第11話 情欲の虜

 食事を終え、彼女の呼んでくれたタクシーで自宅へと戻った。タクシーに乗り込む際に見送ってくれた彼女は、ほんのりと火照った頬を緩ませて、また近いうちに連絡しますと言った。もちろん男の私は、彼女との淫靡な情事を期待はしていたが、まだ霧江を失って間も浅い。さすがに不謹慎だし、天国の霧江に罪悪感も感じる。それに彼女にもその気はないようだ。


 私は、鏡花に懸想しているが、愛しているのかと問われれば、そうではないと思える。たしかに美人で欲情を煽られる。だが、いまは、それだけだ。大学生の頃出会った霧江の時も同じだったろうか。たしかに性欲は感じたが、それ以外になにか心を満たしてくれる何かがあった。彼女と一緒にいた時は、心がとても穏やかだった気がする。そして付き合い、それは幸せだったが、退屈でもあった。性的な刺激を満たせるものでは無かったのかもしれない。


 それに比べ、鏡花の醸し出す雰囲気は、堪らなく刺激的で欲情させられる。彼女を幸せにしたいとか、安心出来るとかは感じない。堪らなく、あのすかした顔の仮面を剥ぎ取り、本能のまま、性的に欲情する姿が見たいと思わせる女だ。料亭で少し酔った彼女の少し開いた胸元、うなじ、白い肌。括れた腰に丸い尻。赤い唇。濡れた瞳。熱い吐息。堪らなく彼女が欲しい。


 またミステリーの傑作が書ければ、彼女を手に入れることが出来るのだろうか。


 開けっ放しの窓から少し、風が入ったのか、机の上に広げてあった原稿用紙がカサカサと揺れる音がした。


 部屋で布団に寝転がるが、彼女のことが頭から離れず、自慰を重ね、汗だくのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。



 昨晩は汗をかいたまま寝てしまったため、朝から風呂を沸かして入ることにした。いままではこんなことは出来なかったが、いまは、些少ではあるが、金も入った。両親にもいままでの礼を兼ねて、高級な寿司や、母の好物の干し鮑などを振る舞った。いまでは、朝に風呂に入ろうが、昼間から酒を飲もうが、一言も文句も言われない。


 熱い風呂に朝から入る。これはなかなかに甘美で、罪悪感を煽る行為だ。世のサラリーマン達は、この暑い中、背広を着て、押し合いへし合いの満員電車に揺られている時間だ。退屈で厳しい仕事を強要されることに、心は憂鬱感で一杯だろう。とても申し訳なく思う。だが、彼らは知らない。作家というものがどれだけの苦悩を抱えているか。


 深い絶望の淵で、底の見えない闇に手を突っ込み、アイディアを探しているのだ。才能を頼りに、より深く手を伸ばし、強運の持つものが傑作を掴み上げることが出来るのだ。だが、才能の無いものは、そのまま闇に引きずり込まれ、死へと転がり落ちるのだ。その苦悩と恐怖を日々好んで繰り返す。きっと作家という者達は狂っているのだろう。


 窓の外からは、いつも通り忌々しい虫の声。鈴虫だろうか。五月蠅く、堪らなく不躾だ。脳内をぐりぐりとかき回されているようだ。私は逃れる様に、頭を熱い湯の中に沈める。水の中にも鈍い虫の音が反響している。息が続く限り水中に逃れたが、どちらにせよ、逃げ切れはしなかった。心には何も出来ないという無力感だけが残った。庭の草木を米軍がベトナムでしたように、枯葉剤で更地にしてやりたい気分だ。そうすればベトコン同様、草木に隠れ潜む忌々しい虫どもを一掃できるだろう。



 彼女との料亭での食事から数日経った昼前。以前に自分に戻ったように、原稿用紙を睨みつけていた。ミステリーのアイディアどころか、童話のネタも出てこない。目を大きく広げ、瞬きを堪える辛さを味わいながら、集中する。脳を収縮させるように頭に力を入れたり、回転させるように脳へ意識を集中させる。魂を活性化させるように心臓の鼓動を早めるため、息を止めたり、考え得ることは何でもやってみた。これはいつも通りだ。底の見えない闇の穴に手を突っ込む儀式だ。



 健二君からのちょっとした童話の依頼も、あれから全く入ってこない。小銭は稼げたが、またすぐに底をつくだろう。とにかく、なんとしてでも新作を書かねばならない。私は作家なのだから。どれほど原稿用紙を睨んでいても、あの時に感覚は戻ってこない。あの才能の発言は、人生一度きりの煌めきだったのだろうか。あの時と比べ、いまの私には何が欠けているのだろうかと思案する。


 河野原先生への憧れ? 小山田への憎しみ? 妬み? 嫉み? 両親への憤懣? 彼女への怒り? 悲しみ? たったあのミステリーの一作で、このほとんどが解消されてしまった。いや、薄らいでしまったと言うべきか。足りないのは、絶望か。


 たしかに鏡花の言った通り、何かが抜け落ちて空っぽになってしまった感覚はいまだにある。ごっそりと心、いや魂と言うべきか、それが削げ落ちたのだ。喪失感が酷い。彼女に言われて、更にその感覚が明確になった。どうしようもなく、虚しい。


 しかし、やはり私は童話作家としての志は貫きたい。やはり求められるミステリーを書きたいなどとは露ほども思わない。やはり私は童話が書きたいのだ。そして強引に乱暴に物語を紡ぎ、原稿用紙をインクで黒く塗り潰してゆく。


 出来上がるのは、今まで以上の駄作ばかり。原稿用紙を黒い、どろどろとしたもので、穢していると表現すべきだろう。全く持って醜いのだ。まるで、心の内の焦燥感や嫌悪感が紙に吐き出されているかのようだ。脳がオイルに塗れてでもいるのだろうか。忌々しい。


 情緒不安定な心が、体を突き動かし、部屋の中を動物園の動物の様にぐるぐると回り、端から端まで行ったり来たりを繰り返す。


 出来上がった童話を、何度か健二君にも見せたが、やはり芳しくない。もう長い付き合いだ。顔を見るだけでわかる。口では、当たり障りない言葉を羅列するが、要約すると全然ダメということだ。そして健二君や鏡花と顔を合わせるたびに。ミステリーの新作の話ばかり。本当に嫌になる。


 そうこうしているうちに、時は過ぎ、年をまたいで、桜の咲く季節になってしまった。外は朗らかな陽気に、爽やかな風。


 もう私はいつ眠っただろう。ここ数か月ほぼまともに眠れていない。絶え間ない疲労感に苛まれ、更に体重が落ちていることが実感できる。久しぶりに鏡に映る自分を観察する。目は落ちくぼみ、肌は水分を失いカサカサだ。頬は虚仮、貧相な無精髭が口元を覆っている。


 ここまで思いつめ、執筆に没頭しようとしているというのに、やはり、一文字も書けない。書けないのだ。なぜ。どうして。頭の中は、その疑問だけで埋め尽くされている。あれだけのミステリーを書いたのだ。脳内には、まだまだ未知のアイディアがあるはずなのだ。そのほんの欠片だけでも良い。それが私には必要なのだ。絶対に。絶対に。



 あぁ、もう、限界だ。

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死紙 白桃狼(ばいたおらん) @judas13th

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