『雨上がりの観覧車』(ルフィア&ティア)

 ※本編開始より四年前です。

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 長い雨が続いていた。

 もう一昨日から。そして科学技術研究所の予報によれば、あと二日間この雨は降り続くのだと発表されていた。

 降雨時間は長いけれど、霧雨や小雨が主で雨量はたいして多くないため水害の恐れはないらしく、魔術研究所から災害予知の警報も出ていない。

 けれども、雨の日がこうも続くと気分的には滅入るというものだった。

「雨は嫌いじゃないけど、青空も恋しいなぁ」

 空色の傘を差しながらルフィアは溜息をついた。

 念願の科学技術研究所に入ることが出来てからようやく一年。本当は開発チームに入ってたくさん新しいものを創りたかったけれど、まだまだ新米の自分に回ってくる仕事は、たいしたものはない。

 今日などは、先年科技研がプランディールの海浜公園に建てた観覧車の制御装置の不具合を調整に行くだけだった。


「青空の下でなら、この仕事ももっと楽しく出来るだろうなぁ」

 晴れの日に海辺の公園を訪れるのは気持ちがいいけれど、雨の日は人気ひとけもなくて少し寂しいとルフィアは思った。

「まあ、こんな日だからこそ、人も少なくて調整に専念できるかなっ」

 思い直したように呟くと、大きな伸びをする。

 どんな小さな仕事でもしっかりとこなして少しずつ実績を積んでいけば、きっと開発チームに入ることもできるだろう。

 そう自分を鼓舞させ、再び目的地に向かってルフィアは歩き出した。


 観覧車へ向かうための舗装された道も、長い雨に大きな水溜りが出来ている。それを器用に避けて歩きながら、ルフィアはふと、気配を感じて横を向いた。

「……猫?」

 薄紫や青の紫陽花が植え込まれた小路の脇に、びしょ濡れになった仔猫がうずくまるように座っていた。

 仔猫はルフィアに気がつくと、ぴくんと耳を動かして、みゃあと鳴いた。

 その仕草が可愛くて、思わずルフィアは顔をほころばせた。

 そっと近づいて、服が濡れるのも厭わずに仔猫を抱き上げる。

 人に慣れているのか仔猫は逃げようとはせず、綺麗な緑色の瞳を軽く上げてルフィアを見やり、そしてもう一度小さく鳴いた。

「迷子? それとも……」

 捨て猫か。ルフィアはじっと仔猫を見つめた。やわらかな銀色の毛並は薄汚れてはいたけれど、よく見ると首に連絡先が記されたリボンが巻かれている。

 ただ、子供が書いたような文字で記された住所はリデロ。このプランディールからは飛行機や船でも使わなければ行かれないような距離にある町の名だった。


「捨て猫だよ。飼えなくなったから、旅行に来たついでに捨てられたんだ」

「えっ?」

 突然かけられた言葉にルフィアが驚いて顔を向けると、黄色い傘を差した十歳くらいの男の子が手にミルクの小瓶を抱えて立っていた。

「君の、猫なの?」

 どこか怒ったような表情で佇む子供に、ルフィアはにこりと笑う。

「違うよ。友達の猫。誰かに拾われるまで、世話してって頼まれたの」

 少年は少し考えるように首をかしげ、そしてふるふると頭を振った。

「お姉さん、その子飼ってくれるの?」

 その言葉に、ルフィアは手の中に抱いた仔猫を見た。ふうわりと温かい、小さな身体。翡翠のように綺麗な緑の瞳が、じっと自分を見上げていた。

「……でもこの子、連絡先を書いたリボンをつけてるよ。本当に捨て猫?」

「うん。住所を残しておけば、もしかしたら拾った人が家に連れてきてくれるかもしれないって。そしたらパパも諦めて、また飼っても良いって言うかもしれないって。サナがこっそり住所や連絡先を書いた迷子紐をつけてったんだ」

 でも、と少年は頭を振った。

「こないだ生まれたサナの妹がアレルギーだから、やっぱり……絶対にもう飼えないんだもん」

 『サナ』が仔猫を想うその気持ちも、飼う事が出来ないという家庭の事情も、この少年は子供ながらに理解しているのだろう。

 やはりどこか怒ったような、けれども寂しいような表情で、少年はルフィアと仔猫を見つめていた。


「そっか。じゃあ、私がこの子をもらっちゃおうかな」

 猫は好きだったし、今住んでいる家は動物を飼うことも可能だ。それに何より、この宝石のような目をした仔猫が可愛かった。

「ほんとっ?」

「うん。だから、安心していいよ。

 少年の口調や表情から、おそらくこの少年こそがサナなのだろうと思った。

 新しい飼い主を探すでもなく、わざわざ遠い地にまでやって来て動物を捨てるというすぎるサナの両親の行為は、まったくもって許せる事ではなかったけれど、この少年にそれを言うのは酷だ。

 ルフィアは明るい笑みを口許に佩くと、少年の頭をぽんぽんと優しくたたいた。

 少年は驚いたように目を見開き、悲しそうに眉を下げた。

「ばれちゃったか。……でも、良かった。ヒスイの飼い主が見付かって。もう、リデロに帰らなきゃいけなかったから……」

 サナはそっと仔猫の頭を撫でながら、ルフィアを見上げて寂しそうに笑う。

「この子、ヒスイって言うの?」

「うん。目が、翡翠みたいだから……」

「そっか。じゃあ、ヒスイの写真。時々この連絡先アドレスに送ってあげるよ。だから、元気だしなね」

 にこりと笑い、ルフィアは少年の顔を覗き込む。

「 ―― ありがとう、お姉さん!!」

 ぱあっと明るい笑顔が幼い顔に浮かび上がり、サナは嬉しそうにルフィアに抱きついた。

 仔猫を飼ってくれるだけではなく、自分にその元気な姿を知らせてくれるというのだ。願ってもない話だった。

 サナは無邪気に喜び、そうしてルフィアと指きりをすると、名残惜しそうに何度も仔猫を振り返りながら、両親の待つ場所へと帰っていった。


 それを見送ってから、ルフィアは軽く息をついた。

「さて。どうしようかなぁ。この子、早く温かくしてあげたいけど……」

 少し困ったように、これから行くはずだった観覧車に視線を向ける。何時に行くとは言っていないけれど、おそらく所員はルフィアの到着を待っているだろう。

「仕方ないか。もうちょっと待っててもらおう」

 ぺろりと舌を出して観覧車に軽く拝むような真似をすると、ルフィアは公園に設えられた四阿あづまやに入り、持っていたハンドタオルで仔猫の身体を優しく拭いた。

 あまり遅くなるわけにもいかないので、今すぐに乾かしてあげることは出来ないけれど、少しでも水気を取ってあげたかった。

 仔猫はアーモンド形の大きな翡翠の瞳を細めて、気持ちよさそうに喉を鳴らす。

「ふふ。ヒスイか。君にぴったりな名前だね」

 可愛らしい仔猫の仕草に、ルフィアはくすりと笑った。


 ふいに、ずっと大人しく身体を拭かれていた仔猫がするりとルフィアの手をすり抜けた。

 ぴょんと地面に降り立つと、そのまま一目散に海の方へと駆けていく。

「あっ! ヒスイ? ちょっと待って!!」

 傘をさすのももどかしく、ルフィアはそのまま四阿の外に駆け出して、仔猫を追いかけた。

 けれども、あまりにすばしっこく小さな生き物は、ルフィアの目を掠めて木々の間へと姿を隠してしまう。

 そのたびに目敏く見つけて追いかけていたルフィアも、三度目でとうとう仔猫を完全に見失ってしまっていた。

「……どこに行っちゃったのよ」

 全身びしょ濡れになりながら、ルフィアは色違いの瞳をあたりに彷徨わせた。

「ヒスイー」

 雨に咲き誇る紫陽花の隙間を覗き込んだりもする。

 けれども、どこにも仔猫の姿はない。このまま見付からなかったらどうしようかと、ルフィアは思わず泣きたくなった。


「 ―― ?」

 ふと、身体にしとしと降りかかっていた雨が急に途切れたような気がして、ルフィアは茂みを覗き込んでいた顔を上げた。

「大丈夫ですか?」

 大きな紺瑠璃の傘をさした青年が、翡翠のような瞳に心配そうな色を浮かべ、こちらを見おろしていた。

 いなくなった仔猫と同じ綺麗な緑色の瞳がとても優しくて、ほんわりと心が暖かくなるような気さえする。

 ルフィアは不思議そうに、そんな青年の顔を見た。

 白い、かっちりとした制服を着ていたので、その青年が魔術研究所の人間だということはすぐにわかった。

 こちらを見おろすその顔は、まだ若い。とても穏やかな雰囲気をもつ端正な顔は、青年というよりは、少年と言ってもいいように思える。

 しかし、アカデミーにはたいてい普学や専門校と呼ばれる学校を卒業してから入るのが一般的だったから、幼く見えるけれど、この青年もおそらく自分と同じくらいの年齢なのだろうとルフィアは思った。

 この年、普学の卒業を待たずに十七歳で魔術研に入所した年若い導士がいることを、科技研に所属しているルフィアが知る由もなかった。


「どこか、具合悪いんですか?」

 自分を見上げたまま、ぼんやりと返事をしない女性に、青年は軽く首をかしげ、さらに問い重ねる。

「あ、ううん。大丈夫。ありがとう」

 ルフィアは雨の中に座っていたのが気恥ずかしくて、慌てて立ち上がった。ずっと雨に濡れていたせいか、少し寒いような気がした。

 けれど、自分よりも長く雨にあたっていた小さなヒスイは、もっと寒いのではないだろうか? そう思うと気が気でなかった。

「あの……仔猫見ませんでした? これくらいの大きさで、シルバーっぽい色の子なんですけど。目は翡翠みたいで……」

 わらをもすがるような思いで、目の前の青年に訊いてみる。

 すると、青年は何故かきょとんと目をまるくした。そうして、ふわりと破顔する。

「 ―― 知ってるよ。この子でしょう?」

 傘を持っているのとは反対側の手に、青年は小さな仔猫を抱いていた。

 こんな目の前にいるのに気付いていなかったのかと、可笑しそうにくすくすと笑い、青年の蒼みがかった銀色の髪が揺れる。

「やだ、ほんと。あなたが連れてるのに気がつかないなんて、間抜けだね」

 ルフィアは驚き、そして照れたように笑った。まさか彼が連れているとは思いもしなかったので、目がそちらに行かなかったのだ。


「でも良かった。ヒスイ、いきなり走り出していなくなっちゃうんだもの」

 心配したんだからと、青年の腕の中でくるまる仔猫の額を軽く小突く。仔猫はあくびをするように、みゃあと鳴いた。

「見つけてくれて、ありがとうね」

 ルフィアはにこりと笑い、魔術研の青年に顔を向ける。

「僕は何も。ただ、このが行きたがっていたから、連れて行く途中だったんだ」

「え? 行きたがってたって……どこに?」

 今度はルフィアがきょとんとなる番だった。

「この先にある港。この子の飼い主が乗ったフェリーが、さっき出航したんだって。それを見送りたいって」

 若い導士は、翡翠の瞳を細めて笑った。

 魔術研の導士というのは、動物のことばも理解できるのかもしれない。そう思い、ルフィアは少し羨ましくなった。

「この子が、そう言ったの?」

「ああ。うん。そうだよ。……でも、もう港からじゃフェリーは見えないだろうな」

 フェリーが出航してから、もうだいぶ経っている。見送るには、おそらく遠ざかりすぎただろう。青年は残念そうに小さな息を吐き出した。

「観覧車に乗れば、もっと遠くまで見えるんじゃないかしら。ただ、雨に煙って見通しは悪いかもしれないけれど……」

 ただの通りすがりの仔猫のことを、まるで自分のことのように残念がる青年に、ルフィアは微笑むように言った。

「あ、そうか。そうだね。―― じゃあ、はい」

 くすりと笑って、青年は仔猫と自分の傘をルフィアの方へと差し出してくる。戸惑いながらも彼女がそれを受け取ると、青年はどこか子供っぽい笑みを浮かべた。


「もうすぐ雨はやむから。そうしたら一緒にその子とフェリーを見送ってあげて」

 科技研があと二日は降り続けるといった雨を、あっさり「すぐにやむ」と宣言し、青年は不思議な眼光をその翡翠の瞳に宿す。

 そして、ルフィアの頭上にかざすように軽く左手を上げた。

 ふわりと、光のような風が生まれた。

 その風がルフィアをつつみこむように流れ、そして消える。

 気が付くと、今までびしょ濡れだった身体が、髪が。きれいさっぱりと乾き、どこか温かな木漏れ日にも似た感覚だけがほのかに残っていた。

「濡れたままだと、風邪をひくから。おまけだよ」

 驚いたように自分を見上げてくる女性にゆうるりと笑顔を見せて、青年は軽く手を振った。そうして、もと来た道を戻るように彼女から離れていく。

「……あっ、傘!」

 四阿あづまやに傘を置いきたため濡れねずみだった自分に代わって、雨の中を歩き出した青年に、慌ててルフィアは声をかける。

「あげる。僕は、魔術で雨を避けられるから、別に傘は要らないんだ」

 振り返りながらにこりと笑って言うと、青年はもう振り向かずに去っていった。

 初めて目の前で見た、あざやかな魔術の行使と青年の優しげな笑顔に放心したように、ルフィアは茫然とそのうしろ姿を見送った。

 ややして我に返ると、ふるんと頭をひとつ大きく振る。

「雨がやむ前に、観覧車の調整しないと」

 仔猫をふところに抱き、ルフィアは急いで所員たちが待っているだろう観覧車へ向かっていった。



 観覧車についたルフィアは、のちに科技研随一といわれるその能力を遺憾なく発揮して、その不具合をたったの五分で調整し終えると、ゆうるりと海に向かってまわる観覧車に、仔猫と一緒に乗り込んだ。

 他には乗っている者はいなかったから、自分が真上にたどり着いたらしばらく観覧車を止めて欲しい。

 そう、顔なじみの所員に頼んで ―― 。


「まだ、だいじょうぶ。きっとフェリーは見えるよ」

 寂しげな仔猫の毛並を優しく撫でてやりながら、ルフィアは言った。外は、つらつらと雨がまだ少し落ちてきている。

 けれども ―― 確実に空は明るくなっていた。

 雨に煙り見通しの悪かった海への視界が急速に開けていくようにさえ、ルフィアには思えた。

「あ。ほら、ヒスイ。あの船じゃないかな」

 はるか遠くに小さく見える船影に、ルフィアは声を上げる。

 仔猫は、とんっとルフィアの腕から観覧車の座席へ飛び降りると、前足を窓枠にかけるように後ろ足だけで立ち上がり、じっとその船影を見た。

 そして寂しげに、けれどもどこか嬉しそうに。仔猫はみゃあと小さく鳴いた。

 その、翡翠のような綺麗な緑色の仔猫の目に先程の青年の面影を思い出す。

「もしかしたら……あの人が雨をやませてくれたのかな」

 先程までの重い鈍色の雨空が嘘のように、からりと晴れ渡った気持ちの良い青空へと楽しげに目を向ける。

 魔術者という存在がどれだけのことができるのか。それはルフィアには分からなかった。けれども、あの青年ならば出来そうな気もする。そう思った。

「……名前もきかなかったなぁ」

 残念そうに呟いて、ルフィアは再び青い空へと視線を向ける。

 雨の雫に反射するように、やさしく大地をつつみ込む陽の光。

 その空と雨上がりの観覧車を彩るように、かすかな虹がそっと、ゆるやかな弧を描くように海の向こうへとかかるのが見えた。


  ***


 それからひと月後。魔術専門雑誌サージュの記事で、その青年の姿をルフィアは偶然目にすることになる。

 十七歳という若さで今年入所したばかりの導士が、多くの予知やその魔力の強さによって、近ごろ魔術研究所内において頭角をあらわしているという記事だった。

「あの人、二歳も年下だったんだ……」

 驚いたように目をまるくして、けれどもルフィアはくすりと笑った。

「私も、負けないように頑張らないと」

 開発チームに入りたいという思いを諦めないように、意志の強い笑みをその色違いの瞳に宿し、ルフィアはその記事を大切にファイルした。


 彼女があの日、海浜公園で出逢ったのは ―― その頃から人々の口端に名前が上ることが増え、二年後には魔術派の象徴と謳われるようになる、ティアレイル・ミューア導士。その人だった。



------『雨上がりの観覧車』おわり



 本編で再会したとき、ティアはルフィアのことをまったく覚えていません。

 というか、科技研の人間には興味がなかったので、この出来事は覚えていても、結び付ける気がありません(笑)


 みんな大人(?)だった本編とはかなり雰囲気が違うと思いますが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

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降り頻る月たちの天空に かざき @kazaki_kazahara

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