#18 少年は未来の夢を見る。少年は決意する。

 もしもの未来を、夢で見た。


 絵を描くことをやめた。

 胸の内の溶鉱炉を止めて、孵化しかけていた卵は沈黙した。


 けれど、そうしたところで、べつに生きていく上で支障はない。


 紗世と同じ大学へ行った。

 仲は相変わらずのようで、でも昔よりもさらに近しい存在となって、お互い将来のことを少しずつ意識しながら日々を過ごしていく。

 卒業して、僕は無事に公務員となって、紗世は道場を継いだ。

 お互い新しい生活に慣れると、また家族ぐるみの付き合いが始まる。

 やがて僕と紗世は一緒に暮らすようになる。

 そして……。


 そういう未来も、僕にはある。

 穏やかな人生だ。

 平凡ではあるが、これもまた正しい選択のひとつだろう。

 幸福な未来なのは、間違いない。


 ただ……。


 そこに「熱」はない。

 心を揺さぶるほどの感動も、我を忘れるほどにのめり込むものもない。

 どこまでも、穏やかで、平凡で、ありきたりな日々が続いていく。


 そして何より、その未来に……乃恵はいない。




 生きてく上で絵は必要不可欠なものじゃない。そんなことはわかっている。

 でも……。


 これが絵を捨てて、乃恵を失った僕の未来だ。

 情熱もなく、変化もなく、老いるまで、延々と同じような時間を繰り返す。

 それが決して悪いわけじゃない。繰り返すように、それもまたひとつの正解なのだから。

 でも……。


 ──これがお前の望んだ未来か? これがお前の求めた幸福か?


 晩年を過ぎた僕は、何度もそうして自問をする。

 若き頃のことを振り返って「もしかしたら違う結果もあったのではないか」と自分に問いかけ続けるのだ。


 あのとき、もう少し自分に勇気があれば、覚悟があれば、もっと、もっと別の未来が……。

 そう悔いながら、老いた僕は目を閉じる。


 ……そこで夢から目覚めた。


「……」


 ベッドから起き上がり、僕は自画像用の鏡を取り出す。

 高校生の僕が、そこに映っている。

 当たり前だ。でも……。

 夢、だったのか? 本当に。


 もしもだ。

 もしも、いまここにいる僕が、未来から過去に戻ってきた自分自身だとしたら?

 もう一度チャンスを掴むために、奇跡を起こして過去に舞い戻ってきたのだとしたら?


「……バカバカしい」


 そんなこと、あるわけがない。

 妙に生々しい夢を見たから、そんな空想が働くのだ。


 でも……予感がある。

 絵を捨てて大人になった僕は、きっと、あんな人生が待っている。


『絵を捨てて、朝人は本当に、幸せになれるの?』


 紗世の言葉が、ずっと頭の中で繰り返される。


 いまの僕には、選ぶことができる。

 絵を捨てて生きる道を。そして……。


 机の上に置かれたパンフレットが視界に入る。

 半ば強引に押しつけられて、捨てるのも億劫で、置きっぱなしにしていたもの。

 確か、そこにはSNSの連絡先が載っていたはずだった。

 アドレスを入力し、検索する。

 表示されたアカウントのダイレクトメッセージ欄に文字を打ち込む。


 ……どうして、そうしようと思い至ったか、僕にはわからない。

 気づけば、手が動いていた。

 きっと、他に思いつけなかったからだろう。いまこの心情を打ち明けられる相手が。


 返信が来る。

 メッセージ欄には、簡潔にこう書かれていた。


『美術室においで』




    * * *




「やあ、個展以来だね、小野くん」


 美術室に行くと、玉井先生はひとり静かにキャンバスに向かって絵を描いていた。


「それ、コンクール用の作品ですか?」

「まあね」

「家で描かないんですね」

「自宅だと誘惑が多いからね。ここなら製作だけに集中できる。こういうとき美術教師ってのは得だよね」


 「エアコンも心置きなく使えるし」と猫のように笑って、玉井先生は次々と色を塗りたくっていく。

 製作途中ではあるが、すでに彼女らしさが滲み出た過激な絵だった。


「私に連絡を寄こしたってことは、小野くんも出す気になったの? コンクール用の絵」

「……わからないんです」

「なんだい、そりゃ?」

「何のために絵を描いていたのか、よくわからなくなったんです」


 だから、この人に尋ねたかった。

 いまあなたは、いったいどういう気持ちで絵を描いているのかと。


「玉井先生は、何で画家を目指そうと思ったんですか?」

「そりゃ好きだからさ。描くことも、人に見られることも。描いた絵を見た人が感動してくれたら嬉しいだろ?」

「そうですけど、でも……怖くはないんですか? 自分の絵が、誰かの人生を左右するほどに影響を与えることが」


 創作者にとっては、それほどの作品を生み出せることは、栄誉なことかもしれない。

 でも僕は怖い。

 幸せな気持ちになってくれるなら、それはいい。

 だが、もしもその絵に出会ったことでその人の一生が壊れてしまったら……。

 そう思うと、もう新しい絵を生み出す気にはなれなかった。


「なんだい? 小野くんは人を不幸に陥れるような絵を描くつもりなのかい?」

「そんなつもりは……」

「それで凄い絵ができあがるなら、私はアリだと思うけどね。実際、怨念をこの世に残すために描いていた芸術家もいたわけだしね」

「そんな絵は、俺は嫌いです」

「じゃあ、君はどんな絵を描きたいのさ?」

「それは……」


 結局、いつもそこに帰結する。

 どんな絵を描きたいか。画家がもっとも重要とするものが、僕にはない。


 ……いや、見つけたと思っていた。

 描きたいと思う少女と出会った。彼女も僕の絵を求めた。

 僕の絵で、救いたかった。幸せにしたかった。


 でも、いまはそれが正しいことなのか、もうわからない。


「……ある人が俺に『あなたなら絶対に素晴らしい画家になれる』って言ってきたんです。でも、俺にそんな素質があるとは思えません。だって……俺がやってきたことなんて、絵を見てきた人たちを自分の色に染めることだけでした」


 乃恵も、そして紗世も、僕の絵によって変わった。

 彼女たちにとっては、それが喜ばしいことだったとしても。心の隙間を埋める救済だったとしても……手元が狂えば、逆に心を壊してしまっていたかもしれない。


 そんなことになってしまうようなら、もういっそのこと……。


「随分と傲慢なことを言うんだね」

「え?」


 いままでに聞いたことのないほどに冷ややかな声で、玉井先生は僕を見た。


「自分の色に染める? おいおい、まさか君は本当に自分の絵にそれだけの力があると思い込んでいるのかい?」


 若さゆえの驕りをせせら笑うような口調だった。


「あのね、絵は人をマインドコントロールする洗脳兵器じゃないんだよ。そりゃ危ない実験に使われることはあっただろうけど……絵は絵でしかないよ。人の意思をねじ曲げるような力はない」

「でも、宗教画とかは改心のために使われるものじゃないですか。あれは、そうじゃないって言うんですか?」

「それは、絵を見た人間がもともと信心深い人間だったからに過ぎないよ。人間は多面的な生き物なんだ。自分でも気づかなかった、本来持っていた一面を絵によって呼び覚まされただけさ」


 玉井先生はそう断言して、またキャンバスに向き直った。


「私たち絵描きにできることは、絵で訴えかけることだけだよ。祈りを込めるように描いて、見た人の心を刺激する。それで何を得るかは、その人次第だよ。同じ絵でも、印象が人によってバラバラになるようにね」


 玉井先生が描いたF100号の絵を思い出す。

 あの絵も、見た人間の反応は千差万別だった。


「製作者の意図を汲み取るのも正解。まったく見当違いの感想をいだくのも正解。その人の自由だよ。絵はもっと自由でいいんだ」

「自由……」

「小野くん。『自分の絵が誰かの人生に影響を与えるのが怖くないのか』って聞いたね? ……怖いわけないだろ? だって、絵を見て生き方を変えたのは、その人自身が決めたこと。その人自身が選んだことなんだから」

「っ!?」


 紗世の言葉が思い出される。


『ずっと、自分の中で何かが欠けてる気がしてた。絵で例えるなら、一カ所だけ色が無いの。……でも、朝人の絵を見て、それが埋まった気がした。足りない色が加わったの』


 足りないもの……それは、すでに紗世の中にあっただけで、ただ見失っていただけで……僕の絵が、それを呼び覚ました?


 ならば、乃恵も……。


「『絵が人を変えるんじゃない』。『絵を見た人が変わるんだよ』。……小野くん、その人たちは君の色に染まったんじゃない。君の絵から必要な色を、求めてた色を見つけて、自分の意思で変わったんだ。君が、変えたわけじゃない」


 玉井先生の声は、いつのまにか僕を落ち着かせるような、穏やかな声になっていた。


「人は誰もさ、心に膜があるんだ。膜が多すぎて、なかなか自分の心がどういう姿をしているか気づけない。……だから絵があるんだよ。古代からこうして現代でも描き続けられているのは、それが心の膜を剥がす数少ない方法のひとつだからさ。描く者にとっても、見る者にとってもね」


 そう。

 この世界には数えきれないほどの名画があるのに、それでも人は絵を描くことをやめない。新たな名画の生誕を望み、求め続ける。


 それは……皆、知りたいからだ。人の心というものを。

 まだ明るみに出ていない、秘め隠された人間の可能性があるかもしれない。

 絵が、その可能性を導き出すかもしれない。


 だから、この世界に「終わり」は無いのだ。

 時代を越えて、何人もの画家が旅人となって、いまだに人が辿り着けていない境地に至ろうと、歩み続ける。

 そうして生まれた名画が、後の世代に影響を与えて、また新たな名画が生まれる。

 まるでバトンを繋ぐように、託されていく。


「小野くんにいま一番必要なのは、自分の心に耳を傾けることだよ。結局君は、どうしたいの?」

「俺は……」

「想像してごらん。君につきまとう面倒な障害が、もしも無かったとしたら? 君を阻むものが最初から無かったとしたら? ……君はどんな道を選ぶの?」


 つきまとう障害。


 画家を目指すことへのリスク。

 父との確執。

 そして何より……乃恵が抱える闇。


 それが始めから無いものだとしたら?

 僕にとって、もっとも必要だったものは……。


「小野くん。画家はさ、目指してなるものじゃない。生き方のひとつだよ。確かに売れる売れないって括りはあるけど、絵を描き続ける限りは誰もが画家だよ。私はいまの生き方に満足してる。べつに売れなくたっていいんだ。ただ私の絵を見て、元気になってくれる人がいればそれで満足。……そして私よりも才能を持った教え子たちが、広い世界で活躍してくれたら、もっと嬉しい」


 手を止めて、玉井先生は僕に笑顔を向ける。


「私は人に『希望』を持ってほしくて描いているんだ。君は?」


 鮮やかに彩られた「希望」を背に、玉井先生は僕に尋ねる。


「答えは君の心しか知らない。だから、あとはもう君次第だよ」


 玉井先生はまた絵に戻り、もう振り返ることはなかった。


「君の人生なんだ。君の心が一番納得する道を選べばいい」




    * * *




 並木道を歩く。

 乃恵と初めて出会った場所。

 桜はとうに枯れ落ちて、青々とした葉が夏の風に揺れている。


 来年になれば、きっとまた綺麗な桜が咲く。

 そのとき、僕はいったいどんな気持ちでその桜を見ているのだろう。


 僕はどうしたいのか。

 ここに来れば、答えが出るような気がした。


 ここで、僕の絵は変わった。

 目に見える世界が変わった。

 乃恵と出会ったことで、なにもかもが。


 絵が好きだった。

 言葉では伝えられないことを伝えられる絵が好きだった。

 自分が描いた絵で誰かが喜んでくれることが嬉しかった。


 なら、いまは?

 絵が人を変えるわけじゃない。絵を見た人自身が変わるだけ。

 自分にとって足りないものを、見失っていたものを、絵によって見つけることができるのなら。それが絵の役目だというのなら……。


 僕の絵が、まだ未完成だっただけなのではないか?

 乃恵を救うための絵。

 希望の道しるべとなるために描いていた絵が、実はまだ至るべき境地に至っていないだけだとしたら?


 ただ、足りなかっただけなのではないか?

 乃恵に伝えるべき言葉を。

 絵に込めるべき思いを。

 ……乃恵が、本当に求めている色を。


 あのとき、この場所で感じた「熱」。

 あの「熱」を宿らせて僕は、乃恵を描いていただろうか。

 ……断じて否だ。

 僕はその「熱」の正体も見極めることもなく、ただ目の前の衝動に従って乃恵を描いていただけだ。

 それで伝わるわけがない。救われるわけがない。


 ……あるはずだ。

 僕が本当に描くべき絵が。

 そのヒントは必ずここにある。

 乃恵を初めて見たこの場所で。

 あの桜景色で感じた「熱」を、もう一度この胸に。

 目に見えないものを追い求めて、僕は瞼を下ろす。


 風が吹く。

 葉音が奏でられる。

 僕はゆっくりと目を開ける。


 桜の幻影を見た。

 幻の桜の中で、少女が立っている。

 あのときのように、奇跡のように眩しい光景がそこにあった。


「朝人」


 僕を見つめる彼女だけは、幻ではなかった。

 乃恵がそこに居た。


「ここなら、会えるんじゃないかなって思ったんだ」


 長い髪をなびかせて、乃恵は一歩、僕に近づく。


「……綺麗な桜だったね」


 出会った頃のことを思い出すように、乃恵は木々を見上げる。


「桜を見ると元気が出たんだ。辛いことも忘れられた。世界にはこれだけ綺麗なものがあるんだって知ると、それだけで生きる価値があるって思えたから。実家でも毎年、そうしてた。でも……」


 熱く潤んだ眼差しを、乃恵は僕に向ける。


「もっと綺麗なものを、ここで見た」


 乃恵の瞳は、キャンバスを置いていた場所ではなく、僕自身をとらえている。


「絵を描いているあなたが、とても眩しく見えた。周りの目も気にせずに、一心にキャンバスに向かっているあなたが、輝いて見えた」


 乃恵が最初に目を奪われたのは、僕の絵ではなく……絵を描く僕だった。


「名前も知らない、通りすがりの相手なのに、あなたのことが、知りたくてしょうがなくなった。この人の目には、世界がどんな風に映っているんだろう? 私には感じられないものを、私には見えないものを、この人は見つけることができるのかなって。だから……」


 だから、乃恵は僕の絵を求めた。

 絵を通して、同じ景色を見たかったから。


「朝人と一緒に居るときだけ、私は『私』でいられた。一緒に絵を描いて、一緒に喫茶店に行って、一緒に美術館で絵を見て、一緒に手料理を食べて……その全部が、私にとっては特別だった。誰でもいいわけじゃない。私は……朝人と一緒じゃないと幸せになれない」


 涙を流して、少女は切に言った。


「あなたが居てくれるなら、私、もうそれ以上は望まない。絵を描いてくれなくたっていい。朝人がそれで苦しんでしまうなら『画家になってほしい』だなんて言わない。私はただ……どんな形でもいい。あなたと同じ人生を歩みたい。あなたと一緒に、生きたいの」

「乃恵……」


 自身を「空っぽ」だと言う少女を、自分の色に染めてしまったと思い込んでいた。

 自分にとって都合のいい「人形」にしてしまったと思い込んでいた。

 ……僕は、何を勘違いしていたのだろう。

 乃恵がこれまで見せてきてくれた笑顔は……喜んだ顔は、怒った顔は、悲しんだ顔は、すべて造られたものだったか?


 違う。違うはずだ。

 たとえそこに絵が無くても、乃恵は僕の傍で感情豊かに笑い、たくさんの一面を見せてくれたじゃないか。

 それは、まぎれもなく乃恵自身の心から生まれたものだったはずだ。


 疑っては、いけなかった。

 乃恵の笑顔を。乃恵の幸せを。乃恵の思いを。


 彼女のために、絵を描くまでもなかった。

 僕と出会った時点で、乃恵はとっくに求めていたものを見つけていたのだから。

 僕が傍にさえ居れば、それだけで乃恵は、救われていたんだ。


 それは……僕も同じだった。


 絵の道に進むことを諦めていた。

 心の「熱」を止めようとしていた。

 それが乃恵と出会ったことで、再び「熱」が灯った。

 絵を描く喜び。その本当の充実感を、乃恵が教えてくれた。

 乃恵に出会えなければ、僕はずっと何者にもなれず、この世界を孤独に彷徨っていたかもしれない。


 心に問いかける。

 いま、お前が本当に望んでいることは何だ?

 本当に求めている幸せはどこにある?


 それは……最初から、ここにあった。


「乃恵っ」

「朝、人……」


 乃恵を力強く抱きしめる。


「ごめん、乃恵。俺が、臆病だった」


 僕の言葉に、乃恵はゆっくりと首を振る。


「私こそ、ごめんなさい。私、焦ってた。『朝人の為』って思いながら、自分の気持ちしか押しつけてなかった」


 乃恵が僕の背に手を回し、涙に濡れた顔を胸元にあてがう。


「朝人に、幸せになってほしい。ただ、それだけだったの」

「乃恵……」


 彼女に幸せになってほしいと思うのは、僕も同じだった。

 気持ちは、一緒だった。

 ただ、お互い相手のことを見失って、気持ちが先走ってしまっただけ。

 だから……今度は目を逸らさない。

 まっすぐに、僕らは見つめ合う。


「……あ」


 並木道の下。

 太陽が僕たちを照らす。


 あの日に見た、桜風景が蘇る。

 そこには、乃恵だけが立っていた。

 美しい世界で、美しい少女がただひとり、世界の祝福を受けていた。

 その場所に、いま僕も居る。


 乃恵と同じ世界で、僕は生きている。


 熱い。

 胸の溶鉱炉が燃える。

 卵が孵化を迎えそうになる。

 この「熱」は……間違いなく、あのとき感じたものと同じ。


 ……ああ、そうだったのか。

 やっと。やっと見つけた。

 僕が、本当に描きたかったもの。

 乃恵を描くだけでは、見つけられなかった。

 一番大事なものが欠けていた。欠けている絵を乃恵に見せ続けてしまっていた。

 だからお互い、道を見失っていたんだ。


 僕が本当に描くべきだった絵。

 それは……。


「乃恵。やっと、わかったよ」

「朝人?」

「こんなにも、こんなにも簡単なことだったんだな」


 素直に自分の心の声に耳を澄ましていれば、とっくの昔に答えは手に入っていたんだ。


 ……ならば、もうやることは決まっている。


「乃恵。俺、描くよ」

「え?」

「描きたい絵ができたんだ。どうしても、描きたいものが。その絵を……コンクールに出す」


 鎖が外れる音がした。

 常人の世界で生きるための鎖。

 もう必要ない。


「試すよ。自分の絵が、どこまで通じるのか。それで……答えを出すよ」


 決別のときだ。

 勇気のない自分との。

 しがらみに囚われた偽りの自分との。

 言い訳ばかりして、深遠に落ちることを恐れた、中途半端な自分との。


 心の声を聞いた。

 絵を捨てることなんてできない。

 乃恵と別れることなんてできない。


 だから僕は……超えてみせる。自分の限界を。

 乃恵と共に、生きるために。


「乃恵、待っていてくれるか? コンクールの結果が出るまで、俺の答えを」

「朝人……」

「君に伝えたいことがあるんだ。でもそれは……言葉だけじゃ駄目なんだ。絵でないと伝えられない。中途半端な出来ものじゃ、きっと君の心に届かない。だから……」


 結果がどうなるかはわからない。

 だが……きっとそれでハッキリする。

 僕と乃恵が、同じ道を歩むべきなのか。

 その答えが。


 ……だから、勝ち取ってみせる。

 この手で。僕の絵で。実力で。

 切り拓いてみせる。


「……わかった」


 乃恵は頷いた。

 久しぶりに見る、彼女の穏やかな笑顔だった。

 その瞳には、覚悟の色が宿っていた。


「待ってる」


 それだけのやり取りで、十分だった。


 僕は駆けだした。

 一分一秒も惜しかった。


 描くんだ。

 胸を張って、再び乃恵と出会うために。





 美術室の扉を開く。

 玉井先生はまだそこで絵を描いていた。


「先生」

「おや、小野くん。忘れ物かい?」


 忘れ物。

 そうかもしれない。

 幼い頃には当たり前にあった情熱や感性を、僕はいまようやく取り戻そうとしているのだから。

 彼女のもとに向かって、頭を下げる。

 絵描きとして、僕よりもずっと前進している先達に、敬意を表して。


「お願いします。F100号のキャンバスで描かせてください」

「小野くん……じゃあ、君」

「はい。俺、描きます」


 もう逃げない。

 僕は向き合う。

 自分自身と。そして乃恵と。

 持ち得る力すべてを使って、いまの僕が描ける至高の一枚を、この手で形にしてみせる。


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