AVOGaDRO;JUMPER

きりまる

第1話 問いの答えは。

 俺を殺すはずだった爆撃機は、爆弾の代わりに女を落としていった。鉛色の空、沈みゆく夕日、生きた心地がしなかったあの景色を、俺は今でも忘れることができない。その女兵士は、パラシュートでふっと地面に降り立つと、俺のほうを向いてゆっくりと歩いてくる。美しい足取りでこちらに向かうその姿は、息を飲むほど美しかった。彼女は俺の前にやってくると、膝をついて俺を見下ろした。あらわになったその顔は可憐だった。もしモナリザに娘がいればこんな女だっただろう。そう思うほど、つややかで綺麗な長髪だった。


「逃げないんだね、ササキ軍曹」


 聖女のような唇から発せられたのは、存外に男勝りな声だった。逃げると言ったが、酸欠と水分不足の体の俺にもう逃げるだけの力はない。それにもともと逃げ出す気もなかった。眼前の女が救済の女神であれ殺戮の天使であれ、死ぬ前の景色としては上出来だと思ったからだ。美術の趣味はないが、レオナルドダヴィンチの気持ちもいまなら理解できる。


「殺すなら殺せよ」


 とっさに口をついたのは、漫画や映画で何百回もこすり切った台詞。自分が死ぬときくらいはキザな台詞で締めてやる。そう思っていたにもかかわらず、いざ死ぬときになると、聞きなれた言葉が口をつくことを身をもって知った。そういうことなら普段から綺麗な言葉を使っておくべきだったと、これまた特に意味のないことを悔いるが、もう遅い。女は懐から鋭利な短刀を取り出すと、俺の頭上へ掲げた。

 しかし、いつまでたっても、短刀が俺の脳漿へ届くことは無かった。


「・・・どうした、殺さないのか?」

「ええ。ちょっと聞きたいことがあってね」


「情けならいらねぇぞ。焼夷弾じゃなくその手で殺したいってか?」

「勘違いしないで。アンタはただ爆薬一発分の価値にも満たなかっただけ。自分の命をずいぶん高く見てらっしゃるのね。火薬の相場を習わなかったかしら」


「……聖女かと思ったが、フタを空ければずいぶん厭味ったらしい女らしい。それで、聞きたいことってのは何だ? 答えてやるから、少しは楽に殺してくれよ」

「聞きたいことは一つよ。あなたたちは自らが捨て石であることを知りながら、どうして私たちと勝てもしない戦をしているの?」


「勝てもしないなんて、勝手なことを言うんだな。ただの捨て石になったつもりはない。祖国の勝利のために、祖国を守る石垣になるんだ」


 俺は精一杯強がって、皮肉めいた笑顔を作った。この期に及んで命乞いするつもりはない。軍に派遣されたときからこうなる覚悟は決めていた。先に逝ったやつらにもそろそろ会いたい頃だ。故郷の母ちゃんが心配だが、俺の死亡手当があればしばらくは持つだろう。だが目の前の女は、俺を感傷的な気分には浸らせてはくれなかった。


「詭弁だわ。あなたたちは確かに個としては私たちに勝るかもしれない。だけど、いかに零細な戦力が群がろうと、私たちにはそれを無にする爆撃兵器がある。矮小な力では大局は動かせない。仮にひところの武功を挙げることができたにせよ、所詮敗戦国の武功などなんの評価になるのかしら。屍になって帰った祖国でのささやかな栄誉なんて、いったい何の慰めになるっていうのかしら?」


 正しい。俺の命を握るその女の主張は正しい。だが。正しいがゆえに誰もが口に出さない事実だった。それを正しいと認めてしまえば、自分と仲間の全てを否定してしまうその主張は、いかに死を悟った身でも黙って聞き入られるものではなかった。


「う、うるせえ……。いいから、さっさと殺せよ!!!」


「いいえ。答えるまで死なせない」


 そのときの俺は死への恐怖より、生かされていることへの怒りが勝っていた。敵を前にして講釈を垂れる余裕があるというのは、俺がこの女の命に指が届かない証拠だった。


「てめぇが殺さねえなら……」


 俺は最後の力を振り絞って、指を自分の喉笛に突き刺した。


「な、何を!?」


「じッ……自分……で…………!」


 躊躇いさえなければ、人間の指はナイフに変わる。そう上官に教わったマユツバな体術を実験するのがまさか自分の身になろうとは。俺は親指と人差し指で押さえ、渾身の力で喉仏を挟み込んだ。生温かさとともに、肉の中に指がぐにゅりと入っていく感覚がわかった。あとは骨ごと引っ掛けた指を抜くだけだ。もう声は出ない。


 そして、赤黒い血とともに指は抜けた。負荷をかけすぎたせいか、人差し指は逆向きに曲がっていた。首の骨を折ることは敵わなかったようだ。しかし驚くべきことに、まだ俺には意識があった。昔のハラキリには首斬り人が欠かせなかったとは聞いていたが、まさかここまで鮮明に意識が残っているとは。

またひとつ死ぬ前の知識が増えたが、これももう遅い。

これで死ぬんだ。


「…………」


 そう思っていた。


「………………」


 だが。


「……………………」


 俺にはいつまでたっても『痛み』が来なかった。

 そんな馬鹿な話があってたまるか。

 俺は震える手で首元に手を当てた。

 すると、思わず声が出た。声が出たのだ。


「…………嘘だ……」


 なんと、指でくりぬいた首の穴は消えていた。指の変形もすっかり元に戻っている。そして焦点の戻った俺の前には、女の恐ろしい表情があった。その悲哀の表情は、どんな芸術家も描くのを躊躇うだろう。


「あなたは死なせない。いつもあなたたちはそうやって死へ逃げていく。私の問いに答えぬまま満足げにこと切れていく。そんな兵士は何度も見てきた。勇ましい死だったと自分に言い聞かせたまま、手前勝手に死んでいく羽虫のような兵士の屍を……」 


 俺はただ呆然として、彼女の荒い吐息を感じていた。


「何度………せば……」


 そして、俺がそのか細い声を聞き逃した瞬間。


「――ササキ、伏せろッ!」 


 聞きなじみのある警笛と甲高い火薬の音がして、目の前の女の体は吹き飛んだ。糸の解けた人形のように真っ二つに裂けた彼女の身体は、綿のような臓物をぶちまけながら転がり、やがて止まった。俺は目の前でおこった現実を理解できないまま、背後からやってきた顔馴染みの上官の声を聞いた。


「ササキ軍曹、遅くなって済まない。降りてくる敵影を発見したため駆け付けた。しかし敵の油断に救われたようだな」

「…………」


「……む、どうした?」

「…………いや、少々狼狽えておりまして」

「そうか。致し方なかろう。この辺りはお前以外は全滅だ」


 もう動かないその女の屍は、俺の方をじっと見つめていた。その潤いのある口元は、どこか安堵の笑みを浮かべているようにも見える。俺はもう一度自分の首元に触れてみた。やはり傷一つない。だが現実を突きつけるように、襟にべっとりついた赤黒い染みは消えていなかった。


 俺はその後3度死地に赴き、4回走馬灯を見た。

 うち2回は確実に死んだはずだった。だがまだ、俺は生きている。

 あの問いの答えを出せないまま、今も戦い続けている。 



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AVOGaDRO;JUMPER きりまる @taysay0214

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