第10話 料亭
「すみません、先生。強引に連れ出してしまって」
「いや、構わないよ。わざわざ、私の所なんかに訪ねて来てくれたことに感謝しているよ」
「どうしても、先生とお祝いがしたかったので。本当におめでとう御座います。これで先生も、大作家の仲間入りですね」
「ありがとう、でも私なんて、まだまだだよ。それに今回のヒットも君の多大な貢献のおかげさ。感謝してもしきれないよ」
「いえ、とんでもない。私は先生の傑作を、世に出す手伝いを少しだけしただけですわ」
「そんな謙遜しなくていいさ、君は健二君が言っていた通り優秀な編集者だよ」
「まぁ、先生ったら、本当にお世辞がお上手ですのね」
笑顔でそう答えた彼女の顔は、謙遜などと言うものから程遠かった。己が優秀だと言うことを十分に承知しているのだろう。そんな笑顔がふっと消え、確かめる様にこちらを窺っていた。
「どうしたんだい?」
「え、えぇ、そういえば先生、少しお痩せになられました?」
「ん、そうかい? 自分ではあまり気づかないんだが。自分の姿を鏡に映す習慣があまりなくてね」
「えぇ、初めてお会いした時より、少しお痩せになっているように見えます」
「あの作品が認められてからというもの、ずっとあちこちに引っ張りだこで忙しかったからね。きっとそのせいだ」
残暑も厳しかったし、忙しかったのもたしかにあるだろう。だが、彼女、長月霧江の死は想像以上に私の心を蝕んでいる。それが一番の原因だろう。彼女の死を境に食欲が落ちていることは自分でも自覚している。しかし、ここでそのことを話して場の雰囲気を暗くするのは彼女にも私にも良いことではないだろう。
「すみません、私共も久しぶりの快挙だったもので。調子に乗って、先生を雑誌のインタビューやら、講演会、握手会などに振り回してしまいました。今後はもう少し、負担にならないようスケジュールを検討しますね」
「いやいや、私もこんなことは初めてだったのでね。楽しい忙しさだったよ」
廊下から部屋に声がかかり、三人の中居さんが、深々と正座で頭を下げてから、食事を机に並べるために部屋へと入って来た。新鮮な魚介類の料理を机の上に所狭しと並べる。このような高級な食事はいつ以来だろうか。たしか、健二君と妹の結婚式の披露宴だったろうか。
「さぁ、先生。今日はたくさん食べて、元の体重まで戻ってくださいね。支払は当社で持たせて頂きますので」
「いいのかい?」
「勿論です、先生。先生には英気を養って頂いて、次回作に向けて邁進して頂きたいですから」
次回作。次回作、それは当たり前のことだ。これだけのヒットを飛ばしたのだ。そういう話は当然出るだろう。しかし、私にとっては、まったく想像していない事態でもあった。無論嬉しい。期待されるのは、喜ばしいことだ。しかし、望まれているのは、ミステリー小説だ。それも前作と同等、いやそれを超える傑作をだ。あれを超えるものなど書けるはずがない。しかし、当然求められるだろう。出版社からも読者からも。
「いや、申し訳ないけど、もうあれほどのものは書けないよ。今後も今まで通り、しがない童話作家としてやっていくさ」
揚げたての茄子の天麩羅を箸で突きながら、落ち着いて答える。
「まぁ、先生。それは勿体ないですわ。勿論、先生の今までの作品を否定する気はありませんが、先生はミステリーのほうが向いていると思います。童話がお好きなのは理解しておりますが、私を含め、多くのミステリーファンが、先生の作品を心待ちにしています」
「ファン、か……」
「えぇ、先生。多くのファンレターもお読みなりましたでしょう?」
鏡花は、日本酒の徳利を持ち私のおちょこへと酒を注ぎながら言った。なみなみと注がれた酒を一気に煽る。庭園からは複数の虫の声が、響いてくる。秋に入った事だし、多少であれば風情もあるが、ここまでくると非常に五月蠅く感じる。あの小さい体からどうやってこれほどの音量を出せるのか、少し不可思議に感じる。全く無視というのは奇怪だ。
「あぁ、読ませてもらったよ。どれもこれも怖いくらいに作品を褒めてくれてね。まったく恐縮する限りだよ」
「えぇ、みんな先生の作品を待ち望んでいるのです」
たしかに、このまま書かないというのも読者に対しては非礼なのかもしれない。しかし、無理なのだ。あの現象。恐らく現象と言っても間違っていないと思える、あの執筆作業は常軌を逸していたのだ。日が経ち、落ち着くにつれ、どれほど異常だったかが分かって来たのだ。
どのような作品であろうと、綿密に調査をし、徹底的に調べ上げ、プロットを作り、何度も修正し、矛盾点を無くし、登場人物の設定や世界観を練り上げて、やっとの思いで書き上げるものだ。それを更に何度も推敲を重ね、作品として完成する。それが推理物のミステリーともなれば、童話などの空想や想像で補える部分が無く、徹底的にリアルを追求するものだ。
現実に即さない推理物など、ミステリーファンには見向きもされないだろう。その解釈については、小山田と同意見だ。読者との知恵比べ、膨大な知識で、綿密に繊細にねじ伏せなければならない。いわば、これは読者との全身全霊を掛けた戦いなのだ。
その戦いが自分には、苦手であり、向いていないと感じて、童話作家の道を選んだのだ。その私が、プロットどころか下調べも無しに、一気に書き上げてしまったのだ。全く、常軌を逸している。作品内には、たしかに私の知らない知識はなく、自身の脳内え練り上げられ、形になっている実感はある。あるのだが、どうにも違和感が否めない。彼女の死が私の脳を一時的に活性化させたのだろうか。いや、なんともそれは、非科学的すぎる。一体何がどうなっているのだ。
「先生? どうなされました?」
「あぁ、いや、何でもない。少し読者のことを考えてしまってね。たしかに期待に応えたい思いはあるのだがね。本当にあれ以来、アイディアが浮かばないんだよ」
「えぇ、あれだけの作品ですもの。先生の人生の全てを原稿用紙へ刻み込んだのですわ。己の内にある全てが抜け落ちる感覚。素晴らしい作品を書く先生からは、そういった話を聞いたことがあります。まさに自分の中で育てていた大切なものをこの世に産み落とす感覚。それ故の喪失感、虚脱感。ぽっかりと胸に穴が開いた感覚。でも、先生。きっとそれは先生の中でまた生まれ、育まれ、また生み出すことが出来ますわ。私も、ファンも、それを望んでいます。いつまでも待っていますわ」
「たしかに、そうだね。得も言われぬ喪失感と虚脱感は感じているよ」
「若輩者の私が、先生にこんなこと。申し訳ありません」
「いや、若輩者なのはお互い様だよ。すまないね。何か暗い話になってしまって。次回作については、少し考えさせてくれないかい?」
「えぇ、勿論ですわ。でも、何か相談や悩みがありましたら、なんでも言ってください。私では頼りないかもしれませんが、出来るだけお力添え致します」
「いやいや、頼もしいよ。有難う。さて、君も飲むといい。なかなかにいい酒だ。この天麩羅も美味しいので食べてみたまえ」
「えぇ、頂きます。本当においしそうです」
天麩羅を頬張り彼女の笑顔が、妙に生々しく、性欲を掻き立てる。確かに彼女は美人だ。きっと多くの者から言い寄られているのだろう。家庭向きの身なりでも、性格でもない。そこが、非常に魅力的だ。この気の強い彼女を、乱暴に強引に抱いたら、どんな言葉で拒絶し、どんな表情をするのだろう。堪らなく興奮する。ヒヒッ。
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