いのちのイノリ -2

 風呂から上がったら、芳乃がすすり泣いていたので、ひどく狼狽えてしまった。とにかく風呂まで連行して、熱いシャワーを浴びるように強く言う。寒いんだから、お風呂に入っているあいだに湯船は張っておけばよかったかもしれない。迷子の子どもみたいに、うん、うん、とうなずく芳乃を脱衣所に残して、リビングに戻る。

 深呼吸。焦った時は深呼吸をしろと、昔気質のじいちゃんは繰り返し僕に言うので、癖がついている。好きな人が泣いていたら、そりゃあ焦るに決まっている。冷たい水をコップに出して、喉を鳴らして飲む。

 そういえば僕が帰ってきたときから、少し様子がおかしかった。朝は血まみれの寝具を抱えていたので驚いたが。あまり女性のそういうことに詳しくないので、露骨に目をそらしてしまった。せめてご飯くらいはと思ったのに、結局台所に立たせてしまった。雪が降るくらい寒い日に、暖房もつけずに寝ていたのは、なにか疲れ果てるようなことがあったからだろう。体力が尽きても、感情が大きく動いても、芳乃は疲れ果てて、リビングで眠り落ちる。家の中と外で、着る服を変えないと落ち着かないと芳乃は言うけど、そういうときは化粧も服もそのままで寝ているので、すぐにわかる。

 寒い中出かけたから疲れたんだろう、と思っていた。食事をして、顔色がよくなったから大丈夫だろうと思っていた。なにかがあったんだろう。こんな、すぐにばれるようなタイミングで泣くのは、控える人なのに。

 シャワーの音がしている。シャワーでも浴びて体を温めた方がいいと思って送り出したけど、一人にしてもよかっただろうか。どうしたらいいかと、言われても、正解なんてないのは、わかっている。

 しばらくしたらシャワーの音が止まって、ドライヤーの音が聞こえてきたので、台所を物色する。家の中にいる時間が長いせいか、芳乃はいろんな種類の飲み物を常備している。夜だからカフェインはやめた方がいいはず。スマートフォンでブラウザを開いて、ホットココア、レシピ、で検索をかける。ココアパウダーに砂糖を入れて、大匙1杯の牛乳でペーストにして、マグカップいっぱいの牛乳を足して、電子レンジにいれる。シナモンを振りかけるとおいしいとか、生クリームを使うとか、チョコレートやマシュマロを使ったレシピも書いてあるけど、材料を探し出せないのでこのくらいしかできない。

 ドアが開いて、厚手のパジャマを着た芳乃が戻ってくる。目が腫れぼったい。近寄って、両手を広げる。唇をとんがらせた芳乃がそっと抱き着いてきた。


「心配かけてごめん……」

「いや、僕はいいけどさ」


 石鹸のにおいがする髪に顔をうずめる。


「なにかあったの」

「うん、まあ」


 するっと芳乃が離れた。目が真っ赤だ。


「でも、大丈夫。ちょっとだけ、いろいろあったの」

「……」

「……いや、ごめん。大丈夫は、嘘だけど」


 声が揺れている。迷い迷い言葉を選んでいるので、邪魔しないようにうなずくだけにする。


「少し、一人にして」

「いいよ」


 電子レンジの中から、熱いマグカップを出す。甘いにおいがした。


「熱いよ。気を付けて」

「うん……」

「仕事は忙しいの」

「うん」

「あんまり無理はしないでくれよ。夜更かしも仕方ないのかもしれないけど、ちゃんと布団の中で寝ろよ。ご飯も作れなそうだったら、連絡すること。買って来るし、掃除も洗濯も適当でいいんだから。僕もやるから……わかった?」


 うん、と芳乃がうなずく。自分が大変な時も、家事をしないといけないと思うのが芳乃の癖らしかった。掃除なんて週に一回でもしたらいい方だと思うのだけど、毎日するのが芳乃だった。一日中家にいるからね、と言うけど、たぶん僕は在宅の仕事になっても毎日はしない。

 ひとりがいいなら、ひとりでいたらいい。僕らは元々、誰かといないといけない性分ではない。ここ最近がイレギュラーなだけだ。苦しむのも、辛いのも、一人で耐えて、こらえていたい。黙って生きていきたい。心配なんてされたくない。他の人に、自分の心の中のことまで干渉されたくない。

 素知らぬふりをするのが、僕たちの間の礼儀というものだ。


「部屋に戻りたい?」

「そう、かも」

「じゃあ、それ持って、飲んで。僕が作ったからあんまりおいしくないかもしれないけど、まだあったかいだろう」

「おいしそうだよ。ありがとう。じゃあ、部屋に戻るから。本当にごめん」

「僕はべつになんでもないよ」


 マグカップを持って、芳乃が自分の部屋の扉を開く。扉の向こうは、あかりはついていなくて黒々としている。ふと芳乃がこちらを振り向いて、僕をまっすぐ見上げた。


「譲だけは、このドアを開けてもいいよ」

「……お前から、開くべきだよ」

「そうね」


 自嘲気味に芳乃の唇が笑う。


「譲が正しい」

「でも、僕はべつに芳乃と正しくありたいとは思ってないから」

「うん」

「そうやって甘やかせるのは僕だけだから許してやろう。なにかあったら開けるぞ。覚悟しておけ」


 芳乃が笑って、部屋の中に入った。ひとつ息を吐いて。自分のために作っていたマグカップを電子レンジから取り出す。僕も部屋に戻ろう。テレビを消して、灯りを常夜灯だけにして、自室に入る。

 電気カーペットの電源をつける。窓がないせいでエアコンが設置できないので、冬は温風器と電気カーペット、夏は冷風機で暮らしている。芳乃に絶句された量の本とCDを仕舞うための大きな本棚と、小物を仕舞うためのちいさな棚。部屋に備え付けられたクローゼットの半分は分厚い本で埋めて、もう半分を服の収納にしている。二階に暮らしているので、本の重みで床が抜けるかもしれないと芳乃がまじめな顔をして言っていた。今のところその兆候はないけれど。

 真ん中に置いた座卓の前に座る。出しっぱなしにしていた日記帳を開く。自分の字がずらずら並んでいる。CDラジカセの電源をつけて、FMラジオを流す。水曜日か、と聞きなれたラジオのパーソナリティの声で思い出す。日記帳のクリーム色の紙に、今日のご飯を書く。トースト、親子丼、そば、厚揚げ。天気は、曇りのち雪。

 今日は初雪だった。積雪量は八センチ。今日の夜の間にさらに十センチ積もると天気予報で言っていた。明日は交通機関が止まるので、仕事は休み。暇だったら本を読もうと思う、とまで書いて一度ペンを置く。手が冷たい。

 日記をつけるようになって、七、八年になる。文章を書くこと自体は、高校の文芸部で少し練習したので、慣れている方だと思う。芳乃のように、数十万文字を平気な顔で書くことはできないけど。数行程度なら毎日書き続けられる程度には。

 自分の書いた小説は、本を読みなれている人間の真似事程度にしかならなかった。楽しいことではあったが。社会人になって、小説を書くことをぱたっとやめてしまっていた。それどころじゃなかったともいうし、もう必要なくなったということでもあった。

 今日は、から始まる日記、文章、文字。出だしだけ統一したのは、どこかで日記を書き始める直前に、伊勢物語をたまたま読んでいたからだ。あんまり古典文学は読まないのに、どうして伊勢物語を読んでいたんだろうと記憶を掘り返す。日記帳に書いていただろうか、と昔の日記を並べているスペースを漁る。

 最初は大学ノートを使って日記を書いていた。シャープペンシルで、ほとんど走り書きだ。


 三月二十九日。晴れ。気が狂いそうで仕方ない。文字しかない気がする。今日もじいちゃん家で一日過ごす。悪夢を見たという感覚だけが残っていて、吐き気がする。

 三月三十日。晴れ。毎日似たようなことをしている。

 三月三十一日。明日から四月。桜が咲いているらしい。一緒に見に行こうとおばあちゃんに言われたけど、外には出たくないので断る。

 四月一日。ぜんぶ嘘ならよかったのに、という自分の声で目覚めた。馬鹿じゃないんだろうか。


 今ならば、ばあちゃんと散歩くらい行けと怒鳴りつけたくなるような内容だ。お母さんが入院して、自分はとりあえず引っ越しをと言われて、芳乃や友人になにも説明できないままじいちゃんの家に引っ越した。そうこうしているあいだに、せっかく合格した大学の入学手続きをし損ねた。じいちゃんの家から通える大学にしてくれないか、と説得されて、そんなこともう必要ないと荒れたこともあった。あのころは、とにかく、なにもしなくなかった……。

 今なら、もう一度受験をと進めてくれた祖父母に感謝しかない。自分についた傷しか目に入らなくて、芳乃の連絡に返事もできなかったし、祖父母に何度もわがままを言った。日記に書かれている内容があまりに稚拙で恥ずかしくなってきた。

 半年も経ったら内容が少しは建設的なものになってきたので、胸をなでおろす。バイト代で予備校に通ったのが懐かしい。幸いなことにひとりで黙々と勉強するのは得意だったし、高校での成績も優秀な方だったので、気持ちさえなんとかなればなにも難しいことではなかった。譲ちゃんは頭がいいからねえとばあちゃんが涙声で言ったのを覚えている。


 十一月四日。伊勢物語が古本屋で百円で売っていたので、買った。カラを思い出した。


 長く書き始めることができなかったのだろう。カラ、の二文字の前に、大きなインク溜まりができていた。


 十一月五日。思い出したら、懐かしくなった。連絡はとれなかった。当然なのかもしれない。無視したのは僕だ。

 十一月六日。こんなにたくさん連絡をくれていたのは、カラだけだったのに。裏切ったのは僕。

 十一月七日。今日は、伊勢物語を読み終わる。

 十一月八日。今日は、バイトをしてから図書館に行った。


 ここからか、と息をつく。自分の行動だけが淡々と書かれていた。懐かしさはあっても、べつに面白いものではないので、ノートを閉じる。記憶には留めない程度の集中力でラジオを聞く。少し季節外れですけど、雪が降ったらクリスマスソングを聞きたくなりますね。では、次はこの曲。

 昨日途中まで読んだ小説を、日記を仕舞うついでに持ってくる。冷めてしまったココアを口に含む。今日の、僕のできる限りは、果たせただろうか。この夜はいつか、後悔にならないだろうか。もっとこうできたらよかったのにと、未来の自分が、今日の僕を詰ってしまわないだろうか。

 それなら今すぐ現れないのが悪いに決まっていた。後悔なんてしても無駄なのだ。謝ったって。してしまったことも、されたことも、もう間に合わない、遠くから悔いるしかない。だから、謝られることも、後悔も、ずっと嫌いだった。


          *


 雪は数日でやんで、交通機関はあっという間に復旧した。もう少し休みでよかったのにね、と愚痴る先輩に笑い声で返事をする。取引先からの帰り道だった。

 何日も休みになると、それはそれで困るのだけど。いまは繁忙期でもないので、あと一日二日休みでも構わなかった、という意見には賛成だった。溶けた雪がまた固まって、つるつるになった歩道を歩くのは、少し怖いし。赤いマフラーに顎をうずめる。冬もうほとんど日は落ちていた。


「志摩って、山形にいたんだっけ。じゃあこのくらいの雪はたいしたことないか」

「あー……まあ、そうですねえ」


 身長を超すくらいの積雪量はある街だった。冬になると毎日雪かきで忙しかった。べつに雪国育ちというわけでもないけど。


「このくらいだと雪下ろしもそんなにしなくていいから楽ですよね。凍結だけ怖いですけど」

「総務の前谷さん、出勤のときこけたって言ってたよ」

「うわー、怪我とかなかったんですか?」

「擦り傷はできてたかなぁ。あ、じゃあ俺は経理に寄ってから帰るから。お疲れ」

「お疲れ様でした」


 事務所に入って、戻りましたー、と声をかける。もう定時なので、帰り支度をしてしまおう。コートも脱がないまま自分のデスクの片づけを始める。パソコンのメールとチャットを確認して電源を落として、コップを給湯室で洗う。最後に明日の予定を確認して、カバンを持ってエントランスに戻る。

 十数分しか経っていないのに、外はすっかり真っ暗だった。マフラーを巻きなおして、ゆっくり歩き出す。曇りと雪をみぞれを繰り返しているので、地面はぬかるみと氷が入り混じっている。

 いつものバス停の前でスマートフォンをポケットから取り出す。特になにか通知が届いているわけではない。LINEを開く。


『なにか買うのある』

『ない』


 この時間帯だけ、芳乃の返信は早い。いつもはパソコンを触っているので、電話をかけない限り返信は遅いのだけど。僕の退社時間に合わせてスマートフォンを手元に置いているのだろう。

 いつものバス停に向かう。コンビニと、小さな個人店が並ぶ商店街だ。お弁当屋さん、八百屋、魚屋、肉屋、中学校の制服も扱っている服屋さん。端っこには、僕が帰るころには閉店している花屋がある。

 あれ、と目線を上げる。いつもは真っ暗な花屋に電気がついていた。OPENと書かれた看板も出してある。窓からそっと中をのぞき込む。カラフルな花がバケツに入って並べられていた。中にいる、エプロンを着た若い男の人と目が合う。入るつもりはなかったのだけど。笑顔を浮かべられてしまったので、ドアを開いて、植物の青いにおいがする店内に入る。


「いらっしゃいませ!」

「こんばんは……」


 芳乃のように花にくわしいわけではない。なにをどう選べばいいのかわからないので、愛想よく笑っている男に話しかける。


「なにかおすすめはありますか」

「今日いろいろ入ったところなので、状態はいいですよ。プレゼントですか?」

「そうですね」


 じゃあ花束にしましょうか、と言われたのでうなずく。芳乃は切り花を好きなように買って、家で組み合わせているけど、僕にそういうセンスはない。値段ごとに量が変わるらしいので、千円でお願いする。


「プレゼントする方の、好きな花とか、色とかご存知ですか?」

「花の名前はわからないんですが……ええと、白い花、が好きなような気がします。たぶん、どっちかっていうと、淡い色のものの方が」

「わかりました。少々お時間いただきますので、ごゆっくりされていてください」


 ただ座っているのも手持無沙汰なので、店内を見て回る。花屋に来るのは、芳乃について買い物にくるときくらいだ。案外、花以外の葉っぱや枝も売っている。ボトルに入った薬は見覚えがある。台所に置いてあった気がする。

 芳乃は家に引きこもっているらしい、というのは、家じゅうに飾られている花たちを見ればなんとなくわかる。三日に一度くらい、なにか新しいものが増えるものなのに、まったく変わっていない。新しい花で少しは気分転換になればいいけど。

 部屋から出てくるのも、本当は嫌なんじゃないかと思うときがある。ご飯を食べたらさっさと戻ってしまうので。表情も暗いし、なんとなく痩せてしまったような気もした。いっそ家から出た方が、気分転換になるんじゃないかとも思うので、明日どこかに行かないかと声をかけるつもりだった。

 店内は一通り見たので、花を切っている店員さんの手元を眺める。僕が言った通りに、白い花ばかりで作ってくれている。


「今日はこの時間までやっているんですね。いつも仕事帰りに通っているのに、今日初めて開店しているのを見ました」

「ああ、そうですねえ」


 ぱちん! ハサミの音が響く。


「そもそも僕の店じゃなくて、ばあちゃん……祖母の店なんです。この雪で祖母が転んで、入院してしまって。今日から代理で僕がやってるんですけど、祖母と違って僕は体力余ってるし、ちょっと遅くまで開いちゃおうと思って……あ、大丈夫ですよ、ふだんから僕も花屋で働いていますので」

「ああ、そうなんですね。お怪我されたなら、大変でしたね」

「こんなに足元悪いのに、鉢植を運んでたらしくて。力仕事は僕が手伝いに行くよっていつも言ってるんですけど、頑固なんですよ」


 年寄りってそんなものだよなあと思いながらうなずく。僕の祖父なんて、昔気質の頑固おやじだ。


「そういえば、店内で気になる花はありましたか? よろしければそれも入れますよ」

「あー……っと、よかったら、この、アネモネ? がきれいだなあと思ったんですが。紫の」

「いいですね。濃いのと薄いの、どちらがいいですか?」

「薄い方で」


 最後に薄い銀色の紙で包んでもらって、濃い紫のリボンを結ぶ。雪の日に似合いの、白い花束だ。自分の選んだアネモネしか名前はわからないけど。お金を払って、店から出る。いつも乗るバスはもう行ってしまった。バス停の前で、弓なりになった枝の先に一列に花が咲いている、名前の知らない花をつつく。甘いにおいがした。あちこちの角度から花束を眺めていたら、すぐにバスが来た。

 男が花を抱えて歩いていると、人目を引くものなのかもしれない、とバスの中で思う。母親らしき人に連れられた子供が、こっちをしきりに見ている。どうしたらいいのかわからなくて露骨に目をそらす。長くても10分くらいのことなので、べつに構いやしないのだが。

 今日の夕飯はなんだろう。芳乃はあれこれ作ってくれるので、有難かった。芳乃と暮らすまではコンビニで適当に買ってきたり、面倒になってなにも食べなかったりしていた。やたらと上司が食事に誘ってくれていたのは、心配をかけていたからだと、入社3年目で気付いた。こっちの事務所では、ほとんど毎日お弁当を持参しているので、そんな心配をかけることはなかった。今日はコンビニで買ったおむすびを持って行ったので、喧嘩でもしたかとからかわれてしまったが。

 最寄りのバス停に停まったので、バスからおりる。除雪車は走らないらしく、雪かきは手作業でされていた。家々の前に小さな雪の山ができている。二階建てのマンションの、自分の家に灯りがついているのが遠くに見えた。花束が崩れないようにそっと抱えて歩く。駅からは遠いという理由で、部屋の広さのわりには安い部屋だ。徒歩20分で駅から遠いのね、と芳乃がつぶやいていた理由は、去年の夏に芳乃の実家に行ったときにわかった。歩いて行けるだけマシということだろう。

 コンクリートの階段を慎重に上がって、玄関の鍵を開ける。玄関に置いた新聞紙を丸めて、履いていた革靴の中に詰める。中が濡れているわけではないけど、濡れた歩道を歩き回ったので、湿ってはいるだろう。リビングの扉が開く。なにかおいしそうなにおいがする。


「おかえり」

「ただいま」


 逆光で、芳乃の表情はよく見えない。首をちいさく傾げる仕草で、光を透かしても黒い髪が揺れた。


「どうしたの、その花」

「お土産」


 薄い肩を押して、あたたかいリビングに入る。芳乃の手に花束を渡して、スーツから部屋着に着替えるために自分の部屋に行く。いつも通り冷え切っている室温に顔をしかめて、電気カーペットだけ電源をつけておく。トレーナーを着て、スーツをハンガーにかけてからリビングに戻る。花束を両手で抱えた芳乃が笑いかける。


「綺麗な花だね」

「ん……」


 あまりにも嬉しそうに芳乃が笑うので、こちらが照れてしまった。花が好きだから喜ぶだろうとは思っていたけど、こんなに明るく笑うのを見るのは、少し久しぶりだった。


「ご飯ね、あと煮込んだら終わりだから、もう少し待ってね。この花束、飾ってもいい?」

「もちろん」


 ああでも、と芳乃が花束を赤子を抱き上げるように抱え上げる。かおりの強い花が混じっているらしく、甘いにおいがした。


「ラッピングもきれい。ほどくのもったいないなあ」

「べつにほどいたらいいよ。そんなに喜ぶとは思わなかった」

「喜ぶに決まっているでしょ。譲が買ってきてくれたんだから」


 そういうものか、とうなずく。


「まあ、僕、花の名前も知らないんだけど……芳乃はわかる?」

「このくらいなら。これはラナンキュラスでしょ、フリージア、小さいのはユキヤナギ。もうアネモネが出てるのね。あとはこっちはユーカリかな」

「なにか甘いにおいがすると思ったんだけど」

「フリージアだと思う。いいにおいがして、わたしは好き。花の付き方も独特で面白いでしょ。一輪挿しに差すだけで見栄えするしね、ひとつひとつ花が咲いていくから、毎日見ていたら面白いのよ」

「へえ……」

「本当にありがとう。少しだけ、このまま置いておくね。ご飯食べたら水に活けるから」

「芳乃の好きなようにしたらいいよ。僕は詳しくないし……芳乃が喜んでくれて、よかった」


 芳乃の笑顔がかすかに苦くなった。しまった、と臍を噛む。心配されるのを嫌うのは、芳乃もそうだった。


「ごめんね、心配かけて」

「心配する権利くらいくれよ」

「もちろん譲のものよ。当たり前でしょ」


 そっと食卓に花束を置いて、芳乃が台所の方に行く。手伝えることがあるかもしれないので、ついて行く。炊き立てのご飯をお茶碗に盛って、卵の汁ものと一緒に運ぶ。今日は肉じゃがだった。白菜の漬物もある。毎食よくこんなにこまごま作れるものだった。


「じゃあ、食べよう。いただきます」

「いただきます」


 じゃがもは箸でつついただけで崩れそうなほど柔らかく煮込んである。ニンジンと玉ねぎ、白滝、豚のブロック肉。寒い外にいたので、体に沁みる。卵と白菜の汁物も、なにかでとろみがついていて、体を温めてくれる。


「おいしい。このスープは、なにが入ってるの。とろとろしてる」

「よかった。今日は塩麹入れてみたんだけど、おいしいね。また作ろうかな」


 また作って、といつも通りの声色を装って返事する。次を示唆する言葉が芳乃から出るのは、本当に、たまらなく嬉しいことだった。

 芳乃がじっと花束を見つめている。どこか、意識が遠くに行っている。少し伏せたまつ毛が、時折ぱさりぱさりと瞬きをする以外はなにも動かない。なにか考え事をしているのだろう。彼女の考え事を邪魔するのは嫌なので、黙ってご飯を食べる。

 最後にスープを飲み干す。さすがに固まりすぎだろうと思って、そっと芳乃が見ている辺りに顔を出してみる。びくっと芳乃が肩をはね上げた。


「芳乃」

「うん」


 芳乃がゆっくり笑う。諦めが滲む、そんな顔するくらいなら泣いてくれたらいいのにと思うような笑顔だった。


「譲、わたしと、海に行こう」


 いいよ、と答える。僕だけは、絶対に断るわけなかった。

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