9 月影のトシコさん
いけないいけない、ほんとに遅くなっちゃった――。
俊子は動物園の従業員通用口であわただしくタクシーを降りると、守衛に鍵を開けてもらって、自宅のエゾヒグマ舎に急いだ。
すでに夜半を過ぎ、空には初夏の満月が輝いている。
その月を眺める余裕もなく、俊子はカードキーを使って居住スペースの扉を開けた。
双子のハナコとヒメコは、子供用ベッドの上で仲良く寄り添い、健やかな寝息を立てている。
夫のワーブは岩場に出ているのか、ソファーにも夫婦用のベッドにも姿がない。
俊子は娘たちの枕元に大丸の紙袋を置き、二人の鼻先それぞれに、軽く自分の鼻をこすりつけた。
「……お土産は、明日のおやつにしようね」
それからバッグを自分のデスクに置こうとして、俊子は、パソコンの前に置いてある一通の封筒に気がついた。
プリンターで出力された住所シールの下に、懐かしい手書きの文字が添えてある。
『愛するパパとママへ ジャッキーより』
アメリカにいる息子からのエアメールだった。
季節の便りも相談事も、ほとんどスマホで済ませてしまう子なのに、あっちで何かあったのかしら――。
俊子は不安半分期待半分で、すでに開封されている封筒から便箋を引き出した。
その文面も直筆で、なにやら妙に改まった時候の挨拶に続き、
『――で、突然なんだけど、ぼくは今、もうラスベガスには住んでいない。
実は先月から、カリフォルニア州の国立公園で働いてる。
パパもママも名前は知ってると思うけど、あの有名なヨセミテ国立公園だ。シェラネバダ山脈の西山麓に、たくさんの森や湖が、呆れちゃうくらいどこまでも広がってる。そこの自然保護官に転職したんだ。
去年の夏にサーカスから休暇をもらって、いっぺんこのヨセミテを訪ねたときは、転職なんて考えてもいなかった。でも、ほんの半月ここで暮らしただけで、ぼくの生きる場所はもうここしかない、そう思っちゃったんだ。
ほんとうなら、転職する前にパパとママにも相談するべきだったんだけど、なにせラスベガスの仕事よりも給料が十分の一以下になっちゃうし、乱暴な野生動物なんかもけっこううろついてるし、なんか反対されそうな気がしてね。
事後報告になっちゃって、ほんとうにごめん。
だけど、やっぱりぼくには、都会の生活が向いていないみたいだ。ここに来てから、すごく体が軽い。体だけじゃなく、心も信じられないくらい軽いんだ。今なら山も海も越えて、故郷の多摩まで駆けて行けそうな気がするくらいにね。
あと、実は恋人もできた。ジェニーといって、自然保護官の先輩なんだ。歳は後輩のぼくのほうが上だけど、ぼくよりずっとしっかり者で、とってもすてきな女性だよ。
近々、彼女を連れて、いっぺんそっちに帰ろうと思う。本気で結婚するつもりだから、パパやママや妹たちにも、ちゃんと紹介しないとね。
こっちでちゃんと暮らしてる証拠に、仕事仲間と撮った写真を入れておく。ぼくの隣に、ジェニーも写ってるよ。
じゃあ、帰れる日がはっきりしたら、また連絡するからね――』
手紙を読み終えて、俊子は思わず独り言ちた。
「……なにやってんだろ、あの子」
同封されていた一枚の写真を見ると、俊子の故郷を幾層倍にもスケールアップしたような山や森や湖水を背景に、思いきり陽に焼けた十数人の男女が、自然保護官の制服らしい姿で、思い思いの陽気なポーズをきめていた。隊員の中には、ピューマやコヨーテも混じっているようだ。
そして息子のジャッキーは、なんの屈託もない笑顔で、隣にいるハイイログマの娘さんに身を寄せ、その肩に手を回している。素朴な顔立ちの娘さんは、あまり男慣れしていないのか、アメリカ娘にしては、ずいぶんはにかんだ笑顔だった。
「ほんと、なにやってんだろ……」
俊子は、喜んでいいのか怒っていいのかわからず、デスクに手紙と写真を置いて、夫がいるはずの岩場に向かった。
◎
夫のワーブは、人工の岩場の中腹に座り、月を見上げていた。
青い月影に浮かぶその横顔や体格に、野生のヒグマのような荒々しさはない。といって弱々しい夫でもない。気が向くと岩場の底から、据え付けの木々を伝って頂上まで一息に駆け上がったりもする。また、雨の日に濡れたままじっとうずくまり、岩場に流れる幾筋もの水の糸を、飽きずに眺めていることもある。なぜそうしているのか俊子が訊ねると、雨というものの実存を知りたい、そんな答えが返る。人間に例えれば、在野の哲学者あるいは孤高の賢人、そんな気質の夫であった。
今、夜空で微かな薄雲をまとわらせている真円の月に、どこかしら風情が似ている――。
そんなことを思いながら、俊子は夫に寄りそって座った。
「ただいま。遅くなってごめんね」
ワーブは優しく頬笑んで、
「かまわないさ。ハナコもヒメコもいい子にしてたよ。君もいい仕事ができたみたいだし、なによりじゃないか」
「うん」
「見たかい? あいつの手紙」
「……呆れちゃった」
「それだけ?」
「うん、今はそれだけ」
夫のワーブは、くつくつと笑い、
「あれは、確実に君の血だよ。あいつは昔から広い世界を探し求める子だった。元気にやってるなら、それでいいさ」
穏やかにそう言って、夜空を見上げ、
「ぼくなんか、代々動物園育ちで、まるっきり井の中の
卑下するような言葉尻でありながら、まったく卑屈に感じられない夫の悠揚迫らざる佇まいが、俊子には好ましかった。
それに『井の中の
『井の中の
それでも俊子としては、やっぱり息子の独断に納得できない。
「でも、いきなり恋人ができたとか結婚するとか、いくらなんでも、あれはないわよ」
そうぼやくと、ワーブはなぜか俊子に頭を下げ、
「ごめん。あれはたぶん、ぼくの血だと思う」
怪訝な顔をする俊子に、
「きっと女性の好みが遺伝したんだ。あのハイイログマのお嬢さん、ちょっと毛色を濃くしたら、どこかの誰かさんにそっくりじゃないか」
茶化されたのかと思ったら、夫はあくまで真面目に言っているらしい。
あらまあ――。
俊子は挙動に窮してしまった。
ワーブは、また遠い夜空の月を見上げ、
「ま、どのみち、あいつもあのお嬢さんも、ヨセミテに夜がきたら、ぼくらみたいに並んで月をながめるのさ。その月は、今ぼくたちがながめているあの月と、まったく同じ月だ。世界中のどこにいても、同じように美しい月だ」
それから俊子の瞳を見つめ、
「でも、今、誰かさんの美しい瞳に映っているその月は、隣にいるぼくにしか見られない」
まあまあ、まあ――。
俊子は夫の首筋に顔をすりよせ、思わず甘噛みした。
【終】
石狩俊子の生活と意見 バニラダヌキ @vanilladanuki
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