第48話 頑張るぞ (最終話)
山下さんの携帯が揺れた。
「ちょっといいですか…家からです…」
席をはずす山下さん。
僕は少し不安になった。
変わらないでほしいな、どんな綺麗な人、どんな素敵な人より山下さんが好きなのにな。
じっとしていられなくて、僕も席を立ちトイレに行く。大丈夫なはずだけど、ガブちゃんいたずらしないだろうけれど…。
男性用のトイレのドアを開けて入ると、いきなり倒れこんできた人がいた。
僕は体すべてでその人を支えた。膝でも打ったら大けがするよ。意外とでかいし。
よく見ると、向こうで飲んでいた男の人だね。いつのまにか僕より先にトイレに行っていたんだな…。
「大丈夫? どこか打たなかったかな?」
にっこり笑い、その人は応えた。
「大丈夫です、酔ったんじゃなくて、その段差につまづいちゃいました…、ハハ」
ちょっと酔ってないか…。
「気を付けてね…」
「ハイ」
僕は用を足すためにその男の横をすり抜けた。
後ろで、ドアを閉める音がしたのと、
「やっぱりいい人だ…」
というちいさいつぶやきが聞こえた。なんだ…?
席に戻るとまだ山下さんはいない…。怖いな…。
「ごめんなさい…、お待たせしました…」
自然に僕の横に座った、自然にね。
手、腕、肩、山下さんだよ…、よかった。
「どこか行っちゃって、帰って来ないかと思ってすっごく不安になっちゃったよ…」
ぐっと僕の腕を抱える山下さん。
「大丈夫です!幸運は逃がしません!」
かわいいな…。
「乾杯しよう、ね…。なにか頼もう」
「ハイ!」
僕と山下さんのカクテルが運ばれてきた。バーテンダーさんは、気を利かしてちょっと離れた。
「今度…、いや、この週末、ドライブに行きませんか? というか、行こう。城ケ島っていってね、三浦半島の先でね、景色がいいんだ、灯台があって、ヨット部時代にさ、好きな人と将来ここに来たいなって思ったんだ…。行きませんか? じゃなくて…」
僕はグラスを持った。
「行こう…」
山下さんもグラスを持ってくれた。
「ハイ、行きましょう」
やったね。
「乾杯」
僕らはグラスを軽く合わせた。
よかった…。
うん…?向こうの男性も少しこちらを見たぞ、そんなに乾杯の声は大きくなかったと思うけれどな…。
あれ…? ウィンクしたように見えたけれどな…。よくやった…みたいな感じでね。
知り合いじゃないんだけれど。
そう、さっきトイレで支えてあげただけ…そのときなんか言われたよな。少し前の記憶なのになぜか覚えてない…。
多少酔っているのかな、あの男の人も僕も。
さて、どうしようかな…。今度のドライブは渋滞にはまるかもしれないけれど、なんとかしちゃうぞ。そうさ、腕の見せ所だ。ルートを考えなくちゃ、昼食はネギトロ丼で、夕食はどうしよう。頑張るぞ…。
ああ、あと、音楽ね、彼女の好みは…。
そうだ、ドリンクも用意しておかなくちゃ、車も洗わなくちゃ。
晴れとは限らないぞ、ガブちゃんいないしね。雨のときのことも考えなくちゃ。
雨…、そうだ、そう言えば飴も用意しておこう、お菓子も…。
よし、よし、頑張るぞ、うまくいかないかもしれないけれど、工夫して準備するのは、この僕なのだ。僕が僕の人生をね、週末でいえばデートをね、自分で自分の意思で作るんだ。よし、よし、頑張るぞ。
「頑張るぞ」
山下さんがニコってしながら肩越しに僕を見上げた。相変わらず僕の腕にもたれかかっている。
「何をがんばるんですか…?」
なんて言おう…、ここはやっぱりこんな感じだよね。
「まずは週末…、一番大切な人に喜んでもらえるように…」
さらにぎゅっと腕をつかまれる。
「無理しないでくださいね」
いいひとだね。
「そして、僕らの人生…、僕らが自分で生きる人生をね、頑張るんだ」
月並みだな…、まあいいか…。
向こうの男の人が僕らを見た。
笑っている。
人を和ませる、まるで天使のような微笑だ。
了
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