第4話
コンビニの場所は以前、二台の自動販売機だった。
ゆるい坂道を十分ほど歩くと潮風で
途中、懐かしい入り江がある。
夏祭りや風鈴の音や近所の子犬、そういった十代の思い出とここはいつも結びついている。
誰が言い出したわけでもなく、私たちはその入り江に引き寄せられた。
「裸足になってもいいー?」
都会暮らしの双子は海を間近にしてすでに興奮している。
「海に入ったらダメやぞ。海の幽霊に連れて行かれるけん」
「はーい」
麦わら帽子の双子ははしゃぎながら、声を揃えて返事をした。海の幽霊など、おませな二人はもちろん信じていない。
「蒼、なんでいつも幽霊って言うん? 今どきの子はそんなんじゃ怖がらないよ」
私は日陰を探し、乾いた砂地に座る。
隣の蒼がゆっくりと言った。
「……彩世、
私は横顔を見つめた。蒼は双子を目で追っている。
「波打ち際から沖へ戻るときに発生する、強い潮の流れのことなんや。まるで幽霊に足を引っ張られる感覚らしい。気をつけんと水難事故に関わることがある」
「……知らんかった。詳しいね」
私の考えはいつも浅い。
「ここには空と海しかなかったけん。他のことは何も知らん」
蒼が笑った。波が騒ぐ。
「そういえば、蒼は星のことも詳しかったよね。昔、いろいろ教えてもらったよ」
「彩世が一番好きな星はシリウスやったな」
「うん」
オリオン座の下に見える、焼き焦がすものという意味の恒星だ。私は思い出して嬉しくなった。
「冬の空に見えるんよ。どの星よりも光ってて綺麗なんやもん。あとはな、北斗七星の視力検査のことも覚えてる。昔はひしゃくの
「そうやな。二重星のアルコルが見えればいい」
「蒼は昔から視力、抜群に良かったよね。計測不可能やったやん」
「いつも遠くばかり見て暮らしよったけん。……結局、ここでしか暮らせんのに」
ふっと冗談みたいに言った。私は一瞬とまどう。なんて返したらいいか分からなかった。美月から言われたことが頭をよぎる。
ずっと言葉に出来ずにいたけど、私はたどたどしくそれを口にした。
「蒼、そのタトゥーのことやけど……。私の、せいで入れたんやろ。みんなにちゃんと話せばいいやん。そしたら、おじちゃんともすぐに仲直り出来るよ。トラブルに巻き込まれた彩世を
あの喧嘩騒ぎのあと、私は良心の
蒼は今まで誰にも何ひとつ喋りはしなかったけれど、本当は私のことを助けに来て先輩を殴ったのだ。
私が悪い噂のある先輩に肩を抱かれてるのを見て、いてもたってもいられずに。
「なあ、みんなに話しよ。お願い。そしたら、もう蒼は苦しまんで済むやろ? 前みたいに笑って暮らせるやろ」
私の顔をいっとき見ていたが、蒼はおもむろに自分の左腕の袖をまくった。
楽しげに泳いでるかのような、青い美しい
「彩世、見てん。この魚、綺麗やろ。俺が好きで入れただけやけん、何にも心配せんでいい。お前は全部忘れろ。美月にもあの男にも口止めした。大丈夫、口外はされん。この先もずっとな」
大丈夫って?
真っ直ぐな蒼の瞳。
「ここに星がある、秋の一等星。ずっと前に話したやろ。俺が一番好きな星……」
腕に彫った一等星。一番星じゃなく。
私に何を話したの? 思い出せない。
なんでそんな
どうしてそこまで庇おうとするの。だって、私はトラブルに巻き込まれただけで──
「アルコルが見えれば視力検査は合格……」
その時、私の中である確信が芽生えた。
それに気づいた瞬間、みるみる頬が赤らんでくるのがわかった。
誰にも気づかれてないと思っていたのに。
蒼は知ってる。きっと見えたのだ。
あの日、女好きな先輩に絡まれたんじゃなくて私から先輩を誘惑したところを。
髪を触られて、肩を抱かれて、嬉しそうに笑っていた私を──
見えたから、あのタイミングで助けに来た。
蒼はずっと知ってて言わなかった。美月や先輩をむりやり黙らせて。
この先も私が嫌な思いをしなくてすむように。
悪いのは全部、蒼ひとりみたいに思わせて。
「なんで……知ってたの。なんでいつもそうやって、私のこと、かばうの」
恥ずかしさと苛立ちでパニックになりそうだった。
東京の大学へ行ってお化粧して可愛い洋服を着るようになったら、初めて男の人からチヤホヤされた。
ナンパとかも普通にされるようになったし、みんなからリア充って思われて幸せだった。まるで世界が私を中心にまわってるみたいで。
あの日も悪い噂があるけどかっこいい先輩に可愛いって言われて嬉しくなって、ちょっとだけなら遊びに行ってもいいかなって思った。
楽しくて自分を止められなかった。私は浅はか。
今の世の中、何が起こるかわからないのに。
蒼は私の性格を見抜いていた。
「あたし……蒼に、ひどい怪我させてしまった」
涙が止めどなく
「ごめん……な……さい」
消えてしまいたい。どうすればいいか分からない。ただ私の涙がいつまでも蒼を困らせる。
「彩世……もう忘れろ。俺は……」
突然、夕陽が燃える空に子供の悲鳴が響いた。
「くるみちゃーん!」
夏実が言葉にならぬ声で叫ぶ。
ハッとして涙を拭うと、海面から腕を伸ばしてもがいてる少女がいた。来実の麦わら帽子が波にさらわれていく。
溺れてる。
こんな浅瀬でと、一瞬理解が出来ない。
横を向くとすでに蒼は駆け出していた。
急いで追うが、砂が邪魔をしてうまく走れない。もどかしい。
私たちは
すぐに腰近くまで波が来た。水が重いと感じた直後、足が流れに巻き込まれる。
抵抗するが底へ引き寄せられる。
無数の腕がからまる感触。恐怖。
必死でもがいても、そのまま沖の方へ沈んでいった。
水の中、見えるのは揺れる光と白い泡だけだ。
身体を動かすほど泡が立ち、視界を
天地が混同して、上がどこかわからない。
息が続くかどうかは時間の問題なのに、目指す海面を見失ってしまった。
私の腕をたくましい力が掴んだ。
ああ、蒼だ──。
左腕の青い魚たちが飛び跳ねるように迎えに来てくれた。
私は安心する。
なぜなら左手で私を探したということは、右の利き手でもう来実を抱き上げてるということだから。そうでしょ。
助かったという安堵が全身を駆け巡る。
私はこの世のすべてに感謝し、ゆっくりと意識を手放した。
*
──魚座だったんだね。
やっと思い出したよ、タトゥーの意味を。
昔、蒼が教えてくれたのは秋の星。
秋空にただひとつの
この夜空に魚座はふたつ存在するのだ。
蒼が腕に残したのは、南の魚座のほう。
秋の夜、水瓶座のとなりでいつも輝いている。
水瓶からお酒を注がれ、喜んで飲んでいる幸せな魚の姿だ。
水瓶座が私で、魚の星が蒼。
「俺は彩世と酒があれば、ほかに何もいらない」
蒼のほのかな願いが聞こえた気がして、私は目を覚ました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます