いのちのイノリ -1
朝起きたら、ベッドの中が真っ赤に染まっていた。
あまりの出来事に、毛布を持ち上げたところで動きが固まってしまった。ふと鉄臭さが鼻を突く。ズボンから下。赤黒い。……血だった。
「……ええと」
よりによって薄い色のズボンを履いていた。生理が来て、布団を汚すなんて何年ぶりだろう、の、前に、生理が来るのが何年ぶりだろうという話しだった。腹が膨らむその前から、生理はこなかった。
鈍く痛み出した下腹部を手でさすりながら立ち上がる。妊婦とは違って、張りのない感触だ。服とシーツを洗う。生理用品はあっただろうか。痛み止めは、常備しているから大丈夫だけど。病院に行くべきだろうか。まだ眠るつもりだったのに。行くなら、電話をして予約を取らないといけない。濡れているところが冷えてくしゃみが出た。寒い。とりあえず着替えるべきだろう。衛生用品を仕舞っている引き出しを開ける。ばんそうこう。消毒液。痛み止め。胃薬。湿布。手首用のサポーター。生理用品は見当たらなかった。引っ越しのときに捨ててしまったような気がする。使わないものなんて、そりゃあ捨ててしまうに決まっている。あるもので応急処置をして、コンビニで買うしかないだろう。ドラックストアはまだ空いている時間ではない。
汚したものをまとめて抱えて、部屋から出る。扉の向こうで、スーツを着た譲が歯磨きをしながらこちらを振り返った。
「おはよう。早いね……」
譲が大きく瞬きをして、すぐに目をそらした。ああやってしまった、と後悔しながらシーツをさらに小さく折りたたむ。顔が耳まで真っ赤になったのがわかった。もう出勤しているものだと思っていた。洗面所までまっすぐ行って、汚れものを風呂場の隅に置く。洗面器に水を張って、洗剤と一緒に服とシーツを浸ける。
芳乃、と廊下から譲の声がした。
「はあい」
「なんかほしいのある。そこのコンビニで買えるくらいのやつなら、いま買ってこれるけど」
適当に言葉にならない声をあげておく。それは、まあ、ほしいものはあるけど。男性に頼むのは酷だろう。
「ううん、大丈夫。ごめん、朝から嫌なの見せて」
「いや、なんにも思っていないけど。大丈夫そう」
「うん、まあ。あとで自分で買いに行くから平気」
「そう。今日は雪が降るみたいだから、気を付けて」
「それは、譲がだよ。気を付けてね、行ってらっしゃい」
行ってきます、と言って譲の足音が遠くに向かって行った。風呂場の床が冷たい。足の爪が真っ青になっているのをぼんやり眺める。雪が降るなら、寒いはずだった。膝のあいだに顔を埋める。吐きそうだった。そういえば、生理が来たら腹痛と吐き気に襲われていた。こんなにひどかったかは、覚えていないけど。
腹に爪を突き立てていた。産婦人科もだけど、行きつけのメンタルクリニックも、予約が取れそうなら取った方がいいかもしれない。予約が取れるかはわからないが。
なんでこんなちょっとしたことに大騒ぎしないといけないの、と思ったら、少し涙が浮かんだ。
*
病院のベッドに寝ころぶと、どうしても俎板の鯉という言葉を思い出す。産婦人科のクリニックで、尿検査と採血をして、最後にエコー検査をしてもらっていた。モノクロの画面を眺める。わたしが見てもなんにも理解できないけど。自分の腹の中がうごめくのを眺めるのは、面白いと気持ち悪いの合間にある気がした。
下腹部に塗りたくられた透明のジェルを、看護師が紙で拭う。衣服を整えて、医者の前の丸椅子に座る。薄い紙に検査結果と書いてあるものを渡される。
「いまのところ異常は見つかりませんでした。生理痛はひどいですか?」
「ええ、まあ、少し……」
「依然と比べてどうですか?」
メンタルクリニックの先生とは違う、早口な口調に少しおののきながら、記憶を手繰る。大学生のころなんて、そんなに記憶は鮮明じゃない。どのくらい辛かったかなんて、そんなの。
「ええと……、辛い、ような、気がします。寒いですし……」
「そうですか。じゃあ痛み止めは出しておきます。すごくたくさん血が出るとか、痛みがひどいようでしたら、また来てください」
お大事に、と会話が打ち切られた。会釈して診察室から出ていく。甘いピンク色に塗られた壁を眺める。ソファに座って、目を閉じる。柔らかすぎてひっくり返りそうだ。立ち上がるとめまいがするのは、仕方のないことだろう。分厚いタイツに包まれた膝を撫でる。手袋を忘れてしまった。
スマートフォンがポケットの中でぶるぶる震えた。待合室から出ながら、通話を開始する緑色のマークに触れる。行きつけのメンタルクリニックからだった。今日の診察は断られたはずなのに、どうしたんだろう。
「はい、もしもし……」
『おはようございます、梶原芳乃さんのお電話でよろしかったでしょうか』
はい、とうなずく。午後の予約がキャンセルになったのでもしお時間があれば、と言われたので予約を入れてもらっておく。付き合いが長いとこういう融通を効かせてもらえるので、有難かった。こんな長らく妄想妊娠を患っているわたしが特殊すぎるのかもしれないけど。
『それでは、午後2時から予約を入れておきます。ただ、今日は雪が降るそうなので無理はなさらないでくださいね。電車やバスが止まりそうなら、連絡していただければこちらは大丈夫なので』
「はい、ありがとうございます」
電話を切ったら、ちょうど名前が呼ばれたところだった。お金をはらって、白い薬袋を一袋もらう。かばんに仕舞って、病院から出る。赤ちゃんの泣き声が響いていた。
もうお昼ご飯の時間だった。適当にカフェに入って時間をつぶそうか、本屋にでも行こうか迷いながら歩き出す。どんより空は曇っている。ぱらぱら白いものが降っていた。みぞれだった。病院は徒歩圏内なので大丈夫だろう。傘を差して薄暗い町中を歩く。はやいところお店に入って、ご飯を食べよう。寒さが身に沁みると、泣きたくなるくらいお腹が痛んだ。
チェーン店のカフェに入ってメニュー表を開く。いつもの癖でホットコーヒーを頼もうとしてやめる。ほうじ茶はカフェインが少なかったはずなので、温かいものを頼む。ほうれん草と鮭のクリームパスタをセットを選んだ。
かじかんだ手をこすり合わせる。せめて使い捨てのカイロでも持っていたらよかっただろうに。頬杖をついて息を吐く。タブレットをカバンから出して、メールアプリを開く。新しいメールはない。お正月はあちこちに花を挿しに出かけたので忙しかった。もう波は過ぎたので、次は卒業式と入学式の季節まではゆっくりできる。
お正月は帰省しないで、譲とふたりで過ごした。大晦日まで粟谷さんのお手伝いで旅館に行ったり、お正月のお祝いの花束を作ったりして忙しかった。さすがに1月が始まってからは、1週間くらいは家で譲と過ごしたけど。
ほとんどどこにも行かないで、映画を見たり、本を読んだりしてすごした。譲のお母さんが来たときの傷が癒えてない、のもあったと思う。ここは安全な場所だ、と二人で再認識したかった。お互いに人と過ごすのは苦手なくせに、リビングのソファで並んで座って時間と過ごした。温かい食事と、譲が適当に選ぶ映画とドラマ、新しく買った毛布とクッションに埋もれて過ごすのは、悪い時間ではなかった。
正月休みの前の、仕事がある間の譲は、むやみに元気そうに振る舞ったり、とんと黙って過ごしたりして、体力の消耗が激しそうだった。感情の起伏が激しいとやたらと体力を使う。四時間も寝れば平気なはずの譲がたくさん寝ていた。
きっとわたしには見せなかった苦しみがあっただろう。時折頼まれて、わたしのベッドを貸した。できたら小説を書いていてほしい、とも言われた。人の気配がしている方が休めるような気がするから。人がいたら集中できないというわけでもないので、好きなだけいればいいよと答えた。朝方にお弁当を作ってから布団に入ったら、譲が薄く目を覚ましてそっと毛布を掛けてくれるのが好きだった。
ぼんやり年末年始の日々を思い出していたら料理が運ばれてきた。鮭の切り身をフォークで刺して口に運ぶ。明日のお昼ご飯は、うどんかなにか食べようか、頭の中で冷蔵庫を開く。白菜は常備している。薄切りの豚肉と、玉ねぎと長ネギと……、なんとでもなるだろう。小説を書くこと以外だったら、食事のメニューを考えているのが一番好きかもしれなかった。譲がやたらと食事を褒めるのが上手なのもあるからかもしれない。
パスタを食べ終わって、熱いほうじ茶をすする。痛み止めを2錠、手のひらに出して口に放り込む。30分くらいゆっくりしたら薬も効いてくるだろうし、メンタルクリニックへ出発するのもちょうどいいはず。
パスタの皿だけ片付けてもらって、タブレット端末とキーボードを机に広げる。そろそろ新刊が出るので、宣伝用のブログの内容を簡単に叩き出したテキストファイルを開く。この、本が出る前の時期はどういう気持ちで過ごしたらいいのかわからなくて苦手だ。間違いなく面白いものを書いている、と断言するけど。不安に思ってしまうのは仕方ないことだろう。それはそれとして、自分の作品が世の中に出ていくのは楽しみで、なにより心が躍ることではある。
シリーズの5巻目は、折りしも冬の話しになった。心寒い物語かもしれません、となんとなく出てきたフレーズで手を止める。決別を決める話だったから。雪山を歩き続けながら、別れを決める話だったから。自分で書きながら、春が来るのを祈り続けるような話だった。
予定通りにすすめば、次の巻でいったん完結する。わたしが出している本の中では、最長のシリーズだ。コミカライズするとかなんとか話は出ているので、もう少し続けるかもしれないけど。どうなるだろう、とため息をつく。続くなら続くで、大丈夫だけど。この巻が出たら計画をきちんと詰めたいところではあった。
譲に、ブログっていうんならなにか写真も載せたほうがいいんじゃない、と言われたので、部屋に飾っている花や、葉が落ちた街路樹、料理の写真を撮るようにしている。今夜雪が積もったら、散歩がてら撮りに行くだろう。
心寒い以上のキーワードは出てきそうにないので、手を止めて窓の外を見る。みぞれがすっかり雪に変わっていた。はやめにクリニックに移動して、診察がはやく済ませられそうなら、そうしてもらった方がいい。机の上を片付ける。分厚いコートを羽織って、店を出る。イヤホンをつけて歩き出す。白い息が風の中に消えていく。歩いて15分くらいなら、いつもは何とも思わないけど、今日は骨が折れそうだ。
透明の青い傘の向こうに、白い雪がぱさぱさあたる。鼻の奥が寒さでつんとした。はやくも雪が積もってきている。バスがふだんよりゆっくり走っていた。帰りまで運行していたらいいのだけど。
病院の中は暖房が強くかかっていた。ブーツが濡れそぼって重たい。顔見知りの受付の女性が、寒かったでしょうと言って、紙コップに緑茶をいれて渡してくれた。勝手知ったる院内なので、エアコンが一番強くあたる場所を選んで座る。両手で紙コップを包んで暖を取る。いつもは何人か待合室にいるものなのに、誰もいなかった。すぐに名前が呼ばれた。
白い扉を開いたら、いつもの先生がいた。そういえば、この先生は、ほとんど机の上になにも置いていない、と気付く。メモ用紙とペン、パソコンが置いてあるだけだ。
「こんにちは。寒くて大変だったでしょう」
「はい。雪、もう積もってきてましたよ」
いつもの丸椅子に座る。カーテンの向こうに薄く人影が見える。看護師たちだろう。さっきの病院と比べて人々の動きが静かで、大きく息がつける気がした。
「すみません、急に」
「いえ、大丈夫ですよ。この雪で診察の予定がキャンセルになって、時間が空いたのでよかったです。産婦人科には行かれたんですよね?」
「はい……」
突然生理が来たことは電話で伝えていた。無月経が想像妊娠の症状であるということは、ずっと昔に説明を受けていた。わたしの体はずっとそういうものだったのだ。
「体には、異常はありませんでしたか?」
「はい。普通の生理だって」
「それならよかったです。体、しんどいんじゃないんですか?」
「少しだけ……」
顔の下半分をを手で覆う。先生がわたしの言葉の先を促すために、小さくうなずいた。
「……わたしは、これで、普通になれますか?」
普通の女性のように、月の物が来るのなら。先生が曖昧に笑った。
「それは、もう少し考えないと、わかりませんが。……腹囲を図ってみましょうか」
「はい」
するりとカーテンの隙間から看護師が出てくる。布のメジャーで、お腹の周りを図る。
今になって、不安がこみあげてきた。産婦人科ではたいしてなにも感じなかったのは、ふだん会わない人としゃべって緊張していたからだろう。看護師が読み上げた数字は、わたしの記憶していたよりずっと少なかった。
丸椅子に戻る。先生が、机に向かいながら話し出す。
「腹囲がだいぶ減りましたね。もしかして、なにか気持ちの変化がありましたか?」
「……わかりません」
「そうなんですね。生活に変化があったのかなと思ったんですが」
紙コップを握りしめる。先生を、信頼していないわけではない。円滑な治療のためには、正直に答えないといけないことはわかっている。
「……同居人と、その」
「はい」
「ゆっくり話す時間が取れるように、なったのが、だいぶいいのかもしれません」
「同居されている方を信頼されているんですね」
「ええ、はい」
お茶を飲んでくださいね、と促される。黙ってお茶で唇を湿らせる。香ばしい香りがした。
「たぶん、とても支えになっていると、思います。今になって、一人暮らしが、案外わたしにとって寂しいものだったんじゃないかと思いました。平気だとずっと思っていたんですが」
遠くの方で、絞った声で看護師たちが話している。なにを話しているかまではわからない。
「昔からの知り合いなので、お互いにいろんなことを話すのが楽で、いい相手だと思います。わたしのことも、よく理解してもらっています」
「よかったですねえ」
「はい。本当に、わたしにはもったいない……」
お茶の、濁った水面に自分の顔の輪郭が映りこんでいる。ゆらゆら揺れているのと同じように、わたしの声も頼りなく揺れていた。
「いえ、彼の意思で、わたしと一緒にいるんですから、わたしがこんな卑屈になるのが失礼になるのはわかっているつもりなんですが。でも。なんというか、わたし……わたしは……その……」
「ゆっくりでいいですよ」
「はい……」
黙って目をつむる。義姉さんにも言ったことだった。譲にも、言って、怒らせてしまうことだった。答えはわかりきっているのに、ずっと逃げ出せない、そちらに思考が転がり落ちていくのをやめられない、わたしのだめなところだった。体を丸め込んでいることに気付く。吐きそうだ。
「わたしは、ずっと、この腹に子どもがいると、勘違いをし続けていて、いないって、わかってはいるんですけど、ちゃんと納得できていなくて」
いる。うごめく命が。
いたのだ。
「こう、腹を抱えるのが、癖でした。毎晩泣きながら、この中にだれかいたら、命があれば、ひとりじゃないのに、ずっと大切にできるのにって、思っていました」
わたしには、この腹で苦しむような資格はなかった。
「わたしの体は、頭は、納得してしまったんですね。もうひとりじゃないって、この子のことを、なかば忘れて生活しているって。ああ、思えばそうだ。わたしはこの子を忘れて、毎日過ごしていた。嫌だ、納得してしまった。わたしは、この子と心中してしまってもいいと思っていたのに」
この身一つあれば、よかった。構わなかった。生きていくのに十分だった。
「……この子を殺してしまったんだ」
「梶原さん」
顔をあげる。手があんまり震えて怖かったので、先生の机を勝手に借りて紙コップを置く。
「ここに来るまで、怖かったですね」
「……はい」
「今日お話しできてよかったです。梶原さんは、ご自分でたくさん考えられる方なので、ここに来られるまでも、いろんなことをお考えになったでしょう」
そうだろうか。そうなのかもしれない。そんなことまで想像しているのとあきれられたことは、何度かある。
「医者として、良好な方に進んでいますと、私は言わせていただきます。ずっと梶原さんには変化がなかったので、不安な思いをさせていたことかと思います。いきなり体調に変化があったので、気持ちも不安定になられるでしょう」
「……」
「できる限り毎日ちゃんと寝てください。普段通りのお薬は出しておきます。いつも通り飲んでくださいね。いきなり薬をやめることだけは絶対にやめてください」
「はい」
「今回の診察だけで減薬はしません。……きっと、私には言えないこともあるかと思います。同居されている方に話すのもいいと思いますし、ご友人に言うのも、もちろん、次の診察で私にお話ししてくださっても構いません」
「はい」
「私は、良いことだと、言います。梶原さんがひとりではなくて、頼れる人がいるのは大変歓迎できることです。梶原さんご自身は、少し後悔のような、哀しいというお気持ちがあるかもしれませんが」
後悔? そう言われたら、違う、と言いたかった。悔やんではいない。悔やむようなことではない。わたしが自分勝手に生み出した命を、わたしが自分勝手に殺したのだ。悔やむような、そんな簡単な言葉では、埋め合わせができない。
先生は曖昧に笑った。
「あまり、落ち込まないでください。梶原さんが殺したわけではありません。ええ、今は、いっぱいいっぱいだと思います。気持ちの変化についていけないこともあると思いますので、ゆっくり過ごしてください。お仕事は忙しいですか?」
「少し」
「睡眠時間はしっかりとってください。休める時間をちゃんと」
「はい」
「寒いですから、温かく過ごしてください」
「はい……」
なにか、気になることはありますか、と問われて、いいえ、と答える。最後のこの質問に、はいと答えたことはなかった。立ち上がって診察室から出ていく。真っ白の壁の廊下を歩く。分厚い窓ガラスの向こうは、しんしんと雪が降っている。
待合室の薄いクッションのソファに座る。いつもは明るい日光が注いでくる天窓は、室内の暖房のせいで真っ白に曇っていた。紙コップを忘れてきてしまった、と思い出す。まだ半分も飲んでいなかったのに。
目元をハンカチでそっと押さえる。化粧はたいしてしていないので平気だ。帰るころまでには、普通の顔をしないといけない。
わたしが殺した、と、脳内でずっとわたしの声が渦巻いていても。平気な顔をしなければならなかった。わたしが殺したのだから。
*
玄関の鍵が開く音で目が覚めた。部屋の中は真っ暗だ。
「芳乃ー?」
「ん、」
ソファから身を起こす。譲がつけたあかりで目の前がちかちかした。めまいと吐き気がする。革の鞄とビニール袋を提げた譲が、顔をしかめた。
「なんでエアコンもつけてないの。寒いだろ」
「ごめん……」
譲の髪が濡れていて、ぴかぴか光った。マフラーから出ている鼻が真っ赤だ。エアコンのリモコンを取るために立ち上がったら、足が痺れてよろめいてしまった。なにしてんの、と譲が言いながら横を通り抜けた。ごうとエアコンがうなり出す。
口を開く元気が出なくて、ソファに座る。薬が切れてきて、体すべてが重たい。譲がこちらを見下ろして、顔をしかめた。
「謝る必要はないけど。なんでそんなに顔色も悪いの」
「うん……」
「ご飯どうする? 食欲はあるの」
「うん、まあ……なに作ろうかな……」
「こんな顔色悪い人にご飯作らせるほど厳しい人間になったつもりはないんだけど。座っとけよ。簡単なものでいい?」
口を開いたら、なにか攻撃的な言葉ばかり出てきそうで、怖かった。ご飯くらい作れるし、顔色が悪いわけないし、なんにも家事をしていない自分にイライラしているし、体が重くて仕方ないし。
譲が冷たい手でわたしの頬に触った。
「気分悪いの」
「……うん」
「寝ててもいいよ。今夜大雪になるって。明日は仕事休みになったからさ」
「眠くはないんだけど」
うん、と譲が優しい声で返事をする。こんなに優しくしてもらったのは初めてで、困惑が強くなる。あまりにも情緒が不安定すぎる。今度は泣きそうになってきた。譲がそっと撫でてくれる手に頬を預ける。譲がひざ掛けを手繰り寄せて、体にかけてくれた。
「体が、ちょっと、つらいかもしれない」
「こんな寒い部屋にいたら当然だろう。なにか飲む?」
「いまはいい。大丈夫」
「なんか作ってくるよ。最悪カップラーメンでもいい」
「ん……」
ありがとうと小さくつぶやく。大人しく体を倒して、毛布にくるまる。どうしてこんなに寒い部屋にいれたのだろうと思うくらい、暖房の効いてきた部屋は居心地がよかった。そういえば暖房をつけないと部屋は寒くて、毛布をかけるか服を重ねないと体は温まらないのだった。
わたしが唯一兄と似ていると自覚している、悪癖だった。居心地の悪さに気付かない、体調不良を言い出さない、暑くても寒くても黙ってじっとして、体調を崩してしまう。熱を出すか倒れるか、周りの大人が気付かない限り、不調をずっとほったらかしにしてしまう癖があった。
気付いてしまえばちゃんと自分の世話くらいはできるけど、気付かない、ということはスタート地点にも立てないのだった。その点、義姉さんも譲も、すぐに顔をのぞき込んで、少し休んだ方がいいと柔らかい言い方を選んで言ってくれるから、本当に素晴らしい人たちなのだった。自分の未熟さが辛くて目の奥がぎゅうと熱くなってしまう。
あんなに寒い外にいた人を台所に立たせてしまった、と今更ながらかなしくなってくる。ソファから上半身を起こして、体をひねる。対面キッチンなので、譲の顔が見えると思ったのに、冷蔵庫がばたばた開いたり閉じたりする音だけが聞こえる。しゃがみこんで作業しているんだろうか。しばらく見ていたら、ぱっと譲が立ち上がった。目が合う。
「お、わ、なに、どうしたの」
「寒くない?」
「外に比べたらあったかいよ。蕎麦でいい? 蕎麦ならなんとか作れそう。茹でて、出汁作ればいいんだろ」
「うん。ええとねえ、ワカメと長ネギと天かすはあるはずだから、ワカメは水で戻せばいいでしょ。ネギは小口切りにして、出汁に入れてあっためてもらったら嬉しいなあ」
「おっけー。小口切りってなに」
「薄切り。べつに切り方なんて、なんでもいいよ」
大きな鍋に水を入れている。お湯を沸かしたらイマイチ暖房が届かないキッチンも暖かくなる。コンロの火をつけてから、スーツを脱いで、彼の自室に入る。スーツを着たまま料理をするのは不便だろうし、部屋着にでも着替えるのだろう。
ぼさぼさになっている髪の毛を手櫛で整える。グレーのスウェットに着替えて譲が戻ってくる。キッチンの中が湯気で曇っている気がする。少し元気になって気がしたので、ブランケットを肩にかけて立ち上がる。キッチンはカウンターになっていて、その壁に添って食卓があるので、そっちに座る。ネギの青いにおいがした。
「休んでてもいいよって言ってるだろ」
「だって譲がキッチンに立ってるなんて珍しいでしょ。座ってるから大丈夫。あったかくしたら元気になってきた気がする」
「体調がいいならべつにいいけど。ワカメってどのくらい戻せばいい?」
「ちょっとでいいよ。案外たくさんになるから……二つまみかな」
「二つまみ……」
ふだん料理をしない人なので、まごまごしているのが面白い。土日の夕飯を手伝ってくれるようになったから、包丁の使い方はだいぶマシになったけど。
「味付けはどうすればいい」
「味を見ながら白出汁と昆布の出汁の素かな。そこだけわたしが作ってもいいよ」
「んー、とりあえずやってみる」
まさか今から出汁を取り始めるわけにはいかない。義姉さんは、定期的に出汁を作って、冷蔵庫にペットボトルで仕舞っている。それは朝ごはんを味噌汁やお茶漬けだけで済ませる兄がいるからだろう。朝はパンを適当に焼くくらいの譲のために、義姉を真似してもいいかもしれないと夏に思ったのを思い出した。別に大した手間ではないし。
譲がしきりに味見をしているので、少し笑ってしまった。ご飯になる前になくなってしまいそうだ。味付けはいつもわたしがしているので、一番慣れていない作業だろう。
「代わりましょうかー?」
「うーん……うん、お願い」
たいしたことじゃないのに、と笑う。水を吸ったワカメが大きいままだったので、包丁で切るようにお願いする。ザルの中にみっちりとワカメが入っている。絶対少ないと言いながら譲が足していたので、さもありなんだった。
塩っけが足りないので、白出汁を足す。塩を入れてもいいだろうけど。立ち上がったついでに冷蔵庫をのぞく。夕飯にしては、物足りないかもしれない。厚揚げがあったので、耐熱皿に乗せてオーブンに入れる。元気だったらひき肉とネギの青いところで味噌だれを作るけど、時間がないので鰹節と醤油でいい。
野菜が足りないや、と気付いたけど、たまにはいいだろう。水で洗った蕎麦を出汁入れて少し温めて、皿に入れる。食卓に二人で並べて、いただきますと言って食べる。胃に温かいものが入るだけで、体が軽くなるような気がした。おいしいねえと呟く。
「芳乃はいつもこんな、こまごまご飯を作って、大変な仕事をしててえらいよなあ」
「そう?」
「僕にとってはね。料理するのって楽しい?」
厚揚げを飲みこんで、うーんとうなる。料理は、趣味のひとつかもしれないけど。義姉や、粟谷さんの奥さんに比べたら、そんなにちゃんとしているわけじゃない。自分の味付けで食べるのが一番落ち着くので、毎日毎日作っているだけだ。
「楽しくないわけじゃないよ。出来合いの料理の味付けが苦手だから、ほとんど毎日作っているけど。でも、そうだな、料理は結果が出るから好きだよ」
「結果……」
「おいしいかおいしくないか、作れたか作れなかったか、の話しでしょう。おいしいものは好きだしね」
「なるほどね。うん、まあ、すごくおいしいよ。芳乃の料理は。いつも有難いです」
「どういたしまして。誰かに食べてもらうのはモチベーションになるから、わたしも譲に食べてもらうと嬉しいよ。あなた、褒めるのが上手だから」
興が乗ってパウンドケーキを焼いたときなんて、ずっとお店で売ってるものみたいと騒いでいた。生クリームを泡立てて、果物を少し乗せただけの飾りに感動して、生地に入っているナッツとドライフルーツにおいしいと何度も言っていた。
あなたのお母さんこそ、料理が得意だったんじゃないの、と口からこぼれそうになった。あなたのお弁当は毎日カラフルで、たくさんの料理が詰め込まれていて、冷凍食品のひとつも見たことがなかった。バレンタインには、手作りのブラウニーがかわいいラッピングに包まれて、お弁当についていた。わたしが忘れていないってことは、譲だって覚えているだろう。毎日食べていた本人なんだから。話題に出すには少し怖いので、黙る。
さすがにお風呂は先を譲って、ご飯を食べ終わった食器と、使った調理器具を洗う。麺類にしたら食器洗いが楽だ。さっさと洗って、ソファにもたれる。温かいものをたくさん食べたので、眠たくなってきた。あんなに寝たのに。痛み止めを飲んだからかもしれない。
見るともなしにテレビを眺める。恋愛ドラマが流れている。あまりテレビは見ないので、Twitterやネット記事で見る程度のざっくりとした知識しかない。この回を見て面白そうだったら、なにか配信アプリで見てもいいかもしれない。顔の美しい人達が泣いたり笑ったりするのを眺める。遠くで、水の音が響いていた。雪は音を吸い込むから、静かな夜になるだろう。
――ああ、こうやって少しずつ忘れてしまうんだと、無意識に腹を撫でていた手で、顔をおおった。
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