淡く、青く、小さな、点

宮﨑

淡く、青く、小さな、点

私の知っている色の全ては赤色だった。


 私は古びた辞書を捲った。何を調べるわけでもなかった。漠然と、しかし規則的に捲った。五十ほどの紙を剥いだところで、私は動作をとめ、ページの一点を凝視した。

ペイル・ブルー[pale blue] 淡い青色。空の色。

私は立ち上がり、ドームの観測窓から眼下の惑星を見た。地表はあいかわらず赤で埋め尽くされていた。私は落胆した。未知の青が見たかったのに、視界に映るのは既知の赤だけだった。

 私は溜息を吐いた。憂鬱を遠心分離させようと首を振って、コンソールとにらめっこをする。パネルには惑星の観測データがふわふわと浮かんでいて、私はそれらをかき集めて報告書に詰め込んでいく。それはいつものルーティンだった。それは昨日のプロシージャであり、千年前のファンクションであり、私を定義するタスクだった。

 北の極点の直上、惑星の天頂五万キロに静止するちいさなドーム型の構造物。第三十七観測所にあって唯一の観測員が私だった。仕事といえば窓いっぱいに広がる赤茶けた星を観測し、その各種データをどこにいるともしれない惑星の主人たちに送りつけること。私の知覚する全ての赤色を無責任な創造主たちに見せつけること。

 かつての故郷にノスタルジーを感じるためか。あるいはいずれ帰還するためのささやかな下準備か。私にとってそんな理由はどうでもよかった。

 赤、それは空の色だった。大地の色だった。つまり、この惑星の色だった。

星系主星の核融合プロセスに異常が発見された。それが千年と百年前のはなし。恒星は水素のかわりにヘリウムを燃やし、その体躯を第二惑星が呑み込まれるほどに肥大化させた。それが千年と十年前のはなし。父なる恒星に裏切られた人類が、干上がりつつある母なる星を捨てると決めた。それが千年と一年前のはなし。


「あなたの使命は、この星の最期を看取ること」

 そう語る博士の顔に、私はどのような色を見出せただろうか。

 私が彼女に造られたのは千年と十ヶ月前。そのときには既に、惑星の色彩は失われていた。かつて豊潤を極めた大海は蒸発し、大地は陥没し、大空は炎上した。辛うじて生き残った人類は地下都市に逃げ込み、惑星脱出のため箱舟を造り始めた。

 それはまさしく狂騒だった。あらゆる人間が生存に必死だった。あらゆる資源が生存に費やされた。その極限状態下で博士は、博士だけは冷静に死を見つめていた。惑星の死を、人類の死を、自己の死を見つめていた。そんな気がしてならない。

 星間船の建造ドックの片隅は、うるさい、という一つの形容詞では物足りないほどの喧騒に満ちていた。外板を溶接する音。資材と資材が擦れ合う音。作業員の怒鳴る音。

 そしてひしめく魂の叫び。生きたい。死にたくない、という人間の本能。

 聴覚に比べて視覚は平穏そのものだった。そこに多様な色彩はなかった。使い込まれた重機や設備、あるいは古びた軽金属製の壁はその表面にサビを浮かべていた。赤、赤、赤、地上と同じようにここにも赤が満ちていた。

 私にとって唯一の色彩は博士だった。彼女だけが私の知覚にいろどりを与えた。資材搬入用のカーゴに腰掛けた博士は、そのときもいたって冷静な顔をして、軽い冗談なんて口にしつつ、私に一枚の画像メディアを手渡した。

「見て。この画像は約五百年前の無人探査機、ヴォイジャー一号が太陽系外縁からこの星を撮影したものなんだ」

 ひどく粗い撮像が、特殊な紙に焼きついている。この惑星の姿が記録されたものらしいが、私にとって漆黒の宇宙空間以外に認知できる特異対象はない。

 ちなみに、この原始的な記録媒体がかつてフォトグラフと呼ばれたものであることを知ったのは、六百年前のことだ。

「五百年前というと、宇宙歴施行以前。宇宙開発の黎明期ですね」

「そう。当時の有人探査の範囲は月に限られていた。だから、多くの衛星型観測機が太陽系探査のために利用されていたの。それらの機体が搭載した機材はどれも性能がよろしくなくて、ヴォイジャーのカメラも例外じゃない。だからこんなにも画質が悪いってわけ」

 私は手を掲げフォトグラフを透かしてみた。質の悪い白熱電球の光に照らされて、余計に細部が見えなくなってしまった。

「なるほど・・・しかし私にはどこに星が写っているのか判断つかないのですが」

 博士は華奢な指をフォトグラフに這わせた。指はやがて一点でとまった。

「これ」

 恒星光の散乱によって生まれた褐色の帯、そのなかにある小さなシミ。驚くほど小さく、驚くほど儚い。

「これですか?何かのデブリかと思いました」

「ふふ。君にはそう見えるのね」

 博士は微笑んだ。同じくらい儚い笑みだった。

「ペイル・ブルー・ドット。たった0.12ピクセルの母星の姿はそう呼ばれている。人類の宇宙観をガラリと変えた歴史的な一枚」

 私は首を捻った。

「淡いのはわかりますが、青には見えません。それになぜこんな低画素の画像がヒトの思考パターンまで変えてしまうのか・・・」

「わからないでしょ。でも、今はそれでいいの」

「わかるときがくる、と」

 博士は愛おしげにフォトグラフを撫でた。

「もちろん。いつか、かならず」


 最初に求めたのは色、次に博士。あるいは順序はどうでもよくて、その逆でもいい。どちらが欠けてもままならないのだから。

 観測開始から千年目のこの日、私の任務は終了した。

最後の報告書は既に送信された。千回目の観測データは月面の中継装置を経由し、光の矢となって全天に放たれる。

観測ドームは真の機能を取り戻した。星間観測船三十七号はアインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンエンジンを起動させ、最初で最後の量子空間跳躍の準備を始める。

私は埃まみれの床に座り、茫洋と辞書を捲りながら、博士を待っていた。その風景はこれまでの千年間と同じ。今際の巨星がはなつ長波長の光が窓から差し込み、ドーム全体を赤く染め上げる。しかし今までと違うところは、千年待ち焦がれた博士との約束がある、ということだった。

「千年経ったら見せたいものがあるの。それが、ささやかだけど君への贈りものになると信じている・・・」

 そう言って星間移民船二十四号に乗り込む博士を見送ったのが、千年と一日前。

 ドームの閉鎖扉をロックし、最初の観測を始めたのが千年前。

 そして今、声が響く。

「――久しぶりね。千年来の再会に不躾だけど、まず、謝らせてほしい。私には時間がないの。もう直ぐ船団の発進シークエンスに入ってしまう」


 千年待った。焦がれた。想った。

 

「博士」

 振動にはならない声。噛み締めるように、くちのなかで、ことばをころがす。

「君にはたくさんの嘘をついてしまったけど、一息に言います。これから――君からみれば千年前に、人類は絶滅する」

 驚天の事実を伝えるには、その声は妙に淡々としていた。その冷静は、私のこころが掻き乱れる間も無くその虚に浸入し、溶けて混ざる。

「ハビタブルゾーン内におけるスーパーアースの複数個発見。これは真実。量子テレポーションによる亜空間跳躍技術の確立。これも真実。しかし、空間跳躍による時空振動に炭素素体の生命が耐えられる。これは嘘。私たちはこれから跳躍を敢行するけど、その結果として目標宙域にワープアウトするのは無人の移民船団。身体を構成する炭素原子がアルファ崩壊を起こし、生体は黒炭になって死滅する」

 驚くべきだった。嘆くべきだった。憤るべきだった。しかし、できなかった。

 言語化しなかっただけで、私は気づいていたのだ。私と向かい合ったとき、博士が浮かべた、あの寂しいとも虚しいとも言えない複雑な表情を今なら語ることができる。

 あそこに浮かぶのは死にゆく色だった。しかしただ漆黒に死ぬのではない。死を越えた使命を自覚した、覚悟の色だった。

「これは私たちの責任であり傲慢極まりないエゴ。いずれ滅びる人類なら、その最期はせめて希望の色に溢れていて欲しかった。そんなささやかな願い」

 それはあまりにささやか過ぎた。辛苦と憂苦に生きた博士の最期にしては、あまりに報われない。

しかし、ただ、その選択には気高さがあった。美しいと思ってしまった。

「私は人類の最期を見届ける。でも君には、とびきり美しいものを見てほしい。ケイ素主体で身体が構成された君なら、あるいは空間跳躍に耐えうるだろうから」

 博士の声が震えた。私の感情も震えた。その振動はさざなみとなって、虚空に伝播した。

「色を、美しい色を、私たちの儚い故郷を、見てほしい。地球の最期を見届け続けた君に」

 刹那の沈黙。しかし雄弁に、博士の感情を伝える。五万キロの距離と、一千年のときを超えて。

「目標座標はどこの星雲でもない。どこの星系でもない。一千五百光年先の、どこかへ」


 

 量子テレポーションは、何事もなく呆気なく終わった。それこそ、拍子抜けするほど。

 博士はなすべきことを成した。なら、次は、私の番だ。

 第三十七観測ドームには奇妙な点があった。それは、超遠距離用の光学望遠鏡が配備されていること。地球の状況を観測する任務において、全く必要ではなかった装備の存在は、私にとって大きな謎だった。

 この時までは。

 望遠鏡の照準を一千五百光年先の跳躍前の座標に向ける。示し合わせたようにピントは合っていた。超遠距離ゆえ、像は粗い。そこに映し出されるのは過去の光。ちょうど一千五百年前の、ひかり。

 西暦1990年の地球。私の故郷。母なる星。

 あのとき、ヴォイジャーは独りではなかった。私がいた。

 いま、私は独りではない。ヴォイジャーがいる。

 淡く、青い、小さな、点。


 その三十四分後、私の意識は消失した。





“Look again at that dot. That`s here. That`s home. That`s us.”



――Carl Sagan, wrote in Pale Blue Dot: A Vision of the Human Future in Sapace. (1997)

 

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