第3話 嫌わないから傷つけてよ
夕日を反射してきらきらと光る川面を横目に、萩と香耶は手を繋いで歩く。すれ違う車が香耶の髪を揺らしていくのが綺麗で、萩は目を細めた。頭痛は酷くなる一方で早く横になった方が良いはずなのに、一秒でも長く後ろ姿を見ていたいから足の動きはどうしても鈍くなる。
「香耶」
「なーに」
「仲、いいんだね」
「誰と?」
「木下」
揺れる髪の毛を見ながらぼんやり言葉を返す。香耶がいつもより高い声で笑って、足を止めないまま振り返った。
「妬いた?」
香耶はゆるりと口角をあげて、眉尻をさげて、首を傾げた。
「そうだって言ったら、喜ぶの?」
香耶はわずかに目を見開いて、ぎゅっと眉を寄せて、それから前を向いた。
「本音で答えてよ」
香耶の右手がするりと解けて、離れていく。縋りつきそうになった指先を途中でまるく握りこんで、萩はその場で足を止めた。乾いた喉では何も音にならなくて、嘘で腐った指先では何を掴むことも許せなかった。
夕日の向こうに消えていく香耶を視界から追い出すようにしゃがみこんで、膝に額を押し付ける。にじみ出てくる塩味の液体が、皮膚に鋭く沁みた。
&&&
『もう少し言い方ってものがあるでしょう』
でも、先生、僕の言ったこと、間違ってないよ。
『謝りなさい、萩』
でも、お母さん、僕、正しいこと言ったんだよ。
『萩くんがあやちゃん泣かせたー!』
でも、僕、悪いことなんて言ってないよ。ねえ、僕の話、聞いてよ。
教室の真ん中で泣きながら訴える萩の言葉に耳を貸す人間はいない。泣いているその子を守るように、みんなが萩を指さして怒鳴りつける。浴びせられる言葉が、糸に変わって萩の口を縫い付ける。迫ってくる声が、ガムテ―プに変わって萩の口を塞ぐ。叫ぶことすら満足にできなくなって、伸ばした手は払いのけられて、萩は暗闇の中でひとりぼっちになる。怖くて苦しくて膝を抱えて丸くなって──リリリリリ。
突然鳴り響いた電子音に、萩の意識は強制的に覚醒させられた。萩は瞬きを繰り返しながら体を起こし、音を立て続けるスマホを手に取った。頬に伝った涙を拭いながら着信に応じると、弾んだ香耶の声が耳朶をうった。
「ね、萩、今平気? 家行ってもいい? すごいもの見つけたの」
萩は欠伸をしながら時計と外の暗さを確認してから立ち上がった。
「僕が行くよ。今家?」
「外! 今ね、萩の家の前」
深くため息を吐いて、額を押さえた。電話を繋いだまま部屋を出て、母親に一声かけてから、玄関の外に出る。家の前の階段に座っていた香耶が視線をあげて、楽しそうに笑って、それから弾かれたように立ち上がる。
「萩、泣いてた? 置いて帰ったの、怒ってる?」
細い指が頬を滑る感覚で、自分が泣いていたことを思い出して萩は苦く笑った。
「大丈夫、なんでもない。ちょっと夢見が悪かっただけだよ」
「本当?」
「嘘じゃないよ」
その返事に香耶は何か言いたげに唇を尖らせたけれど、結局何も言わずに小さく口角をあげた。日が落ち切って暗いせいか、街灯のランプが切れかけで点滅しているせいか、その表情はひどく悲し気に見えて、萩は思わず手を伸ばした。
その青白い指先が届く前に、踊るように香耶が階段を降りて萩を振り返る。「ね、少し歩こうか」避けられたことに気が付かないふりをして、ゆるく口角をあげて頷いた。
暗い夜の中をふたりだけで歩いていく。「あのね」と言ったきり、黙ってしまった香耶の言葉を待ちながら、萩は空を見上げた。新月の夜だった。青を限りなく濃くした空の上に涙が散らばるように星が瞬いている。
昼間の暑さはなりを潜めて、指先にからまる風はほのかに冷たい。信号が点滅している交差点を渡りながら、萩は星空に手を伸ばした。
辺りが暗いからか背伸びをしたら届きそうに感じられた星空は、やっぱり、どうしようもなく遠かった。
ずっと黙ったままだった香耶が口を開いたのは、彼女の家が通りの向こうに見え始めた頃だった。
「ね、萩」
住宅街に取り残されたままの暑さが肌に纏わりつく街灯の下。立ち止まった香耶を振り返って、萩は首を傾げた。
「ん、なに?」
「手、出して」
俯く香耶を白い街灯が見下ろしている。濃い影が落ちているせいでその表情は見えなくて、萩はおそるおそる右手を差し出した。香耶の両手がまるく何かを隠しながら萩の右手の上にかぶさる。ずっと香耶の手の中にあったせいでぬるくなった何かが、萩の右手に落ちて、彼女の白い手がそっと静かに離れていく。
萩の右手に残っていたのは、青くて丸いボタンがついた白い紙箱だった。
「箱?」
首を傾げる萩を見上げて、香耶が目を細めて笑った。
「それね、悪魔の喫茶店で売ってもらったボタンなの」
萩は瞬きを繰り返して、香耶とボタンを見比べる。香耶は人差し指をそっと唇の前に立てて、密やかな声で「内緒だよ」と前置きしてから言った。
「それね、萩のことを嫌いな人がみんなこの世から居なくなるボタン」
「────え」
咄嗟には言葉が出てこなかった。だって、あまりにも現実味がない。悪魔の喫茶店だとか、嫌いな人が死ぬボタンだとか。でも、香耶があんまり真面目な顔で囁くように話すものだから、笑い飛ばすこともできずに、ただ固まる。
香耶は白い箱を萩の手の中にしっかりと握らせると、もう一度「内緒だよ」と呟いた。香耶はぎゅっと外から萩の手を握りしめて、空気が弾むように小さく、小さく言葉を落とす。
「だから、大丈夫だよ、萩」
初めて、酸素がそこにあることに気が付いたような気がした。伸ばしかけた手からすり抜けるように香耶の両手が離れて、残ったのはまっすぐにこちらを見つめる香耶の笑顔だけだった。
「ぁ」
喉から言葉が溢れかけて、でもそれらが音になる前に、香耶が離れていく。気まぐれに顔を背ける猫のように。背中に縋りつくように手を伸ばして、届かないまま静かに落ちた。
「おやすみ、萩!」
軽やかにステップを踏んで振り返った香耶が手を振りながら叫ぶ。彼女の背中が見えなくなっても、萩は長いこと立ち尽くしていた。
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