旦那様が手を出されないので、わたくしはケダモノになります!

エノコモモ

第1話


道之進みちのしん様!』


高い声と共に、廊下を急ぎ足で進む足音が響く。縁側にてしっとりと雨に濡れた庭先を見ていた少年が、こちらを振り返った。


あまね


駆け寄ってきた彼女は足を止める。自身より頭一つ分程低い位置にある顔を見つめ、にこにこと笑顔で口を開く。


『聞きました。道之進様の成績が大変優秀だとのことで、学校にて表彰されたと』


言いながら膝を付き、周はお八つの豆大福をお盆ごと置く。茶の準備をしながら、自慢げに続けた。


『大奥様もとてもお喜びでした』


仕える主人にお茶を出し終えたところで、胸元から手巾を取り出しそっと目頭に当てる。


『お坊っちゃまがご立派に成長されたこと…周は嬉しくて嬉しくて…』

『たかだか学校の成績ぐらいで大袈裟だな』

『何を仰いますか!周の夢はこの大紫磨おおしま家の永きに渡る繁栄でございます!』


周はそこで言葉を切った。そっと両手を合わせ、曇り空を仰ぐ。


『次期当主である道之進様が優秀且つご健勝であらせられること、それ即ち大紫磨家の安泰を指し示す事実であることに他なりません…』


道之進は目を細める。切れ長の目尻を緩め、微笑んだ。


『ならば俺は、周の夢の為に頑張ろう』


忘れもしない。庭先を紫陽花が飾る、梅雨のある日のことだった。






(道之進様…)


数年前の思い出は、瞼の裏に映る。目を開ければ、屋敷の縁側とよくよく手入れされた庭、当時と同じ光景が広がっている。しかし空はあの時とは違う、抜けるような青空だ。


息を吸う。早朝の新鮮な酸素を肺一杯に取り込んで、それを吐く。両膝を床に付け、扉の向こうを見据える。最後に持っていた大判の本を背後に隠し、彼女は障子へと手を掛けた。


「おはようございます道之進様!」


勢いよく障子を開け、意気揚々と宣言する。


「朝でございます!」

「…周。起きている」


開け放たれた部屋からは、仏頂面とぶっきらぼうな返事が返ってきた。朝食の御膳の支度をしつつ、周は背中に隠した本とは別の小さな冊子を差し出した。


「本日のご予定です」

「ああ」


大紫磨おおしま道之進みちのしん。周が仕える大紫磨家の次期にして唯一の当主である。がっしりとした上背は着物がよく似合う。そこに、数年前にはほんの少年であった様子など微塵も感じられない。切れ長の瞳だけがその面影を残すのみである。


「……」

「……」


眠たげな様子で、道之進は冊子をぱらぱらと捲る。それをじっと見つめるのは、周である。


彼女は飯櫃めしびつから茶碗へと白米を移しつつ、自身より頭二つ分ほど高い位置にある顔を、注意深く見つめる。やがて意を決し口を開いた。


「あの…お話をしても?」

「ああ」

「道之進様」

「ああ」

「見合いのお話が来ているのですが」

「要らん」


慎重に発した台詞の返答は、たった一言、それだけであった。道之進は顔も上げず、冊子を捲る手も止めない。


(くっ…!)


動揺で、周が手にしていた味噌汁の椀が揺れる。早朝の未だ半分夢の中にいる状況で畳み掛ければ、間違って頷くこともあるかと期待していたのだ。


(ま、まだまだ…!)


しかし負けじと焼き鮭の乗った皿と箸を置く。朝餉の準備はできた。最後に先程背中に隠した本を取り出す。薄い大判の表紙を開けば、年頃の美しい女性が写っている。彼女を道之進に向かって掲げ、懸命に説明する。


「今回は老舗呉服店のご令嬢です!大奥様の選定後、この周が実際に赴き取り纏めた縁談でございます!必ずや道之進様のお眼鏡に叶うやと…」

「要らんと言っている」


とりつく島もない台詞と共に、障子はぴしゃりと閉められた。


「……」


老舗呉服店のご令嬢を抱えながら、周は黙って障子を見つめる。周の夢はここ、大紫磨家の繁栄だ。繁栄、繁栄、即ち、子孫の。


『ならば俺は、周の夢の為に頑張ろう』


まだ若かりし頃の道之進の言葉を思い出す。気持ちの良いほど真っ青な空を仰いだ。


(道之進様の…嘘つき…!)






「大奥様。お呼びでしょうか」


襖越しに呼び掛けると、短い返事が返ってきた。周は神妙な顔で、重苦しい空気が漂う部屋の中に入る。


「周よ…」


畳の上で背筋を伸ばし、その人物は正座をしていた。息子とよく似た切れ長の瞳、髪には白髪が混じる。大紫磨家現在の家長、大紫磨おおしま嘉乃かのである。


「呼びつけたのは他でもない。道之進についてです」


周が入室し、静かに襖を閉める。その際脇に置かれた見合い写真を見て、嘉乃は目を伏せた。


「失敗したのね…?」

「っ…!わたくしの力が及ばず、申し訳ありません…!」


周が両手をつき頭を下げる。それを見て悲しげに眉尻を下げながらも、嘉乃の瞳にあるのは諦めである。


「いえ。道之進が縁談を断るのはこれで三十と八回目…。あらゆる時期、年齢、そしてどんなお相手でも。むしろあの息子を見放さない貴女には、感謝したいぐらいです」


大紫磨嘉乃。夫が早くに亡くなり未亡人となった彼女は、一人でこの家を切り盛りしてきた。そして家業の殆どを息子に任せ、隠居を間近に控えた嘉乃の最たる悩みは、息子の道之進のことである。


「順当に成長すれば異性に興味を持ち始める時期となっても、道之進は女性との噂も露程に聞かなければ、縁談に興味を示す素振りもない…」

「…この周。実は大奥様の憂慮を汲み取り、誠に勝手ながら道之進様宛に手頃な遊郭の情報と金券をお送りしたことがあるのです」


そしてそんな女主人の悩みを、周は気付いていた。何としても彼女の苦悩を解消したい、大紫磨の子孫繁栄に少しでも力を貸したいと、それだけを願い匿名で道之進へ手紙を送ったのである。


「女性とのお噂がなくとも、せめて男性としての色情が確認できれば大奥様も安心されるかと思いまして…」

「さすがは私の腹心。お気遣いありがとう」

「ですが、お手紙は中身を確認された直ぐ後に屑入れに破り捨てられておりました…」


その事実に、嘉乃がぐうっと呻き声をあげた。胸を抑え泣き崩れる。


「何てこと…!遊郭なんて、年頃の男子であれば全員が全員食い付く場所の筈…!」


いつもであれば天に向かって真っ直ぐに立ち上る背筋を折り曲げ、現在の最大の苦悩を口にする。


「最初はまあ淡白な子ねと笑っていられたのですが、ここまで来れば母は疑惑を持たずにはいられないのです…!私の息子は、誰か一人を愛すると言うことを、できないのではないかと…!」


そこで嘉乃はこほんと咳払いを落とす。姿勢を正し、周に向き直った。


「我が夫とは決して、恋愛結婚ではありませんでした」

「はい」

「多くの子を残せれば良かったのですが…生憎私が授かったのは道之進のみ。夫は他所で女を作ることもしなかった」


言いながら、壁に掛けられた遺影を見つめる。最後にゆっくりと、息を吐くように呟いた。


「一途な愛に満ちた、優しい男でした」


周が横からそっと新しい手巾を手渡す。嘉乃はそれを受け取り、目尻に当てた。息子の話に戻る。


「だからこそ、夫のようになって欲しいと思い…“愛の道を知る男”…道之進と名付けたのに…!」

「そのような深い意味合いが…」


同じく隣で貰い泣きをする周を横目に、嘉乃は顔を上げた。どこか遠くを見据える。


「あの子も明後日には十八歳…。当主となり、行く行くは家長となる身です。少々無愛想ですが、頭も良く健康、男気もある。道之進ならば良い領主となるでしょう」

「はい。わたくしもそう思います」

「しかし、兄弟が居ない道之進が避けては通れぬのが跡継ぎの問題。男児でも女児でも構いません。大紫磨の家と領民を守り次代に繋げて欲しいと…っ!祈っていたのに…!」


嗚咽を漏らし、嘉乃は再び泣き崩れる。そんな彼女の肩にそっと手を当て、周は声をかける。


「大奥様。僭越ながら…この周に策がございます」


これまでに道之進に行ってきた数々の失敗を思い起こしながら、彼女は続ける。


「全ては道之進様の、年頃の男性らしからぬ性欲の無さが原因です」

「ええ。普通であれば、あの年頃の男子などケダモノと相違ないと聞いたのよ、私、は…」


言葉の途中でふと周の真意に気付き、嘉乃は涙を拭うその手を止める。振り返った。


「周。生娘である貴女にさせることでは…」

「いいえ。周の齢は既に二十三歳…純然たる行き遅れでございます。今更縁談など来る筈がありませんし、何よりこの周は大紫磨の為に生き、大紫磨の為に死ぬと心に決めている身」


あれは雪の降る夜のことだった。名前すら付けられることなく、大紫磨の屋敷の前に捨てられてしまった子供。それが周だった。


「この周、大旦那様に拾って頂いたご恩、そして周と言うこの上ない佳名を授けてくださった大奥様への感謝を忘れたことはございません!」

「周…!」

「必ずや道之進様を性の悦びに目覚めさせ、大奥様の憂いを晴らしてみせましょう」


周は立ち上がる。黒髪を煌めかせ、丸い瞳を使命感に燃やす。胸に手を当て、堂々と宣言した。


「この周にお任せください!道之進様を、年相応のケダモノにしてみせます!」

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