#17 幼馴染と夏祭りに行く。幼馴染は思いを打ち明ける。

 シャワーを浴びてリビングに戻ると、紗世が台所で料理を作っていた。


「お昼ごはん食べた?」

「いや、まだ」


 本当は軽く食べたが……何だか温かい料理をお腹に入れたい気分だった。


「ん。じゃあちょっと待ってて。もうすぐできるから」

「うん」


 台所に立つ紗世を見ていると、昔よく一緒におやつのホットケーキを焼いたことを思い出す。

 お互い、まったくうまく焼けなくて結局母に泣きついたんだっけ。


 あの頃のように焦げ臭い匂いはしてこない。

 食欲をそそる肉とタレの匂いが香ってくる。


「……なんか、久しぶりだな。朝人の台所で料理するの」

「そうだな」


 中学生になると、やはり気恥ずかしさからか、勉強会以外ではあまりお互いの家を行き来しなくなった。

 だからこうして紗世とリビングで二人きりでいると、まるで無邪気な頃に戻ったような感覚になる。


「はい。おまちどおさま」


 ほかほかと湯気が立つ肉丼が置かれる。


「いただきます」


 手を合わせて早速ひと口食べる。


「おいしい?」

「……うまい」

「そっ。よかった」


 程良く味付けされたタレと肉の焼き加減が実に好みで、夢中になってかき込む。

 たちまち食欲が再燃し、ペロリとたいらげてしまった。


「ごちそうさま」

「お粗末さま」


 僕が完食すると、向かい側に座る紗世が満足げに微笑んだ。


「驚いた。いつのまにか、こんな料理上手になってたんだな」

「ふふん。そりゃ女の子ですから。アタシだって将来いい奥さんになるべく、ちゃんと母さんの家事とか手伝って修行してるんだから」

「……そうか」

「……それが叶うか、わからなくなっちゃったけどね」


 紗世が苦笑してそう言うと、胸がズキリと痛んだ。


「……有坂さんと何かあった?」


 遠回しな聞き方は野暮と思ったか、紗世は直球で尋ねてきた。

 紗世らしかった。

 いまは、そんな彼女の在り方が眩しく見える。

 だから僕も誤魔化すことはやめた。


「言葉では、少し説明しづらいんだけど……たぶん、彼女とはもう関わらないと思う」

「……どうして?」

「俺と居ると、彼女はダメになる」


 僕が絵を描くことで、乃恵の人生は明るくなるのだと信じていた。

 実際は、その逆だった。

 これ以上、僕の絵に縛られていたら、乃恵はどこにも行けない。

 僕を画家にするべく、自分の人生を棒に振ってでも尽くそうとするだろう。

 あってはならないことだ。


 芸術という、成功する確証など、どこにも無い修羅の世界。

 そんな世界に、彼女を巻き込むべきではなかったのだ。


「絵も描かない。今度こそ本当に、描かないって決めた」

「……本当に、やめるの?」

「ああ。怖くなったんだ、自分の絵が。俺が描くことで、誰かの人生が変わる。耐えられないんだ。その重みに」


 自分の描く絵が、こんなにも誰かに影響を与えるとは思わなかった。

 初めは嬉しかった。僕が描くことで、彼女が喜んでくれることが。

 僕の絵によって心を洗われ、希望を見出してくれることが。


 ……だが、人を癒す薬も、度を越えれば毒となる。

 僕は、乃恵のために絵を描きすぎた。


「誰かの人生を壊してまで、俺は……絵を描きたくない」


 絵は見る人を幸せにする。

 そう信じている。

 だからこそ、それができないのなら……今度こそ本当に、僕は絵の世界から離れよう。


「……雨、止んだみたい」


 窓の外を見て、紗世はぼそりと言った。


「明日、夏祭りだね」

「……そうだったな」

「行こうよ、一緒に。それで、気分転換しようよ」

「気分転換?」

「うん。いまの朝人に一番必要なのは、たぶんそういうの」


 椅子から立ち上がった紗世は、明るい笑顔で僕に言った。


「アタシ、バカだからさ。難しいこと言われても、うまくアドバイスとかできないや。朝人がそう決めたなら『そっか。しょうがないね』としか言えないし」


 紗世は自嘲するようにそう言ってから、「でもさ」と付け足した。


「でもさ……まだ、早すぎるんじゃない? いろんなこと、決めつけるにはさ」


 笑顔の裏に、どこか寂しさを混ぜて、紗世は僕に手を差し伸べた。




    * * *




「おにぃ! 早く仕度せい! 祭が真昼を待っている!」

「わかったわかった。べつに逃げやしないから落ち着けって」


 浴衣を身につけた真昼がハイテンションになって絡んでくる。


「出不精なおにぃが最近出かけてばっかりだったから真昼ちゃんは寂しかったんじゃい! 今日は存分に夏の思い出作りっすぞおにぃ!」

「はいはい。リンゴ飴買ってやるから向こうでは大人しくしてるんだぞ?」

「やったぜ!」


 玄関を出ると、紗世はもう仕度ができていたようで、門の前で待っていた。


「やっほ。蒸し暑くならなくて良かったね」


 薄桃色の浴衣を身につけた紗世。

 長い髪をロール状にまとめて、かんざしを付けた姿。

 一瞬、別人かと思うほどに大人っぽく見えた。


「どう? 似合う?」


 腕の袖をフリフリと揺らしながら小首を傾げる紗世。

 控えめに化粧もしているのか、いまの紗世は本当に大人の女性らしい色気があった。


「あばばば」


 真昼が自分と紗世の浴衣を見比べて口を大きく開けている。

 真昼の目線は主に紗世の胸元に集中していた。


「……やっぱり紗世ちゃんはエッチだな!」

「エッチ!?」


 まさかの感想が来て、紗世は驚愕の表情を浮かべる。


「だってだって普通和服って胸元が目立たなくなるはずなんだぞ! お母さんも言ってたぞ! なのに紗世ちゃんの浴衣、おっぱいの自己主張が激しい! エッチだ!」

「ななな」


 真昼に指を突きつけられた胸元を紗世は庇うように隠す。


「ズルイぞ紗世ちゃん! 昔はペッタンコ仲間だったのに自分ばっかりどんどんバインバインになって! 真昼にも分けてくれ!」

「ま、真昼ちゃんもそのうち大きくなるって」

「本当にそうか!? 真昼もでかくなれるのか!? 紗世ちゃんのおっぱいのサイズと同じようにエッチになれるのか!?」

「ちょっと真昼ちゃん!? 何で私のカップサイズ知ってるの!?」

「え?」

「え?」


 蝉が鳴いている。

 祭りの賑やかな音がこちらからも聞こえてくる。

 すっかり夏の雰囲気だ。


「……H」


 意識を逸らそうとしたが、つい口から出てしまった。

 カァっと紗世の顔が真っ赤になる。


「忘れろ~!」


 脳天に衝撃がはしった。




    * * *




 夏祭りは今年も盛況だった。

 どこから回ろうか目移りする。


「あっ! おにぃ! 真昼射的やりたい! 最新ゲーム機を見事に当ててやるから後生だおにぃ!」

「三回までだぞ?」


 真昼とのこんなやり取りも毎年恒例だ。今年は三回で諦めてくれることを願う。


「真昼ちゃん相変わらず元気だね」


 横で紗世が微笑ましげに言う。


「来年は中学生になるってのに、ずっとあんな感じじゃ兄貴として心配だよ」

「大丈夫でしょ。どうせそのうち朝人よりしっかり者になるって。女の子ってそんなものだよ」

「そういうものか?」

「そうそう。男子が思ってるより、女の子ってずっと早熟なんだから」


 早熟。

 紗世の言うとおりかもしれない。

 昔は少年のようにわんぱくだった紗世の横顔が、いつのまにか、こんなにも女性としての魅力に溢れているのだから。


「いやでも変わっちゃうんだよ。だってそうしないと……どんどん置いて行かれちゃうもん」

「置いて行かれる?」

「男って、大人になっても子どもっぽいくせにさ……目を離してる隙に、どんどん先に行っちゃう。気づいたら手が届かないくらい遠いところに居るんだもん。必死だよ、こっちは。追いかけるのにさ」


 コツコツと下駄を鳴らして、紗世は僕の先を歩く。


「……どうして、同じ歩幅で歩けないんだろうね」




    * * *




 夜空に色彩豊かな光の花が咲き乱れる。

 今日は夕立もなかったので、無事に花火は打ち上がった。


「ほら、真昼起きろって。花火始まったぞ?」


 食べては遊び回って、すっかりスイッチが切れたらしい真昼は、僕の膝の上でぐっすり眠っていた。

 あとで「何で起こしてくれなかったんだ~」と騒がれるのもイヤなので身体を揺するが、目覚める気配はない。


「寝かしてあげなよ。朝人と久しぶりに遊べて嬉しかったんだよ」

「まったく、毎年こうなるんだよな」


 眠る真昼を背負って、花火が見えやすい場所に移動する。

 年々、背中に乗せる妹の重みが増していく。

 あんなにも小さかった真昼も、大きくなっている。

 歳月の流れを実感する。


 十六回目の夏。

 僕と紗世も、だんだんと子どもではなくなって、大人に近づいている。




 神社の境内は、隠れた花火の名スポットだ。

 長い階段を昇るのが億劫なためか、僕ら以外に足を運ぶ人間はあまりいない。

 おかげで今年も、ゆっくりと花火を観賞できそうだった。


「綺麗だね」

「そうだな」


 紗世と並んで花火を見る。

 いままでは、こうして紗世が隣にいることが当たり前だった。

 当たり前のことだと思っていた。

 ……でも、今年はそうじゃなくなっていたかもしれないのだ。

 こうして紗世が傍に居てくれること。それが、どれだけ特別なことだったのかを僕は思い知った。


「……今年はもう、一緒に見られないって思ってた」


 紗世も同じ気持ちだったのか、花火の音にまぎれて、そう言った。


「ねえ、朝人。……本当に、もう絵を描かないの?」

「……うん。描かない」


 今夜は楽しい時間を過ごした。

 気分もだいぶ良くなった。

 ……それでも、考えは変わらなかった。


「誰かを不幸にするくらいなら、描かない。はっきりわかったから。俺の絵じゃ……何も救えないんだって」


 助けたい人がいた。

 幸せになってほしい人がいた。

 一緒に人生を生きたいと思った人がいた。


 ……でも僕の絵に、その人を救う力は無い。


「そんなことないよ」


 紗世がハッキリと言った。

 それだけは、言わせないとばかりに。


「違うよ、朝人。それだけは、絶対に違うよ」

「紗世?」

「だって、アタシは」


 長年秘めてきた思いを打ち明けるように、紗世は力強い眼差しを、僕に向けた。


「アタシは、朝人の絵に、救われたよ?」


 大きな花火が打ち上がり、紗世の顔を眩しく照らす。


「憶えてる? 朝人が初めてアタシの絵を描いてくれたときのこと」

「え?」

「アタシがここで泣いてるとき、慰めてくれたでしょ?」


 神社の境内を見回す。

 花火が閃くと同時に、記憶が蘇る。




 オトコ女。

 幼い頃の紗世は、いつしか男子たちにそう呼ばれるようになっていた。


『朝人を苛めるなァ!』


 内気な僕が苛められているところを、いつも鍛えた技で助けてくれた紗世。

 喧嘩で勝てないと悟った彼らは精神的に紗世を追い詰め始めた。

 表面上では、紗世は強気でいた。


 でも知ってしまった。人気の無い場所で紗世はいつも泣いていたことを。

 僕のせいだった。だから何とかして力になりたかった。

 でも僕にできることといえば、絵を描くことしかなかった。

 だから……。


「『紗世ちゃんは、かわいい女の子だよ。ほら髪を伸ばしてお洒落すれば、こんなにもかわいくなる』……そう言って、アタシの似顔絵描いてくれたでしょ?」


 まだ絵画教室にも通っていない頃の、本当にラクガキレベルの似顔絵だった。

 でも、あのときの僕は紗世に元気になってほしくて、懸命に描いた。

 髪を伸ばした姿をイメージして、華やかな、女の子らしい服を着た幼馴染を、何枚も。


「アタシさ、女の子らしい自分なんて想像もできなかったから、お洒落なんてどうでもいいって思ってた。どこかで諦めてたんだ。でも『男みたい』ってバカにされるのがやっぱり悔しくて、悲しくて……。だから、朝人に絵を描いてもらえて、すごく嬉しかったんだ。『アタシも、こんな風にかわいくなっていいのかな』って、そう思えた」


 紗世が短い髪を伸ばし始めたのは、それからだった。


「朝人が、アタシを『女の子』にしてくれたんだよ?」


 潤んだ瞳を向けて、紗世は言った。


「あのとき、ここで──アタシは初めて『女の子』になったの」


 紗世から「色」が見える。

 花火の影響じゃない。

 ずっと隠されていた、紗世の感情の色が、霧が晴れていくように見えていく。


 そこにある色は……乃恵と同じ「桃色」。


「アタシ、絵のことは全然わからない。だから朝人が、絵で人を変えちゃうことが、どれだけ怖く感じるのか、その気持ちもわかってあげられない。……でも、信じて? 朝人の絵は、人を不幸にしたりしない。きっと……有坂さんもアタシと同じだったんだよ」


 内に隠していた気持ちを明らかにして、紗世は乃恵のことを語る。

 いまなら、乃恵の気持ちを理解してあげられるとばかりに。


「ずっと、自分の中で何かが欠けてる気がしてた。絵で例えるなら、一カ所だけ色が無いの。……でも、朝人の絵を見て、それが埋まった気がした。足りない色が加わったの。だからバカにされても平気になった。絶対に綺麗になってやるんだ、って決めたから……」


 胸元に手を当てながら紗世は言った。


「有坂さんも、きっとそうだったんだと思う。朝人の絵と出会って、やっと足りない色が埋まったんだよ。でもその気持ちが、ちょっと先走っちゃって、うまく人に伝えられなくて、それで拗れちゃったんじゃないかな?」


 まるで僕と乃恵のやり取りを見てきたように紗世は言う。

 ……いや、きっと乃恵と真正面でぶつかった紗世だからこそ、なにもかも見抜いているのだろう。


「あの日、有坂さんに言われちゃった。『先に打ち明けた私の勝ちだ』って。『ずっと傍に居ながらアナタは何してたの?』って。ははは、結構毒舌だよね、彼女……」

「紗世……」

「けど、そのとおりだよ。朝人のこと、わかっているつもりで、わかってなかった。そういう意味でも、アタシは有坂さんに負けてた。……彼女と話して、理解しちゃったんだ。アタシじゃ『絵を描く朝人』は支えられないんだって」


 紗世は顔を俯かせる。


「ひどいこと言っちゃたな。『心の隙間を埋める相手なら、誰でも良かったんじゃない』って。負け惜しみだね、完全に」


 嘲るように苦笑してから、紗世は真剣な表情を向けた。


「朝人。有坂さんは……朝人じゃないとダメだよ」


 悔しさと、切なさと……そして憐憫を声に混ぜて、紗世は断言した。


「あと一押し、あるんだと思う。有坂さんにとって必要な色が。その色を埋められるのは……きっと朝人しかいない。他の誰かじゃ、できないんだよ」

「紗世……でも、俺……」

「……怖ければ、逃げたっていいじゃない」


 言葉を選ぶように、紗世は息を深く吸った。


「本当に絵を描くことが辛いなら、やめたっていいと思う。アタシは朝人の考えを尊重するよ。……でも、それで本当に後悔しない?」


 まるで我が事のように、紗世は涙を滲ませて言った。


「絵を捨てて、朝人は本当に、幸せになれるの?」

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