認識遮断

同じ物を見ているのに、同じ物として見れない、とはなんて哀しいことなのだろう。それは人間と人間の繋がりを否応なしに遮断してしまう。それらはやがて格差として位置づけられ、社会を分断してしまうまでに発展する。

哲学の中に『エポケー』という用語がある。一般に判断停止と訳されるこの言葉の歴史は古いが、懐疑論的見地から言えば、何一つ確実に決定的な判断を下すことができない立場にある以上、判断そのものを下すことを控える態度のことを言う。現象学的見地からすれば、また異なった意味合いになってくるのだが、この小説にはそういった哲学の香りを漂わせている。

人間同士の繋がりが希薄になっていく現代の世相にはピッタリの題材であると感じた。『エポケー』が生み出す世界の彩りは豊かなものになるに違いないのだが、それは同時に人間の個を認めるあまりに、人間一人を茫漠たる砂漠に置き去りにするような寂しさを生み出すものであるような気がする (もっとも哲学には詳しくないので、その先に何が残るか、残そうとしているのかは知らないが)。

とはいえ、作中の人物たちは一縷の望みを持って、最後を迎えている。『エポケー』に似た認識遮断、あるいは分断が日常の一部となった世界で、男女が手を取りある姿は印象的だ。それは繋がりたいという人間の美しい欲求がなせる技なのだろう。

「人間は不完全なものを補うために繋がりを求める」。ソクラテスの『饗宴』の中の説話を思い出さずにはいられない。それは原始的な神話ではあるが、この上なく美しいメソッドでもある。SFの世界の中に詩的なロマンを組み込んだ逸品であると感じさせられた。