第2話 いっそこの手が腐っていたなら振りほどく理由になるのに

「わたし、萩が好きだよ。ほんとうだよ」


 少女はそう言ってはぎの頬を両手で包みこんだ。視線を逸らそうにも視界のどこに視線を向けても少女が見えてしまうから、萩は笑うふりで目を閉じた。彼女の綺麗な瞳の中に住む歪んだ自分自身なんて、見たくもなかった。


「ありがとう、かや」


 香耶かやの細い髪が頬に触れて、押し付けられる額が少しだけ痛かった。さらに近くなった気配に萩は呼吸を止める。「ねえ、萩」香耶が震える唇で萩を呼ぶ。その後に続けられる言葉を萩はよく知っていた。


「好きだよ、本当に。ほんとうに、わたし、萩が好きだよ」


 屋上の日陰の中で、香耶はそう言って萩を抱きしめる。首筋にすがりつく体温は不快ではなくて、萩はだらりと下げたままの両腕を僅かに持ち上げる。抱きしめられたまま見上げる青空は馬鹿みたいに広くて遠かった。


 結局、萩はまた目を閉じて、何も返せないまま昼休みは終わりを告げた。



 五限目の授業を聞き流しながら、萩はそっと窓の外に視線を向けた。香耶のクラスは体育のようで、萩の教室まで彼女のはしゃいだ声が聞こえてくる。その声だけで自分の口元が緩んだのが分かった。


 一度その姿を視界に入れたら、もう視線の逸らし方が分からなくて、萩はグラウンドを走り回る香耶の姿を目で追った。好きだと思う。萩の知る「愛おしい」は間違いなく、香耶の形をしている。抱きしめられたときの温度を思い出して、萩は自嘲的に笑う。


(ねえ、君は、僕の何が好きなの、香耶。振り返っても、君は僕を好きだと言ってくれるの)


 好きだから、抱きしめ返したい。

 嫌われたくないから、手を伸ばしたくない。


 自虐と好意でねじれた思考では、自分がどうしたいのかすら、まるで分からなかった。



「萩―」


 後ろからかけられた声に萩は笑みを浮かべて振り返った。教科書と問題集ですっかり鈍器と化したリュックを引っさげながら、知人が言葉を続ける。


「今日ひま? 金曜だし、どっかで遊んでかねえ?」

「あー、うん、いいね、どこ行こうか?」


 五限目の終わりからじわじわと苛まれている頭痛を飲み込んで、萩は笑顔を張り付けた。「一週間なげーよなー、疲れたぁ」と嘆きながら萩の肩に腕を回した知人が体調不良に気が付く様子はない。萩は小さく安堵の息を吐いた。


 濁った吐息が指先に纏わりついて、末端から腐っていくような気がしたけれど、そっと盗み見た指先はいつも通り青白くて、萩は薄く笑った。


「どこ行く? ゲーセン?」

「あれ、どっか行きたいとこあるんじゃないの? どこでも付き合うけど」

「ははっ、萩にはなんでもお見通しかぁー、いやさ、見たい映画あんだけどいい?」

「あはは、いーよ、なんてやつ?」


 用がある時しか声かけないくせによく言うね。吐き出しかけた毒を飲み込んだら、喉が焼けるように痛んだ。叫ばないように指をまるく握りこんで、奥歯を強く噛む。強張った表情なんて見えてもいない知人は、見に行く映画について熱く語り続ける。


「はーぎ」


 洋服の裾をそっと引くように呼ばれた名前に、萩は首だけで振り返った。染めているわけでもないのに、栗色の綺麗な髪が香耶の頬にかかる。空気に混じった埃が日の光を反射して舞っているのが、彼女の纏うやわい空気の具現化みたいだった。


 そんなことを考える生ぬるい思考回路が気持ち悪くて、萩は笑うふりでまた目を閉じて、言葉を返す。


「なに? 香耶」

「一緒に帰ろって約束したのに、ひとりでどっか行かないでよ」


 香耶の細い指が萩の左手を絡めとる。萩は咄嗟に腕を引いたけれど、得意気に笑う香耶との距離が近づいただけだった。


「なんだよ、尾崎おざき。萩は俺と映画見に行くんですけど?」

「今日はわたしの方が先約なの、彼女に譲ってよ、友人A」

「その呼び方やめろ、俺がめっちゃモブみてえじゃん」

「えー、知人Aとどっちがいい?」

「名前で呼べ、馬鹿野郎」

「あははは、ごめんて、木下」


 香耶は萩と繋がった右手を顔の高さまであげて「じゃ。そういうことだからごめんね、木下」と片手で知人を拝んでから、その手を強く引いて廊下を進む。まだ人がそれなりに残っている廊下で手を繋いで歩くのは、ひどく恥ずかしくて、萩は深く俯いた。


 視界の隅で香耶の右手と萩の左手が一緒に揺れる。同じリズム、同じテンポ。まるで、左手だけ、香耶の一部になったみたいだ。ふやけた思考回路が吐いた言葉はあまりに甘くて胸やけがした。


 触れる香耶の温度を好きだと思う。触れている自分の指先を嫌いだと思う。


 嬉しいのに辛くて、意味もないのに涙が出そうだった。


「ねえ、香耶」

「ん? どうかした?」

「今日、約束なんてしてないよ」

「うん。でも、あんまり具合よくなさそうだったから」


 そう言って香耶は足を止めて振り返った。


「違った?」


 ゆるり、と口角をあげて香耶が首を傾げる。いつの間にか角度を変えてオレンジに変わった陽光が、二人分の影を昇降口に長く焼き付ける。オレンジに染まった香耶の肌はひどく綺麗で、萩は今日初めて心から微笑んだ。両手を顔の横にあげて微笑んだまま言葉を返す。


「降参。香耶にはなんでもお見通しだね」


 香耶はオレンジに染まった細い指で萩の頬を包み込んだ。無理やり視線が絡まって、萩は呼吸を止める。


「分かるよ。見てるもの。わたし、萩が好きなの。些細な変化にも気づいちゃうくらい好きなの。知らなかったでしょ」


 至近距離で見つめた香耶の表情は、近すぎるせいで歪んでいて。そのせいで泣きそうに見えた。萩は息を止めたまま、俯く仕草で香耶の両手から逃れる。「うん、知らなかった」返した言葉に香耶は何も言わずに、ただそっと、空気に溶けるような淡い笑い声だけを落とした。

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