第3話
「……」
雨戸の隙間から射し込む朝日に、鳥の鳴き声が混じる。布団の上で柔らかな朝を迎えた周の首筋を、ひたりと冷や汗が流れる。
彼女の目線からは見えないが、分かる。首にかかる吐息、体温。そして何より、太くがっしりとした腕が自分の首に回っているのだ。昨夜の記憶も完璧に存在する。最初から最後まで全て思い出すと同時に、周の背中を、大量の汗が迸った。
(た、大変なことになってしまった…!)
道之進を年相応のケダモノにせんとする悲願は達成できた。が、結婚となると話は違ってくる。
彼女からすれば、自分は“踏み台”で良かったのだ。道之進はこれを機に性欲に目覚め、若く美しい女性と結婚。子供を設け大紫磨家は繁栄。自分は未来の大紫磨家当主達の世話に追われ、できるならその孫も抱っこして。そして死ぬ間際に一度だけ、道之進との夜のことを走馬灯に見、達成感と贅沢な思い出に包まれ往生できればそれが幸せだったのだ。
(こ、これでは、
「周…」
震える彼女にふと、優しい声が降ってきた。腕を腰にまわされ、ぎゅうと引き寄せられる。
「み、道之進様…」
「……」
そろそろと背後に向かって声をかけるが、返事はなく、寝息だけが返ってきた。
「……」
道之進は優しかった。多少強引な始まりではあったが、大切にしてくれた事は経験のない周にも分かる。そして嘘を言うような男ではない事も、誰よりも理解している。だから、昨夜手渡された言葉全てが、本物なのだと知った。
「…旦那様」
起こさないように彼の腕を持ち上げ、体を抜く。小さい頃の面影が残る寝顔に指先で触れ、そっと囁いた。
「素敵な思い出を、ありがとうございました」
「大奥様」
「周ですか。どうぞ」
招き入れられ、中に入る。嘉乃は花器に花を挿しているところだった。手を止め、こちらを振り返る。
「どうでした?首尾は上々ですか?」
「……」
周が襖を閉めた。脇に置いた風呂敷の包みを目にし、嘉乃が首を傾げる。
「周…?その荷物は…?」
「大奥様」
周は両手を畳に付き、深々と頭を下げた。
「どうか理由を聞かず、わたくしを解雇してください」
嘉乃が驚き、目を見開いた事が分かった。周は静かに続ける。
「大紫磨の家の為に生き死にたいと言った言葉に嘘偽りはございません。しかしどうか、わたくしがこの家を離れることをお許し頂けないでしょうか」
そう話す彼女が考えるのは当然、道之進との事だ。
(旦那様はああ仰っていましたが…わたくしは所詮使用人。義理の娘になるなど、大奥様に認められる筈もない)
けれど彼の気持ちを知ってしまった以上、ここには居られない。道之進が寝ている間にと既に自室は片付け、荷物も纏めた。最後に世話になった嘉乃にだけ挨拶をし、大紫磨の家を出て行く。遠くの地で、いつか大紫磨家の当主が素敵な嫁を迎え入れたと聞けたら良い。これが、彼女が下した結論だった。
「周」
頭を下げ続ける使用人を前に、嘉乃はすぐに平静を取り戻した。花を置く。背筋を伸ばし、周に向き直る。
「周。貴女の名前は、周りを気遣い、
「はい…」
周は黙って聞く。覚悟はしてきた。名前を貰い、散々世話になったにも関わらず、逃げるように出て行くのだ。この家に尽くすように育ててきたのにと皮肉を言われても、裏切りだと罵倒されても仕方ない。
けれど嘉乃から伝えられた真意は、思いがけないものだった。
「万が一、この大紫磨の家が没落し貴女が路頭に迷うことがあった時、もしくは貴女がこの家よりも優先したい自分の幸福を見つけた折、どこに行っても誰からも愛されやっていけるようにと願いを込めて」
周が顔を上げる。嘉乃はとても真っ直ぐにこちらを見ていた。
「私が女児に恵まれれば、付けようと思っていた名です」
驚く周を前に、彼女は微笑む。その切れ長の瞳から、一滴の涙が落ちていった。
「亡き夫と共に、貴女のことは娘のように思っています。たまにで良いですから、帰ってきてくださいね」
予想外の言葉に、周の両目からはぶわりと涙が溢れ出る。
「お、大奥様…っ!」
泣き崩れる彼女の頭を、嘉乃が優しく撫でる。
そんな二人の背後。襖越しにこちらに近付く乱雑な足音が響く。入ってきた大紫磨家の当主が使用人との結婚を宣言するまで、あとほんの少し。
『将来の夢…ですか?』
桃色の花弁を纏った心地の良い風が頬を撫でる。足元の玉砂利を踏むと、じゃりじゃりと音が鳴る。周の横を歩く背丈は、頭二つ分程低い。
『ああ』
新品の学生服に身を包んだ道之進は頷いた。参拝の帰り道。神社の参道を、二人並んで歩く。
『俺が大紫磨の当主になることは既に決まっていることだが…。父上が、それ以外はお前の好きにしろと。周は何か夢があるか?』
その質問に、周は直ぐ様胸を張る。
『周の夢は当然、大紫磨家の繁栄です!』
『自分のことだ自分の』
そう言われて、彼女はぱちりと瞬きをする。口元に手を当てて、悩んだ後に口を開く。
『自分のこと…そうですね。このまま大紫磨家にお仕えできれば幸せですし、最低でも大紫磨家の墓守を務めたい所存でございます』
『大紫磨家以外の答えで頼む』
『な、難題ですわ…』
うんうんと唸った後に、周はふと何かに気が付いた。そちらを見ながら、先を続ける。
『身分不相応かもしれませんが…』
『構わん。夢とはそう言ったものだろう』
忘れもしない。そう、この日だ。桜の花びらが降りしきる春の折。同じ桜色に頬を染めて、周は指し示す。
『一度で良いからあれを、着てみたいのです』
釣られて視線をやれば、同じく参道を歩く一行が目に入った。その列の中に一等目立つ、朱傘を差す花嫁の姿。周が指していたのは彼女の着ている、白無垢だった。
『ふふ、やっぱり身分不相応ですね』
そう言って、恥ずかしそうに微笑む周を前に。彼女の夢を叶えたいと思ってしまったこの時から、道之進の愛の道は切り拓かれたのである。
旦那様が手を出されないので、わたくしはケダモノになります! エノコモモ @enoko0303
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