第2話 

 僕の名前は和戸真治。

 田舎は長野の伊那で、父親は今も寺の住職をやっている。母親は僕がまだ中学の時に癌で亡くなってしまった。母の死後、父は慣れない家事を仕事の合間にこなして僕を育ててくれた。

 料理と言えばご飯とおかずがせいぜい二品、洗濯ものはしわだらけだし、靴下は時々片方が行方不明になって、諦めた頃に洗濯機の下からかびだらけになって現れることもあった。

 でも僕はそんな父に感謝していた。サラリーマンほど時間を縛られていないが、父はそれまで家事などやったことのない不器用な人だった。そんな人が僕だけのために必死に慣れない家事をやってくれたのだから。

 子供の頃の僕はお母さん子だった。そして母が死んだときは涙がれるかというほど泣いた。そんな僕の事を思って後添いを貰うこともなく、家政婦を雇うこともなく男手一人で僕を育ててくれたのはそれまで子供の世話など念頭になかった父なりの誠意だったと思う。

 そして・・・父は人のいい人間でもあった。僕が高校に入るころに、近くにある神社の神官が高齢で亡くなった時、継ぐ者がいないとなって父に兼務してくれないかと話が持ち込まれた。山の中腹にある神社は父が住職を勤めている寺より由緒正しいもので、西暦でいうとまだ三桁の時代に創建されたものらしい。だが歴史はともかく今となっては限界集落にある寂れた神社で、亡くなった神官も畑で作物を育てて生計にしているような暮らしだった。

 ただ、年に一度の祭礼があって、その祭礼が途絶えてしまっては困るという事らしかった。祭りが途絶えるのは困ると言いながら、山に登ってお賽銭をだすこともしなければ祭り以外に金を提供することも滅多にしないような人々に頼まれたにも関わらず、父は気軽に引き受けてしまった。いつの間にか僕の通っている高校の友達にもその事が知られ、「一人神仏習合」の息子とか、「ネギ坊主」の子だから野蒜じゃないかなど綽名あだなをつけられたりもしたが、僕は一切無視をした。神社の神官を禰宜ねぎというから父にネギ坊主という綽名をつけたのは、内心では「座布団一枚」と言いたいところだったけど・・・。


 そして・・・高校に入った頃、僕は自分の性向についに気付いてしまった。今となってはそんなことはないが、最初にそれを認識した時はショックだった。気付かなければよかったとさえ思ったこともある。

 男女共学の高校生活ともなればそこらじゅうにカップルができる。そこらじゅうと言っても実際にカップルは半数にもみたないのだけど、なんだか世界中の人が恋をしているような気分になる。だが、僕はと言えば中学の頃と気分はさして変わらなかった。男の友人もいれば女の友達もいた。けれど・・・。


 それは生徒会長選挙の時だった。僕らの学校では新入生が入って暫くして落ち着き、連休が終わった頃に新二年生の中から生徒会の役員を選ぶ選挙戦に入るのが恒例になっていた。

 二年に生徒会長を選ぶというのは生徒にとっても微妙な選択を強いる。AO入試で大学を受けようと考える者にとっては、なんだかんだといっても生徒会の役員をやるというのは売りになるし、真剣に受験をしようと思う者にとっては二年は学力を上げるために重要な時期である。でもそんなことは入学したばかりの一年生にとってはまだ切羽詰まった話ではなかった。だから朝会で選挙の話が出ても、あまり自分には関係のないことだとしか思えなかった。

 けれど、立候補者が揃って、いざ立会演説会なるものが実施された時、僕は周りのどちらかというとめた雰囲気の一年生の中で、ひとり浮足立つような思いをしていた。学ラン姿に白石誠二と書かれたたすきを掛けたその人が演壇に立った時、僕は一瞬、時が止まったのかと思った。落ち着いたその声、真摯しんしな演説の内容、熱意を込めて語る言葉。

 そして僕は彼のとりこになった。


 彼の選挙戦の最中、僕は彼の少しでも助けになろうと思ったが、どうすればいいのか分からなかった。僕の学校では昼の休み時間と放課後は候補者が選挙活動をやることが許されていた。だから、僕は彼の選挙演説のときはよほどのことがない限り、欠かさずに行った。どの候補も人だかりができるというほどのせいとは集まっていなかったが、応援者たちを中心に十人以上、多い時には一クラスほどの生徒が集まっていた。その中で彼の演説会は比較的人が多い方だった。女性の方が少し多かったのは彼のルックスのせいだろう。何度かそうやって足を運んだあとの事だった。演説が終わって帰ろうとした僕の前に一人の女子学生が、

「ねぇ、きみ」

 といって僕の前に立ちはだかった。その女性は・・・女性に興味のない僕から見てもとても素敵な女の子だった。ポニーテールにまとめた黒髪、少し浅黒い肌には雀斑そばかすも浮いているけど、彼女にはそれが素敵なアクセントにも見えた。長い睫と、きらきらと輝く瞳、ちょうどいい長さの鼻梁と整った形の鼻。そしてきれいなピンクの唇。きっと、普通の男の子たちならば一目で彼女に恋をしてしまうだろう。

「なんですか・・・」

 僕はその女性を何度か彼の応援演説の時に見ていた。たぶん、彼のファンなのだろう。美人であるが、僕にとっては必ずしも歓迎できる対象じゃない。

「君、一年生だよね」

「はい」

 僕は素直に答えた。

「白石君が・・・君と話をしたがっているんだ。ちょっと時間ない?」

 途端に彼女がキューピッドに変わった。

「はい・・・。分かりました」

 彼女が微笑んで僕の手を取った。自分の魅力を分かっていて、それを自在に使える女性、のようだった。

「私、若村麻友。白石君の選挙対策委員をやっているの」

 校舎に向かいながら彼女は歌うような声で言った。

「選挙対策委員?」

「ちょっと大げさだけど・・・。でも実際、選挙対策は欠かせないの。せっかく立候補したんだから、勝ちたいじゃない?」

 彼女はそう言ったが、立候補したのは白石先輩であって彼女自身じゃない。勝ちたいじゃない、ではなく、勝たせたいじゃない、の間違いじゃないか、とは思ったものの僕は誤りを正さなかった。往々にして女性と言うものはそう言う間違えを指摘するような行為に対して激しい敵意を抱くものだ。

 彼の選挙対策室は廃部になったばかりの囲碁クラブの部室だった。校庭の脇にある古いプレハブのその部室にはもちろんエアコンなどはなく、初夏の太陽の容赦ない攻撃にさらされてひどく暑かった。囲碁クラブが廃部になったのも、きっと部員がこの暑さの中で囲碁などやる気になれなくなったのだろう、と思えた。だが、その中にいた十人ほどの二年生たちは暑さなど気にしていないようだった。

 二人が部屋に入るなり、白石先輩が

「やぁ」

 と笑みを浮かべて僕に近づいてきた。そして僕に手を差し出した。おずおずと差し出した僕の手を強く握ると、

「和戸クンだね。ようこそ。君を待っていたんだ」

 と言った。その途端、僕は天国に上るような思いがした。いや実際に天国に行ってしまったのかもしれない。

 白石先輩と「その仲間」は僕に「1年生の票の取りまとめ」ができないか、と頼んできた。

「いつも君が熱心に僕の演説を聞きに来てくれているから・・・」

 白石先輩はそう言ったが、僕は演説を聞きに行っているのではなかった。白石先輩を「見に」行っているだけだった。でもその素敵な勘違いを僕は正す気にはならなかった。

 そして僕は彼の下僕しもべとなった。クラスで協力してくれる友達を・・・主に白石先輩のルックスに憧れているどちらかというとあんまり冴えないタイプの女の子を三人見つけ出し、彼女たちと一緒に他のクラスの協力者をリクルートした。同時に一年生の票を集めるためにどんな方策があるか、仲間と色々と議論して白石先輩に案を出した。一年生と二年生の間にある壁を取り払う、それがテーマだった。白石先輩たちは僕らの意見に耳を傾け、取り入れてくれたおかげで次第に一年生の間で人気が高まり最終的には圧倒的な大差で生徒会長に選ばれた。


 選挙が終わったその日、僕と僕と一緒に戦ってくれた一年生の仲間十人ほどが囲碁部が廃部になったあの選挙対策室に呼ばれた。二年生も同じくらいが集まっていて狭い部室は人いきれがするほどだった。清涼飲料水やジュース、ポテトチップやお菓子がたくさん買ってあり、僕らは歓待を受けた。

「一年生の70パーセントが僕に投票してくれたんだ。君たちのおかげだよ」

 白石先輩は僕の手を硬く握ってそう言った。握られた手が熱かった。

「とりわけ君には世話になったね。ありがとう、和戸くん」

 白石先輩はまるでアメリカの映画のように僕をハグしてくれた。僕は天にも昇るような気持がした。

 そして、副生徒会長候補として一緒に立候補していた林先輩の音頭で、乾杯をした。まるでテレビで観る本当の選挙事務所みたいだった。僕らは皿にあけられたポテトチップスやチョコレートを食べながらこれからの高校生活を語り合った。一年生の何人かは次期の生徒会を担うべきだ、と暗に生徒会長に立候補をする準備を示唆され、そのために生徒会の中で働くことを勧められた。

「和戸クンにもぜひ僕の下で働いてほしい」

と白石先輩は僕に言った。それを聞いて僕は少し有頂天になって、

「ぜひそうさせてください」

と答えた。そんな僕を冷たい視線で眺めている人がいるなんて、ちっとも気づかずに。

 会は盛り上がったが、その最中僕はふと白石先輩がその中にいないことに気付いた。どこに行ったんだろう?炭酸飲料とポテトチップスで酔っ払ったようになっている級友を置いて僕はそっと外に出た。

 部室の裏側から男女の声が聞こえた。男の声は白石先輩で、女の声は、あの最初に僕に声をかけてきた若村麻友さんの声だった。

「そんなことはないよ。気にしすぎだよ」

という白石先輩の声に、

「でも、あの和戸くんの目を見た?あれは恋している眼よ。あの子はあなたに恋しているの」

 冷静な声が返って来た。

「え、男がか?」

 白石先輩の声は裏返った。

「そうよ。ほらBLって聞いたことない?」

「BL?」

「Boys Loveよ」

「?」

 白石先輩はその言葉を知らなかったみたいだ。

「男の子が男の子に恋する話」

 若村さんはそっけなくそう言った。現実的にBLは男性に人気がある話じゃないし、そもそも現実でさえない。ほとんどは女の子が作り上げた妄想なのだ。

「そんなのは現実にはそうはないよ」

 白石先輩はその意味では正しい。

「そうはなくても、ここにはあるの」

 若村さんもある意味正しかった。

「でも・・・僕はそんなのは相手にしないよ。男なんてまっぴらだよ」

 白石先輩のその言葉は・・・・。

「約束できる?」

 メスが媚びた声を出し、

「もちろんだよ。僕が好きなのは君さ」

 オスが媚態に応える。

「じゃあ、証明して見せて」

 くだらない。証明という言葉が泣くよ。

「え?ここで?・・・僕は生徒会長になったばっかりだよ」

 じゃあ、やめちまえばいいんじゃない?

「生徒会長になったから、私にキスをしないの」

 その質問、馬鹿じゃないの?

「・・・仕方ないなぁ」

 ・・・。

 声の後で唇と唇が触れ合う音がした。僕はそっとその場を離れた。そして部室にも戻らずそのまま下校した。生徒会なんてくそくらえ、生徒会長なんてくそくらえと思いながら。

 そうやって僕の初恋は終わった。



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愛しい人 西尾 諒 @RNishio

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