n君の憂鬱

 n君は思い悩んでいた。ただしn君は、自分が何について悩んでいるのかわかっていなかった。そのよくわからないn君の悩みは、n君の中に漠然とした不安を生み、所在不明な焦燥感を植え付けた。それは日々大きくなっていくが、n君はどうすることもできずに、ただ悩んでいるのだった。

 n君と去年の春に結婚したmさんは、n君を心配した。

「仕事がうまくいってないの?」

「いや、順調だよ。今度、新しいプロジェクトを任せられることになったし、すごく、やりがいもある」

「お金のこと?」

「今の会社は給料もいいし、独身時代の貯金もあるからそれは心配してない」

「私の両親のこと?」

「君の両親とは結婚前はいろいろあったね……でも、もう何のわだかまりもないし、ぶつかったおかげでいろいろわかったこともあったと思う。それに、君のご両親はとてもよい人達だよ」

「……子供のこと?」

 そう言って、mさんは自分のお腹をなでた。mさんは妊娠十ヶ月。予定日はもうすぐだった。

 n君はmさんの目を見て、嘘偽りなき気持ちで答えた。

「それは違う。僕達の子供が生まれることは、僕の喜びで、僕の幸せなんだ」



 しかしn君の悩みは晴れない。n君の周囲の人々はn君を思いやり励ました。

 n君の祖父aはまだ存命で、世界中を祖母bと共にまわっており頻繁に絵葉書を送ってくるが、LINEで送ってくる情報の方が多い。n君とmさんを引き合わせた二人の共通の友人cさんとその夫e氏(いんきんたむし)は、二人を招いて河原でバーベキューをして楽しんだ。もちろん社会情勢を鑑みて、ソーシャルディスタンスを取ったうえで各自の網で各々が焼く形である。n君は友人dくん、fくん、gさんらと楽しい時間を過ごした。ついでにf君はgさんから告白されたが遠かったので聞こえなかった。n君の上司であるいつもは饒舌なh部長は、オンライン飲みの三次会(Skype→ Zoom→Line)まで残ったn君の前で酔いつぶれながら、二回り離れた少女とのプラトニックな恋愛について相談した。mさんの姉で、ガンジスの呼び声を聞いたと言って仕事を辞めインドを旅行して去年帰ってきていたiさんからインドで倒した虎の毛皮が届いた。n君が初恋の相手である双子の姪のjちゃんとkちゃんに恋の相談をされたn君とmさんは大いに二人を焚きつけたが、jちゃんとkちゃんとl君の三角関係が発生した。繁華街で出会った占い師oは、n君の運勢はガンダムで言うところのクシィーガンダムだと告げた。n君の行きつけの喫茶店のマスターp氏は、n君とmさんにコーヒー漫談一本でやっていくと宣言し、逆に心配させた。n君の弟のq君は、n君の大好きな歌手rと付き合っていることをカミングアウトした。n君の住む街を騒がした変態魔術師sが、mさんの活躍により逮捕され、mさんは元彼tの仇をやっと討つことができたが、実はs自身がtであり、mさんが付き合っていたtは一体誰だったのか? それは誰にもわからないのだった。歌手uと俳優vがスピード離婚したがまた復縁したが全然バズらなかった。n君が通勤途中にふとしたことで出会い仲良くなった老夫婦wさんとxさんの家に招かれ、行方不明の息子の話を聞いたところで、近所の公園に住むようになり顔見知りになったホームレスのy氏のことを思いだし、引き合わせてみれば本人ではなかったが、xさんの元彼であることがわかり気まずい感じになったが、最終的に三人で住むことになり、n君はほっとするのだった。


 全ては、大体においてうまく進んでいた。そして、mさんが出産の為に入院していた病院から連絡があった。n君は仕事を途中で切り上げて、病院に向かった。mさんは既に分娩室に入っていた。かかりつけの産婦人科医z氏は、持病を持つmさんの出産には危険が伴うとn君に告げた。n君はそれを事前に聞いて覚悟していたので、静かにうなずいた。

 n君にとって長い夜がはじまり、そして明けた。

 夜明け頃、分娩室の外で、ただひたすら祈っていたn君の耳に、赤ん坊の鳴き声が届く。n君の体の奥底からこみ上げる喜びとともに、唐突にn君の悩みが言語化した。



「アルファベットが足りない」



 分娩室で、生まれたての赤ん坊を抱いたとき、n君の心は決まった。n君がmさんを見やると、mさんは憔悴しながらも決意をたたえた目でn君を見ていた。夫婦の間に無言の意思確認が行われる。この子の為にできること。足りなければ……。



ベッドの上、生まれた子供を抱きながら、mさんは言った。

「ねえ、教えてくれる?」

ベッドの脇の椅子に座り、妻と子供を愛おしそうに見つめていたn君は、少し照れくさそうにして言った。

「尊敬するじいちゃんのa、ぼくらを引き合わせるきっかけをつくった優しいdさんのd、最後に君のm。これを合わせて、adamってどうかな」

「あら、お祖父さんの字が二つ入ってるわ」

「二つくらい入れとけばさすがに文句ないだろ」

二人は笑った。

笑いながら、少し涙をにじませて、mさんが言った。

「いいと思うわ」



この日、ひとりの生命が新たに祝福を受けて生まれ、そして新たに「名前」という概念が生まれた。

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n君の憂鬱 朝飯抜太郎 @sabimura

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