第4話 「 」
「おーっす、はよ、萩」
廊下を歩いていてかけられた声に萩は片手をあげながら答える。隣に並んだ知人はどうやら別の人と映画に行ったらしく、感想を熱が入った口調で語り始める。
「あ、そういやさ」
序盤のシーンの演出について語っていた知人は、ふと足を止めてスマホを取り出す。
「萩、これ知ってる? 悪魔の喫茶店ってやつ。都市伝説なんだけどさー」
ほれ、と差し出されたスマホには喫茶店のチラシの写真が表示されている。羊皮紙のようなデザインの紙に、インクの滲んだ文字。作りこまれた小道具のようなその紙に、視線が吸い寄せられたまま動かなくなる。
勝手に早鐘を打つ心臓。
白黒に点滅する視界。
知人が「大丈夫か?」と顔を覗き込んできたような気がしたけれど、何かを答える余裕もなく、香耶のクラスを目指して走り出した。
嘘だと、ただ一言言って欲しかった。
あんなの作り話だと、一言でいいから否定の言葉が欲しかった。
やけに真剣だった香耶の表情と押したまま戻らなくなった青いボタンが頭の中でぐるぐると回る。足を踏み出しているのか世界が落ちているのか分からなくなる。吐き出したはずの息をのんで、吸い込んだはずの空気を吐いて、ぐちゃぐちゃの世界をただ走る。
「香耶!」
教室の扉に手をかけて、叫ぶように名前を呼ぶ。振り返った名前も知らない香耶の友達が首を傾げて近寄ってくる。
「あれ? 香耶、彼氏くんのとこに居たんじゃないんだ? 寝坊かね?」
時計を見ながらさらに首を傾げる香耶の友達に返す言葉もなく、廊下に飛び出した。誰かにぶつかったような気がしたけれど、そんなことで止まっている訳にはいかなくて、香耶の家を目指してまっすぐ走る。校門であいさつ当番をしていた先生の怒鳴り声が追いかけてきたけれど、振り切って通学路を走る。
昨日香耶と歩いた河川敷に出る。遠目に見える橋の袂で赤いランプが点滅しているのが見えた。世界が赤と黒と白でぐるぐると回る。
欄干にぶつかってボンネットがひしゃげた車。
泣き叫ぶ小学生と道路に転がったランドセル。
横断歩道の白線の上、腕が変な方向に曲がっているのに、涙も流さない女の子。
駆け寄った救急隊員が何度も呼びかけるのに、一言も返さない、同じ制服を着た女の子。
世界が点滅している。赤と黒と白。
一瞬で染みついた光景が何度も何度も、眼前に迫る。もう、救急車は走り去ったのに。もう、そこには誰も居ないのに。ずっと、そこにその人がいるような気がして。
ずっと、そこに、香耶が倒れたままのような気がして。
「おい、兄ちゃん、だいじょぶか?」
膝の力が抜ける。吐き気がこみあげてきて、熱のこもったコンクリートに向かってえづいた。逆流してきた朝食と胃酸が道路に散らばる。
「ぁ、あ、あ、ぁあ、あああああ!」
(ぼくの、せいだ)
白と黒と、赤。歪んだ世界の真ん中に、倒れたままの香耶が居る。
(ぼくが、ボタンを押したせいだ)
&&&
萩は自分の短い呼吸で意識を取り戻した。強引に記憶を引きずりだされた不快感に店主をきつく睨みつける。とうの店主はただ静かにその視線を受け止めて、首を横に振った。萩は目を剥いて、スツールが倒れるほど勢いよく立ち上がる。その拍子にいつかの星空のように、萩の涙が空に散った。
「なんで! 願いを叶えてくれるんだろ、あんたには、そういうことが出来るんだろ!」
男の襟元を掴み上げて、萩は叫んだ。心臓が張り裂けるように痛かった。激昂して叩きつけた言葉にもただ静かな視線を返されて、掴みかかった手から力が抜ける。みっともないと思うのに涙は止まらなくて、いつの間にかもとに戻っていたスツールに沈み込む。
「ぼくのせいなんだ」
強く手のひらに押し付けた瞼の裏に、今でも、ずっと、香耶が居る。いつもどおり微笑んだままの、香耶が居る。
「ぼくが嫌われてるって知らなくて。ほんとだって、思わなくて。ボタン押したから」
瞼を閉じればどこに居たって、香耶が見えるのに、目を開けて探しても、彼女はもうこの世のどこにも居ない。
「僕が殺したんです、だから、だから、どうか。僕はどうなってもいいから、香耶を、助けてください」
カウンターに額をこすりつけて懇願する青年に店主は小さく息を吐いた。
「それは違いますよ」
店主の言葉に萩は勢いよく顔をあげた。「な、んで、そんなこと言えるんですか」とめどなく溢れる涙を拭う事もせずに見上げてくる青年の姿は痛々しく、店主は僅かに眉を寄せた。
「簡単なことです。この店のメニューに、貴方を嫌っている人間が居なくなるボタン、なんて便利なものが存在しないからですよ。これまでも、これからも、そんな一個人にしか売れない商品を作るつもりはありません」
心臓を抉るように、傷を包み込むように、店主の声は呆然の泣き続ける萩の中に入り込んでくる。
「彼女は貴方を好きだと嘘を吐いたのではなく、貴方が好きだから嘘を吐いたのではないですか?」
静かに落とされる言葉の合間に、香耶の笑顔が蘇る。通学路で、教室で、廊下で、公園の木の陰で、あの屋上で。何度だって告げられた言葉が、浸み込んだ彼女の声が、
『好きだよ、萩』
──笑ってそう言う、香耶が見える。ぼろぼろと頬を伝う塩水が余計なものをみんな溶かしていって、見えた彼女は確かに笑っていた。初夏の風の向こう。白いワンピースがはためいて、遠ざかっていく。
「待って!」
もう、目を閉じて誤魔化したりしないから。
「香耶!」
もう、恐怖にまけて蔑ろにしたりしないから。
「香耶……!」
吹きすさぶ風に阻まれて、駆け出したのに距離がつまらない。
「香耶! ……いかないで……」
か細い悲鳴に、少女は一度だけ振り返る。ゆるりと上がった口角の前に人差し指をたてて、少女は言葉を吐いた。
「 」
声も届かないほど遠くにいる彼女が何を言ったのか、萩だけが知っていた。
&&&
ピピピピピピピ。
無機質な電子音に無理やり覚醒させられて、萩はのっそりと起き上がる。そこは悪魔の喫茶店でも、木漏れ日の中でもなく、いつも通りの自分の部屋だった。頬を伝う涙と左手に握りしめていた青葉だけが、あの光景が夢ではないことを証明している。
「香耶」
呼んだ名前に返事はなく、大きな空白だけがそこにあった。
青年が消えた店内で、男は半分透けた少女にミルクティーを差し出した。
「これで、よかったのですか」
栗色の長い髪を揺らして少女はティーカップを傾ける。蕩けるように甘いそれをゆっくりと飲み込んでから、少女は笑った。
「いいの。言いたいことは全部いったもの」
「彼の言葉を聞くくらいの我儘は許されると思いますが」
店主の踏み込んだ言葉に少女は二度、ぱちくりと瞬きを繰り返して、それから弾けるように笑った。涙が滲むまで思い切り笑った少女は、細い指先で目元を拭ってから口を開いた。
「わたし、言葉にされないと分からないほど鈍くないの」
そう言って、少女はミルクティーに何を写したのか、じっと乳白色の液面を見つめたまま言葉を続ける。
「知ってたの。好かれてたことも、好きを信じてくれてないことも、ぜんぶ。あの人、ぜんぶ仕草に出るんだもの。見てたら、分かるの」
少女のまるい瞳が溶けて、透明な雫がひと粒、カウンターに落ちた。
「あーあ、好きだよって言いたかっただけなんだけどなぁ」
優しい結末を迎えるはずだった嘘。柔らかく始まるはずだった日々。引きちぎられて終わった日常。
涙を流す少女の体は徐々に薄れていて、この僅かに許された猶予の時間すら終わろうとしていることを物語っていた。店主は爪が優しい少女の肌を傷つけないように、折り曲げた指でその涙を拭った。
「この度はご来店ありがとうございました」
最後に泣きながら笑って消えていく少女に深くお辞儀をして、店主は別れの言葉を紡ぐ。
「どうか二度とご来店なさりませんように」
ここは、悪魔の喫茶店。彼岸に落ち切れなかった死者の魂の未練を叶える奇跡のお店。優しくて穏やかで、だから消えてしまった先代の作った小さな店で、悪魔は祈る。
どうか、もう二度と会いませんように。
僕が殺した最愛の君へ 甲池 幸 @k__n_ike
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