夏が燻る

尾八原ジュージ

夏が燻る

 視界に半分青空が見えて、半分汚れたコンクリートが見えて、水草と温い水の臭いがして、側溝に落ちたのだとようやくわかった。

 夜勤の帰り、ぼんやりと歩いていたら、どんと車にはねられたところまでは覚えている。けれど、たまたまここに落ちたのか、それともわざと詰め込まれたのかは記憶にない。

 天気予報によれば酷く暑いはずなのに、ちっとも暑さを感じなかった。それでも上になった左半身を太陽が焼いている、そのじりじりとした肌触りだけはわかる。体が動かないので大怪我をしたのだろうなとは思ったが、痛みはなかった。これで明日の出勤はなしになったと確信して、僕は安堵した。

 太陽は中天にあった。今が正午だとしたら、ここには五、六時間ほど嵌っている計算になる。ひょっとすると僕はもう死んでいるのかもしれない。ここにいるのは僕ではなく、僕の幽霊なんじゃないか。なんにせよ、明日の出勤はなしだ。

 ふいに、ゴムが焦げるようなにおいが漂ってきた。懐かしいにおいだった。

 僕は左目をいっぱいに動かして、視界に何かないかと探った。下の端っこに、何か四角くて白っぽいものが見えた。

 ああ、冷蔵庫だ。

 ここはあの空き地の横なのだ。持ち主はどうなっているのか、一向に手入れなどされない草茫々の荒地の中に、不法投棄された冷蔵庫があったことを覚えている。

 だがあの冷蔵庫は、とっくの昔に処分されたのではなかったのか。


 二十年前、遊びのつもりであの冷蔵庫に入り込んで出られなくなり、そのまま亡くなった子どもがいた。忘れられない。その子、りおちゃんは僕の一番の仲良しで、大きくなったら結婚しようと約束をしていた。

 ちょうどこんな夏の日のことだった。僕たちは他の子も含めた何人かで、空き地で隠れんぼをしていた。だけどりおちゃんがどうしても見つからなかったから、僕らは放っておいて家に帰ってしまったのだ。りおちゃんは遊びに飽きると、勝手に帰ってしまうことが度々あった。今回もそれだと思ったのだ。

 彼女が家に帰っていないと知ったのはその日の夜のことで、その時すでにりおちゃんは息絶えていた。冷蔵庫の扉は大人が引っ張っても開かなかったらしく、工具で焼き切ることになったと聞いた。そのせいか、空き地にはしばらく焦げたにおいが残っていた。

 もしも隠れんぼをしていたとき、僕が冷蔵庫を開けようとしていたら、彼女は死ななかったかもしれない。しばらくは、自宅の冷蔵庫を開けると、中に青黒い顔をしたりおちゃんがいて、こちらを睨みつけてくる悪夢を見た。

 思えばあれからずっと、僕は自分が死ぬのを待っていた。あれ以来、りおちゃんより仲良しの友達ができたことは一度もない。好きになった女の子もいなかった。あの冷蔵庫が見えるということは、僕はやっぱりもう死んでいるのかもしれない。それでいい。この場所で車にはねられたことは、僕にとっては幸運だったのだ。

 においが漂ってくる。冷蔵庫のゴムパッキンが溶けている。けたたましい蝉の大合唱が聞こえる。僕は側溝の中で目を凝らして、冷蔵庫をじっと眺める。

 ふいに蝉の声がぴたりと止まった。

 静寂の中でぱふ、と微かな音がする。冷蔵庫の扉が開く。少しずつ。少しずつ。小さな手が扉の縁を掴む。

(りおちゃん)

 扉の影に覗いた幼い女の子の顔を見て、僕はほっと呟く。ほっぺたのふっくらした、髪の長い可愛いりおちゃん。醜い死体ではなかったことが嬉しくて、僕の胸は潰れそうになる。

 りおちゃんの顔は引っ込み、冷蔵庫の扉がまたぱふ、と音をたてて閉まった。僕はまだ目を凝らしてそれを見ていた。きっとまたりおちゃんは出てくるだろう。僕のこと忘れちゃったかな。また隠れんぼしてくれるかな。僕がここにいるのを見つけてくれるかな。

 蝉が再び鳴き始める。ふと吹いた風に背の高い雑草がそよぐ。僕の頬を、サンダルの底を、折れた左肘を、太陽がその高みから焦がす。僕はもう、りおちゃんのことしか考えなくていい。

 焦げ臭い。夏のにおいがする。

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