蒼い魚の星座

片瀬智子

第1話


 人は誰でも原風景げんふうけいと呼ばれる、せつなくて愛おしい心の居場所を持っている。

 私の場合はいつも夜空にまたたく星の夢から始まった。

 まどろみの中、潮風に揺れる木々が何度も呼ぶから目を覚ます。

 ゆっくり過去に思いを馳せれば、多感な時期に経験したことばかりが海の匂いを連れてやってきた。


「昔、一緒に遊んであげてた双子のめいはいつの間にか綺麗になってたよ」

 そっとつぶやく。

 私の脳裏には、懐かしいあの夏のそうが眩しそうに笑っていた。





 九州、大分県。

 海岸沿いを南下すると小さな漁村がある。海を背にした山の斜面には沿う様にポツポツと家が見える。

 夏の太陽が照りつければ、まるで異国から届いた絵葉書の田舎町みたい。

 風景に溶け込むように麦わら帽子の子供が小径こみちを駆けていく。

 お目当ての入り江が近い。


「蒼にいちゃん、今日は海に入ってもいいん?」

「足だけな。お盆以降は海で泳いだらダメやぞ。海の幽霊に引きづり込まれるけん」

「海に幽霊なんかおらんよ。クラゲが出るんで。やろ?」

 小学生になりたての少年が物知顔ものしりがおで言った。表情が輝いてる。

「……前ここで、水難事故があったんや。溺れた友達を助けようとした人が亡くなってな。幽霊に引っ張られて力尽きた。海は神の領域やけん、何が起こるかわからん」

 溺れた人を助けるには大変な体力がいるそうだ。濡れた服や、恐怖でしがみつく人間の重さは想像を超える。

 はしゃぐ声。砂浜には他人事ひとごとのような少年の足跡だけ残っていた。

 風がいだ。

 


 私・伊藤いとう彩世あやせ藤方ふじかたそうは、同い年のいとこだ。母たちが姉妹なので、蒼の母親は私の伯母にあたる。

 お盆の時期になると毎年こうして親戚が集まる。いつも伯母の家が集まりの場所だった。

 にぎやかで気取りがなくて、居心地がいい。

 久しぶりに心から笑えたと感じる。ちゃんと呼吸が出来て、上手に生きてるとさえ思えた。

 帰りたくない。

 だからその日から一年半、私は東京へは戻らず蒼の家族と暮らすことにした。




 高校二年生になったばかりの四月、私は父の転勤で東京へ引っ越した。

 地元の友人とも別れ、家族一緒とはいえ見知らぬ都会へ出る。

 たぶんその時、田舎者コンプレックスと赤面症も一緒に連れていったらしい。

 情けないほど自信なさげな転校生は、からかいがいのある存在だった。自分が自分じゃないみたいに、毎日作り笑いをして空気を読んだ。


 そのうち朝、学校へ行こうと思うとなぜだか呼吸が難しい。苦しくて肺に空気を入れなきゃと意識するほど、ため息をついてると人に言われるようになる。

 ため息ばかりの暗い子。

 そんな子、誰も友達になんてなってくれない。

 私はあっという間に孤立し、自然に不登校になった。驚くほど簡単に現実社会から取り残されてしまったのだ。

 十七歳の夏休み以降、両親は東京、私は大分の伯母の家で生活が始まった。



 穏やかな田舎での日々。

 このままここで暮らす選択もあったが、両親を驚かせたのは高校三年生の私の決断だった。

 あの日は午後から雨模様だったと思う。少し肌寒かった。

「……東京の、大学に行きたい」

 スマホを握った手が微かに震えていた。

「今、蒼ちゃんに勉強教えてもらいよん。あたし、頑張るけん、東京の大学に行ったらダメかな?」

 自分でも気づけない未知なる強さを私は探していた。たやすい場所へ流れるだけの、流浪るろうの生き方がしたいわけじゃなかったから。


 意外にも両親は喜んでくれた。

 東京への偏見がなくなったせいかもしれない。残念なことに更なる転勤で家族一緒には住めなくなったけれど。

 私は人生で一番勉強に励み、都内にあるまあまあの大学へ進学が決まった。

 しかも驚くことに、蒼も同じ大学へ入学することになったのだ。

 彼ならもっとレベルの高いところを目指せたのに。理由はわからなかった。

 蒼はあまり自分の話をしないし、昔から本心は誰にもさぐられない場所へ隠し込む。



 蒼と一緒なのは、都合のいいことも悪いこともあった。

 でも不都合を上回る期待感が私をいきいきとさせる。東京で暮らすからには、流行のメイクやファストファッションでお洒落を楽しみたい。みんなのように今を輝かせたい。

 ワンルームマンションで独り暮らしを始めて、新しい友達も作る。過去の自分を知らない友達だ。

 これからどんな楽しい未来が待っているのかと思うと胸がときめいた。高校時代に受けたあの不名誉な挫折は乗り越えたと感じた。


 窓辺へ近寄るとちょうどベランダに蒼がいた。ふたりの部屋が隣同士というのは、親にとって一番の安心材料になったようだ。

 東京の空を眺める蒼。

 子供の頃から空手で鍛えたしなやかな肉体と精神は、時々年齢不詳の威厳さえ感じる。

 もう少し人当たりをよくすること、私に対して細かく言わないことが蒼の今後の課題だなと密かに思った。

 せっかく友達と楽しく過ごすのに、夜遅く帰るくらいでうるさく言わないでほしい。まあ、本人には言えないけど。



 

 あの事件が起こったのは初夏だった。

 街が原色に輝く直前。

 実は今もまだ、正直思い出したくない。

 私たちは三年生になっていた。お酒も飲めるようになって今まで以上にリアルを満喫するつもりでいたのに夏休みに入る前、蒼が暴力沙汰を起こしたのだ。

 一言でいうと相手が悪かった。

 同じ大学の一つ上の先輩。かっこいいけれど女好きで派手。目立つ噂も多い人。

 先に手を出した先輩に、蒼がいくつかこぶしを振るった。狙いははずさない。先輩の鼻が折れたという話はあとから聞いた。


 最悪だったのは、逆上した先輩が尖ったガラスの破片を振り回したことだった。運悪く、それはけた蒼の左腕を刺した。

 十数針縫った肘下ひじしたの傷は深く、神経に触れていた。利き手ではないが、蒼の左手の人差し指は今も感覚が戻っていない。

 騒ぎを大きくするのはお互い望まず、蒼は誰にも相談せずにあっけなく大学を辞めてしまった。

 私はほとんど彼に会わずにいた。

 いや、蒼が会いたがらなかったんだと思う。傷を負った野性動物のように独りひっそりと身を隠したから。



 当時、蒼には鈴井すずい美月みつきという恋人がいた。

 美月は同じ大学で私の親友。

 長身でモデル体型、目の覚めるような美人だ。学内でもふたりはお似合いのカップルだった。

 好きになって蒼を支えたのは、美月のほう。

 だけど美しい見た目を武器にせず、ひとりの男に一途な恋を捧げた彼女は、私にはあんまり幸せそうに見えなかった。

 片方の比重が大きな想いはいつかバランスを崩してしまう。

 蒼が大分の実家へ戻ると決めた日、ふたりは恋を終わらせたと聞いた。

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