3ー4

 その時、急に身体がぐらりと揺れ、異次元から引き寄せられるような感覚がサラを襲った。視界が歪み、けたたましい鳥や獣の叫びや、ニンゲン達の悲鳴が次第に遠ざかっていった。


 サラがはっとして目を開けた時、そこにはいつもの暗闇が広がっていた。さっきまでの喧騒は露と消え、鍋が煮え立つ音以外には何の音も聞こえない。足元には柔らかい砂が広がり、砂と一体化した深海魚が、時折思い出したようにうごめいている。


「……あれ、アタシ、何で……」

「…まったく世話の焼ける子だね」


 後ろから知った声がして、サラは急いで振り返った。黒いローブにフードを被った老婆が、ぎょろりとした目でサラを見上げていた。


「バァさん……? なんで?」


「虫の知らせとでも言うのか、散歩に出てすぐに胸騒ぎがしてね。すぐに帰ってみたら、お前がいなくなってるじゃないか。何が起こったかはすぐにわかったよ。あの薬を残していくなんて、あたしも迂闊だったね。」老婆が大袈裟にため息をついた。


「……あの、バァさん、あたしが上でしちゃったことは……」サラがおずおずと尋ねた。


「あぁ、ちゃんと片づけといたよ。牛も豚も鶏も元の姿に戻して、壊れた店内も直して、店にいた人間どもの記憶も消しておいた。特にあんたと一緒にいた若僧の記憶は念入りにね」


「……そっか。よかった」


 サラは安堵に表情を緩ませた。自分1人では到底収集がつかなかったが、老婆のおかげでどうにか助かったようだ。


「それにしても、修行をサボって人間界を遊び歩くとはいい度胸だね。まったく……見習いの分際で勝手な真似をするんじゃないよ」老婆が心底呆れたように言った。


「……ごめんなさい」


 サラは素直に謝った。いつもならここで口喧嘩が始まるところだが、さすがのサラも自分の浅はかさを痛感していたのだ。


「罰として、後12時間は鍋をかき混ぜてもらうよ。当然休憩もなしだ。途中で居眠りなんかしたらひっぱたくからね」

「……はぁい」


 サラはため息をついた。人間の煌びやかな生活を目にしたのはほんの束の間、これからはまた暗闇の中で退屈な生活を送らなければならない。人間界はもう懲り懲りだと思う一方で、サラは我が身の不遇さを呪いたくなった。


「……ところで、サラ。あんた、この深海は何の面白みもない場所だと思ってるんじゃないかい?」老婆が出し抜けに尋ねてきた。


「え?そうだけど…、何でわかったの?」


「あんたのことだ。どうせ人間界に行ったのも、ここの退屈さに辟易したからなんだろう? でもね、サラ、こんな光も音もない世界にだって、いいところはあるものさ」


「そうなの? でもどこに……?」


 サラがそう尋ねた時だった。不意に頭上から何かの音が聞こえてきた。それは誰かの歌声のようで、聞いたこともないほど澄んだ、美しい声をしていた。


「これ……」サラが視線を上げて呟いた。


「綺麗だろう? 上の海に住む人魚の親子が歌っているんだが、たまにここまで聞こえてくることがあってね。いい歌だよ。聞いているだけで心が慰められる」


 老婆がしんみりと言った。いつになく優しいその口調に、サラは意外そうに老婆の顔を見た。


「あたしが何年もこの深海で暮らしてこられたのは、この歌があったからさ。この歌は、言わばあたし達の希望……。暗闇に差す一筋の光のようなものさ」


 老婆はそれだけ言うと、サラに背を向け、滑るようにして闇の中へと消えた。

 サラは呆然とその背中を見つめていたが、やがて頭上へと視線を移した。歌はなおも途切れることなくサラの耳に届いてくる。まるでサラの元に光を届けようとするかのように。


(確かに……これも悪くないかもね)


 サラはふっと口元を緩めると、鍋の方へ近づいていき、刺さったままの木の棒を掴んで再びかき混ぜ始めた。その間にも、歌はサラにエールを贈るように心地よく耳に響いてくる。


 アタシの魔法はまだまだ未熟だ。一人前になるには途方もなく時間がかかるだろう。でも、きっとこの歌があれば、アタシはこれからも深海での生活を続けていける。そしていつか、この歌声の主に会える日がくるといい――。

 心が静かに満たされていくのを感じながら、サラはそんなことを考えた。




[深海の歌姫 ―Another story― 了]

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深海の歌姫ーAnother storyー 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

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