夏の面影

岩と氷

夏の面影

 ムクを連れて夏の面影がまだ残る砂浜に降りると、またあの赤い犬が飛び跳ねていた。


 どんな時でも笑っているような顔をしているあの犬は、たぶん柴の雑種だと思う。純粋な柴犬にしては体つきが細くて手足が長すぎる。


 ムクがぐいぐいとリードを引っ張る。向うの飼い主のお姉さんを見たらニコッと笑ってくれたから、僕はリードを外した。白いムクが赤い犬に向かってまるで宙を飛ぶように走っていく。


「やあ、君!」


「さびしいな、さびしいな」


「どうしたんだい?」


「もうすぐ匂いが変わっちゃうんだ」


「?」


「僕の大好きな匂いが変わっちゃうんだ。遠い外国の良く知らない花みたいな、強い匂いに変わっちゃうんだ」


「どうして?」


「そうか、君のご主人は男の子だからわからないんだね。人間の女の子はね、あのぐらいの年頃になると匂いが変わっちゃうんだ。お姉ちゃんの華ちゃんもそうだったし、いつも僕の頭をなでてくれた周りの女の子たちもみんなそうだった。だからきっと杏ちゃんも……」


「それはさびしいね。でもごはんが貰えてお散歩に連れて来てもらえれば、僕らとしてはそれで良くないかい?」


「違うんだ。女の子は匂いが変わると他にもいろいろ変わっちゃうんだ。お散歩のときもあの小さな平たい板にずっと話しかけてばかりになるし、一緒に走ってくれなくなるし、だんだんお散歩もしてくれなくなる」


「そりゃあ、ひどいね」


「お散歩は代わりにパパさんママさんがしてくれるけど、二人は走ってはくれないし、杏ちゃんみたいな匂いはしない。あんまり遠くにも連れて行ってくれないし」


「そうかあ、歳だもんね」


「うん。その分よく撫でてはくれるんだけどね」


「そうなんだ。でも男の子だってさびしいよ」


「何でさびしいの?」


「大きなボールを持っているくせに、最近は僕と遊んでくれないんだ」


「ボールを持っているのに? 男の子はボールで何をするんだい?」


「一人で膝の上とかで落とさないようにポンポンやってるんだ」


「そんなの何が面白いんだろう」


「ボールって犬を遊ばせるためのものだろう? なのに使い方がおかしいんだよ。男の子はみんなそうなっちゃうんだ、近所の子もそうだった」


「さびしいね」


「うん、さびしいね」


 帰り道、ポンッ、ポンッと聞きなれた音がする。糸田さんの家の駐車場で同級生のカナエが壁に向かってサッカーボールを蹴っていた。

 カナエは僕より少しだけ背が高くて少年チームの得点王だ。髪は刈りあげたショートカットだし、ゴールキーパーを吹っ飛ばすぐらいすごいシュートを打つから、相手チームによく男と間違われる。


「お散歩?」


 ボールを蹴りながらカナエが僕に言った。


「うん、海まで行ってきた」


「そう、この子小さいから歩くとすぐ疲れちゃうのよ。だからこれで十分」


 壁に跳ね返ったボールにポメラニアンみたいな小さな犬がじゃれついている、柴犬にも負けない笑顔だ。


「でも楽しそうだね」


「これでも結構気を使ってるのよ、高さを変えたり強弱をつけたり」


「大変だよね、犬の相手は」


「本当、大変よね」


 さっきからムクが落ち着かない。リードをぐいぐい引っ張って前足を浮かせて口をパクパクさせて、飛び跳ねるポメラニアンの方を見ている。


「じゃあ、明日」


「じゃあね」


 嫌がるムクを引っ張って僕は家に帰った。



 次の日、海に行くとまたあの赤い犬がいた。お姉さんと目が合って、僕はまたリードを外した。


「やあ、ご主人の匂い、変わらなかったみたいだね」


「うん、まだ大丈夫みたい。ところで君、今日はずいぶんご機嫌だね」


「ん? そうかな」


「そうだよ、しっぽの動きがすごく速いし、舌だって伸びまくってるよ」


「そっかあ、やっぱりわかっちゃうかあ」


「どうしたんだい?」


「さっき、ご主人がボールで遊んでくれたんだ」


「へぇ、それはよかったね」


「いつもポンポンやってるのを壁に蹴ってくれたんだ、跳ね返ったのを追いかけたらすごく楽しくて」


「へえ、いいなあ」


「ここまで蹴ってきてるよ。一緒にやってみようよ」


 じゃれていた二匹が急に僕に向かって吠えはじめた。リフティングをしていたボールを蹴りこんでみると、二匹はボールを追って走り出した。砂浜だからあまり転がらないけれど、犬たちはまるでボールに絡みつくように、はしゃいでいる。


「ほんとだあ、面白い! 面白いよ、これ!」


「そうだろ? 面白いだろ、これ!」


「でもさ、すぐ動かなくなるよね」


 二匹の犬が並ぶ。きらきらと光るまん丸な眼が四つ、じぃーっと上目遣いで僕を見る。仕方なく僕はもう一度ボールを蹴り上げる。二匹はまた舌をだらんと出したままボールを追いかける。


「あははは」「あはははは」二匹が笑っている。



 秋が深まった頃から、赤い犬を連れたお姉さんは砂浜に現れなくなった。潮風が冷たくなったから、お散歩コースを変えたのかもしれない。

 はじめは砂浜を一通り見まわしてつまらなそうな顔をしていたムクも、一週間もしたころには一匹で走り回るようになった。僕はジャケットのポケットに手を突っ込んで、時々ボールを蹴ってやる。


 帰り道、またカナエに会った。ポメラニアンは相変わらずボールを相手に飛び跳ねている。


「寒くなってきたわね」


「風の強い日だと海はもう無理だね」


「でもたまにはいいかもね、このコも広い場所に連れて行ってあげたいし」


「風のない日は日が当たる分、こっちより暖かい事もあるよ。今度連れてくれば?」


「そうね、いいかもね」


「僕は、だいたいいるし」


 カナエが僕の顔をじっと見る。


「こ、こいつが行きたがるからさ」


 僕がそう言ってムクを指さすと、カナエは笑った。


 カナエってこんな顔もするんだ――。



 風がない日、カナエが砂浜にやってきた。ポメラニアンを腕に抱えて。


「やっぱりこのコ、途中で疲れちゃって」


 砂浜に降ろされたポメラニアンは、周囲を珍しそうに見まわしている。ムクはかまいたくてうずうずしているようだ。僕らがリードを外すと、二匹はすぐに鼻をくっつけた。


「うれしいな、うれしいな」


「何がそんなにうれしいの?」


「君が来てくれたから」


「何で私が来ると嬉しいの?」


「友達が来なくなっちゃったんだ、たぶん匂いが変わっちゃったんだと思う」


「匂い?」


「ご主人の匂いさ、人間の女の子は年頃になると匂いが変わるんだって。匂いが変わると犬をかまってくれなくなるんだって」


「へぇ……うちのご主人は大丈夫かしら」


「そうか、君のところも女の子だもんね。でもさ、なんとなくだけど、大丈夫だと思う」


「そう?」


「見てごらん」


 カナエはシュートが得意だけどリフティングもうまい。カナエとボールを回していると落とす気がしない、いろんな高さや距離に蹴ってくれるから飽きないし、必ず僕が間に合う場所にボールを落としてくれるから、蹴り返す僕も気分がいい。ポメラニアンの気持ちが、なんとなくわかる。


「君のご主人、僕のご主人の気持ちがわかるらしい。きっと君の事もわかってくれるよ」


「でも、こっちにボールが来ないわね」


「そうだね、それは困るね」


 二匹の犬が僕らの足元にじゃれついてきた。ボールの行く方向についてまわって僕らの邪魔をする。カナエが大笑いしながら少し遠くにボールを飛ばす。


 犬たちは風のように走って行ってボールとじゃれまわる。体の大きいムクがボールを飛ばすと、ポメラニアンが飛びつく、ポメラニアンが鼻先で突いたボールをムクがまた遠くに飛ばす。延々とその繰り返し。


 カナエはそんな二匹を僕が見たことが無かった優しいまなざしで見つめている。


「いいコンビみたいね、あのコたち」


「そうだね、あんなに大きさが違うのに、ちょっと意外だな」


 もっと意外な事が、いま僕の中で起こっている。でも当面それは僕だけの秘密だ。


 ほんの一瞬だけ、海から秋の終わりを告げるような冷たい風が吹いた。カナエの髪がなびく。

 

「髪、伸ばすの?」


「気が付いた? なんとなくね。長い髪、似合うかな」


「似合う……と思う」


「そ……そう」


 うつむいたカナエの頬が赤くなった気がした。僕の勘違いかもしれないけれど、少し照れくさい。


「犬の冬毛みたいだ」


 僕がそう言うと、カナエは一瞬きょとんとしてから、得点王のキックで僕に向かって思い切り砂を蹴り上げた。

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夏の面影 岩と氷 @iwatokori

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