アイビー

羽間慧

アイビー

 今日は電話できるんだよね。

 彼女からLINEがあった。くまのスタンプが飛び跳ねている。


 付き合って二ヶ月。最初は、可愛いおねだりに嬉しさがこみあげていた。今では愛情確認のメッセージを見る度、鬱陶しさが先行していた。


 授業課題がキツいことは伝えているのに。気遣いの言葉はいらないから、放っておいてくれよ。


 朝から奇声を上げたくなる。


 やよいの告白を受け入れる前に戻りたい。


『お互い卒論、頑張ろうね。あ、寝ちゃってたら、返事しなくていいから』


 元カノとうまくいっていないときに、やよいは優しい言葉をかけてくれた。同じゼミ所属なら、ちょうどいい距離感を保ってくれる。しんどいときは、一人にさせてくれるはずだった。


 なのに、俺に対する干渉が増えていく。


『バイトやめなよ。卒論書く時間、しっかり取った方がいいよ』

『グループワークで同じ班だった子、べたべたしすぎじゃない? 圭くん、迷惑だったら注意しないと』

『今、図書館にいるでしょ。一緒に調べ物しよ?』


 気持ちは嬉しいよ。でも、俺は……


『圭くんのことを思っているのに』

『圭くんの負担を減らしたくて』

『圭くんが心配なの』


 これ以上、俺を追い詰めないでくれ。自分のことで精一杯なのに。バイトは家計のために続けているし、卒論は午前三時から起きて書いている。十月の忙しい期間に、好きで首を締めている訳ではない。


 やよいを傷つけないように、言葉を選ぶ。今日も負担に思いながら返事をする。


『やよいは優しいね。しばらく電話できていなかったのに、怒らないなんて』

『当然でしょ。圭くんの彼女だもん』


 だったら、俺のしんどさを理解してくれ。菓子パンをかじり、パソコン作業をしながら返信している。大学一年生のときは全休を喜んでいたが、彼女から大量のLINEを送られるくらいなら受講していたい。


 恋人の条件はどれだけ愛せるか、じゃない。どれだけ許せるかどうかだ。


 トラブルの起きない別れ方を検索してしまう。


「葉月も俺にべったりだったけど、やよいほどじゃなかったな」

「葉月? まだ未練があるの?」


 聞き覚えのある声に俺は振り返る。


「や、ややや、やよいじゃん!」


 お前、一限から授業だろ。俺の住んでるアパートが大学のそばとは言え、三十分前に寄っていいのかよ。


 俺は言葉を飲み込み、一番気になる質問をした。


「いつから入った? というか、カギがないのにどうやって……」


 やよいは首を傾げた。


「合鍵作っちゃ駄目なの?」

「駄目だよ。管理人さんの許可なく作っちゃ」


 俺のアホ。ツッコミどころはそこじゃない。

 動転しすぎて、まともに思考できない。


「圭くん、全休だからってパジャマのままなの。ふふっ、可愛い」


 俺は赤面した。グレーのスウェットに寝癖頭。だらしないところを見られてしまった。


「これは、洗濯物を増やしたくないから。やよいが来ると思わなかったし」

「びっくりした?」


 やよいの目は輝いた。

 正直なところ、寿命が縮むくらい驚いた。俺の言葉に、やよいは微笑んだ。


「じゃあ、もっと驚くことしてあげる」


 いや、もう課題に戻っていいかな。彼氏の顔が見れただけで満足だろ。


 俺は不満を堪え、無邪気な笑みを浮かべる。


「何をしてくれるのか楽しみだな」

「圭くん。目を閉じて」


 やよいがキスする決まり文句だ。


 もったいぶらなくていいのに。でも、キスさせたら帰ってくれるだろう。俺は目を閉じて、唇の力を抜いた。


「かはっ」


 俺は膝から崩れ落ちた。脇腹に刺さったナイフから鮮血が流れ出す。


「私のために、元カノと別れてくれたんでしょ? まだ気にしてるの?」


 LINEで別れ話を切り出した後、葉月は過敏性腸症候群で寝込んだ。見舞いには行った。直接さよならを言った。葉月が泣き、俺も涙を抑えられなかった。幸せだった時間を最後に共有できたから。


 未練なんてない。ないはずだった。やよいの存在が、自分の下した判断の正当性を信じさせた。だが、罪悪感は一ヶ月経ってから、じわじわと押し寄せていた。


「やよい。俺……」

「私は優しいから、圭くんの罪はこれで許してあげる」


 体を貫く金属が抜けても、心のよどみは消えなかった。


 恋人を刺して平然としていられる彼女が怖い。やよいはナイフをピンクの鞄にしまい、俺に近付いた。


「私だけを愛して」


 やよいは、止血のためにハンカチを取り出した。アイビーを刺繍した純白の生地が、黒がかった紅に染まる。


 薄れる意識の中、俺は思い出していた。アイビーの花言葉は永遠の愛、結婚、不滅。そして、死んでも離れない。


 告白を断ったとしても、やよいは俺を離すつもりはなかったのだ。

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アイビー 羽間慧 @hazamakei

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