夢の先

雨谷結子

夢の先

 八尋やひろが死んだ。

 東と西の間に起きた戦も終わりかけの、白雨が降る夏の盛りのことだった。

 八尋のしろがねの被毛は今やすっかり地に垂れ、大の男をも軽々と背に乗せて運ぶ強靭な身体は、泥と血にまみれて大地に倒れ伏していた。

 佐久良さくらは両の手に握った短刀で、目の前の敵兵の心臓を抉りだした。ぶしゅ、と音がして、暫しの間雨の代わりに鮮血が降りそそぐ。

 卯の花縅の鎧を身につけた東軍のつわものという兵は地に崩れ、佐久良を囲んでいるのはもはや縹色の幟をはためかせた西軍の敵兵のみだった。


「降れ、山姫やまひめのいとし子よ」


 まろく低い男の声がした。

 見れば、青毛の馬に跨ったいっとう立派な鎧を身につけた男が、佐久良を見下ろしている。

 あれこそが西国さいごく将軍いくさのかみ。西国に立った偽帝の右腕。佐久良が獲るべき首級そのものだった。


「あいにくと、死してなお敵の喉首に喰らいつくのが山姫の子らの流儀ゆえ」


 冷めた声で応じ、佐久良は大地を蹴る。

 その肩を、弩が刺し貫いた。

 しかし肉を抉られる痛みも、もはや何ほどでもない。八尋と同胞の命が潰えた今、心は砂のように乾いていた。

 巨漢の男に短刀を突き立て、佐久良は体重をかけて後ろに回り込んできた兵の顔面を蹴り上げる。事切れた男の太刀を引き抜くと、よろめいた兵の首を一閃した。

 西国の兵の練度はお粗末だ。しかしいかんせん、数が多かった。

 右腿に鏃が突き刺さり、脇腹を槍の穂が掠める。視界が眩み、成すすべもなく佐久良は泥水に膝をついた。

 規則的に響く蹄音つまおとが薄れゆく意識をかろうじてつなぎとめる。

 青馬が目前で立ちどまり、将軍が地面へと滑り降りる気配がした。引き抜いた太刀の切っ先で、頤を持ち上げられる。


「命まではとらぬ。山犬の使い手は犬死にさせるには惜しい」


 将軍は、憐憫と侮りのどちらともつかないまだらの目をして囁いた。


「よもや、一騎当千の山犬のあるじがかようにうるわしき姫御前ひめごぜとは」


 将軍に同調するように、付き従う兵のひとりが粘っこい声で言う。周囲を囲んだ男たちにどっと下卑た嗤いが波のように広がった。

 よほど、女の身で戦場いくさばに立つ佐久良が珍しいのだろう。

 将軍の言うとおり、佐久良は東国とうごくの外れ、五山ござんに坐します山神――山姫を奉じる民の長である山守やまもりで、山姫の眷属たる山犬を使役する。

 八尋は、佐久良が契りを結んだ山犬だった。

 山犬はその格に応じたより強き者をあるじとする。そして五山の民は、より神格の高い山犬を従えた者を山守とする。そこに男女の別はない。

 東国とて五山の民や大鷲を使役する白冠しらかがふりの民を除けば、支配者は皆男である。しかし、此度の戦に援軍を乞うてきた盟主たる東国の帝は、良い顔こそしなかったものの、まだ十代半ばを過ぎたばかりの女である佐久良を将として認めた。

 ひるがえって、西国に女の将はいない。

 女に兵は務まらぬというのが、五山の外での定説だった。

 五山に生まれた佐久良はそのような考えとはとんと縁がない暮らしをしてきたのでいまいち信じられない話だったのだが、こうも舐められると実感も湧いてくる。

 その証にいくらほとんど瀕死の状態とはいえ、佐久良は今なお拘束もされず武器すら取り上げられていなかった。

 不用意に近づいてきた兵のひとりの胸に向かって、佐久良は尖黒せんこくを振りかぶった。黒曜石を加工して作った投擲武具である。

 油断しきっていた兵たちがふたたび武器を構える。


われが誉れある五山の民を率いてきたのは、八尋の威を借りたがためにすぎぬとでも?」


 佐久良の挑発に兵たちが殺気立つ。

 しかし、それを押しとどめたのは将軍だった。


「やめよ。帝に山姫のいとし子を奉れば、お喜びになろう。……そなたもひとやのなかでよくよく身の処し方をお考えになるとよい」


 なるほど、どうやら将軍は西帝に佐久良を献上する腹積もりらしい。

 幾日考えたところで佐久良に西帝に寝返るなどという選択肢はありえない。だがそちらがその気ならば、佐久良も腹のうちで復讐の算段をはじめるまでだ。

 今度こそ両腕をきつく縛められながら、佐久良は八尋の遺体をじっと見つめて口を開く。


捧部ささげべはどこじゃ」


 捧部とは、葬送を掌る職掌の集団のことだ。

 このの国では、東西の別なく、葬送の儀礼に重きを置いていて、戦場にもかならず術者を伴う。そうして魂を正しく送ってやらねば、魂は荒御魂あらみたまとなって生者の魂を喰らってしまうのだ。


「捧部は死んだ。今おるのは、渡部わたしべのみ」


 そのいらえに、佐久良は眉を顰めた。

 渡部は、捧部と同様葬送を掌る集団だが、その格には天と地ほどの差がある。

 捧部は魂を正しく祭って天つ神の元に魂を送り届けるが、渡部はただ魂をこの顕界げんかいの外、川向こうに渡すだけ。ふたたび命がこの顕界に還ろうとも、また人として生を受けるかは定かではない。


「八尋は山姫の眷属ぞ。渡部なぞに送れるものか!」


 そう佐久良が吠えたとき、りぃんと鈴の音が響いた。

 光る鱗粉の尾を引いて、佐久良の目前を白と青のかわひらこが横切る。

 綾蝶あやはびら奇蝶くせはびら。渡部の使役する魂を運ぶ蝶だ。

 遅れて、男たちの陰から鈴の音の主が現れた。泥と血潮の黒と赤にまみれた曠野あらのに、五山の頂の万年雪のごとき白が揺らめく。

 白装束に、顎先で切り揃えた白髪をなびかせた女が鈴と扇を手にこちらを見つめていた。

 渡しだ。女の渡部をそう呼ぶ。


「私なら、山犬様だって川向こうに届けてご覧にいれますわ」


 渡し女は顎を反らしてそう言ったが、彼女と同じ白い髪をした男が秀間殿ほまどの、と将軍に呼びかけて割り込んできた。


沫緒あわおの申しているのは、聞くに堪えぬ戯言。山犬は位高き神です。渡しに応じぬどころか荒御魂と成り果て、禍をもたらしましょう。それを、身の程も弁えない穢れ女め」


 この男も渡部だろう。渡部の言葉に同調するように、兵たちの嘲笑がひっそりと渦巻いた。

 沫緒は感情を覗かせない能面のような顔をして立ち尽くしている。

 どちらが正しいのか、佐久良には判断がつかない。故郷で山犬を送るのはいつも捧部だったというだけの話で、実のところ渡部でも障りはないのかもしれなかった。

 戸惑いを隠せずにいる佐久良を尻目に、将軍が鷹揚に頷いた。


「では捧部を呼び寄せるまでの間の山犬の世話はお前に任せよう。沫緒、お前は姫御前の手当てを」

「秀間殿!」


 沫緒の悲鳴じみた声が漏れたが、将軍は佐久良を手の者に任せて踵を返した。

 張りつめていた糸がほどけて、抗いがたい眠気が押し寄せる。

 意識が暗やみに呑まれる寸前、沫緒と目が合った。

 厳冬の五山の非情さにも似たまなざしに、わけの分からぬ高揚がぞくりと神鳴りのように駆け抜けて消えた。


 *


 佐久良に与えられたのは、臥榻しとねと用足しのための樋箱ひばこがあるだけの小さな牢だった。幾日か熱を出して寝込んでいたので、あれからどれくらいのときが経ったのかも分からない。

 数日前から嵐に見舞われているらしく、叩きつけるような雨音がひっきりなしに響いている。傍には沫緒が控えていて、彼女が渡し、、のために外に出ていないときは、こうして無言で傷の面倒を見てくれていた。佐久良は元来丈夫な性質なので、戦で負った怪我ももう随分とよくなってきていた。

 沫緒はよくよく見てみれば年の頃も近いようなので、暇つぶしもかねて何度か話しかけてみている。五山の民の葬送をしてくれたかも毎日尋ねているのだが、すげない返事ばかりで、まともに会話が続いたためしはない。

 それでも今日も今日とて、佐久良はめげずに口を開いた。


「沫緒は、なにゆえ渡しになったのじゃ?」


 沫緒は佐久良に冷めた一瞥をくれた。


「あんたは、そうやって無害そうな顔をして私に嫌がらせしているの? それとも本当に分からないのかしら」


 沫緒の泣き黒子が印象的な顔に底意地の悪い笑みが乗る。


「嫌がらせとはなんじゃ。吾はさようなことはせぬ」


 むっとして佐久良が言えば、沫緒は嘲りを貼りつけたまま答えた。


なみの民の女に認められているのは、ふたつにひとつ」


 佐久良も半ばあたりをつけていたが、やはり沫緒は浪の民の出らしい。浪の民には膚が白く、髪も白い容姿の者が多いと聞く。


「渡し女になるか、歌い女になるか。それだけ」


 沫緒は勿体ぶってそう言った。

 歌い女とは、春をひさぐ女のことだ。

 今もこの獄にも、どこかの部屋から嬌声が漏れ聞こえてきている。もしかすると兵たちを相手にしているのも浪の民の女なのかもしれなかった。


「どちらにせよ、穢れ女よ」

「……穢れ女」


 先日、渡部も言っていた言葉だ。五山の男も女も買春に興じることはあるが、相手をそのように見下したりはしない。ひと晩かけて相手を心行くまで敬い、愛しぬく。佐久良にとって情交とはそのようなものであったから、穢れ女という言葉はぴんとこなかった。


「あんたみたいなおひいさまは不浄を相手にしないでしょ」

 沫緒は肩を竦めて言ったが、やはり佐久良にはいまいち意味が分からない。


「歌いも渡しも穢れてはおらぬであろ?」

「あんただって、渡部を蔑んでいたじゃない。今さらしらばっくれないでよ」

「さようなことは――いや、あったかもしれぬ。すまぬ」


 佐久良がはじめ、渡部を認めないような物言いをしたのは、葬送は捧げとすべしという五山の慣習が理由だ。佐久良自身は生まれてこのかた一度もまともに渡しの儀を見てはいない。憶測で物を言ったという自覚はあった。

 沫緒は毒気を抜かれたように、開きかけた唇を噛んだ。

 佐久良は世間知らずなところがあって、お付きの者にはよく𠮟られた。

 佐久良の教育係兼一番の懐刀だった男は、浪の民のことを都では賤民と呼ぶのだと言っていた。五山の民には賤をもつ習わしはなかったが、時に彼らが都の市で売り買いされる商い物として並んでいるのを見かけたこともある。

 沫緒は、佐久良が望んで五山の山守となったのとはちがって、望んで渡し女となったわけではないのかもしれない。


なれは、まことに八尋を渡せるのか?」

「嘘を吐いてどうするのよ。荒御魂になって一番最初に喰われるのは渡しよ。私だって、獣に喰われてやるつもりはないわ」

「ふむ。道理じゃの。ならばなにゆえあの渡部は渡しはできぬと申したのじゃ?」

「腐ったやつだからよ」


 沫緒は、ぞっとするような冷たい眼をして、そう吐き捨てた。


「あいつ、渡部としては私より位が上なの。私のほうが渡しとして優秀だと知れたら、困るわけ」

「……なんとも胸の空かぬ話じゃのう」


 佐久良は臥榻の上に胡坐を掻いて、その上に頬杖をついて言った。


「じゃが、なにゆえあやつらは皆、あの渡部に同意するのじゃ。汝の仕事ぶりを見ておる者はおらぬのか」


 西軍の兵は、揃いも揃って目が節穴なのか。そう言外に問えば、沫緒は肩を竦めた。


「兵のなかに、私を手籠めにしようとしたやつがいたのよ。だから将軍に告げ口してやった。その頃は渡部が足りなくて、荒御魂に喰われでもしかねない有様だったから、将軍も私を保護せざるをえないと踏んだの。でも……」


 沫緒は自嘲するように嗤った。


「そいつは私が先に誘ってきたって言ったわ。あの渡部は、ご丁寧にもそれを裏づける証言をしてくれたってわけ。それからは奴ら、仲良しこよしよ」


 沫緒は怒るのでもなくただ、馬鹿だったわと気だるげに囁いた。


「なんじゃ。さような話があるか!」


 佐久良は憤慨して言ったが、沫緒は呆れたように溜め息を吐いた。


「他人のことで怒って莫迦じゃないの。私があの渡部でも同じことをやるわよ」

「な、なにゆえじゃ」

「底辺は、他人を蹴落としてのし上がるしかない」


 沫緒はまるで世の理を語るように凪いだ目で言った。


「吾は……吾は正しきことは正しきこと、強き者は強き者として認められる世がよいがのう」

「……だからあんたが嫌いなのよ」


 沫緒は、佐久良がここに放り込まれてから何度か告げてきたことをまた口にした。


「そんなことを言えるのは、あんたが五山の金持ちの家に生まれて、五体満足で、武芸にも学問にも思う存分打ち込めて、山犬に好かれたからよ。浪の民に生まれて今と同じことを言えるとは言わせないわよ」


 斬りつけてくるような厳冬のまなざしに、佐久良はからりと笑った。


「さよう。吾が山守となりえたのは、すべて山姫さまのお恵みじゃ」


 沫緒は目を瞬いて、訝しげに腕を組んだ。


「あんた、西軍の奴らに武芸の腕を誇っていたじゃない」

「あれは、売り言葉に買い言葉じゃ。まことを申せば、吾よりも腕の立つ衆はおった。吾の懐刀はほんに剛なる男での。三日にいっぺんは手合わせを申し入れておったのに、ついには勝ち越されてしもうたわ」


 口惜しきことよのう、と佐久良は頬を少し膨らませる。


「しかれば、吾もまた五山の民には汝にとっての渡部のごとく思われておったかもしれぬ」


 もし佐久良が山守でなかったならば、ひょっとすると今も五山の民や八尋は皆生きていたのではないか。

 佐久良を盛り立ててくれる民たちの手前、口が裂けてもそのようなことは口にできなかった。けれど、八尋は何故己を選んだのだろうと考えぬ日は山守として初めて立った日からかぞえて、一度としてない。


「……あんたは、なんでこんな馬鹿げた西と東の陣取り合戦なんかに加わったのよ。五山の連中は東国と長らく同盟を結んではいたけど、戦には関わらないって聞いていたのに」

「有り体に申せば、銭が入り用だったのじゃ」

「銭?」

「山火事が起こっての。その年の冬に燃料とするはずだった材木が皆、燃えてしもうた。じゃからとて、木を伐りすぎても山姫のお怒りに触れてしまう。外から買い求めることにしたのじゃが、五山はそれまで銭と縁遠い暮らしをしておったからの。そこに東の帝が手を差し伸べてきたのじゃ。引き換えに加勢をと申してな。今から思えば、それもこれも謀のうちであったのやもしれぬが」


 あのとき、火事の原因を突き止めることができていれば。あのとき、帝に頼らずとも銭を用立てる算段ができていれば。あのとき、戦に加わるなどと契りを交わさなければ。あのとき、あのとき、あのとき。毎夜、あのときを夢に見た。


「でも、それも終わったこと。この先どうする気? あんた、西の帝の好きそうな顔をしているもの。将軍の言うとおり、賢く振る舞いさえすれば一生安泰。国のことなんか考えないで、女だてらに武器なんか取らずに暮らしていけるわよ」

「吾は好きで五山のことを考えておったし、戦を得手とするおみながおってもよかろう。もっとも、ともがらが死ぬのは見たいものではないが。なれど、、か。汝も痛いところを突く」


 佐久良の描いていた先は、塵芥と消えた。この戦を五山の皆で生き抜いて、悪辣な都の者どもとも渡り合える力を蓄え、乱世を駆けていく。そんな夢を皆と毎晩のように語っていた。

 佐久良は目を伏せると、両の手に握り込んでいた見果てぬ夢を、そっと手放した。

 五山には、子どもや年寄り、病人や戦えぬ者たちがまだ残っている。それと、佐久良の次の山守も。もしものときのことは、すべて次の山守に託してきた。この先、佐久良が永らえて彼らにふたたびまみえる道があったとしても、それは彼らを率いる立場としてではない。裁かれ、贖い、五山の民らがこの先生きていくための肥やしとなる。それが、佐久良が往けるただひとつの道だろう。


「して、沫緒。吾の民らは送ってくれたのか」


 ひたと目を合わせて問えば、沫緒はもう答えをはぐらかさなかった。


「送ったわよ。喰われちゃ困るもの」

「さようか!」


 ぱっと身を乗り出せば、沫緒は身じろぎした。


「言っとくけど、あんたのためじゃないわよ」

「よいよい。吾がひとりでに喜んでおるだけじゃ。礼を言うぞ、沫緒」


 にかっと笑みを浮かべて言えば、沫緒はますます不機嫌な顔をして「だからあんたのためじゃ」と言いかけてやめた。


「吾は強き、、を好むからの。沫緒のことはもうだいぶん好きじゃ」


 好き勝手に打ち明け話をすれば、沫緒はなにやら奇怪な化け狐でも見るような目で佐久良を見た。


「八尋のようすはどうじゃ」

「さあね。私は近寄らせてももらえないもの。捧部が今日にも着くって話だったけど、この嵐のせいで遅れているみたい。山犬が荒御魂になれば事よ」

「しからば、吾があの秀間殿とやらに進言しようぞ。汝が底なしの阿呆であるゆえに皆喰われても知らぬぞとな」

「あんたの話なんか聞くわけないでしょ」

「む。吾は山守として罪人の話も方々聞きにまいったがの」

「それはあんたが珍獣だからよ」


 小さく嘆息して、沫緒は徐に懐の扇を取りだす。

 皮肉ばかりの女だが、沫緒はきっとさぞうつくしく強く舞うのだろう。沫緒の渡しをちらとでも見物する機会には恵まれていなかったが、佐久良はそのように確信していた。


「吾ならば、汝を上手く使うのだがのう」


 ぽつりと漏らせば、沫緒は不愉快そうに舌打ちした。


「獄にぶち込まれた分際で、おひいさま気取りはやめて」

「……うむ。口が過ぎた。なれど、いよいよこの肥溜めのごとき城とはおさらばしとうなってまいったのう。西の帝も目くそ鼻くそのようじゃし、かように愚にもつかぬ輩に敗れたのかと思うと、情けのうてかなわぬ」


 ぐちぐちと不平を漏らしはじめた佐久良を胡乱げに横目で見やって、沫緒は吐き捨てる。


「でも西軍が敵無しなのは本当よ。兵揃いの西の国々を一年足らずで平らげたんだもの。あんたの言う強きの権化は、西の帝。秀間殿のほかの将軍どもも、皆化け物並みの兵力をもっているって噂よ」


 西帝の軍勢は、わざと荒御魂を放置して、敵兵を襲わせる戦法を取っていた。死者を冒涜する唾棄すべき所業である。

 東軍に攻め込む際にも、従軍している捧部や渡部から先に殺し、荒御魂に殺される敵軍の高みの見物を決め込んでいた。そうして、五山の民も殺されたのだ。昨今は東軍もその真似をはじめ、戦は泥沼の様相を呈していた。


「吾はさような者どもを強きとはみとめぬ」


 唇を尖らせてそう言えば、沫緒は続きを促すように静かな目をして佐久良を見た。


「強きを、弱きを挫くものと履き違えておる。それは、吾や八尋や五山の民らが信じた強きではない。ゆえに、吾は東の帝も西の帝も好かぬ!」


 佐久良は、これまで自らが築き上げてきた地位や誉れが己の努力や才覚の賜物とは思わない。

 すべては山姫さまのお恵みのおかげ。五山の教えではそう考える。山姫の恵みは放っておけば、決して公平には行き渡らない。だから、その大いなる恵みを得た山守は、恵みを少しでも皆と分かち合えるように身骨を砕くのだ。


「好かぬって……」

 好き嫌いの話なんかしてないわよ。そう言うと、どこからか聴こえてきた時鐘に沫緒は立ち上がった。渡しそこねた屍者が荒御魂になっていないか、見回りに行くようだ。


 獄の外からは、雨風の叩きつける恐ろしげな音がする。八尋の亡骸は、この無慈悲な風雨に曝され続けているのだろうか。

 佐久良を佐久良たらしめてくれた気高く賢い朋友ともの末路に遣る瀬ない思いが込み上げる。周りにいたのが八尋や五山の民らでなかったならば、佐久良もまた将軍や東西の帝のように驕り、沫緒の話を聞かず民らの命を踏みにじるような輩になっていたかもしれない。

 目を伏せた佐久良を一瞥して、沫緒が音もなくその場を後にする。やはりその凍てたまなざしは、生と死の境がもっとも曖昧になる五山の頂の万年雪によく似ていて、佐久良は伸ばしかけた手をそっと握り込んだ。


 *


 異変が起こったのはその日の夜だった。

 辺りを劈くような悲鳴がひとつふたつ聞こえたかと思えば、阿鼻叫喚の大騒ぎになった。

 佐久良は飛び起きると、獄の外の様子に耳を澄ませた。どうやら騒動の種は城の外ではなく、中で起きているらしい。

 異様なまでに濃い闇に、全身の毛が逆立つ。


「なにごとじゃ!」


 獄卒に大声で尋ねても、狼狽えるばかりでなんの足しにもならない。

 こんな予想はしたくはないが、十中八九八尋が荒御魂となったのだろう。


「もうよい。吾を出せ。吾は生前の八尋のあるじぞ。御すこともできるじゃろうて」


 佐久良の提案にも、獄卒は頻りに首を振っるだけで、しまいにはその場から逃げだした。


「腑抜けめが!」


 佐久良は格子を殴りつけると、八尋の名を呼んだ。

 八尋は血の気の多い佐久良とちがって、極力殺しを避けようとするような、そのような山犬だった。この城の腐った膿どもがどうなろうと佐久良の知ったことではなかったが、命をみだりに奪う罪を八尋に負わせたくはない。

 そのとき、なにかがまろぶようにして格子の向こうに雪崩れ込んできた。白一色の寝間着に身を包んで青白い顔をしているが、その顔を見間違えるはずがない。将軍だった。


「これは秀間殿。かような黴臭い処に何用じゃ?」


 嫣然と笑って言えば、将軍はなにやら訳の分からぬ憎悪をその顔に貼りつけて怒鳴り声をあげた。


「お前のせいで――!」


 大方、将軍はこんな事態になったのは佐久良のせいだと思い込むことにしたのだろう。おめでたい頭である。八尋を死なせたのはたしかに佐久良のせいだったが、あの気高き生き物を荒御魂などに変じさせたのは将軍の采配の結果だ。

 よくよく見てみれば、将軍はなにやら鎖のようなものを握っている。格子のせいで視界が狭く、ひと目にはなにか判別がつかなかったが、よくよく目を凝らして佐久良は顔を強張らせた。


「沫緒!」


 鎖は沫緒の足首に繋がれていた。

 鈴がしゃなりと涼やかな音を響かせ、宵闇に色鮮やかな扇が踊る。白と青の蝶がそばを寄り添うように舞っていた。

 沫緒に無理やり護衛をさせているのだろう。


「吾を解きはなて。吾は山姫のご加護を得しもの。吾の刃は御魂にも届く」


 静かに将軍に命じれば、将軍は狂ったような嗤い声を上げた。


「そう言って、儂の首を取る気であろう!」

「かようなときに汝の薄汚い頸など、毛頭興味ないわ! 早うせい! 汝も死ぬぞ!」


 将軍はなおも渋っていたが、ついには観念して獄の鍵を開けた。佐久良はたちまち将軍に鹵獲されていた尖黒を奪い返し、彼が佩いていた太刀を引き抜く。

 尖黒で沫緒の鎖を断ち切り、回廊に躍り出た。

 はじめに押し寄せたのは、西軍の兵の荒御魂だった。生身の人間よりも色彩が乏しく、篝火に照らされた影が揺らめくように、ゆらゆらと肢体が揺れている。一太刀浴びせ、返す刀で歌い女の荒御魂を斬る。

 いくら丈夫な身体とはいえ、まだ怪我が塞がりきっていないからか鋭い痛みが全身を駆け抜けた。

 膝をつきかけたところで、回廊の向こうに見知ったうつくしい獣の姿が過ぎった。

 星明かりも月明かりもない宵の淵に、篠突く雨を弾いて白々と被毛がかがやく。

 その獣が床を蹴るたびに、血のにおいが濃くなっていく。


 間近にこがねがかった灰の光彩を見とめて、佐久良は八尋、と己のすべてであった獣の名を呼んだ。


 己の懐刀にも漏らさなかった弱音を、この物言わぬ獣だけは聞いてくれた。

 己の不甲斐なさに涙した夜も、八尋がぺろりとその滴を舐めとって共寝をしてくれた。見知った者たちが骸となりゆくつめたい七日七夜を越えてこられたのは、八尋のぬくみに融かされてきたからにほかならない。

 夜をつらぬくような咆哮が木霊する。

 八尋の眸に佐久良は映っているようで映っていない。虚ろな空漠だけが横たわるその双眸を見つめて、佐久良は振り下ろそうとした太刀を構えたまま、一歩も動けずに立ち尽くした。

 そこに。


「――退がれ」


 神鳴りのような声がした。弾かれたように、佐久良は後ろに飛び退る。

 見ると、沫緒が冷めた顔で「ここは私の戦場よ」と唸るように言った。

 りぃん、と鈴が鳴いて、二色の蝶の鱗粉が夜闇に鎖された真黒き回廊にひかりを散らす。

 沫緒は扇を舞わせると、たん、と片足で地を踏んだ。足を入れ替えて、何度か足踏みをする。それは捧部のするたまふり、、、、によく似ていた。

 八尋のがらんどうのようであった眸にひかりが射し込み、きょとと佐久良を見る。

 佐久良のよく知る、誰よりも賢く、情のふかい獣がそこにいた。八尋がこの顕界で最期に見る朋友の顔が少しでもましなものであるように、佐久良はにっと笑う。


 りぃん、と道を拓くような鈴の音がとよむ。それから沫緒はひそやかに、しかしはっきりと「渡れ」と命じた。

 鱗粉でできた細く長い川を、八尋はひと飛びで渡った。一度だけ、八尋が佐久良を振り返る。おかげで、八尋が最期に見た佐久良の顔は、くしゃくしゃに歪んだ顔になってしまった。

 八尋は、いつものように柔らかに微笑うように口の端を上げる。それからすぐに、川も八尋の姿も掻き消えた。

 のしかかるような夜闇がほどけて、常の夜の静けさが戻ってくる。いつの間にか暴雨は止んでいて、遠く厚い雲の向こうに空が白みはじめているのが見えた。

 佐久良はぺたんとその場に膝をついて、呆けたように呟いた。

「渡ったのか?」

「ええ。和御魂にぎみたまに戻したから、苦しむこともない。ぴーぴー泣かなくても大丈夫よ」

「ぴーぴー泣いてなどおらぬわっ」


 佐久良は眦に浮かんだ涙を乱暴に拭いながら言い張った。


「さて」


 沫緒は汚れた両手をぱんぱんと叩くと、佐久良のさらに後ろを振り返った。ひ、という喉に張りついたような声がして、佐久良はそういえばもうひとりこの場にいたことを思いだす。


「汝には挫くべき強きも見出せぬゆえ、ここで大人しくしておれ」


 そう言って、佐久良は獄に将軍を閉じ込めた。哀れな声をあげる将軍を尻目に、回廊をふたり歩きだす。


「佐久良」


 沫緒の声に乞われ、佐久良は顔を上げた。射しこんできた日のひかりに目を細めて、沫緒は挑戦的に笑う。


「私と組まない?」

「汝と?」


 きょとんと目を瞬けば、焦れたように沫緒が手を差しだしてきた。


「あんたは生者を、私は屍者を。私たち、手を組めば帝にだって手が届く」


 その不遜な物言いに、佐久良は口の端をにいと吊り上げた。なかなかどうして、佐久良と同じで度しがたい女である。


「あんたなんかどうせ、五山の奴らのためにしか生きられないんだから、そのためには帝どもが邪魔でしょ」

「どうせとはなんじゃ。……ふむ、じゃが、軍勢がおらぬぞ」


 文句を言いつつ乗り気になって言えば、沫緒は小馬鹿にしたように佐久良を見た。


「あんたが一声かければ、うようよ湧いてくる奴らがいるでしょ。賭けてもいいわよ」

「ふむ? つまり吾のとどまることを知らぬ魅力をもってしてということじゃな。沫緒は見る目があるのう。さては汝も吾を見初めた口じゃな?」

「――勝手に言ってろ」


 沫緒の暴言も気にせず、佐久良は上機嫌に何度も頷いた。


「うむ。よいよい。それはまこと、よき夢じゃ」


 言って、佐久良は沫緒の手に手を重ねる。びくりと揺れたその眸に、佐久良はみずからの黒目がちのまなこをぶつけた。


「吾の友になるからには、もう二度と穢れ女などとは言わせぬ。汝はうつくしい。見目の話ではないぞ。心ばえの話じゃ。汝は先ほど、弱き吾の心までも掬いあげた。強き女じゃ。先にも言ったが、吾は」

「強きが好きなんでしょ。いい加減分かったわよ!」


 沫緒は苦虫を噛み潰したような顔をして歩調をひと息に上げた。だが結ばれた手がほどけることはない。

 そうしてふたり、残夜の城を抜けだした。

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