いのりのイノチ -3
黒いノーカラーのブラウスと、黒いプリーツスカートが好きだった、と泣きそうな気持ちで思う。実家では真っ黒な服は、奇抜で、派手なものとされていて、絶対に許されるものではなかった。大学生のころ、数少ない友人に、あなたはシックな装いが似合うのにねと言われて、実家から持ってきた服をすべて捨てて、モノトーンの服ばかり買った。
冬に着れるようなブラウスでよかった、とため息をつく。袖口とデコルテに、銀糸の刺繍が入っている以外はなにも修飾はない。まるで喪服だった。間違いではない。喪服。葬式。コートは、黒いものは持っていなかった。赤のダッフルコートを羽織る。
部屋から出たら、いつも通りのカジュアルな格好をした譲がスマートフォンをいじりながら立っていた。わたしの服装を見て、なにか納得したようにうなずいた。
「準備できた」
「うん、待たせてごめんね」
「べつに待ってないよ。そのかっこうで、寒くない? また雪が降りそうだけど」
「たぶん、大丈夫。けっこう厚手の服だから」
花屋に寄って、電車に乗って、海に行こう。少し時間はかかるけれど。久々にヒールのある靴を履く。雪の日なのに、危ないかもしれないけど。譲が一緒だから大丈夫だろう。
外に出たら、桜の花びらのような小さな雪が舞っていた。積もりはしないだろう。譲と手を繋いで、いつもの花屋に向かって歩き出す。おろしたままの髪がばさばさ揺れている。小さな花屋で、白いトルコキキョウと、ラナンキュラス、かすみ草を買って、一番シンプルな白い紙で包んでもらう。なんとなく骨壷を思い出した。
譲がくれた花束は、リビングの一番目立つところに飾ってある。好きな花ばかりだった。譲に好きな花なんて言った覚えはないのに。淡い色のアネモネ。白く輝くようなラナンキュラス。優雅なシルエットのフリージア。かすみ草より、雪柳の方が手間がかかる分、可愛いと思う。
嫌いな花なんてないけど。トルコキキョウは穏やかなウェーブが重なるのが美しくて、特に好きだった。花を抱きしめて、顔をうずめる。
「あのね、譲」
「ん」
「わたし、花をもらったことって、あんまりなかったの」
あんなに花に囲まれた暮らしをしていたのに。たくさんの花を切って、挿して、飾ってきたのに。
「譲がくれるものは、ぜんぶ嬉しいけど。あの花束が、本当に嬉しかったの。わたしのことを思って買ってきてくれたのが」
「なら、よかったけど」
「あの花束を見て、最後の勇気が出た」
行こう。駅に向かって歩き出す。譲の腕にそっと体を預ける。勇気は出たけれど。足がすくみそうだ。
また明日でもいいんじゃない、と気弱に自分がつぶやく。今日じゃなくてもいいんじゃない? 今じゃなくてもいいんじゃない? べつに、こんなことしなくても、いいんじゃない? 譲と約束したから。海に行こうと言い出したから。昔の服を着たから。ヒールのある靴を履いたから。花束を買ったから。もう後戻りはできない。
別れの花束だった。
*
中途半端な時間に出たせいか、電車の中は空いていた。譲のおすすめの音楽教えてよ、とねだって、イヤホンを分け合って聞く。ピアノのインストばかりだ。譲の腕に頭を預ける。
「今日は甘えただな」
「うん……」
譲がそっとわたしの髪に触った。
「今日ばっかりは、ずっと、怖いんだ……」
「芳乃が、そういうの、素直に言うの、珍しいね」
「あなたのこと信頼してるからね」
車窓の向こうに海が広がった。
「海が、」
「……うん」
「わたしは、海が、好きだけど。それは、譲と一緒にいたから」
もう夕暮れだった。夕方がいいと言い出したのは、わたしだったので。胸の底が、つらつらと冷えている。電車がゆっくり止まる。降りなくては。
相変わらず、海辺の駅はうら寂れていた。古いタイプの改札をICカードで通って、防波堤の方へ抜ける。とぼけた色のテトラポット。閉店したままの釣具屋。錆びたボート。野良猫に餌をやらないようにと、立て看板に書いてあるのを知っているのは、昔はまだ字が読める程度にしかペンキが剥げていなかったから。潮のにおいがする。
あの日飛び降りた防波堤を、大人しく階段を使って降りる。ヒールが砂に埋まって歩きにくかった。やはり、海には、スニーカーか、ローファーか、裸足か。しゃがんで、ブーツのファスナーをおろす。譲がぴたっと足を止める。
「芳乃、」
「ちょっとだけ待ってね」
片手に靴と靴下をまとめて持つ。引き潮のタイミングだったらしい。波打ち際が遠い。冷えきった砂を踏む。陸風が吹いていた。
ざあ! 潮騒が響いた。頭から腹の中、つま先まですべて飲み込まれそうなくらい、大きな音。花を握りしめる。靴を砂浜に投げ捨てる。
「譲」
「なに」
「そこで、待ってて」
波の中に踏み入れる。夕焼けがあまりにも真っ赤だった。足首に波があたって砕ける。海の水が冷たすぎて、かえって燃えるように熱い。
花を包む紙がガサガサとしきりに音を立てた。今日は風が強い。波が荒れている。雪が降っているのに、西の空には雲一つない、どこまでも見えそうな夕焼け空だった。膝の下まで水が届くところまで、ひとりで歩く。スカートが濡れて、足にまとわりついた。
寒い。冷たい。凍りそう。奥歯がガタガタ鳴る。息を吸う。陸から吹く風が、背中を押す。
なにを、しにきたのと、問われれば。
あなたの、お葬式を。
あなたに、言うべきことは、ひとつだけ。
「――さようなら!」
わたしの子ども。愛していたなんて、慈しんでいたなんて、口が裂けても言えやしないけれど。わたしの孤独を埋めるために生み出して、用無しだとばかりに血とともに流してしまった、わたしの子ども。誰も姿を見たことない、産声も挙げられないまま。
あなたはここにいた。
わたしの腹の中にいた。
わたしの腹が、空になったなら。それを幸福と、誰もが言うけれど。わたしも幸福と呼ぶけれど。でも、わたしが幸福だと言うのは、他の人と理由は違う。
あなたが、自由になったなら、それでいい。
あなたが自由であることだけを、祈らせて!
白い花を、思いっきり空に向かって投げる。ただ簡素にまとめられただけの花は、ばらばらに風に舞って、まるで神様に祝福された白い鳩たちのようだった。
*
寒さで赤く腫れた足を引きずって、砂浜に戻る。濡れたスカートが、後ろ髪を引くように足にまとわりついた。重たくなった布をたくしあげる。譲がこちらに来ようとするのを、首を横に振って止める。思ったより寒い。去年来たときは、平気な顔して足を海に浸していたのに。雪が降るくらい寒いからだろうか。海水と混じって半分液体みたいになっている砂に足先が埋まる。
完全に海から出る前に、足を止める。ひどい格好になってそうだ。跳ね上がった波しぶきのせいで、髪すらところどころ濡れている。譲が、顔をゆがめる。自分の顔が笑おうとして、失敗した。
「芳乃」
「こっちに来たらダメだよ」
譲は、あの子がいなくなったことを、どう思うのだろう。
わたし以外に、哀しんでくれる人がいたらいいのに。
「わたしの腹は、本当のからっぽになっちゃった」
「芳乃」
「わたしが、殺したんだ」
芳乃、ともう一度名前を呼ばれる。足の感覚がなくなってきたので、陸地の方に歩く。たった数歩でたどり着く距離だ。後ろ髪が引かれるけど。振り返ってはいけないような気がした。海の中に走り出してしまいそうになる。泣き出しそうだ。叫びそうだ。
人間関係に、別れがあるように、わたしとあの子はもう遠くないといけなかった。彼岸と此岸とはよく言ったものだった。お互いに、隔てた向こうとこちら、手の届かない向こう岸に、もう出会うことのないところに。
あの子は死んでしまった。たしかなことだった。
「芳乃、こっち来てくれよ。頼むから。僕が行ってもいいけど。それがダメだって言うなら、こっち来て」
「なんで?」
「抱きしめたい」
はは、と自分の声が震える。譲にねだられて、断るわけはなかった。よたよた歩いて、譲の腕の中に飛び込む。譲が覆いかぶさるようにわたしを抱き寄せた。
「なんでお前はわざわざそんな、自分を痛めつけるようなことをするかな」
「してないよ、そんなこと……」
「してる。絶対」
譲が体を離す。びゅうと冷たい風が吹いた。わたしの髪を撫でつけて、目をのぞき込まれる。泣き出す寸前みたいに、譲の目がうるんでいた。わたしは平気なのに。わたしの後悔に、とどめを刺すためにここに来たに過ぎない。
右手の中で、白い紙がぐしゃぐしゃになっている。手が凍えているので、いつか落としてしまいそうだ。譲がわたしのおでこに自分のおでこをあてた。熱はないとは思うけど。譲が一瞬強く目をつむった。
「芳乃」
「うん」
「座って。タオル持ってきたから」
「用意がいいのね」
「人間は学ぶ葦ですので」
小さく笑う。乾いた砂の上に直接座る。譲がカバンからフェイスタオルを出してきたので、また笑ってしまった。用意がいい。去年、ここで再会したときは、わたしが渡したのに。
もう一年経つ。ずいぶんいろんなことを話したものだと思う。スカートはすっかり濡れてしまっているので、ぎゅっと絞る。風が強いからすぐに乾くだろう。譲が甲斐甲斐しく指のあいだまで丁寧に拭ってくれている。
「譲、あのね」
「ん」
「腹が、小さくなってね」
あっという間のことだった、と思う。たかだか一週間もしないうちに、わたしの腹は何事もなかったように平たくなってしまった。ホルモンの作用ですから、と先生は言っていた。もともと骨ばかりが目立つ体に、腹だけ膨らんでいたので、これが本来の形だと言われたら、それはそうだった。着物の似合わない、みすぼらしい体と母に言われた、女性らしさのない体。
もう腹のせいでバランスを崩すことはない。ヒールのある靴も、太いベルトも、もう選べる。学生のころの服も問題なく着れる。
「もう足の爪も自分で切れるし、靴も靴下も、道具を使わなくても履けてしまえるし、踵が高い靴も履いてしまった。服は好きなものを着れるし、いつか病院も行かなくて済むようになる」
「うん」
「悪いことじゃないのにね……」
後悔ばかりが胸を刺す。生み出してしまったことが、わたしの罪だった。
「……芳乃は、どう思うか、わからないけど」
「うん」
「僕は、あまり、芳乃に子どもがいることを問題だと思ったことはなかったな、と思う」
「そう、なの?」
「生きていく上で、なにかが必要なことは、誰だって、あるだろう。僕は、思い出と、趣味があったし、祖父母がいたから、なんとかなったと思う。僕は、たまたま。でも、芳乃はたまたま違った。たまたまね」
ひとつひとつ、言葉を区切って譲が話している。静かな口調だった。
「歩くのに杖が必要な人がいるような話しだと、僕は思っていた。それだけ、って言ってもいいのかわからないけど」
「うん……」
「哀しいのも、仕方ない話しだ。ずっと芳乃を支えてくれていたのに、なくなってしまったのなら、寂しい。僕が、口出ししてもいいのかわからなくて、なにも言わなかったけど。芳乃がいるって思うのも、芳乃が殺したって思うのも、芳乃がそう思いたいなら、そう思えばいい、というか、そんなの誰にもそう思ったらいけないなんて言えないだろう。それは芳乃の権利だ」
権利、と言うのが譲らしかった。
「僕は、哀しむななんて言わない。絶対。哀しむのも、寂しがるのも、芳乃がそう思うならそうしたらいい。その間ひとりで耐えられないなら、僕のところに来てくれたらいい。芳乃が、殺したと、そう思ってしまうなら、苦しんでほしくないけど、僕も、そう思おうと思う。……忘れたくないんだろう」
「うん」
喉の奥がきゅうと鳴る。風と波がうなりをあげている。世界が終わるみたいと思えば、あんまり陳腐で笑いだしそうだ。世界が終わるなんて、そんなことない。わたしがどれだけ哀しんでも、日々は続く。なにも重大なことは起きていない。こんな海の中に少しの花を投げ込んだことろで。
「わたしが殺した。わたししか、あの子にはいなかったのに! わたしだけは忘れられない。わたしにはなにもできないから」
波のあいだにあっという間に消えてしまった花を一生覚えているしかない。
「わたし、本当に馬鹿なことを考えていたの。ひとりで生きていきたいのに、足りなくて、なにかが埋めてくれたらいいのにって。そしたら、あの子は生まれた。わたしは、ずっと頼りにしていた。でも、あの子は、本当はいなかった。どこにも。ずっと覚えているしかない。わたしはあの子に生かされていたんだって、一生、ずっと覚えている」
それを弔いと呼ぶのか、呼んでもいいのか、わからない。譲のコートに手を伸ばす。譲も覚えていてと頼むのは、しないけど。
こんなことに巻き込んでごめんと謝りたかった。そんなことしたら、きっと怒る。
「譲、ありがとう。一緒にいてくれて。譲がいたから、ここに来れたの。ねえ、あのねえ、本当にありがとう。譲を、わたしは、ずっと、一番信頼してる」
「うん」
乾いた砂の上で、自分の踵が滑る。立ち膝をして、譲の頬を包む。目を見る。黒い目だ。ぱちりと瞬きしたら、ついに涙がこぼれてしまった。譲の頬を撫でる。彼も、泣いていたのかもしれない。頬が少し濡れていた。
「譲がほしいなら、なんでもあげる。譲がね、大好きよ」
譲が腕を伸ばして、わたしの後頭部に手を添えた。なにがしたいのか、わかっているつもりだ。抵抗しないで、譲が抱き寄せるのに従う。唇と唇が触れ合う直前で、止まった。波の音にかき消されそうな、小さな声で、譲がささやく。
「触るぞ」
「触ってよ」
あなたが触っていけない場所なんて、ひとつもない。目を伏せる。冷たい唇が触れた。譲がわたしの手を握った。祈るように指と指を絡める。この手があるなら大丈夫だ、と思って、海を振り返る。
わたしの投げた花は、見る影もない。当然だ。もうすべて飲み込まれてしまった。暴れまわっていたわたしの感情ごと。もう夕日は落ちている。濃紺に沈んだ海水が、かすかに残った光にちらちら光るばかりだ。譲が腹に腕を回して、力を入れたので大人しく譲の腕の中に座る。もう少しここによう。涙が枯れるまでは。
譲に背中を預ける。寄せては返す波を眺める。いつか枯れるわたしの涙とは違って、海は枯れることはない。わたしがどれだけ叫んでも、暴れても、無関心を貫く大きな存在は、わたしの感情をすべて小さく平らにしてくれる。
もはや祈りしか届かなくなった、と静かに思う。それでいいのだ。譲の手を握る。一生、あなたにあげる。わたしがいてよかったと、譲が思ってくれたらいい。譲を大切にさせてほしい。
わたしの耳と肩のあいだに、譲が顎を乗せた。芳乃、とささやき声がした。
「なあに」
「僕は、ずっと、芳乃を一生大切にしたいんだ」
「奇遇ね。わたしもだ。あなたを一生大切にする」
譲が笑う。つられて笑ってしまった。涙声で、無様かもしれない。強がりみたいだと自分でも思った。それでいい。強がりでも、言い続けたら本当になるかもしれない。
一生を言い出すなんて、絶対にしなかったのに。お互い。絶対という言葉も、一生なんてことは言わない、ひねくれた性格だった。
「譲がほしいなら、わたしの一生をあげるよ。でもね、そしたら、譲の一生もわたしにちょうだいね」
「もうあげたつもりだったんだけど」
左の薬指をそっとつかまれた。それでいいのなら、そうするけど。苗字を変えるくらい、籍を入れるくらい、なんでもない。譲の頭がすり寄ってくるのに黙って答える。すんと鼻をすすっている。風邪を引かれるのは嫌だから、帰宅を提案しようか迷う。
「いつか……、」
「うん」
「いつか、きれいな指輪を、芳乃にあげる」
「きれいじゃなくていいのに」
そんなこと気にしなくていいのに。
「そんなこと気にするなら、輪ゴムでもなんでもこの指につけて。あなたがくれるものなら、なんでもいい。それで気が済まないって言うなら、明日探しに行こう。もうわたしたち、立ち止まってたら、もうもったいないよ」
「……賛成」
譲が立ち上がって、わたしに手を伸ばす。まだ少し湿っているスカートをたくし上げて、手を借りて立ち上がる。鼻先も頬も真っ赤だ。砂を払って、靴と靴下を履く。帰ろう。わたしたちの家に帰ろう。温かいものを食べて、ふたりで眠って、明日の朝一番におはようと言い合おう。それをわたしは、ずっと、一生、幸せだと呼び続ける。
fin.
カラのはら 天藍 @texinenlan
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