午前に鋏を突き立てろ -02

 ドアノブを回して、リビングに入る。背を向けている譲のお母さんの表情はわからない。深くうつむいたせいで見える首筋と細さと、厚手のカーディガンを羽織っていても見えてしまったかすかな震えが、やけに目についた。譲の手を引いて、テレビの真向いに置いているソファの方に座らせる。譲が振り返らない限り、目と目は合わないはずだ。

 膝をついて、譲を見上げる。


「譲のおばあさまには、連絡してあげた?」

「うん……」

「じゃあ、こっちに来てるんだよね」

「タクシーで来るって。もう少しで着くと思う……」

「それまで待てばいいのね。じっと座っててよ。飲み物持ってくるから」

「いらない」


 そう、とうなずく。薄氷にトンカチを振り下ろしているような気持ちだ。ただ普通に話しているだけなのに。

 譲はうんと無表情だった。傷付くと、辛いことがあると、感情を削ぎ落とすのは、彼にとって、いつものこと。

 今回に限っては、我慢しろとわたしが強要したのだから、憐れむことさえ傲慢で、誤りなのであった。どこに座るべきか迷って、譲のお母さんの前の椅子を選ぶ。もしもの時、譲のことは力ずくでは止められないけど、無理やり譲のお母さんを引っ張ることはできるだろうから。小さくため息をつく。

 譲のお母さん、という認識が思考に浮くのを改める。志摩さん。大人同士なら、苗字で呼び合うのが相応だろう。志摩さん、と声に出さないで発音を口の中で転がす。他人からどう呼ばれるかで自分の立場は明確になる、ということは身に染みて知っているわたしなので、明確に思考し、なんと呼ぶか、決定しなくてはならない。実家で親と暮らしているなら、ふだん呼ばれているのは下の名前だろうか。娘として庇護され続けているのだろうか。本当は、それは、不必要なのではないだろうか。

 腹の膨れたわたしを見て、さっと顔が青ざめた、彼女のことを、信じたかった。

 許す、と、信頼する、は、別の場所に置きたかった。

 秒針の音が気に触る質なので、部屋にアナログ時計は置いていない。視線だけで壁にかかっているデジタル時計を見上げる。もう22時になろうとしている。いつになったら、譲のおばあちゃんは来るだろう。沈黙のせいで時間の進みが遅い。黙っていろと命令したわたしがそんなこと思うなんておかしいのだけど。

 ふと志摩さんの方を見たら、深く深く俯いていた。ぼたぼた雫が落ちている。泣いている? 泣いていた。当然なのかもしれない、とわたしもうつむく。ずっと大切に育ててきて、彼女なりに愛情を注いできた相手に、冷たくされるのは、つらいことだ。当たり前のこと。

 こんな人が、譲に包丁を向けたなんて、なにかの冗談のようだ。ゆっくり動いて、ティッシュの箱を取る。そっと差し出したら、小さく目礼が返ってくる。なんにも解決につながらない、泥水の中をはい回るような時間。対症療法でいい、というわたしの怠惰をそっくりそのままにしているみたいで、居心地が悪いことこの上ない。

 すすり泣く声が響いている。譲の背中が強張ったのが視界に入った。なにもするな、というのが、彼の願いで、わたしはすでに裏切っているのだけど。でも、と思ってしまうものだった。立ち上がる。リビングには、いつもはがきサイズのメモ帳と、何本かのペンが置いている。紙を2枚切り取って、まずは志摩さんの目の前に置く。濃い茶色のペン。


「わたしは」


 声の震えをなだめる。


「わたしは、あなたたちの関係を、修復できるとは、思っていませんが」


 それを、祈ることも、しないけど。


「わたしは、あなたたちになにかを渡すとするなら、紙とペンだと、思っています。それしか思いつかないとも言いますが」


 どこまでも、文字で生きているわたしだった。対話は顔を見てできないし、いくら花を持っても才能はなかった、ほかに胸を張れるものなんてないわたしに、差し出せるものは少ない。こんなとき、他の人だったら、譲だったら、どうするだろう。対話を促すのだろうか。譲は、さっと助けてくれたのに、わたしは不格好なことしかできない。

 できないことは、できない。譲の方にも歩いて行って、紙とペンを置く。譲の顔は見なかった。


「書くのも、書かないのも、読むのも、読まないのも、あなたたちが選べばいいと、思います。……わたしが、ここまで干渉していいのかも、正直わからないんですが。わたしはいつも、どうしたらいいのかわからなくなったとき、文字を書いて、生きてきたので、これしかわからないので」


 志摩さんがぱっとペンを取った。譲がこちらを見上げた。噛み締められた唇が真っ赤だ。頬は真っ青なので、いやに目立つ。

 ペンを取るのも取らないのも、譲の自由だった。それだけは、こんな状況を招いたわたしが、尊重しなくてはいけないものだった。


「たぶん、今すぐじゃなくても、いいです。わたしを通じてでも、譲のおじいさまおばあさまを通じてでも、手紙を渡してと言われれば、断りはしないでしょう。……あまり、あなたたちが苦しむのを見たくないっていう、わたしの我がままと言われれば、それでおしまいですが」


 どうしてわたしが泣いているのか、わからないけど。


「いつまでもおんなじ場所に、あなたたちがいなければならない理由も、ない、と、思います。……すみません、話しすぎましたね。書きたいことがあれば、書いてください。書きたくなければ、それでもいいです。わたしは、なにを書いているかは、見ないので」


 自分が座っていた椅子を引っ張って、志摩さんの手元が見えないくらい離れる。譲はこちらに背中を向けているので、絶対に見えはしない。椅子を引っ張るついでに手元に持ってきたタブレット端末の画面を起動する。編集者さんからチャットの通知が届いていた。一時間も放置してしまっていたので、最後のメッセージは、なにかありましたか? という心配のものだった。Bluetoothで接続しているキーボードは机の上なので、付属のタッチペンで文字を打ち込む。少し立て込んでいるので、続きはまた明日お願いします。

 昼間からなんとなく打ち合わせをしていたら、こんな時間まで付き合わせてしまった。あげく突然返信を絶ったので、うんと失礼なことをしてしまった。本当にすみませんと付け加えておく。大丈夫ですよ、とすぐさま返事が来たので、土下座の絵文字を送る。張り付いていたのかもしれない。今の状況を伝えることはできないので、これ以上なにも言えない。

 手持ち無沙汰なので、適当にニュースサイトを眺めたり、明日の天気を確認したりする。明日は晴れ。冬用の布団を干してしまおう。それで一通り冬の準備は終わる。

 ちらっと志摩さんの方を見る。ペンは一切動いていない。きっとたくさん書き綴るんだろう、と思っていたので、少し意外だった。書き終わったのかもしれないけど、ペンを持ったまま、石膏像のように固っている。

 きっと、なにを書きたかったかわからなくなったんだろう。気持ちはわかる。なにを書きたかったのか、伝えたかったのか、なにもかもを、すべてを伝えたかったのに、わからなくなってしまった、ということなら、経験はある。そんな夜なら、何度も過ごしてきた。

 そんな夜をどうしたらいいのか問われると、困ってしまうのだけど。きっと、書くしかない、と答えるだろう。書き続ける。キーボードを叩き続ける。考え続けることが。それがわたしの生き方だった。手に負えないくらいに肥大したWordのファイルと、書き散らした紙が。

 ぴんぽん、と間の抜けたチャイムの音が雷のように響いた。すぐに立ち上がって、モニターを起動する。ちいちゃなおばあちゃんがひとり。譲、と呼ぶ。黙ったまま譲が玄関の方に向かう。さて、と心の中で区切って、志摩さんに近づく。机の上の紙からは目をそらす。


「譲に渡しますか?」

「……あなたが」


 半分に折られた薄い紙を差し出す手が、震えている。声も。


「あなたが、読んで、あの子の傷つく内容じゃないと思ったら、渡してください」

「わたしが読んでもいいんですか?」

「ええ。たいした内容では、ないし……」


 憑き物が落ちたような口調だった。目を伏せて自嘲気味に笑う表情は、年相応の疲れが滲んでいた。


「私は、あの子を傷付けすぎて、もう謝る権利もないことを、ついさっき、気付かせてもらったんです」

「……」

「謝らないで、ってよく言う子だったわ。それは、優しいんじゃなくて、わたしを許したいんじゃなくて、もっと切実な……悲鳴をあげていたのに、気付かなかった、わたしが悪い」


 黙って紙を受け取る。


「もう二度と来ません。夜分にご迷惑をおかけしました。失礼します」


 ぱっとわたしに背中を向けて、部屋から出ていくのについて行く。玄関には土下座をせんばかりに頭を下げているおばあちゃんと、譲が立っている。譲には目もくれずに、志摩さんがおばあちゃんに駆け寄る。ごめんなさい、お母さん。心配かけてしまって。ごめんなさい。寒かったでしょう。大変だったでしょう。ごめんなさい。

 譲の袖を引いて、わたしの後ろに回す。疲れてしまった。わたしがなにを求めているかって、もうひとりになりたい、ということだ。


「もうお帰りください。明日、お家の方まで戻られてから連絡をしてくだされば、わたしは充分ですので……」

「本当にご迷惑をおかけしました」


 おばあちゃんが志摩さんの頭を無理矢理押さえて頭を下げさせる。膝を床について、精いっぱい朗らかに笑う。


「顔をあげてください。迷惑だなんて思っていません。むしろわたしが頭を突っ込みすぎて、余計なことをしてしまったかと思っていたところです」

「でも」

「わたしは平気ですから。あの、ご家族で、たくさんお話しくださいね。きっと志摩さんも、たくさん言いたいことがおありでしょうから。寒いですし、夜も遅いですし、明日は早いでしょうし、帰ってください。みなさんで帰って、それで、なにか伝えたいことがあれば、電話で伺います」


 ね、と譲を見上げる。かすかにうなずいたのが見えた。こんなちいちゃなおばあちゃんを、こんな冷え込む玄関で泣かせているのは本当に憂鬱なことだから。


「タクシーが外で待っているんじゃないんですか? 行きましょう」


 サンダルをつっかけて、外に出る。外までこんな大騒ぎしているのが聞こえていやしないだろうか。すぐそこにタクシーが停まっていた。志摩さんがおばあちゃんが乗り込むのを手伝う。息が白い。早く部屋の中に戻りたかった。

 譲が財布から紙幣を取り出して、おばあちゃんに渡している。大丈夫だと固辞しているしわくちゃの手にどうにかお金を握らせてから、わたしの方を見た。もうわたしから用事はないけど。手を取られて、握りしめられてしわのついた紙切れを渡される。


「これ、」

「うん」

「渡してもいいか、芳乃が見て。決めて」


 黙って待ってくれるタクシーの運転手さんはずいぶん良い人だ、と内心で拝みながら急いで紙を広げる。ブレーキランプの真っ赤な灯りだけが頼りだ。完全に開き切って、は、と息を吐く。

 わたしが、決めていいことなのか、わからないけど。ずっとわたしは間違っていることをしているのかもしれないけど。紙を何度も見つめ直して、急いで二つに畳む。車窓から紙を志摩さんに渡す。


「志摩さん、これを」

「はい……」

「これは、志摩さん宛てのものですから、志摩さんが最初に見てくださいね。引き留めてごめんなさい。それじゃあ、さようなら」


 タクシーから一歩離れる。すぐそこの交差点を右折するのを見送って、自分たちの部屋に戻る。外に比べたらうんと温かい。譲が床に崩れ落ちるようにしゃがみこむ。譲、と声が出そうになるのも、手を伸ばしてしまいそうになるのも止める。

 処刑を待つ罪人の気持ちなら、今いくらでも書けそうだ。後ろ手でリビングの扉を閉める。謝る? 慰める? わたしにそれが許されるとは思えなかった。灰色のトレーナーを着た、丸い背中を見下ろす。

 わたしは、譲が傷つくとわかって、行動した。

 ならば、許しを乞うことは、侮辱ともとれることだ。


「芳乃」


 しわがれた声だ。なあに、とわたしも小さな声で答える。


「僕は、本当は、あの人を許さないといけなかったのかもしれない」

「うん」

「でも、できなかったんだ」


 うなずく。ブレーキランプの中で開いた紙は、真っ白だった。なにかを書きたかったのかもわからない、しわくちゃに握りつぶされた、もうゴミにするしかないような紙切れが、わたしが渡した譲の手紙だった。


「なにか、言いたいことが、あったはずなのに。許さないって、言いたかったはずなのに」

「うん」

「あの人を傷付ける言葉なら、いつでも準備していたはずなのに」


 さすがにしゃがみこんで、譲の背中に手を伸ばす。


「できるわけない。あんな弱った様子で現れて、何様のつもりだ。僕はもう大丈夫になったはずなのに、なんにもできなかった。馬鹿じゃないのか。こんな恰好のタイミングで、なんにも言葉が出てこないなんて。嫌いとでも書けば、あの人を傷付けられたのに」


 傷付けたかったの、と低い声で聞く。感情的に譲が頭を横に振った。


「僕は」


 譲の、握り合わせた手が、力が入りすぎて震えていた。


「僕こそ、もう許してほしかった」


 もう許してくれ、と譲が床に吐き捨てる。


「もう、母さんに、僕のことで悲しんでほしくない。忘れてほしい。もう。生まれてこなきゃよかった。僕なんて。僕さえいなければよかったのに。なにもかも、なかったことにしてくれればいいのに」


 譲が顔をあげる。目が真っ赤に充血している。わたしの肩を譲が乱暴に引き寄せるのに身を任せて、男の人にしては細い背中に手を回す。冷えきったふたつの体で縋りあう。


「母さんが謝ってくるのが嫌だった。ご飯の味付けとか、服のセンスとか、家が散らかったとか、ぜんぶなんでもよかったのに、謝ってくるのが嫌だった。別にいいよって言っても、謝らないでって言っても、聞いてもらえないのも、全部嫌いだった。謝るくらいなら、やらなきゃいい。放っておけばいいのに。ぜんぶ嫌だった」


 声に嗚咽が混じっている、のが、本当に痛々しかった。我慢ばかり強いられた子どもみたいな、不器用な嗚咽だった。


「過保護でごめんねって、じゃあ言わなきゃいいだろ。もうわかんないのごめんねって言いながら死のうとするくらいなら、僕を捨てたらよかったんだ。謝ってほしくなかった。笑ってくれてたら、僕は充分だったはずなのに。なんであんな、僕よりずっと小さくなってるんだよ。今さらなにも言えないような関係にならないといけなかったんだよ」


 首筋がしとどに濡れていく。泣いている? でも、そんなの、泣きたくなるなんて、当然だった。いままで我慢し続けた譲が、可哀想で、あまりにも痛々しい生き方をしていて、なにも言えない。絞り出すような、吐き出すような、下手くそな嗚咽だった。

 ずっとそんなことを一人で抱え込み続けていたの、と思えば、わたしの目からも涙があふれた。

 涙だけが燃えているように熱かった。


「僕は、母さんのこと、嫌いになりたくなかったんだ」


          *


 どんな時だって夜明けは来る、というのは、べつに希望の言葉じゃない。譲が呻くように言った。遮光カーテンを引き忘れたわたしの部屋は、早朝の空気で薄青く明るくなっていた。キーボードを叩く手を止めて、くるりと振り返る。

 わたしのベッドから、譲が起き上がった。自分の寝具の中で、他人が寝ているのは不思議な気持ちだった。同居なんてしておいて、わたしの部屋の中に、譲が立ち入ったことはほとんどないのだ。わたしだって、譲の部屋に入ったことはほとんどない。引っ越してきたときに荷物を運び込んだときくらいだろう。


「寝れた?」

「いや……少しは、うとうとしたけど……」

「やっぱり譲の部屋で休む方がよかったのかなぁ」


 大きく伸びをする。肩がばきばき音を立てた。背骨の関節ひとつひとつを伸ばすようにストレッチをする。

 体を起こしていた譲が、ぱたんと倒れて布団に戻る。お互いほとんど徹夜だった。わたしは普段通りの生活リズムではあるけど、今日も仕事の譲は辛いだろう。まだ朝の5時過ぎだ。寝ようと思ったら、まだ寝れる。

 今夜だけはひとりにならないで、と泣きながらすがったのはわたしだった。今夜だけは。ひとりで泣かないで。誰かといて。それなら芳乃の部屋しかない、という返事は半ば予想通りではあった。


「いや、でも、さあ……」


 譲がため息とあくびを半々で混ぜたような息をもらす。


「ひとりだと飛び降りそうな気持ちだったから、」

「……うん」

「あんまり最近はそんなこと思っていなかったから、耐えられそうになかった」


 椅子から立ち上がって、自分のベッドの端に座る。譲の丸い頭が毛布の間から覗いていた。自分のベッドの中に人を招きこむなんて、普段通りの思考に戻ってきたら恥ずかしくなってきた。それは、一晩中すすり泣いていた譲も、そうかもしれなかった。わざわざ確認したりは、しないが。

 恥ずかしいところを見せ合ってしまった夜だった。べつに、かっこつけないといけないような相手ではないけど。真っ赤に充血した目が、わたしを見上げた。


「寒い?」

「うん」

「入れば。芳乃の布団なんだし」


 毛布の中から伸びてきた手がわたしの手を引く。


「手が冷えてる」

「冷え性だから」


 温かい手が引いてくるので、我慢できずに布団の中に入る。はは、と短く譲が笑う。


「つめた」


 黙って足先を押し付ける。靴下を履くのが嫌いで、室内だとずっと裸足でいるのでつま先は氷みたいに冷え切っている。馬鹿、と譲が笑いながら悲鳴をあげた。あったかい布団に入ったら、自分の体すべてがあんまり冷たくてびっくりした。譲が包み込むように抱きしめてきた。呼吸しにくくなったので、腕の中から顔を出す。譲の顔がすぐそこにあったので、少しぎょっとする。

 譲がわたしの髪を撫でる。わたしの方が眠たくなってきてしまった。譲の肩口に毛布を引き上げる。温かい布団の中なら、朝の薄青い空気が頬を冷やすのが心地よかった。


「明日帰ってくる」

「うん」

「社宅借りるの、今夜までにしておけばよかったかな……」

「仕方ないよ。こんなの、ちゃんと見通しがつくわけないし」

「まあね……」

「ご飯はなにが食べたい?」


 なんでも作ってあげる、とささやく。どれだけ手が込むようなものでもなんでも。ううんと譲が小さくうめく。


「……じゃあ、そうだな、やっぱり鍋かなあ」

「そんなのでいいの?」

「うん。鍋がいい。寒いから、温かいものがいい」

「わかった、用意しておくね。たしかに、寒くなったからねえ」


 大きなあくびがこぼれた。譲が短く笑い声をあげる。


「寝たら」

「うん……」

「おやすみ。朝だけど」

「じゃあ、行ってらっしゃい。はやすぎるけど」


 目を合わせて、二人で笑い声をあげる。力いっぱい抱きしめあう。嫌な夜だった。つらい夜だった。ひとりだとベランダから飛び降りてしまいそうな夜だった。キーボードを叩き続けていても、何度も涙がにじむ夜だった。譲がいるから机に向かい続けていたにすぎない。一人だったら部屋中荒らしまわっていたに違いなかった。

 譲も、わたしの部屋を出て行かなかったっていうことは、そういうことだった。ふだんだったら、そもそもわたしの部屋に入ることもしないだろう。こんな抱きしめあうなんて滅多にしない。それがわたしたちの距離感だったのに。もう耐えようがなかった。

 朝なんて来なければいいのに。未来なんてない方がよかった。そういうことしか思っていなかったのに。ひとつの布団の中に二人で入るだけで、笑いながら朝を迎えることができるものかと不思議だった。こんな朝なら、悪くなかった。

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