彼女と私の変身

酒田青

彼女と私の変身

 子供のころから変わらず私は起きるのが苦手で、毎朝の目覚め用エレキが欠かせない。目覚め用エレキとは耳に引っかけているトム・サムの機能の一つで、要は交感神経への電気刺激である。それは痛みを感じない程度に弱く皮膚に伝わり、途端に全身が自然と開くような感じになり、設定していた通りの日本時間の午前七時にぱっちりと目覚めた。

 汗で臭くなった服を脱いで洗濯機に放り込み、下着姿のまま液体洗剤で口内清掃をする。クライアントの前でも見られる服を選んで着ていたらもう九時だ。私はいつも準備が遅い。トム・サムが訊く。

「地球のご友人、菫にいつもの電話をしますか?」

 突然気分が曇る。菫。私の親友。昨日まで一日おきに電話をかけていた。一昨日も電話をしたばかりだ。

「今日はやめとく」

 私はトム・サムにしばらく菫とは通話しないことを伝えた。大したことではない。でも、気分が乗らないくらいには何かがあった。

 ヴィジョンを壁に表示した。地球の様子を映したチャンネルがあるので私は時折それを見る。地球は青かった。それからニューヨークを映した。自由の女神も青かった。天安門広場を映した。瓦屋根は真っ青だ。東京、浅草寺の雷門。青く巨大な提灯が相も変わらず下がっている。私はほっとした。

 三十歳になって間もない私は、年長者たちが眉をひそめそうなことを思った。「大人になっていなくてよかった」と。

 ウイルスに感謝する。私が大人になっていないことをはっきりと見せてくれるウイルスによる遺伝の変化に。

 私が生まれる五十年前に大流行したウイルスは、生き残った人類に大きな障碍を残した。色覚異常とは違う、色に対する反応。色の伝達を司る大脳皮質一次視覚野に以前の人類とは違った変化が起こっていて、過去の人々には当たり前にできたことが今の私たちにはできない。

 私たち人類は子供時代から青年期までは世界が青一色に見える。そしてそれを過ぎて大人になると――考えたくもない。

 私の世界は相も変わらず青色だ。仕事に夢中な証拠だろうか。作品がうまく行っているからだろうか。そのことに深い満足を覚える。同時に菫のことを思い出し、急に感情が止まる。

 一昨日の電話ではこう言っていた。

「和弥が本当にやんちゃで本当に大変!」「住宅ローンが終わらなくて」「今度家族でお墓参りに行くんだ。ほら、十夜君のね……」

 何がおかしいなんてことはない。菫は結婚したときからこういうことを言っていた。私も一つ一つを気にしてなんかいない。でも、家庭のことしか言わなくなった菫と、以前の菫はどう考えたって違う。

 第一子を失ったときから、彼女の視界はずっと大人の色だ。


 子供のころから菫は絵が得意で、動物や花の絵を生き生きと描いた。モンシロチョウの羽の粉っぽい、かすれた風合いをわずか五歳のころから表現できた菫は、私にとっては神様だった。もちろん私たちは大昔と違って環境に影響を与える使い捨ての紙や使い潰すクレヨンを使ったりはしなかったので、デジタルペーパーの様々な機能を使って絵を描くことができたから、昔の子供よりは上手い絵を描くには有利だ。ただ大抵の五歳の子供は「本物のように」描くのではなく、「描きたいように」描く。本物の質感を持ったまま、かわいらしいモンシロチョウ、つやつやした花びら、綿菓子のような雲を自由に描く菫はやはり神様だった。

 私はいつも彼女を追いかけていた。彼女は内気な私に心を開かせる何かを持っていた。菫はそんな私に時折振り向き、ふんわりと笑って「芙蓉ちゃんは親友!」とささやくのだった。

 あの日のことを思い出す。温暖化による水位上昇と緑地保全のため居住地域が限られてしまった日本では大体の家庭がそうで、子供を遊ばせる場所に大いに困る。私と菫もそうで、小学一年生のときには私たちの絵を描きたいという欲は抑えきれないほど暴力的なものになってきていた。私は父に机全体をデジタルペーパーに覆わせて絵を描いていた程度だったが、菫は家じゅうをデジタルペーパーにして、ついには今では専門家しか使わない紙と絵具を買ってくれと騒ぐほどになっていたのだという。そんなこともあり、私と菫の家族は私たちを子供向けのアートイベントに連れて行った。

 そこでの菫は素晴らしかった。野原のゾーンで生きた小鳥を、ウサギを、揺れる草花を描いて大人たちを魅了した。彼女の描いた絵たちはただ野原の背景があるだけだった巨大デジタルペーパーを生き物の空間に変貌させてしまった。彼女の表情が忘れられない。菫は頬を濃い色にし、思うままに絵を描けたという満足感を私に向けていた。私は誇らしかった。彼女が私の神様であることが。

 成長すると、私たちは同じ美術系の、違う大学に通っていた。菫は初めて長く続く恋人を作った。私は大学で自分のアートの方向を見つけ、のめり込んでいる最中だった。

 私はダンジョンアーティストになった。VRで冒険できるダンジョン、体の筋肉などに軽く電気刺激を与え、体が動いたと、風が起きたと、冷たい水に触れたと錯覚させるダンジョンだ。迷路はいたって単純だが、私が作る世界には独特の風合いのネズミたち、ヘビたち、トカゲたちがいる。時折蝶や蜂が導き、つる植物が動き、最後には最下層の妖精の待つ美しい泉や光が漏れるドアのある部屋を訪れることができる。

 それが大うけした。私はいつの間にか時代の寵児となり、ダンジョンは世界中でダウンロードされ、収入は今や同世代の十倍だ。こんな未来を想像していなかった。ただ菫を追いかけ続けた結果だった。

 同時期に菫は結婚し、大学卒業後十夜という男の子を産んだ。途端に彼女は子供のことをすべてに優先した。彼女の才能を惜しんだ私は、いずれまた戻って来てくれるはずだ、と思った。

 十夜は三歳で突然死した。菫は半狂乱になった。私は何度も慰めた。電話をしたし、ちょっとした贈り物をしたし、彼女のことばかり考えて過ごした。変化する彼女のことを。和弥を産むころには、彼女は悲しみをたたえた、優しくて諦めたような目になっていた。そのときの通話は今でも忘れられない。

「私、もう大人になったよ。世界がセピアカラーに見える。でも、全く残念だと思わない。過去を惜しんで生きることを、悲しいことだと思っても不要なことだとは思わない」

 私は言葉を失い、そうなんだ、と返した。菫は更に何か言おうとしていたが、途中でやめた。私は菫が大人になってしまったことをただただ惜しんだ。月に住むことを選び、彼女と二日に一度通話する以外は彼女の日常と触れることを避けた。月は人口が少なく、週に一度の貨物用ロケットが来る以外は大して変化がない。居心地がよかった。私はダンジョンを作ることに熱中した。


 多忙な日々のため、私は次第に思い出への逃避すら許されなくなった。大きなダンジョンを、華のあるダンジョンを、残酷なダンジョンを、機械的に探索するだけの複雑なダンジョンを。求められるまま作っているうちに、自分が何をしたいのかわからなくなった。私が作っていたのは何だったんだろう。菫が昔描いたウサギの跳躍の漫画は、揺れるヒメジョオンは、彼女が描く、蟻の行列の面白さは。ダンジョンとは何だったんだろう。あれから菫から電話が来ることは滅多にない。菫との友情も、もうわからない。

 私は壊れた。一年の療養を言い渡された。うつ病だった。

 うつ病と診断されたとき、まずやったのが地球を見ることだった。自由の女神が、天安門が、雷門が、地球が、その周りの宇宙空間が、全て青の濃淡でできていることを確認してようやく私は安心した。毎日を意味もなくぼんやりと過ごした。私の作品が、他のアーティストが作った別のものと取って代わるのをウェブのニュースや一般人の情報で知るのは辛くもなんともなかった。ついには「田崎芙蓉は終わったアーティスト」と評されるようになった。そのあとはどこを見ても私の情報なんて見つからなかった。それでも世界が青いので満足だった。

「芙蓉、元気?」

 ある日トム・サムから通話の知らせを受け、私は許可した。耳元で柔らかな声が響いて、懐かしいような、それでいて間に膜でもあるかのような麻痺した感情を覚えた。

「元気だよ」

 私は微笑んだ。

「元気ないね」

 菫は悲しそうに言った。私は大きく笑い、

「元気だって!」

 と答えた瞬間涙がぽろぽろとこぼれるのを感じた。

「元気ないじゃん、やっぱり」

 菫が心配げに、それでもちょっと笑って優しい声を出した。

「田崎芙蓉がうつ病で一年も新作を発表しないなんてニュース見て、どれだけ悶々としたと思う? 連絡しなきゃ、でも芙蓉はこっちを避けてる、連絡ほしがってるかも、でも……。よかった。生きてた」

 どきっとした。彼女の言葉はひどく重く、ゆっくりと効いてきた。

「あなたのことで、どれだけ気を揉んだかわかる?」

「ごめん」

「芙蓉の実家に連絡しても、わからないって」

「ごめん」

「あなたは親友なんだよ。私に対して不用意な無言を貫いたりしないでよね」

 菫は少し照れ臭そうに、でも悲しそうに言った。

 視界が変わっていく。元々私たちは青一色の、濃淡だけの世界にいた。でも、私の世界はセピアに変わる。大切な人を傷つけたくなくて、癒したくて変わっていく。大人に。

 元あった青い世界は、本当に青色だったのだろうか? この新しい色は、本当にセピアなのだろうか? 私たちは多色の世界を知らない。とりどりに色が主張していた時代を知らない。新しい色が褪せた悲しい色だなんて、誰が言ったのだろう?

 窓の外を見る。ヴィジョンなんて見ない。私はこの目で見る。

 地球が見える。今の私の目で見える色の地球が。遠くに見える地球の、その濃淡を目に焼きつける。ただ私は思う。大人になって得たこの世界の色の、何と美しいことだろうかと。

 そして、新しい私を知る。

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