#Fin 朝人の絵。乃恵との未来。
F100号。
身の丈よりも大きいキャンバスと向き合う。
広大。
そのひと言に尽きる。
これから、この白紙の大地に命を吹き込む。
膨大な作業となるのは間違いない。
「構想はもう決まっているのかい?」
一緒にF100号を組み立ててくれた玉井先生が尋ねる。
僕は「はい」と答える。
「どの道、今日は下書きしかできないだろうね、時間的に」
「そうでしょうね。でもじっくりやりますよ。夏休みですから」
構図はすでに頭の中にできあがっている。
あとは、そこから捻り出すだけだった。
「……変わったね、小野くん」
「え?」
「何があったかは知らないけど、君の口からそういうセリフが聞けて先生は嬉しいよ」
そう言うと玉井先生は財布を持って美術室のドアを開けた。
「私はちょっと一服してくるよ。出だしはひとりで静かに集中したいだろ?」
「先生……ありがとうございます」
ずっと苦手な先生だと思っていた。
でも、いまは彼女に対する思いは、感謝の念ばかりだった。
「いい顔になったよ、少年。かっこいいぜ?」
親指をグッと立てて、玉井先生は美術室から退室した。
「……」
さあ、始めよう。
僕にとって、全身全霊をかけた大勝負だ。
ただ入賞を目指すためだけの絵じゃない。
この絵には、僕と乃恵の命運がかかっている。
神経を研ぎ澄ませ。これまで蓄積してきた経験をすべて発揮しろ。必要な技巧はこの瞬間に身につけろ。
調整はあとでいくらでもする。
だからいまは、思いの丈をすべてこのキャンバスにぶつけろ。
乃恵。
桜並木で出会った美しき少女。
愛しい少女。
彼女と人生を歩むために僕は……。
「なるよ。画家に」
進むべき道を見定めて、筆を握った。
絵の中の少女と、再び笑顔で出会うために。
* * *
それから僕は時間の許す限り美術室に通い、製作に集中した。
早朝に玄関を出ると、スポーツウェアを着た紗世と出くわした。
「よっす」
「おう」
「……最近、ずっと学園に行ってるみたいだね」
「ああ。絵を描いてる」
「絵を?」
「ああ。大事な絵だ」
「そっか……」
僕が絵を捨てない道を選んだ。
その時点で、紗世はすべてを察したように顔を俯かせた。
「おじさんは何て? ずっと絵にかまけてたら、またうるさく言いそうだけど?」
「最初は言われたよ。でもいまは……」
この間、三者面談があった。
そこで僕は、父の思いを初めて知った。
「……『一浪だけだぞ』って言われた」
「え?」
「俺、美大を目指すことにしたんだ」
家で打ち明けたとき、当然もめた。
だが今回ばかりは譲れなかった。
これまでのような衝動的な言い合いと違って、落ち着いて自分の気持ちを打ち明けることができた。
それが、良かったのかもしれない。
正直、絶縁も覚悟していたが、父は僕の目を見て「……本気なんだな? それでいいんだな?」と静かに聞いてきた。
その翌日、三者面談の場で父は僕の希望を教師に語ってくれた。
「初めて見たよ、あんな父さん。『才能の世界なんだ。なら、実力で勝ち取ってこい』って。そんな風に言ってくれるなんて、思わなかった」
「……お父さんだもん。息子の夢が大事に決まってるじゃん」
「そうだったみたいだな」
帰り道、父は僕に語ってくれた。
幼い僕に、絵の才能があることは父も認めていた。
独特な感性を発揮し、常人と異なる感覚を持つ僕を見て「この子はそういう世界で生きる子なんだ」と漠然と承知していたらしい。
だが、普通とはかけ離れた感覚によって、息子が苦しんでいることも理解していた。
だから父は、一般的な社会に息子を繋ぎ止める役割を自らに課した。
目を離したら、こことは異なる遠い世界に旅立ってしまいそうな息子を常識という名の鎖で縛り、普通の人間として生きられる道を用意した。
……そして、もしも僕が本気で絵の道を進むことを選んだときは、解き放つことを決めていた。
父のあの厳しさは、すべては僕を思ってのことだった。
絵の道に進むことに悩み、フラフラしていた僕に厳しく当たるしかなかったのだ。
その必要は、もうない。
僕の決意が本物だとわかったから。
「二学期が始まったら、美術部に入るつもりだ。玉井先生の指導、予備校並にしっかりしてるからさ。あの人、教え方うまいよ」
「そうなんだ。じゃあ……放課後は、あんまり会えなくなるね」
「……うん」
「……昔みたいには、いられないね。朝人も、アタシも」
「これが大人になっていくってことなんだろうな」
「みたいだね」
紗世は僕に背を向けて、ランニングコースの方向をまっすぐ見た。
「アタシもさ、道場継ぐために本格的に練習することにしたよ。運営の仕方とか覚えることもいっぱいだけど、頑張って勉強する」
「そっか。……がんばれよ?」
「うん。お互いにね」
紗世は振り返らなかった。
視線を逸らすことなく、自分が走る道を見据えている。
「じゃあ、アタシ行くね」
「……紗世!」
幼馴染の背が遠くなる前に、僕は叫んだ。
「ありがとう。それと……ごめん」
「……っ。バカ。お礼言うな。謝んな。バカ」
震える身体を誤魔化すように、紗世は全力で駆けだした。
「……しっかりやんなさいよ! 途中でヘバったら、承知しないんだから! 男なら、決めたこと貫きなさいよね! バカぁ!」
「おい、近所迷惑だぞ!」
「うっさい! 空気読めバカぁ!」
走る紗世から、光の粒がいくつも舞い散った。
振り返ると、水平線から太陽が上へ上へと昇ってきた。
眩しい朝日に目を細めながら、僕は歩き出す。
……さあ、行こう。
最後の仕上げだ。
* * *
「順調だね。これぐらいのペースなら締め切りまで間に合いそうだ」
すでに先に作品を完成させた玉井先生は、真摯に僕の製作のサポートをしてくれていた。
通常のキャンバスと違って膨大な量の絵の具が必要とされるF100号。
自前の絵の具に加えて、先生が用意してくれたものが無ければ、ここまで辿り着けなかった。感謝してもしきれない。
「それにしても……いい絵だね。これ、いいところまでいけるんじゃない?」
「そう言ってもらえると心強いですが……最後までわかりませんよ」
「まあ、そうだね。なんせ、日本中の天才たちが参加するからね。過酷なしのぎ合いだよ」
「一応、俺と先生もライバルですけどね」
「はは、負けないぜ? ……でも、まあ。やっぱり教え子に勝ってほしいかな、先生としては」
「いいんですか? そんな気持ちで」
「いいんだよ。自分の力は自分が一番わかってるからさ。いい絵が選ばれるべきだ。それで芸術界がより発展するなら、それは喜ぶべきことだよ」
僕の絵を眺めて、玉井先生は何か悟ったような顔つきでいた。
「さてと、私はちょっと職員室に野暮用あるから。小野くんは、仕上げ頑張りなさい」
「はい」
「……ねえ? 本当に自信持っていいと思うよ? 私が見てきた教え子の中で、やっぱり君が一番特出してる」
真剣な声色で玉井先生は言った。
「嬉しいよ。君が絵を描くことを選んでくれて。才能ある子がどこまで羽ばたくのか。それを見守るのが私の楽しみなんだ」
玉井先生はそう言い残して美術室を出て行った。
夏が終わろうとしている。
蝉が最後の力を振り絞って、命の雄叫びを上げている。
一年の半分以上が過ぎた。
今年は長い一年だ。心底そう思う。
乃恵と出会って、僕の生活は本当に一変した。
彼女はいまどうしているだろう?
会いたい。
でも、それはいまじゃない。
やるべきことを、すべてやってから。
出すべき結果を出してからだ。
──出せなかったら、どうする?
胸の中の溶鉱炉。灼熱の海で息づく卵が問いかけてくる。
そのときはそのときだ。
実力で勝ち取れなかったというだけのこと。
そうしたら、すべて終わりだ。僕と乃恵の関係は。
だから……。
そんな結末にはさせない。
そのために、お前が必要だ。
卵の中のナニかよ。
人間には心の膜がある。
玉井先生はそう言った。
膜が多すぎて、誰も自分の心の正体に気づけない。
いまなら、その言葉の意味がよくわかる。
ああ、そうとも。
僕はあまりにも心に膜を張りすぎた。
普通から外れることが怖くて、常人の世界に戻れなくなるのが恐ろしくて、必死に隠したんだ。溶鉱炉の中の卵を。
幼い頃に持っていた感覚も多くを失ってしまった。
絵を描く上で、あれほどに有用な武器は無かったというのに。
だから……いまから、それを取り戻す。
この卵を、孵化させて。
蝉の声が止む。
美術室がシンと静まりかえる。
ピシリ、と卵がひび割れる音がする。
もちろん錯覚だ。
だが、ソレは僕の中に確実にあるのだ。
ソレは待っている。孵化の時を。
膜を一枚いちまい剥がす。
まるで服を脱がすように。
裸体は人間の真実の姿。
美しい面も、醜い面も、裸体はすべてをさらけ出す。
だから僕も脱がす。
己の包む膜を。
己の真実の姿を知るべく。
心まで、脱がす。
──これが最後の警告だ。
卵が告げる。
──今度こそ、戻れない。その覚悟はあるか?
卵の孵化は、人界から外れることの証。
常人を捨てることの証。
ああ、わかっている。
この先の旅路は、只人では辿り着けない。
芸術という、終わり無き世界。
その世界で栄光を掴み取るため、僕はいま……。
境界線を越える。
殻が割れて落ちる。
卵形が徐々に崩れていく。
崩れて、崩れて、その中から表出したのは……。
春に、美しいものを見た。
見える世界が変わった。
僕はきっと、その瞬間に生まれ変わった。
……いや、新しく生まれようとしていたんだ。本当の自分が。
乃恵。
ノエ。
アリサカ ノエ。
ありがとう。
君と、出会えてよかった。
僕はやっと、本当の自分になれる。
だから……。
僕は、君と生きたい。
未来を。
その未来を掴み取るため、僕は……。
卵が孵った。
おはよう。
おめでとう。
久しぶり。
この生誕にふさわしい言葉が見つからない。
まあ、でも、べつにいいか。
だって僕らは、絵を描く者。
言葉ではなく、絵で語るべき生き物だ。
そうだろ?
じゃあ、始めようか。
最後の仕上げを。
「お疲れ小野くーん。どう調子は? 飲み物買ってきてたから、一服、どう、だ、い……?」
ボトルが落ちる音がする。
でも気にならない。
先生の声もよく耳に入ってこない。
ごめんね先生。
いいところなんだ。
手が足らなくて困っているよ。
ああ、どうして人間って二本しか腕がないんだろう?
どう考えたって絵を描く上で足りないじゃないか。
五、六本くらい生えてこないかな? 観音像みたいな身体が羨ましいよ。
もう、いいや。口や足も使っちゃおう。腕が不自由な画家もそうしているだろう? べつにおかしいことじゃない。
もっと。もっとだ。もっと筆を。もっと色を。
描き込め。僕のすべてを。このキャンバスに。
歴代の名画に挑むくらいの気概で描け。
お前が描いているのは誰だ?
有坂乃恵だ。
この世でもっとも美しい女性をお前は描いているんだ。
刻め。刻みつけろ。この世界の歴史に……この星の記録に、彼女の名が残るほどの絵を。
「は、はは……何だ、これ。すげえ。おいおい、ここまでか? 小野朝人くん……君ってやつは、これだけのものをずっと秘め隠していたのか? はは、想像以上だよ、こんなの……」
やがて先生の声も意識から遠ざかっていく。
僕は僕だけの宇宙に埋没していく。
懐かしい感覚だ。
匂いが音楽に変わる。見えるものが食感に変わる。聞こえるものが景色に変わる。触れるものが芳香に変わる。
万物すべてが絵のために偏在している。
素晴らしい。この世界は素晴らしい。
すべて取り込む。この絵にぶつける。
生まれ出でろ、この世界に。
そして未来を切り拓く光となってくれ。
乃恵。
必ず、迎えに行く。
この絵で僕は、君との未来を勝ち取ってみせる。
* * *
絵は、完成した。
無事にコンクールの締め切りに間に合い、あとは結果を待つだけとなった。
二学期が始まった。
僕と乃恵は、教室で再会した。
「……おはよう、小野くん」
「おはよう、有坂さん」
教室では相変わらず、僕たちはただのクラスメイトとして振る舞った。
「……絵は、できた?」
席の横を通りがかる瞬間、乃恵はそう聞いてきた。
彼女には一度もコンクール用の絵を見せていない。
「できたよ。この間送った」
「そっか」
乃恵は安堵の息を吐いた。
「……待ってる」
「ああ」
それだけ交わして、僕は自分の席に着いた。
* * *
秋になった。
景色が紅葉で彩られるスケッチしがいのある季節だ。
次の写生はこの並木道を提案しよう。きっと美術部の皆も喜ぶ。
「赤いな。甘くて渋い味がする」
落ちてきた紅葉を一枚拾って呟くと、通りがかった小さな男の子が不思議そうに僕を見てきた。
「食べちゃダメだよ?」
僕の真似をして、拾った紅葉をまじまじと見つめる男の子にそう注意する。
舐めたり、口に入れたりしないかヒヤヒヤしたが、男の子はただジッと紅葉を観察しているだけだった。
そして。
「……本当だ。甘くて、しっぶ~いね?」
無邪気な笑顔で男の子はそう言った。
「……うん。そうだね」
僕が笑って返すと、男の子は嬉しそうな顔をして、紅葉を振り回しながら走って行った。
……ひょっとしたら、あの子も将来絵描きになるかもしれない。
そんなことを思った。
「ただいま」
「おにぃ! 大変だよ!」
家に帰るなり、真昼がすごい勢いで玄関にやってきた。
「どうしたんだよ真昼。また体重でも増えたか?」
「てやんでい! 真昼ちゃんはいま成長期なんだい! 太ったわけじゃないやい! ……って違う! 体重の話じゃない! とにかく凄いぞおにぃ!」
「だから何が?」
「やっぱり、おにぃは凄かったんだ! 真昼は鼻が高いぞ!」
「……おい、真昼が持ってるソレって……」
真昼の手の中には通知書らしきものがあった。
そこに書かれている内容は……。
* * *
走る。
無我夢中で走る。
直接、伝えたかった。
『あの場所で会おう』
久方ぶりのメッセージに、彼女はすぐに答えてくれた。
僕と彼女が出会った場所。
結果が出たら、そこで伝えるつもりだった。
「乃恵!」
紅葉が舞う並木道で佇む美しい少女。
彼女は笑顔で僕を迎える。
「朝人」
あれから、どれだけ待たせてしまったことか。
彼女の思いが冷めないか不安でしょうがなかった。
けれど、そんな心配は杞憂だった。
彼女はこうして来てくれた。
堪えきれず、彼女を抱きしめる。
「やったよ……やったよ乃恵」
「朝人。じゃあ……」
「うん。君に見せたい。一緒に来てくれ」
「……はい」
僕の背に手を回して、乃恵は頷いた。
* * *
銅賞。
要は、ギリギリだった。
それでも、これほどの規模のコンクールで入賞できること自体偉業だと、玉井先生は泣いて喜んでくれた。
授賞式を終えた後日。
すべての入賞作品が展示される日、僕と乃恵は会場に足を運んだ。
「朝人~! あらためて入賞本当におめでとう~!」
「もう何回も聞いたってそれ。ああ、こら公衆の面前だぞ、抱きつくな」
「やー! ずっと朝人欠乏症を患ってたんだもん! 無限にイチャイチャしてやる~!」
檻から解き放たれた野獣のごとく、乃恵はすごい勢いで甘えてきた。
「むぅ、でも私も朝人が晴れやかな舞台に上がるところ見たかったよ~」
「授賞式は作品と一緒に顔出しするからな。ネタバレ厳禁ってやつだ」
「ちぇ~。そこまで出し惜しみすることないのに~。私がどれだけ待ち遠しい思いをしたことか!」
「ごめんって。……というか乃恵、教室でも気になってたんだけど、何でそんなに怪我してるんだ?」
乃恵の身体にはあちこち絆創膏やらシップらしきものが服の隙間から覗いていた。
そういえば紗世もこんな怪我をしていたような。
「いや~紗世ちゃん強いね~。私も腕っ節には自信あったんだけどな~」
「まさか喧嘩か!?」
「違う違う。この間の柔道の授業で紗世ちゃんと組んだんだよ」
「そういうことか。……いや、それにしたってそんな怪我するか?」
いったい、どれほど過激な試合をしたというのか。
「というか『紗世ちゃん』って……」
「うん。名前で呼び合うことにしたの。拳を交わしたあとに友情が芽生えるって本当だったんだね」
「そんな古くさいことを……。しかし、凄いな。あの紗世とやり合えるなんて」
「まあ、途中から『私(アタシ)が一番朝人のいいところを知ってるんだ~!』って感じに言い合いになっちゃったけどね。噛んだり引っ掻いたりギャアギャア騒いでさすがに先生に怒られちゃった」
「やっぱりただの喧嘩じゃないか」
女子たちが興味深げに僕を見ていたのはそういうことか。
もはや乃恵との関係は隠しきれそうにない。
「言われちゃった。『乃恵。次、朝人傷つけたらアタシが力ずくで奪うからね』って」
「左様で」
「もちろんさせないけどね」
フンス、と誇り顔で乃恵は笑った。
「……でも、嬉しいな。やっと正面からぶつかり合える友達ができたよ。紗世ちゃんとは大人になっても仲良くやっていきたいな」
「……そうか」
紗世がずいぶんと清々しい顔をしていた理由がわかった気がした。
「そうそう! 紗世ちゃんが昔の朝人の写真データいっぱい送ってくれたんだよ! はぁ~小ちゃい朝人かわゆい~。一生の宝物にする~」
「消せそんなもの! なんてことしてるんだお前たちは!」
「や~。昨日はこれで朝人分を補給してたんだから~」
「そんなものより絵を見てくれよ。ほら、行くぞ」
「あっ、待ってよ朝人~」
展示室に入る。
惜しくも上位賞には入れなかった作品の数々が目に入る。
どれも素晴らしい絵だ。
それでも、頂点に辿り着くには何かが足りない。
本当に、過酷な世界だ。
僕が全身全霊を込めて描いた絵も、上ふたつの作品には及ばなかった。
……でも、きっといつかさらなる高みへ行ってみせる。
兆しは確かに見えた。
まだ、ここからだ。
「いいって言うまで目を開けるなよ」
「う、うん」
乃恵の手を引き、銅賞の絵の前まで辿り着く。
コンクールのために描いた絵。
そして、僕と乃恵のために描いた、渾身の絵だ。
ここに、現時点での僕のすべてがある。
「いいよ。開けて」
乃恵がゆっくりと瞼を上げる。
「……あ」
乃恵が息を呑む。
僕が描いた絵。
もちろん、乃恵をモデルにして描いた。
でも、絵の中に居るのは乃恵ひとりではない。
「私と……朝人」
桜並木で、手と手を取り合う少年と少女。
果ての見えない坂に向かって歩く姿。
二人の自由になっている手には、孵化した卵が握られている。
ひび割れた卵の部分から、光が漏れ出て、それが道を明るく照らし出している。
それが僕が描いた絵。
タイトル欄にはこう記されていた。
『二人の未来』
僕が描く乃恵の絵には、一番肝心なものが欠けていた。
僕自身だ。
僕がいだく乃恵への気持ち。僕が思い描く乃恵との未来。
二人で同じ道を歩んでいく光景……。
それこそが、僕が描くべきだった絵。
それこそが、乃恵に送るべき絵だったのだ。
「乃恵。俺は画家になるよ。成功するかなんてわからない。きっと何度も壁にぶつかると思う。それでも自分の力で掴み取ってみせる。必ず、世界に通じる画家になってみせる。だから……」
乃恵の手を強く握る。
「一緒に、歩いてくれるか? この道を」
「……うん」
乃恵も強く手を握り返す。
「一緒に歩くよ。ずっと、ずっとあなたと」
意思の強さを感じさせる笑顔で、乃恵は言った。
「私も、決めたんだ。学芸員になって美術館に勤める。夏休みに、一度実家に帰ったの。……やっと、やっと話せたよ、自分の気持ちを。お父さんもお母さんも『いままでごめんね』って言ってくれた。……というか私が居ないおかげか、すっかり仲直りしてたみたい。久しぶりに昔みたいに、家族っぽいことできたよ」
涙を流して、乃恵は笑った。
「私、これから美術のこといっぱい勉強する。朝人のことを支えられるくらいに」
「ああ。俺も描くよ。これからもいっぱい。乃恵を幸せにできるように」
やるべきことはお互いに違う。
でも、目指す場所は一緒だ。
「行こう、乃恵」
「うん、朝人」
ここから、始まる。
僕たちの、長い旅路が。
その一歩を、僕と乃恵は踏み出した。
* * *
──では、それが先生とノエとの出会いだったのですね?
──はい。それからは、まあ苦労の連続でした。美大には何とか現役合格できましたが……自分自身の創作観と向き合う激しい戦いが続きました。乗り越えられたのは、彼女のおかげです。
──そういう意味でも、ノエはあなたの
──そうなりますかね。実際、彼女と出会わなければ、私は間違いなく絵をやめていたでしょうから。
──恐ろしい話です。『世界中の男は一度はノエに恋をする』『ノエの絵を巡って本気で戦争が起きかねない』……そう言われるほどの傾国の美女は、ひとりの天才を救った女神だったと。
──天才はよしてください。この先、まだ生き残れるかわからないんですから。
──先生の『ノエシリーズ』はもはや不動の地位を築いています。胸を張ってもよろしいのでは?
──この世界に『終わり』は無いんですよ。だから、いまの地位に満足しちゃいけないんです。
──ほう。ではまだまだ『ノエシリーズ』は進化すると。……いや、実際ご本人もますますお綺麗になっていますからね。
──はは。私はすっかり年相応な見た目になっているのに、彼女ときたらまったく老いる気配がない。本当に女神か何かかもしれませんね。
──そんな彼女も美術館で大いにご活躍されていらっしゃる。何とも素敵な話です。……ああ、いまは産休でしたか。三人目でしたっけ?
──そろそろ男の子が欲しかったんですが、またもや娘のようです。
──お子さんたちを絵描きとして教育されるのですか?
──いえ。好きな道を歩んでほしいと思いますよ。長女の
──やはり血筋ですね。いずれもクリエイトな世界に惹かれていらっしゃる。三人目のお名前は決まっていらっしゃるんですか?
──
──これまでのお話でもちょくちょくその親友さんが出ていましたね。彼女はいま何を?
──柔道の師範をしています。道場を継いでから彼女目当てでたくさんの生徒が集まったようでしてね。いまも繁盛していますよ。ときどき酒の席で愚痴に付き合っています。
──はは。良いですな、そういうご関係。……おっと、ではそろそろ新作の『心』についてお聞きしたいのですが。
──すみません。それに関してはコメントを控えさせていただきます。
──なぜですか?
──あの絵は、特別なんです。見たままに感じてほしい。余計な印象を抜きにしてね。
──はあ。そういう意図がお有りと?
──そんなところです。
──では、今後はどのような作品をお描きになる予定ですか?
──やることは変わりませんよ。私はノエを描き続けます。
──ほう。やはり肖像画一本でやっていくと。
──正確には肖像画ではありません。どの絵にも私が混じっていますからね。
──え? 先生がですか?
──実は姿形を変えてノエと一緒に描かれているんですよ。花だったり果物だったり異形のものだったり。彼女をひとりにしないって決めましたからね。
──これは良いことを聞きました。ではやはり『ノエシリーズ』は先生にとって愛の証明というわけですね。
──これ、秘密にしてくださいね。恥ずかしいんで。
──そんな殺生な。
「兄さん。奥さんがお見えですよ」
「うん。いま行くよ。では、インタビューはこの辺で」
真昼が呼びにきたところで「これ幸い」とばかりに席を立つ。
やはり何年かかってもインタビューには慣れない。
「学芸員の仕事には慣れたかい真昼?」
「子ども扱いしないでください、兄さん。大丈夫ですよ、義姉さんに付きっきりで鍛えてもらいましたから」
それまで主婦だった妹が職に就くことが不安だったが、なんとかやれているようで安心した。
「お前もすっかり品格が備わったな。昔のヤンチャだった頃が嘘のようだ」
「兄さんはすぐにその話ばかりするんですから。私もうとっくに大人ですよ?」
「すまん。兄にとっては妹はいつまでも小さい子のようなものだからな」
展示室に向かうと、妻が子ども二人と一緒に椅子に座って待っていた。
「あっ。おとーさんだー。おとーさん、だっこ~」
「こら夕! 美術館では静かにしないとメッなのよ!」
「おっと。よしよし。よく来たね」
「もう、はしゃいじゃって。ほら、お腹の大きな人が通りますよ」
真昼が妻の手を引いて連れてきてくれた。
「家でゆっくりしていれば良かったのに」
「英才教育よ。この子にもいまのうちにお父さんの素晴らしさを教えたいもの」
「お腹の中に居たんじゃ見えないだろ」
「そんなことありませんよ」
そう言って妻は微笑み、愛しげに膨らんだお腹を撫でる。
絵を見ていた人々がいつのまにか彼女に目を奪われている。
やれやれ。相も変わらず罪作りな人だ。
僕の課題はやはり、彼女本人の美貌を越える絵を描くことだ。
……しかし、ひとりだけ、僕の絵に食いついている者がいた。
中学生くらいの少女だ。
足を怪我しているのか、松葉杖を抱えている。
少女は新作の「心」の前で立ち止まっている。
僕は彼女の様子を見守る。
やがて少女は泣き出す。
真昼が慌てて駆け寄ろうとするが止める。
大丈夫。あの子はきっと、悲しくて泣いているんじゃない。
しばらくすると少女の母親らしき女性が声をかける。
少女は嗚咽を漏らしながら口を開く。
「……お母さん。私、やっぱり……水泳選手になりたい。この絵を見てたら、何でかそう思ったの。リハビリも、頑張る。だからお願い。私、もっと泳ぎたい」
母親が泣く少女を抱きしめる。
今度こそ真昼がフォローに向かい、休憩スペースに案内していった。
「おとーさん。あのおねーさん、イタイいたいしたの?」
「うん、きっと痛い思いをしてきたんだろうね。でも、きっともう大丈夫だよ」
「そっかー。よかったー」
娘と妻と一緒に新作の前に行く。
この絵だけは、どうしても生きているうちに描きたかった。
「おかーさん、きれい~」
「ふふ。ありがとう、夕ちゃん」
「本物のお母さんのほうが綺麗だわ!」
「はは、相変わらず旭は手厳しいな」
小さな子たちは、まだこの絵を見ても「綺麗」とか「そうじゃない」という判断しかできない。
でも、それでいい。
いつかこの子たちが大きくなって……再びこの絵を見るとき、何かの力になってくれることを願う。
「よかったわね、あなた。あの女の子には、通じたみたいですよ。あなたがこの絵に込めた思い」
「そうだといいね」
妻が隣で微笑む。
「ようやく、ここまで来れたんだね」
「まだまだこれからさ。だってこの世界に……」
「『終わり』は無い……でしょ?」
「ああ。長い旅路だ」
僕の命がある限り、この旅は続く。
この先も、ずっと。
でも不安はない。
僕には支えてくれる人たちがいる。愛しい存在たちがいる。
だから、きっと乗り越えられる。
「朝人」
妻が手を差し伸べる。
彼女の手を握る。
思い出す。
若き頃のことを。旅の始まりのことを。
これからも僕は歩むだろう。彼女と一緒に、この道を。
「愛しています。朝人」
「ああ、僕もだよ──乃恵」
──心まで脱がして Fin──
心まで脱がして~学園一の美少女は絵のためなら何でも言うことを聞いてくれるそうです~ 青ヤギ @turugahiroto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます