと思うぞ。

 いや本当に。

「ハァ……ハァ……、やっぱりこれ、やめられないよぉ……」

「おい今隠蔽工作の真っ最中だから黙っててくれない?」


祝 5 也


「で……、そろそろ真面目な話をしたいんだが」

「どうしたら兎怜未のS成分がなくなるかって? そんなのなくなるわけないよ、祝也兄さん」

「だろうな。……って、そうじゃなくてだな」

 もうその件は、黒歴史として封印した。

「兎怜未。何で今日、こんなに早く帰ってきたんだ?」

「…………」

 ……あれ?

 ここまで元気いっぱい絶好調だった兎怜未が、急に顔を俯かせ、黙り込んだ。

 行動もそうだが、言動もSで、加えて饒舌で、口喧嘩に絶対の自信を持っている兎怜未が黙り込むというのは、実は結構珍しいことである。別に今はもう口喧嘩をしているわけではないけれど。

「少し、体調が悪くて」

 数秒の沈黙の後、結局兎怜未はそう言った。

 ――― って。

「おい! 体調が悪いなら寝てなきゃ駄目じゃないか!」

「えっ」

「てか、そういうことなら、尚更そんな恰好をしてちゃ駄目だろうが!」

「あの……、祝也兄さん?」

「今すぐ熱を測りなさい! えーっと、風邪ひいたときは、スポーツドリンクとか飲むといいんだっけ? あとは、額に貼るひんやりするやつと……、待ってろよ。兄さんが今から、風邪の時の必需品をあらかた買ってきてやるから ――― ってああ! そうじゃん! ぼく……、じゃなくておれ、今物が買える身体じゃないじゃん!」

「祝也兄さん!」

「おうどうした兎怜未。ひょっとして三十九度でも超えたか? まったく。だからあれだけパンツ一丁はやめろと ――― 」

「いやいや、嘘だから」

「……はい?」

 ……はい?

 嘘?

「いやいやん、嘘だから」

「いやん?」

 いやん?

 嘘?

「はあ……、兎怜未としたことが、兎怜未の兄さんが、嘘にかなり疎いことを忘れていたよ」

「はっ……、さてはお前! ぼくの純情をもてあそんだな⁉」

「一人称崩れてるし……、少し前から既に怪しかったけど。しかも今気付いたんだ……、おまけに、言い方が若干気持ち悪いよ、祝也兄さん」

「うるせえよ! 女キャラが言わないと萌えない台詞だってのは理解してるよ!」

「もっと涙ながらに、相手に恨みの念を押し付けるように、されど何処か物寂しげで、まだほんの少し信じているよ、みたいな顔で ――― さてはお前……、ぼくの純情を弄んだな ――― って」

「弄んでるのはお前だ兎怜未! あと間違いを犯してしまいそうなくらいそそるからやめろ!」

「実の妹に性欲を抱くのはちょっと……。『実の兄であるおれがお前の全裸に欲情するわけがない』とかさっき言ってたくせに」

「じゃあ実の妹よ。実の兄を弄ぶのはやめろ!」

「やだよ。生きる意味が無くなっちゃう」

 実の兄を弄ぶことにどれだけの価値を見出してんの、この妹。

「それに祝也兄さんだって、兎怜未に弄ばれるの、嬉しいでしょ?」

「……………………」

 ……………………………………………………………………ごほん。

 話を戻そう。

「いや、そこは流石に否定してよ、祝也兄さん。これでは本当に、実の兄が実の妹に虐められて悦ぶという認識になってしまうよ。話を戻すに戻せないよ」

 言えない。

 実は最近になって、兎怜未のSっ気に、少しハマりつつある自分がいるなんてことを。

 しかし、ここは流石に否定しておきたい。

 ぼくのイメージだけならまだしも、これ以上兎怜未のイメージまで下げたくない。

「ウレシイワケガナイジャマイカ。オレハウレミニイジメラレタクナイトオモッテイルゾ」

「そんなあ……、兎怜未の兄さんって本当に変態さんだったんだ……」

 ドン引いている。

 そう、いつもはぼくを虐めることで頭がいっぱいの変態思考三女こと兎怜未だが、ちゃんとした時には、ちゃんとした思考になることが出来るのだ ――― 少なくとも、実の兄が、実の妹に虐められることに快感を覚えつつあることに対し、ドン引きするくらいには。

 あえて自分の醜態を晒すことで、兎怜未の悪いイメージを回復させる。

 まさに、兄の鑑である。

 でも兄さんとしては、渾身のギャグである『ジャマイカ』について、少しでも良いから兎怜未に突っ込んで欲しかったなあ。

 というか、マジでいい加減、話を戻そう。

「で、本当は何で早く帰ってきたんだ?」

「……祝也兄さんが気にすることじゃないよ」

「いや気にするだろ。させろよ。一応これでもお前の兄さんなんだからな」

「……何でもないよ。ただのサボり。祝也兄さんとおんなじ」

「……ふーん。なんだそういうことか」

 あれ、ぼく、こいつにサボりで帰ってきたって言ったっけ?

 まあいいか。

「でも存在が無くなったおれと違って、兎怜未は成績に響くんだから、ちゃんと授業は受けないと駄目だぞ」

「……うん」

 ? 何か煮え切らない返事だな。

「そ、それより、祝也兄さんこそいいの? 未千代姉さんに頼まれたこと、すっぽかしちゃって」

 と、兎怜未が、少々強引に、ぼくへと矛先を向けてきた。

「それなら問題ない。今日の午後の授業は、おれにとっても、未千代にとっても、どうでもいいものだけだったし、他の科目においては、優秀な家庭教師様がいるからな」

「だあれ? その家庭教師って。もしかしてまた女?」

「いや、お前以外に誰がいるんだよ。あと、おれに軽薄なチャラ男みたいなイメージを植え付けようとするな」

「そ、そっか」

 ううむ。

 やはり何かあったのだろうか。

「おい兎怜未。やっぱり何処か体調悪いんじゃないか? 体調の良し悪しって案外自分ひとりで気付くのって難しいからな。とりあえず一応熱だけでも測って ――― 」

「……ふふ」

 と。

 兎怜未が突然、笑い出した。

 S状態の兎怜未とは違って、それは純粋な笑みであった。

「本当に優しいなあ、祝也兄さんは」

「は、はあ? 何言ってんだよ。家族ってのは助け合うのが当然ってもんだろ。こんなの優しいとか優しくないとかそれ以前の問題だろ」

 こいつが急にこんなことを言い出すとは。

 やはり何かあったに違いない。

「うーん、やっぱり兎怜未、体調が悪いのかなあ」

「やっぱりそうか! じゃあ、今すぐおれが何か買って ――― って、買えないんだった。えーっと、じゃあ……」

「そんなことしなくてもいいよ。祝也兄さん」

 ん?

「どういうことだ?」

「この体調不良は、祝也兄さんに膝枕をしてもらいつつ、頭をなでなでしてもらえれば治るから」

「何だその体調不良……」

 この時点で、幾ら嘘に疎いぼくと言えど、兎怜未のこの体調不良はやはり嘘なのだと、確信できていた。

 ったく、嘘とわかっているのに、そんなことをするわけが ―――

「して……くれないの?」

「うっ……」

 なんつー表情をしてやがる。

 両手を胸の前で組み、小首を傾げ、血色の瞳に少し無色透明の涙を浮かべてこちらに上目遣いで懇願してきている。

 上目遣いは妹奈の所業だろうに。

 いや身長差的に、ぼくとほぼ同身長の未千代を除けば、大抵の女の人はぼくの顔を見るとき、見上げるように、つまり上目遣いになってしまうのだろうが。だから別に妹奈の専売特許というわけではない。

 時に、兎怜未の上目遣いは、妹奈とはまた違った印象だった。

 何というか、それは、今にもくずおれてしまいそうな儚いそれであった。

 まあ違いはどうあれ、どの道上目遣いに弱いぼくは、

「しょ、しょうがないな……」

 と、渋々兎怜未の要求を呑むのだった。

「ついでに、兎怜未への服従の証として、足を舐めてくれると、もっと早く治るかもよ。くふふ」

「そんなこと……、するわけないだろ」

「間があったのだけど?」

「うるせぇ。しないったらしない。ったく、そんなこと言ってたら頭も撫でてやらんぞ」

「ああ! ごめんなさい~!」

 兎怜未が、珍しく小学生らしい声をあげた。

 それに対しぼくは、はあ、と溜息をつく。

 しかし、その溜息はいつもの憂鬱なそれではなく、やれやれといったニュアンスで、ぼくはそんな溜息を、結構久しぶりについたような気がした。


祝 6 也


「痛えっ⁉」

 叩かれた。

 少し前 ――― 具体的には、二ヶ月程前に味わったことのある鋭い痛みだ。

 この鋭い痛み、間違いない。

 おたまだ。

 そして、料理に使う道具を暴力に使う人間など、限られているだろう。

「何すんだ……、菜流未!」

 しょぼしょぼする目でその姿を確認すると、案の定、菜流未がそこに立っていた。

 しかし、その菜流未が鬼の形相で立っているのは、全くの予想外で。

 案の定外、或いは案の場外で。

「そっちこそ何してんの⁉ 人が部活終わりで帰ってきて、自分の部屋に荷物を置きに来てみれば、シュク兄が、半裸というかほぼ全裸のウレミンを膝枕しながら、ふたり揃って寝てたんだよ⁉ そりゃ殴るでしょ!」

 うむ、そりゃ殴るわ。ぼくでも。

 兎怜未がほぼ全裸で男に膝枕されている状況なんて、なんなら相手の男を殺すまである。

「いやしかしだな、二番目の妹こと菜流未。その男というのは血の繋がった兄であるおれだ。だから一見すると異常に見えるこの状況も、実はそこまで異常じゃないんだよ」

「……そっか、じゃーいいのか!」

「いいんだ」

 こいつ、ほんと馬鹿だな。

 非リア系リア充である菜流未だが、別に何でも出来るというわけではない。特に頭は悪い。ぼくよりはまだマシ……、そのレベルだ。しかも、全教科においてテストの点は平均点の半分より少し高めという、教師からしてもギリギリ赤点を付けることが出来ない位置にいるから、質が悪い。

「でもほら、あたしが帰ってきたんだし、いつまでもそこで寝てないでよ」

「ああ、悪い」

 てか、また寝てたのか、ぼく。

 しかも昼辺りから、菜流未が帰ってきた現在の時刻からするに、午前の時よりもさらに長時間寝たことになる。

 何処かの昼寝好きで眼鏡の小学生の少年でも、一日にこんなに寝ないのではないだろうか。

「おい、兎怜未起きろ。こんな恰好で寝たら本当に風邪ひくぞ」

「……うう、まだ寝たいよ~」

「お前のそのギャップは何なんだ」

 流石に何処かの未千代のようにキャラ迷走とまでは言わないが、大人ぶった発言(主に自覚無しの下ネタ)やら、ドS発言やらをするかと思えば、小学生らしい我儘わがままな発言もするので(むしろこれが本来の小学生のあるべき発言であり、姿であるのに、この発言が一番少ない)、色々頭が混乱する。勿論、実の妹であるので、混乱するとはいえ、ギャップ萌えだけは絶対しないことは確かなのだが。ていうかこう、改めて兎怜未のキャラを列挙してみると、やっぱりキャラ迷走をしていると言ってしまっても良いのではないか、という気分になってくる。

 とりあえずぼくは、嫌がる兎怜未を強引に起こして、その辺のハンガーにかかっていた趣味の悪い兎のコスプレ衣装みたいな部屋着をこれまた強引に着せた。その際「あぁ……、強引にするのは兎怜未の役なのにぃ」とか言っていた気がするが、気のせいに決まっているので、これ以上の追及は避けておくことにする。

「あ、そういえば兎怜未。今日の分の授業教えてくれよ。寝込んじゃったし、早めで」

「いいけど……、いい加減、高校生が小学生に、勉強を教えてもらうことに、恥ずかしさを覚えたほうが良いよ」

「問題ない。日頃からお前には恥ずかしくも、辱められている」

「……そっか、じゃーいいのか!」

「いや良くねーよ?」

 先程の菜流未の時とは、似ても似つかない状況である。

 いや、菜流未とのあのやりとりも、決して良くねーのですがね。

「まあどちらにしろ、少し時間はかかるよ。兎怜未が祝也兄さんの持ってくる問題を解く分には一瞬だけど、それを馬鹿に、もとい祝也兄さんにわかるように説明するのが難しいからね」

 それはどうもお手数かけてすみませんでしたね。

 てか、もう突っ込まなくてもいいかもしれないが、小学生が高校生の問題を一瞬って言いましたよ(そしてわたしを馬鹿と罵りましたよ)。

 ホントこいつ、脳内はハイスペックだよなあ、他が色々欠落し過ぎだが。

 未熟な妹だが。

「……じゃあ、それまで適当に部屋で何かしてっかな」

 ぼくはここで当初の予定のひとつであったゲームをしようかと、考えていたのだが、

「待って」

 ぼくの思考を遮ったのは、菜流未の声だった。

「シュク兄、暇なら少し手伝って欲しいことがあるんだけど」

 ふむ。

 三愚妹の中でも、特にぼくを嫌っている菜流未が、ぼくに何かを要請するとは、珍しいこともあるもんだ。

「何だよ? 手伝って欲しいことって」

「うん。とりあえず、ウレミンの邪魔になるとアレだし、一階で話すよ」

「ああ、そうだな」

 ぼくは、じゃあ兎怜未頼んだぞ、と声をかけ、任せておいて祝也兄さん、という兎怜未の返事を聞いてから、リビングへと向かった。

 身体はちっこくても、何とも頼もしい、それは返事だった。


祝 7 也


 さて、リビングである。

「で、改めて言うが、手伝って欲しいことって何だ?」

 ぼくは恐らく反抗期真っ盛りである菜流未を、できるだけ刺激しないような言葉を選ぶように心がけつつも、いきなり本題へ切り込むように、そんな反復確認から入った。

「うーん、手伝って欲しいって言うか、頼み事って言うか、相談事って言うか、なんだけど」

「どれでも変わらん気がするけどな。で、その内容は?」

「う、うん……、あの……、えっとね……」

 ん?

 あの菜流未が、何か言いにくそうに口籠くちごもっている。

 これまたかなり珍しいことだ。

 いつもは考えなしにどんどん発言をする奴が、こうも口籠ると、とても心配になる(まあつまりはマシンガントークの次女も核弾頭トークの三女も静かになるということは、どちらにしても気味が悪いということである)。もしかすると ――― ぼくは兎怜未が風邪をひくかもしれないと心配していたが、実は菜流未が風邪をひいていました、というオチなのか?

 いや、そうじゃない。先程こいつは、遠慮ないパワーで、ぼくのことを、おたまでぶん殴りやがったので、その線は薄いだろう。となると、考えなしに発言する奴が口籠るくらいに深刻な頼み事、相談事がある、と考えるのが妥当であろう。

「そっか……、すまなかったな、気付いてやれなくて……」

「……え?」

 ぼくは居た堪れなくなり、思い当たった節を述べるのだった。

「お前、学園でいじめられてるんだろ!」

「……はい?」

「どうしてもっと早く言わなかったんだ! ああ、そうだよな。お前、家では普通な扱いだけど、学園では一二を争う人気者だものな。そりゃあお前の人気を恨めしく思う奴もいるかもしれない。だが安心しろ菜流未! そんな奴はこのシュク兄が消してやるからな! 人に触ることはできないが、適当にその辺にありそうな鈍器でそいつの脳天を ――― 」

「いやいや待ってよシュク兄! 落ち着いてってば!」

 あたし、別にいじめられたりはしてないから ――― 菜流未は、手を顔の前で横に振りながら言った。

「ミチ姉の言ってたこと、本当だったんだね」

「ん? 未千代が言ってたこと?」

「うん。『祝也さんの思い込みの激しさは天をも穿うがつ』って」

 すげえダサい厨二病発言だな、それ。

 流石に天は穿たないだろ。

「大体あたしをいじめるような人がいたら、その人がただじゃ済まされないって」

「……どのようにただでは済まないので?」

「んー……、あたしのファンクラブの人たちが、シュク兄より先にその人を消すんじゃないかな」

 先ずお前のファンクラブがあるということを知らなかったし、何その過激派組織。

 海外の人たちもびっくりだよ。

「まああたしは平和に暮らしたいから『そういう過激なことはしないでね』って釘を刺してはいるんだけど、そういうみんなを気遣う心がまた美しいとか何とかで、尚更あたしの周りのガードがキツくなっていくんだよ」

「お前よく他人事のように言えるなそれ」

 普通、人に褒められたという話は、自分から進んで話すものではないと思うのだが……。

 もしかして、自分が褒められている自覚がないのだろうか。

 つまり、馬鹿なのだろうか。

「じゃあ、何だって言うんだ? いじめじゃないなら、他に何がお前を悩ませるって言うんだ?」

「そ、それは……」

 言ったきり、菜流未はまたも黙ってしまう。

「やっぱ何でもない!」

「……は?」

 何だそりゃ。ここまで引っ張っておいて、今更それはないだろ。

「そんなことないだろ。いいから話してみろって」

「なんでもないったら何でもないの!」

「だから、お前がそうやってはぐらかしている時点で、既に十分何かあったってことなんだよ」

「う……、どうして」

「何年お前の兄貴やってると思ってんだよ。それくらい、わからないほうがおかしいってもんだぜ」

 だから。

「だから、話してみろって。そりゃ今はこんな状態だし、おれが出来ることは何もないかもしれないが、話くらいは聞いてやることができるさ」

 我ながら、安っぽい台詞を言っているという自覚はあるが、下手に説得するよりは無難で良いだろう。

 まあ、安っぽ過ぎて、恰好は良くないかもしれないが。

「……はあ、やっぱシュク兄には敵わないなあ」

 とはいえ、相手が考えることを苦手とする菜流未なので、やはり難しい説得は、必要なかったようだ。

「じゃあ ――― 」

「でもやっぱゴメン。話せない」

 なんでやねん。

「今はちょっとまだはっきりしていない状態で……、だからはっきりしたらまた相談する!」

 何がはっきりしてないのか、はっきりするのかが、こいつの言うことからでは、一切情報を得られなかったが(つまりこいつの語彙力がないということなのだが)、要するに時が来るまでお預けだということらしい。

 だからこそ、後先考えずに口走る、菜流未らしいと言えば菜流未らしい所作であり、処置だ。

「わかった。でも何か厄介なことが起こったらしっかり言うんだぞ」

「はあ、まったく。そこまで過保護になられたら鬱陶しいってば」

「はあ? せっかくこっちはお前を心配してやってるって言うのに、何だよその態度は」

 てか過保護というかお節介代表みたいなお前がそれ言う?

 こちとら、飯の件でお前に冷たくされてるんだから、そもそも相談を聞いてやる義理なんて、全くないんだぞ。

「何よ!」

 そう言って、ぼくらは互いに睨み合う。

 これがぼくと菜流未との日常である。

「でも………………、ありがと。こんなあたしを心配してくれて」

「え」

 これは非日常だ。

 ぼくの存在が認知されなくなってしまったことより、非日常なことが起こった。

 菜流未がぼくに、感謝をした。

 恥ずかしがるように放たれたその言葉に対し、ぼくはわけがわからず、唖然としてしまう。

 そんなぼくの腑抜けた表情に気付いたのか、菜流未は、

「か、勘違いしないで! あたし、最近特にシュク兄に冷たくしちゃってるのに、それでも変わらず優しく接してくれるシュク兄に、ときめいたり、心を奪われたりなんかしてないんだからね!」

 なんて台詞を口にした。

「おお……、やっぱり本家は違うなあ」

「ほ、本家って何よ!」

 ぼくは、二ヶ月前に、エセツンデレを披露していた未千代を思い出して言った。

 なぜ本家より先に披露したんだ、未千代。

「いや、仮に、あたしの属性がそうだとしても、流石に『本家』と言われるのは荷が重過ぎるよ……、あたしなんかよりもっと有名なツンデレの人なんて、この世にゴマンといるでしょーよ」

 意外に謙虚な次女であった。或いは、学園ではこんな風に振舞っているのかもしれない。

「じゃ、話はひと先ず終わりってことだな?」

 ぼくは今度こそゲームに勤しもうと、リビングを出ようとしたのだが。

「ちょっと待って。今のこととは全く関係ないことで、もうひとつ訊きたいことがあるの」

 またも呼び止められた。

 今度は何だって言うんだ?

「さっきのシュク兄とウレミンのことなんだけど」

「はい? いやあなたさっき納得されていたじゃないですか。どうしてその話を蒸し返すのですか」

 マズい。不意打ち過ぎて変な言葉遣いになっちゃった。

「いや納得はしたんだけど、どうしてそうなったのか、その経緯が知りたくて」

「ええ……、別にそんなことどうでも良くないか」

「いいでしょ、教えてくれたって。それとも何? 本当はさっき、あたしを上手いこと言い包めておいて、実はウレミンと何かしてたとかそういうことなの?」

「いやマジで何もしてないって……」

 何か、とりあえずすごい疑われているので、ここは正直に白状したほうが、身のためのように思えた。

 勿論『あのプレイ』のことを言うわけにはいかないが。

「ただ、兎怜未に膝枕をしながら頭を撫でて欲しいって言われたから、その通りにしていたら、そのままふたり揃って寝落ちした……、ってだけだ。どうだ、これで満足か?」

 正直に言って「本当にそれだけだったの?」と追及されていたら、嘘をつけないぼくとしては、お手上げだったのだが、

「膝枕……、頭を撫でて……、羨ましい……」

 と、なんだか急に菜流未が上の空になったので、その心配は杞憂に終わった。

 ……今なんて?

「羨ましい!」

「おお、はっきり言い直してくるとは予想外」

「あたしにもして!」

「やだ」

「何で⁉」

 いやこっちが「何で⁉」だよ。

 なんでやねん、だよ。

「おれ、お前のこと嫌いだし、お前もおれのこと嫌いなんだから、そんなのする意味がわからん」

「うう、別にあたしは ――― 」

「嫌いじゃない、とか言うなよ? 今まで散々おれに迷惑かけてきたくせに」

「それは、そうだけど……」

「だけど、何だよ?」

「~~~‼」

 あれ、流石に怒らせちゃった?

「よしわかった。勝負しよ! シュク兄」

「何がわかった。そしてなぜ勝負しなきゃならん」

 ホントこいつの考えてることは、未千代や兎怜未とは全く違うベクトルでわからん。

「あたしたち笹久世兄妹は、お互いの意見がぶつかったとき、勝負をすることで解決してきたじゃない」

「そうだったかな」

「ウレミンとは口で、そしてあたしとは、体を張った勝負だよ!」

 それ、勝負じゃなくてただの喧嘩では。俗に言う「やんのかコラ」ってヤツでは?

 だが。

「ふん、まあいいだろう。お前はどうせぼくには勝てないさ」

「ぬぬぬ……、自信たっぷりみたいだね」

 ぼくは運動が嫌いだが、これでも鍛えているので(矛盾していると思われるかもしれないが、矛盾こそが笹久世 祝也の一番の特徴であり、なおかつ十八番である)、ちょっとやそっとのことでは、普通の女の子であるの菜流未に負けることはない。

「それで、自信たっぷりなところ悪いんだけどさ、シュク兄」

「どうしたナルミン」

「シュク兄って一回でもあたしに勝ったことあったっけ?」

「ないな」

 残念ながら、彼女の身体能力は普通ではないので、いつも負けている。

 あれ? ぼく、妹たちに全敗してない?

 兄としての威厳もへったくれもないな。

「じゃあ何か可哀想だし、シュク兄が勝負内容決めていいよ」

 挙句の果てに、妹に情けをかけられた。死にたい。

「それなら、運動以外の勝負にしてくれ。それなら何でもいい」

 そして、それを甘んじて受ける兄が、そこにいた。殺したい。勿論自分を。

「えーそれはあたしたちの勝負の根本が……、うん? でも……」

 と、珍しく何か考え込んでいる様子の菜流未。

 そして、待つこと数秒。

「じゃ、じゃあこういう勝負はどう?」

 菜流未の提案に、ぼくは耳を傾ける。

 そしてその内容を聞き終えたとき、ぼくは思わず突っ込んでしまった。

「いや、お笑い芸人かよ」


祝 8 也


 熱湯風呂。

 である。

 通常、風呂の温度というのは四十度前後だと思うが、今回用意した風呂の温度は約五十度。

 一般家庭でその温度の風呂が用意できるのは、正直そこに住んでいるぼくでも驚きだったが、そこはともかく。

 ルールは簡単だ。

 先攻後攻を決め、より長く入っていたほうの勝ち……、というものだ。

「あたしの頭じゃ、運動以外で体張るって言われたらこれしか思いつかなくて」

「体張るってそういう意味じゃないと思うんだけどな。いや知らんけど」

 完全に間違っているとも言い切れないが。

 意味的には、むしろ運動するより体張ってるし。でもそういう意味ではないともやはり思う。

「じゃあ、あたしが先攻でいい?」

「まあいいが……、無理すんなよ?」

「ふふん。そんなこと言って、あたしに驚異的なタイムを出されるのが怖いんでしょ」

「いや普通に火傷したら何かと大変だろ」

 ちなみに、わざわざ言わなくても良いことかもしれないが、風呂に入るわけなので、現在ぼくと菜流未は、ふたりとも裸 ――― 全裸である。

 芸人さんとかは、テレビの都合上、全裸で出るわけにはいかないが、ぼくたちには、三女風に言うならば何処からともなく現れる湯気編集による規制が辺りを取り巻いているので、問題ない。

「では、行きます……!」

 細かいルールとして、肩まで浸かったところから、タイム計測スタートである。そして、浸かっていないほうが、ストップウォッチでタイムを計測する。

 そのルールに関して、ぼくはある秘策を練っていたのだが ―――

「あっっっつううううううううううい‼」

 一瞬で飛び上がった。

 菜流未さん 記録:測定不能。

 ぼくの秘策は、どうやら不発で終わったらしい。

 発動する必要が無かった。

「はっはっは。馬鹿め。これでおれの勝ちは約束されたも同然だな」

「ちょ、ちょっと待ってよ! シュク兄!」

 菜流未がシャワー(冷水)を浴びながら、ぼくにさらなる提案をしてきた。

「何だ。聞いてやるから、その冷水をこっちに弾かせるな」

 ぼくはまだ、熱湯に入っていないので、ただただ体温が下がり、寒くなるだけである。

「これ、ヤバいって。人の入るお風呂の温度じゃないって」

「そんなこと、とっくに知っているのだが。何だお前、ひょっとして馬鹿なのか」

「馬鹿じゃないやい! だからもう少し温度を下げて再戦しない? 多分このまま続けても、シュク兄も測定不能になりそうだし」

「わかった、良いだろう。だから冷水をこっちに弾かせるな」

 寒いわ。熱湯を前にして言うのもなんだが。

 というわけで。

 ぼくと菜流未は、お笑い芸人のド根性に感服しつつ、温度を下げて再戦することにした。

「四十五度……、これくらいなら大丈夫かな」

 そう呟いて深呼吸を始める菜流未。

 冷水を浴びた後、普通の温度のシャワーも浴び、体温は元に戻ったらしく、果敢にも再び先攻をとった菜流未は、もう馬鹿を通り越して普通に尊敬の念を感じざるを得ない。

「じゃあ、今度こそ行きます!」

 ざぶん、という音とともに、菜流未は湯船につかる。

「うぅ……、やっぱり熱い……!」

 そうは言ったものの、先程と違い、何とか肩までつかることに成功した菜流未。

 ぼくは、ルール通り、ストップウォッチを ―――

 ……ふっふっふ。

 かかったな、菜流未!

 これこそがぼくの秘策!

 すなわち、菜流未が風呂に肩まで浸かっても、数秒の間、タイム計測をしないというものだ!

 要するにイカサマだ。

 だから今頃、読者がぼくにブーイングを送っているのであろうが、それはおかしいのだ。

 こういうのはバレなきゃ何をしてもいいというのが世の常だ。

 そう、この世界は残酷で醜い競争社会の上で成り立っている。

 それがたとえ、この熱湯風呂対決であったとしても!

「うう……、熱い……、熱いよぉ……」

 それから数秒が経ち、そろそろいいだろうとストップウォッチの計測を開始させたとき、再び菜流未がそんなことを呟いた。

「はぁはぁ……、熱いよぉ、苦しいよぉ」

「お、おい菜流未?」

 にしても何か、本当に苦しそうな表情を浮かべている……。

 顔も真っ赤になっているし。

「だ、大丈夫か?」

「ううう……」

 まさか……、返事をすることもままならないような状態なのか?

 そして遂には。

「しゅ、シュク兄ぃ……、た、助けてぇ……」

「菜流未‼」

 ぼくはなんて馬鹿なことをしていたんだ。

 目先の勝負にばかり気がいっていて、妹の身体の異変に気付いてやることが出来なかった。

 このままでは火傷どころでは済まない。

 病院行きは免れない。

 そうしたら、完全にぼくの監督不行き届きだ、もう、菜流未を馬鹿だとも言えない。

 未千代も、兎怜未も悲しむだろうし、誰よりも一番、菜流未が悲しむし、傷付くだろう。

「菜流未‼」

 ぼくは再び次女の名を呼び、手にしたストップウォッチを放り投げ、その手を差し伸べる。

 ――― しかし。

「…………ふふ、かかったね、シュク兄」

「なっ ――― 」

 菜流未は不敵な笑みを浮かべたと思いきや、差し伸べたぼくの手を自分の手でガシッと掴んで、立ち上がった。

「あたしの記録はこれでおしまい。そして後攻のシュク兄 ――― 」

 咄嗟に引っ張られまいと抵抗したが、菜流未の力に敵う筈もなく、ぼくはそのまま引き込まれる。

 そう、熱々の熱湯風呂の中へ。

「スタート!」

 ざぱーん。

「あっっっちいいいいいいいいいいい‼」

 ぼくは肩まで浸かるどころか、全身でその熱湯風呂を堪能することとなり、予想外の展開と、思っていた以上の熱さで、反射的に湯船から飛び上がってしまう。

 人間というのは、元々予想外の展開というものに弱い。心構えをしていたら熱湯風呂に入っても耐えることが出来ただろうが、不意打ちで急に熱湯風呂に突っ込まれたら、反射的に逃げ出してしまうものだ。さらに、ぼくは冷水によって元々体温が下がっていた。だから、菜流未が耐えうることが出来た現在の温度が、菜流未より熱く感じ、それも我慢が出来ない要因となったのだろう。

 やられた。

 まさか馬鹿の菜流未が、ここまで緻密な作戦を企てていたとは。

 ぼくは素直にそう思った。

 とはいえ、だ。

「おい、菜流未! 今のは反則だろ!」

 ぼくは冷水を浴びながら、文句を垂れる。

「えー? 反則なんてあった?」

「あっただろ! 本人の意にそぐわないタイミングで風呂に突き落とすなんて ――― 」

「誰もそんなことしちゃ駄目なんて言ってないじゃない。ていうか言わせてもらうけど、シュク兄のほうこそ反則してたよね」

 ほら、これ。と、菜流未は床に落ちたストップウォッチを拾い上げ、それを横に振った。

 まさか……、気付かれていたのか⁉

「気付かないわけがないでしょ。あたしが入った数秒後に思いっきり『ピッ』って音鳴ってたし。つまりシュク兄は、その時に計測を開始したってことじゃない」

 なんてことだ。

 笹久世 祝也。詰めが甘過ぎる。

 ともかく、ぼくはどうやら、また敗北したようだった。

「……わかった。今回はシュク兄の負けだ。膝枕も頭なでなでも全部してやる」

「ホントに⁉」

「ああ、男と兄に二言はない」

「あ……、でも……」

 と、ここでまたも菜流未が何やら考え込み始める。

 こいつ、実は頭のほうも結構良かったりするのではないだろうか。馬鹿だけど。

「ねえ、シュク兄」

 その考えが纏まったのか、菜流未はぼくに話しかけてくる。

 何やら嫌な予感がしたが、無視するわけにもいかず「何だ?」と応答する。

「女の子と妹には二言があっていいよね?」

 人差し指を、頬に当て、小首を傾げながらウインクをするという、なんともあざといポーズで菜流未はそう言った。


祝 9 也


 単刀直入に言うと、ぼくが菜流未に膝枕をしたり、頭を撫でたりすることはなかった。

 代わりに、そのまま一緒にお風呂に入り、ぼくが、菜流未の髪や身体を洗う、という内容に変わった。

 つまり、よりハードな要求をされた。

 ぼくとしては、実の妹とはいえ(というか、実の妹だからこそ)、年頃の女の子の、入浴、髪や身体を洗う描写など、恥ずかしいから、記したくないのだが、これ以上読者諸君のブーイングに耐える気力もないので、妥協する。

 サービスタイムである。

「ふう、やっぱお風呂は普通の温度に限るね~」

「普通じゃない温度で入る人のほうが少ないと思うけどな」

 先ず、ぼくたちは、風呂から入った。勿論、温度を適温に戻して、である。

 銭湯や温泉なんかでは、先ず身体を洗って、その次に風呂に入るのがマナーであると思うが、自宅の風呂なので、そういうことはいちいち気にしない。

「……おい」

 そんなことよりも、現在進行形で気になることがひとつ。

「どうして、ふたりくらい広々と使えるこの湯船で、お前はおれにくっつくように入っているんだ?」

 具体的に言うと、ぼくが湯船に足を広げて浸かり、その足の間に、ちょこんと菜流未が座って、ぼくの身体にその身体を預けているといった感じだ。

「実の妹とはいえ、地肌をダイレクトで感じるのは、純情を絵に描いたようなおれとしても少々刺激が強いんだが」

「その発言が既に、不純そのものだよ、シュク兄」

 ぼくの純粋な発言に、菜流未は、振り返りながら、そんな失礼極まりないことを言う。

「不純というなら、お前のその行動のほうがよっぽど不純だと思うんだが? 何だお前、実の兄を誘惑してんのか?」

「そ、そんなわけないでしょ! ただ…………、そう! シュク兄が、さっき熱湯から出て、冷水シャワーを浴びてるときに、その冷水があたしに当たってて、寒くなっちゃったから、こうやってくっつけば、普通にお風呂に入るよりも、あったかくなるかなって……」

「…………」

「……うう」

 …………。

「そうかそうか! 確かにあの冷水、普通に浴びたら寒いもんな! 悪かったな、変なこと言って」

「シュク兄……、そこまで行くと、嘘に疎いとかの前に、ただの馬鹿なんじゃないかと思えてくるよ……」

 ? 確かに、高校三年生のぼくが、中学二年生の菜流未と、どっこいどっこいの知能な件については、危機感を覚えるところではあるが。

 あれ、でもそういえばあの時、確か菜流未も熱湯に入った直後だったのではなかったっけ?

 それなら、別に身体が冷えるとは思えないのだが ―――

「そっちがそんな暢気のんきに構えてるなら ――― えいっ!」

「うわっ⁉」

 ぼくが、先程の熱湯風呂対決のことを思い返していたら、何かよくわからないが、突然、菜流未が、ぼくに抱きついてきた。

「お、おい……、や、やめろって」

 ぼくは、少なからず動揺する。

 こんな腹の立つ妹でも、ちゃんとした女の子であり、菜流未から、その女の子特有の甘い香りが仄かに漂ってくる。

「あれ? シュク兄、もしかして、動揺してるの?」

「そ、そんなこと……」

「そうだよねぇ。ちょっと寒いからという理由で抱きついただけなのに ――― そもそも、シュク兄は、あたしのことが嫌いな筈なのに、動揺する意味がわからないよねぇ」

「そ、そそそそそ、そうだぞ、菜流未。変な勘違いをしてもらっては困る」

「うん、わかってるわかってる。でもその割には『そ』が、多かった気がするのだけど? そんな言い方だと、まるで、シュク兄が、嘘をついているみたいじゃない」

 勿論嘘だ。

 だから、菜流未に一瞬で嘘を看破されるのは、想定の範囲内ではあるのだが、そのを知られるわけにはいかない。

「菜流未 ――― 」

「へっ ――― 」

 ぼくは、ぼくの身体を抱きしめた菜流未のを確かめたくて、包むように抱きしめ返す。

「ちょ、ちょっとシュク兄。だ、駄目だよ。あたしたち、兄妹じゃない……、確かに、今回は先に仕掛けたあたしに非があるけど、それは、シュク兄が間違いを犯さないと信じていたからであって ――― 」

 ぼくの動揺は確信に変わる。

 こいつ、マジで胸が無えええええ‼

「ごふっ」

 腹を殴られた。

「あーごめんごめん。何か、とても不快になる感情をキャッチしたから、ついついぶん殴っちゃった」

 水(お湯)の抵抗があってこの威力 ――― 普通に喰らっていたら、マジで肋骨あばらぼね何本か持ってかれてたな、これ。

「死ぬかと思った……」

 これ程日常的な状況で(妹と一緒に風呂に入るのは果たして日常的なのか、という問いは棚に上げておくとして)死に目に会うような奴もなかなかいないだろう。

 さておき、そろそろ次なる話題を展開したいところである ―――

「なあ、菜流未」

「……ふんっ。シュク兄なんてもう知らないっ」

 のだが、今ので、すっかりご機嫌が、四十五度よろしく斜めになってしまったらしい菜流未は、全く取り合ってくれなくなってしまった。

 おかしいな、もう風呂の温度は四十五度ではなくなっているというのに。

「悪かったって。小さい胸も魅力的だと、シュク兄は思うぞ?」

「ぜんっぜんフォローになってない!」

「悪かったって。無い胸も魅力的だと、シュク兄は思うぞ?」

「フォローする気がないんだね、そうなんだね?」

 そういう菜流未の剣幕は、漫画特有の擬音でいう『ゴゴゴゴゴ』という音が聞こえそうな感じになっていた。

「次はシュク兄の顔面に、パンチを繰り出してもいいんだよ?」

「すみませんでした。調子乗りました。わたしにすべて非があると認めるので、どうかその振り上げた拳をおろしてください」

「頭を撫でてくれたら許す」

「いやそれはちょっと……」

「え⁉ そこはやってくれるところでしょ⁉」

 だって、兎怜未と被るじゃん。

 それに。

「膝枕と頭を撫でる代わりに、お前との入浴、そして身体を洗ってやるのを許可したんだ。それじゃ約束の意味が無くなっちゃうだろ」

「そうだけど……、やっぱり頭撫でて欲しいよ~」

 本当、何なのだろうか。

 ぼくの三人の妹は、頭を撫でられることが、三度の飯より好きらしく、しばしばこうやって強請ねだられることがある。

 そんなに撫でて欲しいなら、父さんにでも強請れ、といつも言っているのに、全く言うことを聞かない。

 うーん、でも。

 こいつの場合だけは、少し、というか、かなり久しぶりだな。

 そう、元々こいつとはかなり疎遠だったわけで(だから、改めて言わせてもらうと、こいつが久しぶりにまともに話しかけてきて、さらに相談事を持ちかけてこようとしたり、今こうして一緒に風呂に入っていたりすることが、とても不思議でならない)、だから、頭を撫でて欲しい、という強請りも、当然なかったわけだが……、最後にこいつの頭を撫でてやったのはいつだっけ?

 ――― ああ、思い出した。二年前だ。しかもあれは、確かこいつに強請られたわけでなく、自分から撫でてやったのだっけ? その辺りの細かいことは、二年前のことだし、はっきりとした記憶として残ってはいないのだがしかし、当時の状況は、結構鮮明に覚えている ――― 当時、ぼくは妹奈との関係について、菜流未に成り行き上とはいえ、相談を持ち掛けたことがあり、その際、菜流未は意外にも真剣にぼくの悩みを聞いてくれたからである。

「あ ――― そういえば」

 当時のことで、ひとつ、菜流未に訊いてみたいことがあったのだ。

 まさか、訊くのが二年後になるとはな。

「ん、どうしたの? シュク兄」

「お前、好きな人とか、いんの?」

「はあ⁉ な、ななな、何よ⁉ 突然」

 ざばーん、と菜流未が飛び上がる。

 ようやく肌の密着が解除された瞬間である。

「いや、ちょっと昔に訊いてみたかったことを、今訊いてみただけなんだが……反応から察するに、いるのか?」

「む、むかし?」

 小首を傾げる菜流未に、ぼくはこの質問に至った経緯を説明する。

「ああ、なるほどね。そういうこと……」

「で、二年越しに訊いても意味がないと思ったけど、興味本位で訊いてみた、というわけなんだが……、どうなんだ?」

「い……、いないよ。そんな人」

「そうか」

 流石は、非リア系リア充、といったところであろうか。

 まあ、確かにここまでの人気者になってしまうと、恋愛とか恋とか、そういうのにかまける暇はないだろうし、逆にそんな奴に告白をしよう、なんていう無謀な男子も現れないだろうしな。

 仮に現れたとしても、ぼくは絶対に交際を認めないがな。

 我が妹を、何処の馬の骨かもわからぬ輩に渡すなど、出来るわけが無かろう?

「…………」

「……菜流未?」

「ふぇ?」

「いや、ぼうっとしてどうした?」

「え? い、いや、何でもない。何でもないから」

「そ、そうか」

「それよりほら、そろそろ洗って欲しいんだけど」

 ぼくは、菜流未の様子に、一抹の不安を覚えたが、考える前に菜流未にそう言われ、ぼくらは湯船から上がる。

「じゃ、じゃあ髪から洗うぞ?」

「う、うん。よろしく」

 しゃかしゃかしゃか。

「……ん。シュク兄。ちょっと強い」

「え? あ、悪い」

「うん……」

 しゃかしゃか。

「…………」

「…………」

 何か気まずい!

 やはり、先程の質問のことで、物思うことがあったのだろうか。

「…………」

「…………」

「………………」

「………………」

「…………………………おい、菜流未」

「ひゃい⁉」

 ひゃい、って。

「あのさ、とても気まずいから何か話題を振って欲しいんだけど」

「え? そ、そんな気まずかった? あたしはそんなこと、思わなかったけど」

「いやお前、急に黙るからさ。何だ、痒いところでもあるのか?」

 床屋とか美容室で、しばしば「痒いところはありますか?」と訊かれることがあるが、なかなか「あー〇〇が痒いです」とは言えないしな。

「別にそういうわけじゃ……、むしろ、あたしが強いって言った後の、シュク兄の手の強さがとても気持ち良かったくらい。だから黙っちゃったのかも。うん、そうに違いないよ、うん」

「そ、そうか……」

「うん! 女子の髪は命と同じくらい大事だからね。シュク兄はそれがわかってるみたいだね」

「いやお前、自分の髪、結構雑に扱ってるよな」

 周りに良い恰好をしている ――― つまり猫を被っている菜流未だが、髪だけはいつも乱雑なポニーテールに結んでいる。

 いや、一般的なポニーテールなら否定する気は毛頭ないが、何と言うか、菜流未のそれはもう、ポニーテールを開発した人に謝罪を述べなければならないレベルだからなあ。

 せめてもう少し綺麗に纏められぬものなのか。

「ほら、しっかり洗ってやれば、お前も綺麗な髪になるんだからよ」

 ぼくは洗い終わった髪をシャワーで流しつつ、言った。

「う、うん……、ねえシュク兄」

「何だよ」

 ぼくが訊くと、菜流未はぼくのほうを振り向き、

「シュク兄は、綺麗なあたしのほうが好きなの……?」

「は、はあ?」

 何を言い出すかと思えば、そんなことを訊いてきた。

「ま、先ずおれはお前のこと嫌いなんだし、その質問はおかしいだろ」

「そ、そうだよね! あ、あたしも嫌いなシュク兄に何訊いてんだろ。たはは……」

 菜流未は、少し悲しそうな顔を見せ、前へと向き直ろうとする ――― なぜ悲しそうなんだ?

「でも、よ」

「え?」

 ぼくが言うと、菜流未は再びぼくへと振り返った。

「まあ、何だ、たまにはお洒落をした菜流未も見てみたいとは思うけど」

「そ、そう……」

「ああ。じゃあ次は身体、洗うぞ」

 流石に前のほうは洗うわけにはいかないので、背中辺りから開始しようかと思ったのだが。

「しゅ、シュク兄……」

「今度は何だ?」

「やっぱり痒いところあった」

 はあ?

 髪を洗い終わってからそんなこと言われても困るのだが……。

「か、が、痒いの」

 …………。

 サービスタイム、終了です。


祝 1 0 也


「ただいま戻りました、祝也さん」

 夜もそれなりに更けてきた頃、珍しく遅く帰ってきた未千代が、ぼくの部屋を訪ねてきた。

 風呂騒動の結末は想像に任せるとして、あの後、ぼくは未千代の用意してくれていた晩飯を食べ、兎怜未に授業の復習を手伝ってもらい、沢山寝た割に今日はとても疲れたので、折角の空き時間も、ゲームを一切せずにベッドに寝転がっていた ――― 寝入りはしなかったが。

「おかえり。遅かったな」

「はい。祝也さん。私、今日も一日頑張りましたので、ただいまのキスをください」

「お前はぼくにこれ以上の疲れを溜め込ませる気か。駄目に決まってるだろ」

「では、ただいまの結婚をしてください」

「帰宅からの結婚とか初めて聞いたわ。もっと駄目だ」

「では、ただいまの既成事実は?」

「なぜお前は結婚が駄目なのに、既成事実はイケると思ったんだ……?」

 この程度のやり取りはまあ、正直慣れてしまったので、疲れはしないのだが。

 ……慣れとは恐ろしいものである。

「時に、祝也さん」

 そしてどうやら、こちらも断られることに、やはり慣れたらしい未千代が、さっさと話題を変えてくる。

「先程、祝也さんは『これ以上疲れを溜め込ませるな』というようなことを仰っていましたが、何か疲れが溜まるようなことがあったのでしょうか?」

「え? ああ、まあな……」

 兎怜未のほぼ全裸、菜流未の全裸と、一日で妹ふたりの裸を見たことにより目が疲れ、兎怜未を長時間膝枕したことにより足が疲れ、菜流未をくまなく洗ったことにより手と腕が疲れた。

 そのことを、未千代に言おうか迷ったのだが、例のように、隠してもバレるので、正直に言うことにしたのだった。

「なるほど。つまりそれは私も裸になれば良いというわけですね。そしてあわよくばそのままふたりで美しい初夜を ――― 」

「違います。違うので、服を脱ごうとしないでください」

 流石に、一日に三愚妹全員の裸を見るのは刺激が強過ぎる。

 今まで何とかギリギリを責めていたのに、遂にR-18になってしまう。

 モデルの身体ともあって、下ふたりに比べたら、断トツでスタイル良いからな。

 …………。

 ………………。

「でも、祝也さん。?」

「……やっぱ、お前にはバレちまうか」

 そう、それだけではない。

 ぼくが今日一番疲れたのは。

「お前が悪口言われてる紙を見ちまって、心が疲れた」

 

『ねえさな、あの眼鏡の女、今日も休んでやんのw』

『ここ最近、全然来てなくね? 遂に引きこもっちゃったのかなーw』

『それならチョーありがたいw あいつが隣にいるとか、不快以外の何物でもねーからw』

『みな、言い過ぎw まあ、それはあたしもだけど』

 

 そう。学園で、女どもが筆談に使っていた、あの紙を見た時だ。

 そんなことが、つらつらと、書かれていた。

 腹立たしかった。

 その女どものことは勿論そうなのだが、そういう場面に出くわしても、何もできない自分が、一番腹立たしかった。

 こんなこと、未千代に報告しても何も意味がないし、言いたくもなかった。

 しかし、ぼくは正直に告げる。告げた上で言う。

「だが、ぼくら兄妹は ――― 少なくともぼくは、お前の味方だ。かけがえのない、ぼくの妹だ。もし今の話を聞きたくなかったとお前が言うのなら、謝る。傷付いたとお前が言うのなら、慰める」

「結婚して欲しいと言ったら?」

「その時は勿論、結婚して ――― は?」

「本当ですか⁉ ああ、遂に私は祝也さんと結婚できるのですね!」

「いやいやいやいや! ちょっと待って‼」

 ねえ! 今すごいシリアスな場面だったよね⁉ 妹が、クラスの人間に悪口を言われているのに気付いてしまった兄が、そのことを妹に言おうか言うまいかの葛藤の末、やむなく言って、妹を慰め励ますという珍しく良いシーンになりそうな流れだったよね⁉

「私としては、祝也さんは何をしんみり親身になっているのだろう、という感じでしたが」

「どういうことだよ」

「そういう人たちには、言わせておけばいいのです。その人たちが幾ら私の悪口を言おうとも、私の人生に、何ら支障はありません。むしろ、国を代表するモデルという人生勝ち組の私からしたら、そのような言葉は、負け犬の遠吠えにしか聞こえないので。そんなことよりここに婚姻届があるので、早くサインとこれで捺印なついんして下さい。そちらのほうが重大な案件です」

「返せ! ぼくの妹を思う気持ちと印鑑を返しやがれ!」

 ぼくは、いつの間にか未千代が持っていた、ぼくの印鑑と婚姻届をひったくった。そして、婚姻届をびりびりと破る。

「あああああ‼ 私と祝也さんの輝かしい未来があああああ‼」

「うるさい騒ぐな! ぼくとお前に輝かしい未来なんてない!」

「その台詞は流石に笑えないですね……」

 確かに。少し言い過ぎた。

「……でもお前、本当にショックじゃないのか?」

「何がですか? 祝也さんに拒まれていることなら、死ぬ程ショックですが」

「死ぬなよ、そんなことで ――― いやそれじゃなくて、周りの人間に悪口を言われていることだ」

 よく思い出してみると、先程の未千代の『人生勝ち組』云々の発言は、どうも無理をして強がっているように、ぼくには聞こえた ――― あの発言の直後は、そのあまりにも好感度の下がる発言のせいで、気付かなかったが。

 もうお前を推してくれる人がいなくなるんじゃないかと、お兄ちゃん心配だよ。

「大丈夫ですよ。私は祝也さんにだけ愛してもらえればそれでいいので」

「ゴメンぼくお前のこと愛してない。妹としても、下ふたりに比べたらマシくらいだな」

「何か今日、私に冷たくないですか……?」

 いつもこんな感じだろ。

「で、何の話でしたっけ」

「だから、お前は周りの人間に悪口を言われるのが本当にショックじゃないのか?」

「ええ、ですからそれは大丈夫ですと何度も言っています。祝也さんが傍にいてくれるなら」

 またこいつ、冗談を ―――

「いいえ、冗談ではありませんよ」

 と、未千代がぼくの心を先読みしたかのように言う。

「祝也さんに、菜流未さん、兎怜未さん、ただしさん、そして、縞依さんが傍にいてくれれば、私は他に何もいりません」

「…………」

「祝也さんは、私の傍を離れたりしませんよね?」

「未千代……」

「私をひとりぼっちにしたりしませんよね……?」

 この時のぼくの心情を説明するのは、少々難しい。だから今、未千代の口から出た『忠さん』のことを含め、ぼくが日頃から未千代に対して、思っていることを記そう。

 未千代は家族のことを必ず名前で呼ぶ。その拘りはなのだろうが、やはり他人の感が否めなかった。下の妹ふたりはまだしも、父さんのことは『忠さん』でなく、『お父さん』と、縞依のことは『縞依さん』ではなく『お母さん』と、そしてぼくのことは『祝也さん』ではなく『お兄ちゃん』と呼んで欲しいものだ ――― 未千代みたいな奴が『お兄ちゃん』は変か?

 そう『忠さん』というのは、ぼくらの父親だ。

 笹久世 忠。

 笹久世家の中心であり、大黒柱だ。

 そして、縞依と違って、それ以上でもそれ以下でもない、ただの父親で、大切な父親だ。

「なぜ……、黙っているんですか、祝也さん」

 と。

 未千代が小さな、だが確かに通る声で、そう呟いた。

 

「いや、落ち着け、未千代。ぼくは別に ――― 」

の祝也さんはすぐに頷いてくれました! なのに、なぜ今は躊躇ためらうのですか⁉」

「っ⁉」

「私は皆さんと居られればそれで良いのです! ! それなのに……、それすらも許されないというのですか⁉」

 未千代の顔がみるみる青くなり、その場に頽れてしまう。

「未千代‼ 頼む、落ち着いてくれ!」

 ぼくはそんな未千代のもとに駆け寄り、その両肩を掴む。狭い自室で、すぐに未千代に近付ける距離だったのにも関わらず、駆け寄って、その両肩を掴む。

 その肩はがたがたと震え、身体に力が入っておらず、首も、生まれたばかりの赤子のように、すわっていない状態だった。

「祝也さん……、何処にいるの、祝也さん……」

「しっかりしろ! ぼくはここにいるぞ!」

 ぼくは、未千代のすわっていない首をなんとか動かし、ぼくの顔が見えるようにする。

 その瞳は、見えない何かに怯えているように、光を亡くし、涙を浮かべていた。

「何処……? ひっく、怖いよ……、暗いよ……、助けて……」

「未千代……‼ くそっ!」

 ぼくは、何も考えることが出来ず、ただ無心に、未千代を抱きしめた。

「すまなかった。大丈夫だ、ぼくはお前の傍から離れたりしない。ずっとここにいる。だから、どうか落ち着いてくれ」

 ぼくは、未千代の頭を撫でながら、そう言った。

「はあ、はあ、はあ……」

「そうだ。深呼吸をするんだ……、吸って……、吐いて……」

「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ…………、しゅく、や、さん……?」

 少し落ち着いたらしい。

「ああ、そうだ。ぼくはしっかりここにいるぞ」

「……祝也さあん」

「お前ともあろう奴が、こんなことで情けない恰好、見せんなよ」

 ぼくはあえて、そんな軽口を叩いてみたが、内心穏やかではなかった。

 ここ最近は、こういうことは無かったのに、ふとしたことがきっかけで、やはり出てきてしまうようだった。

「……ご迷惑をおかけしてすみません、取り乱してしまいました」

「いいよ、別に。兄妹なんてそういうもんだろ。互いに迷惑をかけ合って生きていくんだ」

「祝也さん……」

「それに、いつものキャラ迷走という名の乱れのほうが、よりぼくに迷惑がかかってるからな」

「それは……、ごめんなさい」

 ぼくは、未千代を抱きしめたまま重ねて軽口を叩きつつ、こりゃあ、今日の勉強は無理そうだなと思って、ふと時計を見る ――― 既に日が変わっていた。

「さて。じゃあ、いつまでもこうしているわけにもいかねーし、離れるぞ?」

 念のため、再びパニックに陥るのを防止するために、そう言って、離れようとしたのだが、

「祝也さんっ」

「うおあ⁉」

 未千代がそれを拒むように、飛びかかってきた。

 そのせいでぼくは、未千代に押し倒されるような形で、倒れてしまう。

「兄妹は、互いに迷惑をかけ合って生きていくんですよね?」

「ああ……、そうだな」

「なら、もう少し……、ご迷惑をおかけしてしまってもよろしいですか?」

「……ったく」

 ぼくは、もう一度、未千代を優しく抱きしめてやる。

「困った妹だな、未千代」

 そう、この子は。

 ぼくの妹だ。

 ぼくは「やれやれ」と言いながら、今日は、やけに妹たちに頼られた日だったなと、思い返すのだった。


夢祝 1 1 也夢


 ぼくは今、混乱している。

 高校一年、春の終わり。

 何もすることが無く、結局吹奏楽に入ったぼくは、なぜか今、とともに帰路についていた。

 彼女というのは、勿論『She』という意味であり、火殿 妹奈のことである。

「えーっと……、妹奈さん?」

「ん? なあに? 祝也くん。あなたは確か、わたしのことを、呼び捨てで呼んでくれていた筈なんだけれど、どうして急にそんな余所余所よそよそしくなったの?」

「いやそういう面倒くさい絡みはいいから」

「はっきり言うなあ」

「どうしてぼく、きみと一緒に帰っているんだ?」

 そう、それが混乱の種だ。

「やだなあ、とぼけちゃって。部活終わりに、祝也くんが自販機にいたところを、わたしが見つけて、一緒に帰ろう、って声をかけたんじゃない」

 そうだった。

 ぼくは、行きつけの自販機へ向かい、部活終わりのご褒美に、最近ハマったとても美味しいオレンジジュースを買って、それを一気に飲み干し、その余韻に浸っていたところ、彼女が声をかけてきたのだった。

 だが、それでもやはり解せないことがある。

「じゃあ、質問を変えるけど、どうしてきみは、ぼくに一緒に帰ろうと誘ったんだ?」

「んん、それはもっと、祝也くんとお喋りしてみたかったからかな」

「そ、それってどういう意味?」

 何か、勘違いをしてしまいそうな言い方であったが、

「他の人とは、よく喋るけれど、祝也くんは何て言うか、話すタイミングがなかなか掴めないんだよね」

「あ、そう……」

 妹奈は即座に、ぼくに現実を見せてくれた。

 まあ、思わせぶりな態度をとり続け、男に中途半端な夢を見せる女の子よりは、はっきりしてくれていて良いのだが。

 ……いや、本当に。本当だよ?

「それに祝也くんとは、ふたりでじっくりと話したかったし。ほら、祝也くんって面白いこと言うから」

「へぇへぇ。お褒めに預かり、光栄の至りだよ」

「ええ、本当にそう思ってる?」

「思ってるわけないだろ」

「嘘つかないなあ、本当に」

 ぼくと妹奈はそんなことを言い合いながら、歩いていく。

 ぼくは、家と学園が比較的近いので、徒歩なのだが、妹奈はそれなりに距離があるらしく、自転車を転がしていた。からからから、という自転車ならではの音が響いている。

「で、きみはぼくとどんなお話がしたいんだ?」

「……祝也くんって『暴力』について、どんな考えを持ってる?」

「え……」

 いきなりとんでもなく重い話を振ってきやがった。

 暴力、か。

 妹奈の考えはともかく(考えたところでわかる筈もない)、ぼくは率直に答えた。

「一言で『暴力』って言っても色々種類があるからな。まあ勿論、そのすべてが、許される行為じゃないとは思うが」

「祝也くんにしては、簡潔な意見だね」

「ぼくがいつもひん曲がった理屈の上で生きてるみたいな言い方をするな」

 つくづく、失礼な子である。

「というか、それを言うなら、きみこそらしくない話を振ってきたじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」

 火殿 妹奈という女の子は、確か楽しいこと、面白いことが大好きな人だと記憶していたのだが、もしかしてその認識が違ったというのだろうか。

「まあ、ちょっとね……」

 そしてこの、中身のない反応。

「何か、あったのか?」

 それしかないと思った。

 今日の妹奈は何処か様子がおかしい。というか、ぼくと一緒に帰ろうと誘ってくる時点で、充分気付けることであっただろうに。

 なぜ気付けなかったのだろう。

「誰かに暴力でも振るわれたのか?」

「え……」

 妹奈の大きな碧色の瞳が微かに揺らめいたのを、ぼくは見逃さなかった。

「やっぱりそうなんだな?」

「…………」

「なんて奴だ! こんなに、か弱く可愛い女子に暴力を振るうなんて!  安心しろ妹奈! ぼくがそんな奴、とっちめてやるからな!」

 先程も言った通り、暴力というのは、どんな類であれ、許される行為ではない。それもぼくの知り合いがその憂き目にあっているとなれば、黙っているわけにもいくまい。

「…………」

 そう思っての発言だったのだが。

 ……あれ。

 気付くと、妹奈がその瞳をきょとんとしたものへと変化させていた。

 そして、くすくすと笑い始める。

「……妹奈?」

「ご、ごめん。あの祝也くんがこんな感情的になるなんて思わなくて。つい笑っちゃった」

「そ、そりゃ感情的にもなるさ! 妹奈はぼくの数少ない大切な友達だと思ってるからな!」

「大切な友達に、さりげなく『可愛い』なんて言っちゃって、キザだなあ」

 しまった!

 これじゃあまるで口説いてるみたいじゃないか!

「な、ななな何言ってんだよ! いいか、妹奈! 『可愛い』というのはな、何も口説き文句という意味合いだけじゃないんだぞ! ほら、愛玩あいがん動物なんかにも『可愛い』って使うだろ? そしてそれは、別にその動物を、口説こうとして言っているわけじゃない。ただ単にその動物が、純粋に『可愛い』から言っているんだ。ぼくが今口にした『可愛い』はまさにそれなんだ。だから決して、妹奈を墜としてやろうとか、攻略してやろうとか、そういう気は全くもって無くてだな ――― 」

「うんうん、いつも通りの、キモい祝也くんが帰ってきて安心したよ」

「キモいとは心外だな。ぼくっていつもそんなにキモいのか?」

「うん」

「即答かよ」

「うん」

 うむ。確かにこのやり取りは既に何回かやった覚えがある。それはつまり、両者ともにいつもの調子に戻ったと言って良さそうなのだが、

「妹奈、本当に暴力は振るわれてないのか?」

 いまいち釈然としないぼくは、改めて訊いてみた。

「大丈夫。心配してくれてありがと、祝也くん。優しいんだね」

「べ、別に……」

 まあ本人が大丈夫だというのなら、大丈夫なのだろう。

「ところでさ、祝也くん」

 と、ここで妹奈が、話題を変えるように、自転車を止め、ひとつ大きく伸びをした。

「祝也くんって好きな人いる?」

「ぶっ⁉」

 予想外の質問に、ぼくは噴き出してしまう。

 いやだって、先程とは百八十度、話の内容が変わったからさ。そりゃ吹き出すよね(まあどちらも答えづらい質問という意味では、全力で共通しているが)。

「あ、もしかして既に彼女さんがいらっしゃるとか?」

「い、いない! 彼女は勿論、好きな人も!」

 これは本当に嘘ではない。確かに妹奈は途轍もなく可愛いが、好きかどうかと言われれば、何とも言えない。勿論、読者の知らないところで好きな人が出来たり、恋人が出来たりはしない。

 それなのに、なぜぼくは少し言いよどむような口調になってしまったのだろう。こんな言い方では、頭の切れる妹奈のことだ、すぐにそれを言及してくると思ったのだが、

「ふうん、そうなんだあ……」

 と、えらく引き際が良かったので、ぼくはそっと胸を撫で下ろした。

「でもさ、それって気付いていないだけなんじゃない?」

「え?」

 どういうことだ?

「彼女がいないっていうのはさておき、この齢になって、好きな人がいないっていうのはちょっとどうなのかなって」

「おばちゃんみたいな意見だな」

 ぼくがそう言うと、妹奈は、むう、祝也くんひどおい、と言って頬を膨らませた。

「で、結局何が言いたいんだ?」

「だから、この齢になったら誰だって好きな人くらいいると思うの。いないっていう人は、きっと好きな人がいることに気付いていないだけなんだよ」

「んー……、妹奈の意見にしては、理屈っぽくないっていうか、いまいち説得力がないな」

「当たり前だよ。恋っていうのは理屈とか説得とかそういうものじゃないもの」

 そういうもんかねえ、と、やはり釈然としないぼくは、ふう、と、ひとつ大きく息を吐いた。

「そう。で、今まで気付かなかったその気持ちに気付いた時、人はどんな風になるか、祝也くんにはわかる?」

「さあ……、わからないなあ」

 何せ ――― 妹奈風に言うのなら ――― 好きな人がいるということに気付いていないのだから。

「わたしはね ――― 知ってるよ」

「へえ…………、え?」

 それはつまり、火殿 妹奈には ―――

「正確には、数分前に知ったばかり、かな?」


祝 1 2 也


「ん……、あれ……」

 どういう状況だ?

 ぼくはえらくすーすーする身体を起こして現在の状況確認をしようとした。

 しかし、どうやらその必要はなさそうだ。

 ぼくはすぐに、今起きている最悪の事態に気付いた。

 ばっ、と咄嗟に後ろを振り返る ――― そこには案の定、未千代がいた。

 、である。

 落ち着け……落ち着くんだ、ぼく。昨日、あれからどうしたんだっけ……?

 未千代が取り乱して、それをなんとか収めたところまでは覚えている。そこからの記憶が曖昧だ。

 ぼくは、ぼんやりする寝起きの頭で、つい数時間前のことについて、思い出そうと試みる。

 うーんと、確か……。


「なあ、もう流石にいいだろ?」

 しばらく未千代を抱きしめてやった後、ぼくは限界を迎えた。

「お前を抱きしめるのはその……、ちょっと刺激が強い」

「ふふふ。たまには嬉しいことを仰ってくれますね、祝也さん」

 ええ、もう大丈夫です、と未千代が言ったので、ぼくは今度こそ離れた。

「じゃあ今日は、祝也さんと一緒のベッドで寝てもいいですか?」

「はあっ⁉」

 何言ってんだこいつ!

 そんなの、抱きしめる以上に刺激が強いじゃないか!

「今日は、ひとりになりたくないんです」

 いや気持ちはわかるが、お前はワンナイトラヴに興じるOLか。

「駄目、ですか……?」

「うっ……」

 ふと、先程までの光景が脳内に蘇る。

 怯え切った未千代。

 青ざめた未千代。

 涙を流す未千代。

 ……それを、久しぶりに目の当たりにしてしまった今のぼくに、彼女の申し立てを、拒否する勇気など、出るわけが無かった。

「……ふたりで寝るように作られていないから、かなり狭いが、それで良いなら。今回だけだぞ」

「はい! むしろ『好都合』です!」

「好都合……? まあいいや」


 よくなかった。

 全然ちっとも全くよくなかった。

 なんでそれで朝起きたらお互いに全裸になってんの?

 これじゃあまるで、アダルトなドラマとかでしばしば見る、愛人関係の男女の朝みたいじゃないか。

 どうやらこのお話は、R-18になってしまいそうだった。

 それはともかく、なぜ全裸になっているのか、それがやはり肝要であるのだが……。

 まあどうやってもこいつのせいだよな。

「おいこらそこの変態妹、起きろ」

 ぼくは、隣で寝ている犯人みちよの頭を、軽くぱしっと叩きながら言った。

「ん~……、もっとぉ……、激しくぅ……」

「うるせーよ‼ 何が激しくだ、何があ‼」

「ぐええ⁉」

 ぼくが首を絞めたら、未千代がカエルの断末魔のような声を上げた。

 断末魔を上げたいのはこっちなのだが。

「てめえ! なんでぼくとてめえが朝起きたら全裸になってたのか説明しやがれや、ああん⁉」

「ああ……祝也さんがかつてない程の荒れぶりで私に詰め寄っている……、今服を着ていないのに、胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄っている……、至福の幸せです~」

「よしわかったお前もう死になさい。ぼくも死んでやるから」

「流石にそこまでは嫌ですよ、素敵な提案ですけど」

 心中が素敵な提案とか、ぼくの妹、末期過ぎないか。

 ともかく、昨晩のは、ひと先ず収まったようなので、それに関しては、ほっとしたが。

「で、なぜぼくたちは裸なんだ?」

 他に聞かないといけないことが山程ある。

「私が脱がせたんですよ」

「そうだろうとは思ったよ」

「このベッド狭いですし、常に身体が密着した状態でしたから、服を脱がせても祝也さん、何も気付かずに寝てましたよ」

 ああ、なるほど。だから『好都合』とか言っていたのか。

 まさか服を脱がせるつもりだったなんて。

「じゃあ、次の質問なんだが ――― これが最重要なんだが、お前、寝てるぼくに、何か悪戯してないよな」

「悪戯、とは?」

「だからその……、性的な悪戯だよ」

「言い方が生々しいですよ……」

 他に上手い言い方が見つからなかったんだよ!

「してませんよ、何も」

「……本当か?」

「ええ。私、そういう行為は、きちんと双方の合意の上で、すべきだと思うのです」

「あれ、おかしいな。未千代が常識人に見える。変態全裸なのに」

 ぼくも全裸だが。

「じゃあ何で未千代は、ぼくを全裸にして、自身も全裸になったんだ?」

「だって、ひどいじゃないですか。菜流未さんと兎怜未さんの裸は堪能しておいて、私の裸だけ、堪能してくれないだなんて」

 ええ、それ根に持ってたのかよ。

 てっきりぼくは、昨日の会話の中だけで諦めてくれていたと思っていたのだが。

「本当は私だけ脱げばよろしいかと思ったのですが、どうせなら私も、祝也さんの裸を堪能したかったので、脱がせてしまいました」

「……お前、本当にぼくに悪戯してないんだよな?」

 言い方が言い方なだけに、疑いざるを得なかった。

 あと、若干触れるのが遅れたが、別にぼくは妹たちの裸を堪能なんてしていない。

「はあ……、まあとりあえず、このままでいるわけにはいかないし服を着ないと……、ほらお前も早く着ろよ」

 ぼくは周りを見渡し、すぐ近くに綺麗に整頓されてある服(未千代が脱がせた後、畳んだのだろう)があったので、それを手に取り、未千代の分を渡して、自分の分を着ようとしたのだが、

「あ、お待ちください、祝也さん」

 と、未千代に止められてしまう。

「何だよ。これ以上このままでいると色々マズいから、要件は手短に頼むぞ」

「私、祝也さんの裸を堪能した、と言っても、昨夜は疲れていて、祝也さんを裸にして、自分も裸になった後、すぐ寝てしまったので、全然堪能できてないんですよ。それに祝也さんに至っては、朝のこの時間にしか、私の裸を堪能してもらっていませんし……。ほら、時間も、まだ六時を回っていませんし、もう少しだけ、お互いこのままで何かお話しませんか?」

「駄目に決まってんだろ、馬鹿かお前」

「ええ‼ 何でですか⁉ 昨夜はあんなに優しく私の我儘を聞いてくださったのに!」

「昨夜はあんなことがあったし、我儘と言っても、昨日のお前の頼み事はふたつとも『傍にいて欲しい』という意味合いのものだったからな。だが、今のお前の頼み事は完全にただの我儘だ。流石にそこまで面倒見切れん」

 ぼくはそう言って、再び服を着ようとするが、

「ああ! 待ってください! お願いですから、考え直してください! 服を着ないでください~!」

「しつこいぞ未千代! くっつくな! いやホントにくっつかないで、お願い! 素肌の感触がダイレクトに伝わってきて、どうにかなりそうだから! お前はぼくの妹ではあるけど、一応 ――― 」

 ぼくが強引に引っ付いてくる未千代を、引き剝がそうとしつつ、そう言おうとした時に、突然それは起こった。

「ったく、朝から何騒いでるのよシュク兄! 折角人が気持ちよく寝てたって言うのに ――― え」

「もう、祝也兄さん! 兎怜未の睡眠を妨げる程騒ぐなんて、いったい何をしているの ――― え」

「「あ」」


祝 1 3 也


 ええ、言うまでもなく、ボコボコにされましたとも。

「ふーん、そんなことがねえ……、信用できないけど」

「兎怜未も」

 ぼくと未千代はとりあえず服を着た後、長男長女なのに、下の妹ふたりにへこへこと土下座をしながら、ここまでの経緯を話した ――― とはいえ、このふたりは、未千代の取り乱しの件について、詳しく知らないので、話すことが出来ないのだが。

「とにかくお前らの思ってるようなやましいことは何ひとつとして、やっていない」

「ん? それが容疑者のとる態度なのかな?  祝也兄さん」

「……ごめんなさい、兎怜未さん」

「わかればよろしい」

 普段、他の人がいるときは、そのSっ気を表に出さないようにしている兎怜未が、ここまで表面的になっているということは、かなり疑われているらしい。

「本当にすみませんでした。でも本当に、私も祝也さんも、何もしていません。どうか、信じて頂けませんでしょうか」

「うーん……、ミチ姉がそこまで言うなら、信じようかな」

「兎怜未も」

 何で、下の妹ふたりの未千代に対する信頼度、こんなに高いの。

 いやむしろ、ぼくに対する信頼度が低すぎやしないだろうか。

 ともかく、これで疑いは晴れたようなので、ひと先ずは一件落着したらしい。それにしても、もうかれこれ十五分くらいは土下座、もとい正座をしているのでそろそろ足を崩させて欲しいのだが ―――

「まったく。いいね? シュク兄。今度そういう疑われるようなことをする時は、仲間外れにしないで、あたしたちも呼んでよね」

「ああ、わかっ ――― は?」

「未千代姉さんも、これからは、ふたりだけでそういうことするのは駄目だよ? 祝也兄さんは、みんなの祝也兄さんなんだから」

「はい、申し訳ありま ――― はい?」

 いやそこは『今後こういう疑われるようなことは一切しないこと』と注意するのが普通だろ!

 と、突っ込もうとしたが、ぼくはそれをすることが出来なかった。

 ――― ぼくの部屋に、両親が入ってきたからである。

「お前たち、こんな『空き部屋』で何をしているんだ?」

 そう言ったのは、父さん ――― 笹久世 忠だった。相変わらず重々しいドスの効いた声だった。

 無論、ここは空き部屋などではない。ぼくの部屋だ。ぼくの存在が認知されなくなってから、両親はこの部屋を『空き部屋』だと解釈しているらしい。

「そうですよ~。大声や物音がしたので、起きてしまったじゃないですか~」

 そう言ったのは、母親 ――― 笹久世 縞依だった。相変わらず、のんびりとした声だった。というか、大声や物音が激しかったのは十五分前なのだが?

「あ、うん。ごめんね、お父さん、お母さん。なんでもないから」

 先ず始めに切り出したのは、次女の菜流未だった。

「うん。気にしないで、パパ、ママ」

「ご迷惑をおかけしてすみません。忠さん、縞依さん」

 続いて兎怜未、最後に未千代と、それぞれがそう言った。

「ああ、お前たちが何でもないというのならいいんだが……」

「だけど、朝から騒ぐのは、ご近所さんの迷惑になるから、やめてね~?」

 縞依のその言葉に、三愚妹はそれぞれの返事をした。

 ……久しぶりに、両親の声をしっかりと聴いた気がする。

 ぼくはそんなことを思っていた。

 最近は、両親とコミュニケーションをとる機会が無くなってしまったので、当たり前なのだが、いざこうやって久しぶりに声を聴くと、何とも言えない気分になる。

 しかし、ここで、確かな事実をひとつ開示しておくと、ぼくは、両親、特に父さんのことを尊敬している。反抗期云々の話を、以前したような記憶があるが、ぼくが父さんに反抗したことは、おそらく片手の指で数えられる程少ないと思う。

 むしろ、大切に育ててくれた父さんには、とても感謝している。

 だからなのだろうか。ぼくはふと、父さんに、声をかけたくなった。

「おはよう ――― 父さん」

 ぼくがそう言うと、突然ぼくが言葉を発したことに驚いたのか、三愚妹が揃ってぼくのほうを見た。

「ん、何だお前たち。そこに何かあるのか?」

 しかし、父さんはぼくを認知していないので、この人からしたら、三愚妹が突然何もない空間に視線を集めたという局面に見え、疑問を覚えたのだろう、父さんはそんな無慈悲なことを言った。


「ふふ……、


 ん?

 今、誰かが何か言ったような……?

 気のせい、か?

 それに続いて三愚妹たちは「いや何も……」と、応答した。

「そうか……」

「じゃあ、忠さん。ワタシたちはそろそろ仕事の準備をしないといけませんので、行きましょ~」

 そうだ。

 先程の声は間違いなく、縞依から発せられたものだ。

 そして、それに気付いた瞬間、芋づる式に、放たれた言葉が脳内で再生された。

 ……?

 どういうことだ?

「おっと、そうだな。では行こうか」

「待ってくれ! 父さん、縞依!」

 ぼくは立ち上がり、この場から去ろうとする両親を追いかけようとした。

「うっ⁉」

 しかし、何十分も正座をしていた影響からか、足が悲鳴を上げ、勢いよく転んでしまう。

 ばたーん、と。

 大きい音が、ぼくの部屋だけでなく、両親にも聞こえるであろうレベルで鳴り響いた。

 しかし、今のぼくは何度も何度も言うように、妹以外に認知されない状態である。そしてそれはぼくが引き起こす自然現象も、物理現象すらも認知されない ――― すなわち、両親にこの音が届いたとしても、「うるさいぞ!」とも「今度は何があったんだ?」とも言わずに、まるでその音が聞こえないとでも言うように、そのまま行ってしまうわけで ―――

「まったくうるさいぞ! 今度は何があったんだ?」

 …………。

 ………………。

 ……………………あれ。

「え……、あの……、お父さん?」

 菜流未の声を聴いて、ハッとして、地面に這いつくばるような姿勢から、そのまま上を見る。

 そこには、両親が戻ってきていた。

「パパ……、今の音、聞こえたの?」

「当たり前だろう。あんな大きい音、聞こえないほうがどうかしている」

 兎怜未の質問に父さんは当然だとでもいうように答えた。

 聞こえた。

 聞こえないほうがどうかしている、と。

 ぼくの鳴らした音が聞こえた。

 

「すみません、忠さん。詳しく話を聞かせてもらえませんか?」

「は? いや詳しくも何も ――― っておい! 引っ張るのをやめなさい、お前たち!」

 どういうことだ? なぜ当然、僕の存在が、部分的にとはいえ回復した?

 先程、縞依が「大声や物音がしたので、起きてしまったじゃないですか~」と言っていた。それをぼくはてっきり、三愚妹の大声や物音のことを指しての発言だと思っていたのだが、まさかそこには、ぼくが引き起こした物音もカウントされていたのだろうか?

 ともかく三愚妹は、父さんを何処いずこへと連行してしまい、この部屋に残ったのは、ぼくと母親と呼ぶべき存在の縞依だけになった。

「あらあら、困った子たちだこと」

「おい、縞依。お前、何か知ってるのか? このぼくの身に、今起こっている、病みたいなものを ――― 」

「ここからが、本編だよ~」

『しゅっくん』。

 確かに奴は。

  ――― 物心つく前から、彼女がずっと呼んでいた、ぼくのあだ名を呼んで、そう言った。

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