仮題『目』
日向 しゃむろっく
TO-BE小説工房 第77回「目」応募作
「情報アレルギーですなぁ」と、医者が言った。タナカ氏はその聞き慣れない言葉に間抜けな声を挙げたが、医者は虚空を指でタップする仕草をしながら続けた。
「受け入れて下さい。あなたの脳はサイバネを拒否しているんですな。拡張現実はもう一生使えません」
タナカ氏は「それは困る。仕事は今やサイバネが当たり前だ。失業してしまう」と食い下がったが、医者は「障害者年金があります。生活保護も。申請順によってはハネられるので注意して下さい。手順は出しておきます。お大事に」と言って終わらせてしまった。
仕事中に発症した時、タナカ氏はパニックに陥った。目の前から編集中の書類が全部消え、今自分が飲んでいるコーヒーの成分も分からなくなった。時間も分からなくなってしまい、終いには自動改札を通過することも出来なくなった。
その日のうちに診断書を会社に送ったタナカ氏だったが、「仕事が文字通り出来ない人間を会社に置いておけないよ」と、課長から通告された。彼は仕事をあっという間に失ってしまった。
翌日、アパートのドアを叩く音が聞こえた。タナカ氏は思わず「誰だ!」と叫んだ。それが「ノック」という行為だったと知ったのは後のことだった。いつもならサイバネで来客が分かるが、今の彼の視界には情報の欠片も見えない。あるのは白い壁と無機質なドアノブ、彩色の無い家財のみ。
「市役所です。支援物資をお届けに来ました」と、ドアの向こうの男は言った。タナカ氏はドアを開けて支援物資を受け取った。ビスケットやカップメン、当面の生活に必要な現金だ。タナカ氏は現金を初めて見た。
「では受け取りのサインをサイバネでご入力下さい」という役人にタナカ氏は「アンタはサイバネ使えるのに、俺がどんな奴か知らないのか!」と激昂した。役人は「では」と言ってタブレットを突き出す。
タナカ氏はサインを書き殴り、役人を玄関からたたき出した。玄関にうずくまり、彼は自分の情けなさに絶望するのだった。
翌日。タナカ氏は隣室の掃除機の音で目覚めた。外では小鳥が鳴いている。彼は玄関でめそめそと泣いて、疲れて寝ていたのだ。硬い床の上で寝ていたため、右半身が痛んだ。
視界には相変わらず何の情報もない。支援物資の中にあった『腕時計』を見ると九時だった。いつもならヘッドラインやらなんやらでたたき起こされる彼だったが、目覚めはスッキリしていた。ひとしきり情けない思いをした分冷静になったのか、タナカ氏は朝飯をとることにした。
カップメンを作る間、三分間。秒針を目で追いかけていた。こんな簡単な事でさえ、注意を払って時計を見ていなければならない。彼は自分が廃人になったことを身をもって体験していた。「こんなに時間がかかるのか」と、タナカ氏は唸った。彼は蒸らされるかやくが放つ美味そうな匂いに苛々しつつも、静かに座して待った。
蓋を開けた。湯気が立った茶色の、ダイスミンティが入ったスープが不気味に見える。いつもならば液温や具材の原産国まで分かるのに、今は何も分からない。本当にこれを口にして良いのだろうか?
不安が頭をよぎり、何も出来なくなった。だが、「もうどうでもいい」と、タナカ氏は考えるのをやめた。そしてスープをすすった。
タナカ氏は驚いた。塩味が効いていて、美味い。不安と疲労で一杯だった心が、熱いスープで満たされ、置換されていく。「なんだこれは」と、彼は思わず叫んだ。
支援物資に放り込まれていた冊子を手に取って読んでみると、そこにはただ、一枚の写真が見開き1ページに掲載されているだけだった。だがその写真はどれも美味そうで、美しく、謎めいていた。彼はいつの間にか「何も分からない」ことを忘れていた。
その日のうちに彼はアウトドアショップへと駆け込んだ。二日分の資材を買い込み、その足でできるだけ静かで不便なキャンプ場に向かった。
テントを張り、かまどを組み立て、薪を割って焚き付けを探し、なかなか点かない火に苛々して作ったカップメン。そして〆のインスタントコーヒー。
空には天の川が横たわり、月は息を潜めて夜空に隠れている。宵闇は闇と言えるほど黒くなく、深い紺色をタナカ氏に披露していた。
あの星座は何か、あと何時間で夜が明けるだろうか。この火はあとどれくらい燃え続けるだろう。この先、サイバネが無い状態で生きていけるだろうか。
——どうでも良い。世界はそこに見えている。
仮題『目』 日向 しゃむろっく @H_Shamrock
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