12.アラサー女は現在(いま)を生きる



「永松さん、この資料データの入力お願い。今日中にやって貰えると助かる」



 いつもの職場で上司に渡された資料に目を通し、わかりましたと返事をする。現在16:30ーー終業まで後1時間の頑張りどころだ。



*****



 あの夜、眩い光に包まれて現在に戻った実菜は、足元に転がったスマホを眺めて暫くの間呆然と立ち尽くしていた。


 画面には8月12日19:50と表示され、里穂からの集合場所を知らせるメッセージが通知されている。どうやら実菜が過去に戻っていた数時間はここでは数分程度の出来事だったようだ。


 ひどく重い動作でスマホを拾い上げると、落とした衝撃でひび割れていたのだろう。社長から貰ったストラップが跡形もなくサラサラと崩れ、星のように輝く粒子となって風にのって人混みへと消えていった。


 その不思議な光景に目を見張った実菜だったが、フッと目元を緩めてありがとうございましたと呟く。



 社長のスピリチュアル趣味も侮れんなぁ……。



 今度お礼をしなくてはと心に決め、実菜は里穂が待つ場所へと駆け出したのだった。



 あの夜以来、先輩に恥じないよう自分も頑張ろうと決意した実菜は資格の勉強を始めることにした。簿記の知識は今の仕事にも役に立つし、FPの資格は後々のスキルアップにも繋がるだろう。



 あとは阿波踊りにも挑戦してみようかな……?



 小学校の運動会で踊って以来、見る専門だったが、久しぶりにあの空間に足を運び、圧巻の芸術美やグルーヴ感に触れたことで、踊り手としてあの熱気を体感してみたいと思うようになった。初心者の体験を受付けている連のHPを見つけたので後で連絡してみよう。


 今の状況を楽しもうと思える迄に随分と時間を要したが、現実を受け入れ少し意識を変えるだけで見える世界も変わっていくことに気が付いた。


 上手くいくことばかりでない人生なのは変わらないけれど、落ち込む時は落ち込んで、その後に頑張ろうと思えるのは、同じ空の下で彼も頑張っていると思えるからだろう。


 30歳にもなって高校時代の初恋を引きずってることに「イタイな」と思わなくもないけれど、自分はこれで前向きになれるのだから多少のキモさは容赦してもらおうと開き直る。



 今日の晩ご飯は何にしようかな……。社長から貰ったすだちがまだ残っているからちょっと贅沢してお刺身でも買って帰ろうかなぁ……。



 本日の業務を終え、自転車置き場に向かいながら実菜は思案する。結局残業になったので、すでに陽が落ち空は夕焼け色に染まっていた。



 ブーブーブーブー



 着信を知らせる規則正しいバイブ音が鳴り鞄が振動する。奥底に沈んでいたスマホを引っ張りあげてこんな時間に誰だ? と画面を確認すると……



「えっ?!」



 驚きのあまり大きな声を出してしまい実菜は慌てて周囲を見回した。幸いにも誰にも聞かれていないようだ。「うそ……」と声を落とし、画面に表示された名前を二度見して震える指で通話ボタンを押す。



「はい……永松です」



 緊張のあまり上擦った調子で応答すると、記憶していたよりも若干低めの、それでも懐かしさを感じる声が聞こえてきた。



「あ、永松? えっと……お久しぶりです。前島です。……覚えてる? あの、高校の天文部で一緒だった……」



 戸惑うような問いかけに実菜は大きく首を縦に振りながら応える。



「あ〜……えっと、特に用って訳じゃないんだけど。いや、実はこの前夢に永松が出て来てさ、あ、ごめんキモイよな。その、全然変な夢じゃなくて、高校時代の夢なんだけど……やけにリアルで……それでちょっと、元気にしてるかなって思って……」



 気まずそうにそう告げる言葉に被せるかたちで、「私も連絡しようと思ってました!」と言うと、「あ、マジで?」と電話口の声が明るくなる。



「先輩に聞きたいことも聞いてもらいたいこともたくさんあるんです!」



 満面の笑みを浮かべながら嬉しそうな声を上げる実菜を真っ赤な夕陽が照らしている。陽が落ちきって、辺りが夜に染まるまで、駐輪場には実菜の楽しそうな笑い声が響いていた。



《完》

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あの夏の日をもう一度 夏時みどり @turquo_ise

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