僕が殺した最愛の君へ

甲池 幸

第1話 悪魔の喫茶店にて

「わたし、はぎが好きだよ。ほんとうだよ」


 そう言った人の顔を僕はもう覚えていない。手の温度も、名前も、頬が触れるくらい近くに居たこともよく覚えているのに、その人がどんな顔でそう言ったのかだけは、もう、どうやっても思い出せない。


&&&


 クッションが敷かれた一人がけの椅子がカウンターの前に並ぶ。店内はそれだけで満員で、ドアのすり硝子から差し込む陽光が長方形にその空間を切り裂いていた。


 霧雨のようにささやかに流れるオルゴールが店内の静寂を際立たせる。店主はカウンターの奥でひとり、洗い上がったマグを磨いている。


 と、不意に長方形の陽光が揺らいで、音もなく一人の少女がカウンターの上に降り立った。長い髪から長袖のシャツ、爪の色に至るまで、少女は闇のような黒を纏っていた。長いまつ毛が震えて透明な瞳が世界を映す。


 少女の持つ色彩の中で、その雪花の瞳と肌だけが透けるような白色だった。少女は何度か瞬きを繰り返し、くぁ、と大きく欠伸をこぼした。その仕草に店主の男は僅かに目を細める。


「遅刻ですよ、アルビス」


 言葉では咎めているものの深紅の瞳に険はなく、むしろ幼子を見守る温かさがあった。少女は何度か目をこすって瞬いたが、それでもまだ眠気が抜けきらずに半分瞼を閉じたまま、店主に向かって頭をさげる。


「おはようございます、店長……ぐぅ」


 カウンターの上に立ったまま眠り始めてしまったアルビスに店主は小さく微笑んだ。小さく、優しくため息をついてから男はアルビスに両腕を伸ばした。抱き上げると、アルビスはむずがって眉を寄せる。けれども結局その瞳が開くことはなかった。


 男はアルビスを奥の部屋のソファに寝かせ、しっかりと毛布をかけて、その頬の柔らかさを堪能してから店の方に戻る。磨きかけだったマグと白い布巾を手に取った店主は不意に視線を外に向けた。


 上半分がすり硝子になっている扉が人型の影を写す。店主は僅かに目を眇めて、持っていたマグカップを丁寧に拭いてからやかんを火にかける。伏し目になるとまつ毛の影が瞳に落ちて、深紅の瞳が一層濃く、昏い色を湛える。男の雰囲気に引きずられるように店内の影が膨らんで、光が飲み込まれそうになった刹那。


 ドアベルの軽い音と共に、客人が店の中に足を踏み入れた。


「営業中、ですよね」


 猫背の青年が睨むような切実さで店主を見やる。顎のラインまで伸ばされた髪は櫛を通した様子もなく、猫背と相まってだらしない印象を受けた。瞳の強さと身なりを顧みない怠惰さがちぐはぐで。


 それは、この店に来るある種の客の共通点であり、店主の瞳は一層陰った。青年と店主の視線が交差し、青年の瞳が僅かに揺れる。不安と恐怖と渇望。張り詰めた糸を切るように、店主は一度青年から目を逸らし、カウンターの席を指した。


「いらっしゃいませ。そちらのお席にどうぞ」


 青年はゆっくりと足を動かしてスツールに腰かけた。


「何をお飲みになりますか? 紅茶、コーヒーはアイス、ホット、共にご用意できます。その他ソフトドリンクについてはお手元のメニューをご覧ください」

「え、あ、いや、あの」


 青年は手元のメニューには目を向けず、店主を見上げた。


「僕は喫茶店じゃなく、あなたに用があってきたんです」

「存じております」


 笑みを張り付けた店主はもう一度メニューを示した。火にかけたままのやかんがシュンシュンと音を立てて、二人の視線がほぼ同時にコンロに向く。


 ソフトドリンクのメニューを眺めていた青年はそれを見て、蚊のなくような細い声で「紅茶、をお願いします」と囁いた。店主はぱちくり、と二度瞬きを繰り返し、それから静かに「かしこまりました」と答えた。



 青年の前に甘く香るミルクティーを差し出し、店主は目を眇めて口を開いた。


「それで──あなたの願いは何ですか?」


 薄暗い店内で店主の瞳だけが、深く赤く光る。影は色を増し、光はカーテンに遮られるように薄れる。その光景は、魔法使いが不幸な少女に願いを聞く穏やかさとは程遠く、まるで。


 悪魔に唆されて愚かな人間が奈落へと堕ちていく前触れのようだった。青年は凪いだ表情を浮かべる店主を鋭く見つめた。ごくり、と唾を飲み込んで、青年は願いを口にする。


「僕の寿命と引き換えに、尾崎香耶おざきかやを生き返らせることは出来ますか」


 ふ、と悪魔の纏っていた空気が柔らぐ。青年は知らず詰めていた息を吐いた。


「愚かなのは人も人外も変わらないものですね」


 店主が誰かの名前を呼んだような気がしたけれど、小さすぎて青年にはうまく聞き取れなかった。少し冷めたミルクティーを飲んで、青年は僅かに口元を緩める。甘やかで、とけるように柔らかくて。まるで、青年の心に深く根付いた嘘のような味がした。過去に沈みかけた青年は懐かしいそれらから顔を背けて店主に視線を向けた。


「叶えて、もらえますか」


 店主は緩やかに微笑んで薄い唇の前に人差し指を立てた。


「ええ。これから伺うあなたの記憶に、ひとつの嘘もなかったのなら、喜んで」


 店主の白い指と細められた赤い目が霞む視界の中へと落ちていく中で、その口元だけが痛みを写して僅かに歪んだような気がした。

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