8 トシコさん、疾走する
跳躍だけで数メートルを稼ぎ、そのまま加速する。野生のエゾヒグマは時速50キロで走る。65キロに達することもある。獲物の背中は見る見る間近に迫った。
その同じ獲物を、俊子と並走して追う影がある。
横目で視認し、俊子は舌を巻いた。パパンダもまた痴漢を追っている。しかも直立走行だ。胸にコパンダの鞄と中折れ帽を抱いたまま、いつものとぼけたパンダ顔で、でででででででと身軽に駆けている。
その物理法則を逸脱した走りは、伝説の
ともあれホームの端を過ぎて間もなく、俊子は獲物の背中に躍りかかった。
もんどり打って仰向けになった男の顔に、俊子の鼻先と荒い息が迫る。
俊子は無意識の内に爪を立てた前足を振り上げ、男の顔に狙いをつけた。
野獣特有の、感情の読めない無機質な瞳が、男の視線に交わる。
男は、ひゅう、と息を呑んで、ちょろちょろと失禁した。
そのまま俊子が男の顔面を剥ぎ取ろうとしたとき――。
「楽勝でしたなあ」
横のパパンダが、とぼけた顔で笑いながら言った。
コパンダも鞄から顔を出し、興味津々のまん丸お目々で、事の成りゆきを窺っている。
いっとき俊子の心を支配していた野生が、ふっ、と家庭婦人の心に戻った。
そう。私は、ここでこの男を狩るべきではない。エゾヒグマである以前に、妻として母として、そしてひとりの女として――。
それが山の神の心、大地母神の心であることを自覚しないまま、俊子は前足を下ろし、震えている男に微笑して言った。
「……あなた、奥さんはいらっしゃるの?」
男は震えながらうなずいた。
「じゃあ、お子さんは?」
男は、また、おずおずとうなずいた。
自分の罪で、それらの愛する者に去られる覚悟が、この愚かな男にはあったのだろうか。おそらく仕事も失うだろう。死んだほうがましな未来が待っているだけかもしれない。しかし、それでも――。
「御両親は?」
「……親父はもういません。でも、
「そう」
俊子は、男の上から退いた。
「なら、きちんと罪を償いなさいな」
男の瞳の奥で、初めて見るエゾヒグマの微笑が、一瞬、遠い昔の母の笑顔に重なる。
「…………はい」
男は神妙にうなずいた。
そのとき――。
ごぎ、と肉食獣が骨付き肉にかぶりつく音が響き、次いで、ぶぢ、と噛みちぎる音が響いた。
「うぎゃああああああ!」
男は右手を押さえてのたうちまわった。
「………………」
「………………」
「………………」
唖然としている俊子たちに、土佐出身と覚しい警官が、すちゃ、と敬礼した。
口に咥えていた三本指の肉塊――たぶん親指と人差し指と中指あたりの手羽先肉――を、ぺ、と砂利の上に吐き捨てて、
「ご協力ありがとうございました。皆さん、お怪我はありませんか?」
俊子は、なかば呆然としたまま答えた。
「…………指」
自分の怪我ではないが、とても痛そうだ。
警官は、のたうちまわっている男を見下ろし、
「はっはっは。ご安心を。しっかり噛み砕きましたので、二度と痴漢はできません」
闘犬大会で三年連続優勝したような、喧嘩傷だらけの笑顔であった。
俊子は思った。
犬のお巡りさんは、やっぱりシェパードやレトリーバーがいい。せめてドーベルマンまでにしてほしい。なんぼなんでも土佐闘犬は、ちょっと――。
コパンダが、手羽先を見下ろして言った。
「……ぼく、お肉きらい」
パパンダはいつものように、にっ、と白い歯列をむき出し、
「そうだね。パパも竹のほうがいい」
たぶん早く家に帰って、庭の竹藪でくつろぎたいのだろう。
コパンダは、アップルパイの小袋を抱えて俊子を見上げ、
「ぼく、リンゴ大好き」
俊子はコパンダの頭を撫でながら、
「そうね。おばちゃんもリンゴが好きよ」
実際、俊子一家の一番の好物は、リンゴなのである。
二番目がカボチャで、あらかじめ羽根をむしって首をもいだニワトリは三番目くらいか。
◎
東京駅構内の鉄道警察隊詰所で、俊子はパパンダ親子と共に事情聴取を受けた。
多少の暴走行為があったとはいえ、あくまで逮捕協力者だし、人気の稀少動物親子と著名な文筆家でもあるから、詰所での扱いは丁重だった。
聴取の途中で、俊子のスマホに、牧村女史と田島嬢から例の件の経過報告が入った。湾岸警察署の生活安全課が動いてくれることになり、二人もあの女性に協力を続けるとのことだった。
そんな通話内容に、鉄道警察の面々も何事ならんと興味を示し、俊子と余分な会話が増える。俊子も逆に取材魂に火がつき、東京駅における構内犯罪の傾向と対策などを質問しはじめたものだから、ますます話が延びる。
パパンダ親子が先に帰ってからも、詰所では、ほとんど座談会状態が続いた。
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