第2話


「大奥様…!」


周の覚悟から一夜明けた翌朝。嘉乃の部屋に、朝一番で彼女は報告に馳せ参じた。


「わたくし…昨夜はこの姿で、道之進様のお布団の真横に控えておりました」


そう語る周は寝巻きの浴衣姿。そして彼女の額には、“性玩具”とでかでかと墨で書かれた半紙が垂れ下がっている。この姿で道之進の寝室にいる、つまりは自身の体を性の道具であると称し、好きにして良いのだと売り込む。道之進の性欲を刺激する、決死の作戦であった。


額から紙を下げる、まるで僵尸キョンシーの如き出で立ちの腹心を前に、嘉乃はごくりと息を呑む。


「ど、どうだったの…?」

「それが…道之進様はわたくし、いえ性玩具を視界に入れても尚無視。そのままこちらに背を向けてご就寝になりました…!」


残念ながら、周の作戦は失敗に終わった。自分が寝る布団の隣に性玩具と自称する使用人がいても、道之進はまるで見て見ぬふり。途中「風邪を引くぞ」との一言と、上衣を投げ掛けてきたのみであった。彼女は負けじとそのまま一晩中待ったが、結局道之進は爪先すらも触れては来なかったのだ。


「な、なんてこと…!」


そしてそんな報告を受けた、嘉乃の心を支配したのは衝撃だった。


「性玩具なんて年頃の男子であれば全員が全員食い付く筈!やはり道之進に性欲と言うものは存在しない…!?」

「ええ、予想を上回る皆無ぶりとなってしまいました…」


周は、自身の額に貼り付けた紙をはらりと取る。


「道之進様は明日で十八歳…。お坊っちゃま…いえ、旦那様が成人となり、名実共に大紫磨家当主の座に就かれるまでもう時間はありません!」


道之進がケダモノと化すのを悠長に待ってはいられない。大紫磨家繁栄の為に何でもする覚悟は、既にできている。


「こうなったら、わたくしがケダモノになるまでです!」






「わたくしはケダモノ…」


夜。周は手に持った鏡に向かって呟く。“我こそはケダモノなり”と書かれた半紙を糊で額に貼り付ける。これは相手へ伝える目的もあるが、何より、そうであると自分に言い聞かせる為である。


(わたくしはケダモノ!餓えたケダモノです!)


いくら婚期を逃したと言えど、周は正真正銘の生娘。夜の営みの事などとんと分からないし、普段であれば男性に夜這いをするような勇気もない。けれど今の彼女を支えるのは強い使命感と、勢い。今こそ内に秘めたる女優魂、いや獣魂が輝く時が来たのである。


(来た!)


「……?」


部屋に、湯浴みを終えた道之進が入ってきた。首を傾げ室内を見渡す。


「…誰かいるのか?」


気配を感じ彼が布団の側に踏み入れた瞬間、周は自身が隠れていた押し入れの扉を思い切り開けた。道之進に向かって、獣らしく飛び掛かる。“我こそはケダモノ也”の紙を顔に貼り付け、威勢良く、そして咆哮を携えて。


「キシャアアアアッ!!」


しかし、道之進の体に触れる寸前。背後に回された手に首根っこを掴まれ、ぐんと引っ張られた。視界はそのままぐるりと回転して、体は畳へと向かう。


「へ、っ…!?」


気絶する直前、文武両道を信条とする嘉乃が道之進に護身術を習わせていたことを、今更ながらに思い出したのである。






「周」


次に目を開けた時、周は布団の上に横たわっていた。彼女の意識が戻ったことに、道之進が気が付く。


「起きたのか」

「わ、わたくし…」


頭を押さえ起き上がると、そこは気絶する前と同じく道之進の寝室であった。大分すっきりした頭から察するに、結構な時間寝てしまったらしい。昨夜は例の性玩具作戦の為に寝ずにいたことが、要因だろう。


周の体調に問題がないことを確認し、道之進はほっと息を吐く。


「一体どこの野性動物が襲ってきたかと思ったぞ…」

「み、道之進様…」


周はそれどころでは無かった。彼女の目に写っていたのは壁に掛けられた時計、その文字盤。それを見ながら、呆然と口を開く。


「おめでとう、ございます…」

「ああ。もうこんな時間か」


時計は短針と長針共に十二の数字を指し示す。つまりは周が意識を失っている間に、日付が変わったのだ。


(道之進様は、今この時を持って十八に…!)


ケダモノ作戦は失敗に終わった。力ずくで取り押さえられてしまっては手も足も出ない。男としてすっかり逞しく成長した主人の姿に感動を覚えると同時に、周の心には絶望が降り落ちる。


(大奥様になんと…なんとご報告したら良いものか…!)


周は頭を抱え、畳に沈む。しかし嘉乃の腹心たる周はそう簡単に諦める訳にはいかない。畳の目に向かってぶつぶつと次の作戦を練っていると、道之進がふと畳み掛けてきた。


「おい、聞いているか?」

「はい」

「周」

「はい」

「俺と、一緒になって欲しいんだが」

「はい」


他に考えるべき重要なことがあった為に、うっかり口が滑ってしまった。一拍置いて、顔を上げる。


「……はい?」


道之進を振り返る。その顔は無表情である。戸惑いながら、周は口を開いた。


「“いっしょ”とはどういう意味でしょう?」

「結婚だろ。“一緒になる”と言う言葉にそれ以外の意味があるのか?」


聞き返され、ぱちぱちと瞬きをする。


「い、いえいえ。そもそも結婚とは家同士の結び付きが何よりも優先されるべき事柄です。大紫磨家の跡取りである道之進様も例外ではなく、ご令嬢との結婚をするものなのです」

「何の為に俺が努力してきたと思ってる。大紫磨の家も領地も既に上手いこと回しているだろ。これ以上力を付けようとすれば、強欲だの権力の集中だのとやかく言われるぞ」

「…?いえ、こんな後ろ楯のない年増を娶るなど、大奥様がお許しになる筈がないかと…」

「あの母が気にしているのは跡継ぎだ。嫁の家柄や年齢じゃない。あと孫の顔」


道之進は淡々と否定を重ねてくる。周は首を傾げつつ、一番気になった部分を口にする。


「??え、ええと、恋愛結婚を選択されるならば、相思相愛の者同士が良いかと思います」

「だから言っている」


道之進はあっさり言い切る。そして次の瞬間、突拍子も無い事を言い出した。


「周。お前、俺のことが好きだろう」


室内を、一瞬の沈黙が支配した。


「…へっ!?」


周の口からは変な声が飛び出した。畳の縁に置かれた周の指先がびくりと震える。


「違います!まさか仕えるべき主人に劣情を催すなどそんなはしたない女ではございません!」


慌てて否定して、はたと気づく。


「あっ。よもや、昨日今日の夜這いで勘違いをさせてしまったのでしょうか?それはただ道之進様の性欲を取り戻させ、延いては大紫磨家の繁栄を促そうとしただけ!それだけで、わたくしがただならぬ情を抱いていると判断するのは早計と言うものです!」


早口で捲し立てた後、周は勝ち誇ったように宣言する。しかしそれを受けても、道之進の表情は変わらない。


「あれは夜這いだったのか…。てっきり気でも触れたのかと…いや。お前、購読している少女雑誌の悩み相談に投稿していただろう」


言いながら、彼は懐からくしゃくしゃの紙を取り出した。数ヵ月前に周が書き損じ、捨てた筈の便箋であった。呆気に取られる周の前で、道之進は朗読を始めた。


「『どうか悩める使用人の困難を解決されたし。どうすれば主人への許されない恋を内に留め、絶対に外に出さないようにできるでしょ、』」

「ヒィアアッ!」


奇声を上げて、周は大慌てでその紙を奪う。びりびりに破き証拠隠滅を謀った上で、顔を真っ赤にさせて否定する。


「この周にとって、道之進様はお坊っちゃま!そして十八の誕生日を迎え、名実共に大紫磨家の当主となった今は旦那様!それ以上でもそれ以下でもございません!!」


そう、周は大紫磨家に忠節を誓う使用人。主人に忠義以外の感情を抱くなど有り得ない。あどけない少年から立派な青年へと成長を遂げた彼の容姿が好みのドンピシャであったことなど、墓場まで持って行くに然るべき事実なのである。


「周、俺はお前のことが、」

「あー!聞きません!聞きとうございません!」


周は両手を耳に当て、うずくまる。声を出し、ぶんぶん首を振った。いくら引っ張られ、その腕が千切れることになろうとも耳を抑える手を放す気はない。


「おい、周…」

「この周の夢は大紫磨家の繁栄!それだけでございます!」


これまでうっかりときめく事などはあったかもしれないが、それとこれとは話は別。彼女が仕える主人は、若く美しくそして家柄も素晴らしい女性と一緒になるべきだ。


言葉を頑として受け取らない周の様子に、道之進も痺れを切らしたのだろう。


「…分かった」


道之進は、ふと手を放した。諦めてくれたのかと、周はほっと息を吐き瞼を開ける。


「っ…!」

「子孫を繁栄させれば文句は無いんだな?」


そして固まる。息が掛かる程近くに、道之進の顔があったからだ。咄嗟に息を止めるその一瞬の間に、再び周の視界がぐるりと回る。けれど今度は彼女の後頭部は優しく音を立てて、枕に埋まった。


「順序を間違えまいと俺が結婚できる年齢になるまで辛抱してきたのに、昨日からやたらめったら誘ってきやがって。挙げ句の果てには他の女と結婚しろだと?」


上から、彼は青筋を浮かべてこちらを見ている。最後に道之進は取って付けたような笑顔を浮かべ、口を開いた。


「俺が、ケダモノになれないとでも思ったか?」

「…え?」


周の背筋を汗が流れる。ふと布団の横を見ると、“我こそはケダモノ也”と書かれた例の紙が、床に転がっているのが見えた。

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