7 トシコさん、跳躍する

「でも中央線でお帰りだと、かえって遠回りではございませんの?」

 俊子は、ふと思い当たり、パパンダに訊ねた。

「上野から所沢でしょう? なら、山手線で池袋に出たほうが」

「実は、近頃お婆さんの認知症が悪化しまして、立川の有料介護施設に入ってもらったのです。安上がりな特養は、なかなか空きがありませんもので。我々一家も、お見舞いの便を考えて立川に引っ越しました。竹藪のある一戸建て物件は、あのあたりだと、なかなか物入りなものですなあ」

「あらまあ……」

「そんなこんなで私とパンは、来月から浦安のディズニーランドに転職することになりました。上野よりもいい条件でスカウトされたものですから」

「まあ、ご栄転おめでとうございます」


 俊子は一応の祝意を口にしたが、内心、心配もあった。

 あそこはギャラがハリウッド級なぶん、芸のクオリティーに厳しいと聞く。

 パンダのような稀少人気動物の世界は、勝ち組であればこそ、なかなかシビアなのである。


「毎日ディズニーランドに行くんだよ!」

 コパンダが誇らしげに言った。

 俊子はその頭を撫でながら、子役はいいがパパンダは大変だろう、と思った。

 ラスベガスの有名サーカスに就職した長男のジャッキーは、うまくやっているだろうか。パンダより地味なぶん、仕事は楽だと思うが――。


 俊子は首に提げた大丸の紙袋から、小分けのアップルパイをひとつ取り出して、

「はい、パンちゃん。おばちゃんからお土産よ。リンゴ、大好きだったでしょ?」

「ありがとー!」

「これはこれは、どうもすみませんなあ」

 どんなときにも、この大らかな声と笑顔を忘れないパパがいれば、パンちゃんもミミ子ちゃんも幸せに育つだろう――俊子はパパンダの白い歯列を見上げながら、夫の歯列を思い出していた。


 そのとき背後から、ただならぬ男の声が響いてきた。

「駅員さん! 駅員さん!」

 俊子たちが特別快速を待っているホームの反対側で、何か騒ぎが起きている。

「こいつ痴漢です!」


 俊子が振り向くと、少し離れた各駅停車のドア前で、殺気だった男たちが、一人の男を取り押さえていた。つかまえているのは、大学生風の若者から洒落た隠居風の老人まで年齢も風体もまちまちの三人組、捕らわれているのは背広姿の会社員、年の頃は三十歳前後か。

 その集団に背を向けるようにして、やはり三人ほどの女性たちが、一人の少女を慰めている。制服姿の少女は、泣きながら両手で顔を覆っていた。

 おそらく到着前の車内で痴漢事件が起こり、周囲の客たちが気づいて犯人を取り押さえ、この駅で引きずり出したのだろう。


 会社員風の男は「違う!」とか「冤罪だ!」などと叫びながら、ホームと電車の間に、何か小さな物を投げ捨てようとした。

「何やってんだ!」

 老人がそれに気づき、線路に滑り落ちる前に拾い上げる。

「……腕時計?」

 若者が覗きこみ、

「いや、それデジカメですよ」

 もうひとりの屈強そうな男は、痴漢の腕をひねり上げて、

「おまえ盗撮までやっとったんか!」


 駆けつけた駅員に、老人が「証拠物件」と告げて偽装カメラを手渡す。

 会社員風の痴漢は、さすがに観念したのか、ふてくされた顔で黙りこんだ。

 俊子は、泣いている女子高生を抱きしめてやりたかった。

 こんな仕打ちを受けた少女は、たぶん生涯、トラウマを抱えることになる。本音を言えば少女を慰める前に痴漢を引き裂いてやりたかったのだが、野生を捨てた自分は、悲しいかな、その任ではない。

 まもなく鉄道警察隊員たちも駆けつけ、それらの一団は各者各様の姿で、ホームの先にある事務室に向かって行った。


「……人間というものは、困ったものですなあ」

 パパンダが、のんびりと言った。

「手に入らないものばかり、いつも欲しがっている」

 いえいえ野生動物だってけっこう厄介ですよ――俊子はそう思ったが、根っから草食系のパパンダに、それを言っても仕方がない。


 そのとき、今度は事務室の方角から、警察隊員の声が響いた。

「おいこら逃げるな!」

 見れば、あの痴漢が周囲の一団から逃れ、脱兎のごとくこちらに駆けてくる。まだ手錠をかけられていないのをいいことに、隙を突いて逃げ出したらしい。


「おやおや、ほんとうに困った奴だ」

 パパンダは、あいかわらず緊張感のかけらもない声でつぶやくと、ぬい、とホーム中央に歩み出た。

 俊子もパパンダの横に並び、両腕を大きく広げて直立した。エゾヒグマの威嚇ポーズは、映画のグリズリーに劣らぬ迫力がある。


 男はこれまで二人の、もとい二頭の存在に気づいていなかったらしい。

 大熊猫はともかくグリズリーに襲われたら命がないと思ったのか、あるいはニュースで見たように線路から高架下へでも逃れようと思ったのか、俊子たちの手前でホームから飛び降りた。


「馬鹿! 戻れ!」

 追っ手も俊子たちを迂回して男を追うが、線路にまで下りる気配はない。それはそうだろう。駅員が緊急停止信号を手配したとしても、さっきの今では間に合わない。特別快速が入線してくる恐れがある。


 男は神田駅方向の構外をめざして、線路の横を全力疾走していた。場合が場合だけに、熊に追われる鹿なみの逃げ足である。

 遠ざかる後ろ姿を追視しながら、俊子の全身が本能的にわなないた。


 これは――野生に還れというカムイのお告げ?


 線路の先に、まだ電車は見えない。

 俊子は全身をバネにして、ホームから跳躍した。

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