午前に鋏を突き立てろ -01

 ネイビーのダッフルコートと、臙脂色のマフラー。白いセーター。灰色の厚手のタイツ。冬は嫌いじゃない、ということを譲が背後で話しているのを聞きながら洗濯物を干す。彼が冬が好きなのは重々承知なのだけど。頬を冷たい風が叩く。今日中に乾くだろうか。衣替えが遅くなったのはわたしの不手際なのだけど。

 数日前に脱稿した、日曜日だった。土日と祝日が休みの譲は部屋着のまま、窓辺に座って自分の爪を切っていた。洗濯物を放り込むカゴを洗濯機の前に戻して、リビングに戻る。爪切りを持った譲が手招きした。


「足の爪」

「いいよ。病院でやってもらうし……」


 芳乃、と譲が言うので、しぶしぶソファに座る。いそいそと譲がこちらに来て、わたしの足をそっと取って、爪を撫でた。くすぐったい。

 腹が邪魔で足の爪が切れない、ということは腹の膨らまない男性には理解しにくいことだろう。今までは、通っている病院の看護師さんにお願いして切ってもらっていた。夏の終わり際にぽろっと譲に話したら、彼の爪切りのときに呼ばれるようになってしまった。嫌、とは、言わない。自分の体を他人に預けるのは得意ではないので、毎回少し抵抗してしまうけど。もうわたしは子どもではなくて、自分のことは自分ですべきなのだ。妙に譲が楽しそうなので、抵抗が成功したことはないけど。

 ぱちんぱちんと爪を切る音が響く。子どもたちの笑い声が、薄く開いた窓から聞こえる。


「秋は急に冷え込むね」

「うん。芳乃は、夜中起きてて寒くないの。温風器出す?」

「今のところはいいかなあ」


 温かい飲み物と、厚手の部屋着でまだ誤魔化せる程度だ。この調子だと、来週にはまた冷え込みが深くなりそうだけど、温風器を出すくらいなら、平日の手が空いているときにわたしひとりで出来る範囲だ。

 あっという間に爪を切り終わった譲が、わたしの隣に座る。ソファが沈み込むのに体を任せて、譲にもたれかかる。


「外、寒かったろ」

「風は冷たかったかな」

「足も腕も冷えてる」


 頬にかかった自分の髪が、たしかに冷たかった。10分も外にいなかったのに。

 寒さになんとなく鈍感になる癖がついてしまっている。寒がりで冷え性のくせに。足も冷えてるらしいので、膝を折ってスカートの裾の中に入れる。


「やっぱり温風機は今日出そう。予定ないし」

「ひとりでやるよ」

「ううん、手伝う。後でにしたら、あっという間に冷え込むから。いや、僕だけでやってくるからさ」

「ええ? いいよ、一緒にやろう」

「洗濯物を任せたから、次は僕が働く番だろう。座ってろよ、来たら怒るからな」


 軽い足取りで譲がリビングを出ていく。体半分が寒い、と思いながらひざ掛けを引っ張って肩にかける。怒るからな、は最近譲が口にする脅し文句だ。彼はべつに怒ったりはしないのだけど。洗面所の方から水の音がする。温風器のフィルターを洗ってくれているんだろう。少し休んだら行こう。

 呆れるくらい平和だった。外はよく晴れていて、すずめがベランダの手すりに止まっていた。こぼれたあくびを部屋に落としながら立ち上がったタイミングで、インターフォンの音が響いた。

 義姉からの荷物だろうか、と思いながらリビングの壁についているインターフォンのモニターを操作する。画面に映ったのが、いつもの宅配便のお兄さんではなかったので、少し面食らう。髪をひとつにまとめた、品のよさそうな婦人だった。近所にこんな人がいただろうか。マイクに口を近づける。


「どちら様でしょうか」

『譲を出してください』


 穏やかな口調の中に不安定な響きが隠しきれていない。マイクを起動している人差し指が震えた。水の音は変わらず響いている。自分の、人の顔に対する記憶力のなさをこんなに後悔したのは初めてだった。ああ、そう、この張り付いた笑顔。優しそうな口調。花柄のブラウス。高校生のときに、ほんの数回しか会っていないけど、なんとなく嫌な人だと思ったのだ。それは、学校行事のたびに譲にべったり張り付こうとしていたからかもしれないし、わたしを見る顔に嫌悪感がにじんでいたからかもしれないし、このどこか不安定さのある口調のせいなのかもしれないけど。

 譲のお母さんだった。まぎれもなく。


「あの、すみません、どちら様ですか?」

『譲がここにいるって私知っているんです』

「そんな人いませんけど」


 ちゃんと確認してから返事をすればよかったと臍を嚙む。知らない人なのに応答するなんて。頭が平和ボケしているとしか言えない。息を吸う。声は低く。圧だけが伝わるように。


「別の部屋と勘違いされているんじゃないですか?」

『譲、いるんでしょう!』


 いきなりつんさぐように高くなった声に顔をしかめる。不安定。すべてが。譲が忌み嫌っていた、彼の母親。


「いませんってば! これ以上騒ぐようでしたら警察呼びますよ!」


 譲がこちらに来ないように必死に祈る。インターフォンの音は聞こえているだろうから、あんまり長く応対していたらこっちに来るだろう。掃除はどのくらいかかる? フィルターを洗うなんて、そんな手間じゃない。譲が違和感を覚えたら、問い詰められる。この声は聞こえてしまっているだろうか。譲に言いたくない。ここが安全ではないことを。

 警察、という単語が効いたのか、品のよさそうな顔がくしゃっとゆがむ。口元のしわに入り込んだファンデーションが目について、彼女の年齢に思いをはせてしまった。わたしの母よりは若そうだ。どうでもいいけど。


『でも』

「本当に警察呼びます」

『息子に会いに来ただけじゃない!! なんで邪魔されないといけないの!! あんた誰よ、譲をどこにやったの!』


 部屋のドアが開く。


「芳乃?」

「いいから早く帰ってもらっていいですか、あなたが探している人なんていません。もう110番していますからね。家の前に変な人がいるって」


 譲がわたしの肩を押しのける。膝が砕けて尻もちをついてしまった。モニターを見つめる瞳が何度も瞬きをする。部屋側のマイクは、ボタンを押し続けないと起動しない。手を伸ばして、譲の服の裾を引っ張る。真っ白になった顔が、わたしを見下ろす。とっさに口を開く。


「わたしが話す」

「芳乃、」

「立てないの、手を貸して! はやく!」


 ぎゅっと譲の服を引く。足が震えて力が入らなかった。血の気が引いて手足がこわばっている。譲がちらっとまた画面を見て、わたしに視線を戻す。裾を力いっぱい握っているわたしの手に、ほんのかすかに触れる。


「いない」

「え?」

「帰ってった。でも、なあ、あれは、あの背中って、僕の母さんだよな!」


 喉の奥がぎゅうっと縮こまる。フローリングの冷たさが今更のように肌を覆った。


「君、どうして僕を呼ばなかった!?」

「だって……」

「馬鹿じゃないのか、あの人の相手するなんて」

「馬鹿とはなによ」

「君が相手する必要なんてないだろ、赤の他人の家族のことだぞ! あんな人と正面から話したって無駄なんだから」


 舌打ちをして、譲がモニターの電源を落とす。不自然な形で固まっていた手が、譲の服の裾からぱたっと落ちる。セミの死体みたい、と薄く思う。


「じいちゃんに電話してくる」

「譲」

「悪いけど君、」


 君、と譲が呼び立てるときは、彼が激怒しているときだけだ。


「僕がちゃんとするから、君はなにもしないでくれるか。また母さんが来るようなら、なにも応対しないで、すぐ僕に言って」

「……うん」


 ようようした返事を聞いているのか聞いていないのか、荒い足音を立てて譲が立ち去る。ばたんと勢いよく部屋の扉が閉じた。

 両手を擦り合わせながら、止めていた呼吸をゆっくり吐き出す。何度か深呼吸をして、膝を叱咤して立ち上がる。頭がぐらぐらする。耳をすませば譲の部屋から低い声が聞こえた。廊下に出る扉を開いて、洗面所まで向かう。黒いフィルターが濡れたまま置いてある。足元にはちいさな温風機。

 う、とうめき声がこぼれた。熱い涙がぎりぎり絞るように出てくる。嗚咽になるな、と、祈る。祈ってばかり。なにもできないわたしは祈るばかりだ。

 手の甲で乱暴に目元をこすって、濡れたフィルターの水気をはらう。温風機と一緒に持って、自分の部屋に向かう。極力音を立てないように部屋に入って、ベランダにフィルターを干す。

 なにもするな、と、言われたら。

 できる、と、わたしは答える。


          *


 句読点を打って、CtrlキーとSを押す。ほんの少ししか執筆は進まなかったけど、別にこれでいい、と骨に打ち込むように呟く。昼間にあんなことがあって、まともな文章が書けるはずもない。ただ日々の習慣をなぞって、なにかしらの文字を書いて、頭の中が少しでも整理出来れば、という以上の意味はない行為だ。おそらくすべて没になるだろう。泥水の中を歩くような文ばかりだった。

 夕方の4時になれば、ほとんど日は暮れている。自分の部屋からベランダに出て、洗濯物を取り込む。やはり厚物の服は乾ききっていない。あまり好きではないけど、室内干しにするしかないだろう。コインランドリーまで出かけるのは少し億劫だった。

 こってりしたものが食べたい、と思いながら冷蔵庫を開く。冷凍保存していた鮭の切り身をシンクに出しておく。お米を炊き忘れていたので、米びつからお米を計って炊飯器に入れる。

 譲の部屋は沈黙を守り続けている。お昼ご飯はどうしたんだろう。わたしは適当にお菓子をつまんで済ませてしまった。いつもなら、休日の夕飯は譲とふたりで作るけど、さすがに言い出せる空気じゃない、し、思ったより昼間の譲の言葉が堪えている。

 じゃがいもを薄く切って、水にさらす。乾燥わかめを水に浸す。味噌汁の下ごしらえはこんなものだろう。玉ねぎを薄く切って、アルミホイルの中に敷き詰める。外がうっすら解凍してきた鮭をそのまま乗せる。適当に食材を漁ったら缶詰のとうもろこしを見つけたので、水を切って適当に半分ずつ乗せる。冷凍したままの鮭なので、臭み抜きにお酒をかけて、適当に作った味噌だれを塗りたくる。最後にチーズと長ネギの白いところを大量に乗せてトースターに放り込む。

 放っておいたじゃがいもを火にかける。味噌汁なので、味付けは具材の火が通ってからがいい。長ネギが被っているけど気にしないことにして、味噌汁分のネギも切っておく。青いところはとっておいて、明日のお昼ご飯で使おう。

 そもそも味噌汁と味噌焼きで被っている。今からでも味付けを変えようか、椅子に座って頬杖をついて考える。キャベツを足して鶏がらスープにしてしまおう。じゃがいもの切り方がそぐわないけど、まあそんなときだってあるだろう。さっさとキャベツを切って、味付けも終わらせるべく立ち上がる。

 はやく白菜が安くなればいいのだけど。一口大に切ったキャベツを入れて鶏がらスープの素を入れてぐるぐる混ぜていたら、譲の部屋の扉が開いた。


「なんでご飯作ってるの」

「なんでって、もう日が暮れるし……」


 つっけんどんな言い方にこちらも少し膨れた口調で返事をしてしまう。ご飯を作っていただけなのにそんな反応されても困る。


「べつに、呼んでくれればよかったのに」

「ええと、ごめん。でも、さっさと作った方がいいかと思ったんだもの。別にそんな風に言わなくてもいいじゃない。もうご飯が炊けるの待つだけだから座っててよ」


 無言で譲がリビングのソファに座った。髪の毛がぐしゃぐしゃになってる。ご飯が炊けるまでもう少しあるので、スープの火は止める。このあいだ買ったばかりのココアを開けて、マグカップにたくさん入れる。砂糖はひと匙。熱湯で溶かしてから、さすがに鍋を出すのは面倒なので、そのままのミルクで薄める。これで許してくれと思いながら、譲の前に出してみる。

 喉の奥がぎゅうっと縮こまったままだ。ソファの下には毛足の長いラグを敷いているので、足を伸ばしてぺたっと座り込む。しばらく黙ったままココアを飲む。片足であぐらをかいた譲の足だけが視界に入っている。声を出すべきか、出さないでおくべきかわからない。こぶし一つ分開けて座っているのも、あえてソファには座らなかったのも、ココアを選んだのも、ぜんぶ間違いのような気がする。べつに譲の機嫌をうかがう必要も、ないけれども。ふ、と短いため息が降ってきた。


「……ごめん」

「うん……」


 譲がためらいがちにわたしの頭を撫でた。


「僕が悪かった」

「うん」

「過敏すぎた」

「うん」

「隣に座ってほしい」

「いいよ」


 マグカップをいったん机の上に置いて、ソファに座り直す。目の下が真っ青になっている。親指で譲の顔を撫でたら、血が通っているのか不安になるほど冷たくなっていた。

 こんなときでも彼は泣かなかったらしい。泣いたって仕方ないのかもしれないけど。譲のマグカップを、彼の手に押し付ける。


「ココア、ぬるいの作ったから、すぐ冷めるよ」

「ん……」

「お腹すいた? 鮭の味噌とチーズの包み焼きと、鶏がらの野菜スープだけど、ほかに食べたいものはある?」

「ううん」


 ぼんやりした返事をして、譲がココアを飲む。面倒臭がらないで、うんと熱いのを作ればよかったかもしれない。自分の分のココアをちょっとずつ飲む。もう冷まさなくても飲めてしまうくらいだ。

 譲の部屋は窓がないので、底冷えがするとこぼしていたのを思い出す。かわいそうなことをしてしまったかもしれない。さっきまで少し怒っていたような気がするのに、もう気持ちがしぼんでしまった。甘やかすことなんてできないけど。譲の肩にもたれる。さみしかっただろうか、辛かっただろうか。わたしはなんにもできないけど。


「わたしも、ごめん。譲の意見も聞かないで騒いじゃったから」

「謝るなよ。僕が悪いよ……」


 マグカップを置いて、譲がわたしの肩を抱き寄せた。シャツ越しに触れた手すら冷たい。寂しさが凍っているようだ。譲の体に手を回す。目をつむって、息を吸う。


「わたしたち、これからどうしようか?」

「うん……」


 心臓がどくどくしている。わたしのものか、譲のものかもわからないくらい。


「僕は、とりあえず、会社に泊まり込む……」

「うん」

「ばあちゃんが言っちゃったみたい。どうしても僕に一目会いたいんだって、何日も泣かれてしまって、根負けしたって……」

「そうなの」

「迷惑かけてごめん。僕からも言っておくから許してほしい」


 いいよ、と譲の胸の中に呟く。


「いいよ、わたしは平気だから。おばあちゃんに怒るんなんて、したいわけじゃないでしょ。自分の娘が泣いてるんだもの、どうにかしてあげたいって思ったんじゃない」

「……そう言ってくれたら、嬉しいけど」

「わたしはなんにも。怒っていないし、迷惑だなんて思ってないし。ねえ、だからあんまり思い詰めないでね。わたしはなんとかなるよ。譲はどうしようか。明日から泊まり込むなら、準備しないとね」


 食事は、自前で買わないといけないにしても、着替えとか。泊まり込むなんてできるのか、わからないから。


「社宅借りれるように調整したから、とりあえず着替えだけでいいかな……」

「そう……」

「ひとりにしてごめん」

「あなた、謝ってばっかりじゃない。あんなに嫌がるくせに」


 譲が短く笑う。


「謝るしか思いつかなくて」

「……わかるよ」

「あー、つらいなあ」


 がさがさに声が掠れている。泣かないでとせめて言いたいのに、譲は泣いてはいないのだ。泣きはしない、のが、譲の矜持で意地でだれにも譲れないところらしかった。

 譲が泣くなら、きっとひとりきりの海だろう。


「こんなにつらいのは久しぶりだな。平和ボケしてた」

「うん」

「なんだか、ずっとこんなに平和なんだって、思ってた。終わったんだって。僕はこれからなんもなかったみたいに暮らしていくんだって、どこかで思ってたんだ」

「うん」

「追い立てられない生活って、こうなんだって、思った。楽しい生活だったから」

「終わるみたいな言い方ね」


 響き渡るような沈黙が降りる。終わってもいいよとは言いたくないけど、言わないけど。呼吸と心臓の音が聞こえる。しばらくカーテンやマグカップをぼんやり眺めていたら、もみくちゃに抱きしめられた。痛い、と悲鳴があがる。手のひらが背中に食い込む。


「芳乃」

「う、うん」


 ずっと鼻をすする音がした。天井が見える。譲がつけてくれたLEDライト。分厚さが減ったカレンダー。背の高い本棚。白いコスモス。息のつまるような激情だ。乱暴な抱きしめられ方をしているので、四肢を動かしてどうにか収まりのいいところを探す。腹が邪魔だった。

 ぐーっと譲の体重がかかってソファに倒れる。体が隙間なく密着する。顔は見えない。


「嫌?」

「なにが? 重いよ」

「嫌じゃなかったら抱きしめて」


 腕を抜いて譲の頭を抱きしめる。髪と髪が混ざり合う。嫌なんて言うはずないのに。

 この声に弱いのかもしれなかった。人に懐かない動物のような本性を知っている。穏やかな笑顔の下に、分厚い壁を隠している。いつもフラットに調整されている声が、感情が乱れると、掠れる。

 海に行こうと、図書室の奥の、薄暗い部屋で言ったのも、聞き取りにくい掠れた声だった。


「……もう芳乃を手放すのは、無理かもしれない」

「ええ?」

「二度目はもう致命傷だ」


 死に到る傷。命を奪う傷。わたしが、嘘偽りの、新たな命を生み出して誤魔化し続けた傷。譲も傷ついたはずだった。道を別れた数年間のことは、ほとんど話題に出さないから知らないけれど。


「二度目の致命傷は、もう無理だろ。自殺するとは言わない。でも、たぶん、もう無理だ」

「譲、」

「僕、この家に来てから四キロ太った」

「そうなの? 気付かなかった」


 話題がぴょんぴょん飛んでいくのに、なんとなくついて行く。なにも考えられないんだろう。


「一年ごとに健康診断で体重測るんだけどさ、ずっと体重減ってたんだよ。それ見ていつ死ぬんだろうって思ってた」

「あなたの生活ひどかったものね」

「上司にも心配かけてたみたいだし」

「そうなの? そうかもね……」

「僕は、家に誰かがいて、初めて嬉しかった。芳乃がいて嬉しかった。そりゃあ、いつか終わるかもしれない。喧嘩も、するし。でも、それは、今じゃない。ましてや母さんのせいでそうなりたくない。僕たちのことは、僕たちで考えて、決めたいんだ」

「うん」

「芳乃と一緒にいたい」


 手探りで譲の顔を両手で挟んで、ぐいっと押しのける。譲の顔を見て笑う。


「なによ。世界が終わるみたいな顔して。わたしたち、どうにかなるに決まってる。もう大人なんだから。考えすぎよ。譲が言うならいつだって抱きしめるし、譲と一緒にいるよ。じゃなかったら、数年ぶりに再会して、同居しようなんて言われてオッケーするわけないでしょ」

「ん……」

「ちゃんと待ってるよ。わたしはずっとそうしている」

「うん」

「でも、なにかあったら、いつでも行くからね。あんまりスマホ見てないから連絡つかないかもしれないけど。言ってね。言われないと辛いからね。終わったら、なにかおいしいもの食べよう。譲の好きなものたくさん作るから」


 わたしの目からふっと涙がこぼれた。わたしが傷ついたわけじゃないのに。


「わたしは平気って、言ってるの、信じてね」


          *


 なにごともない平穏な三日間を、一人で暮らした。

 譲のおじいちゃんの仕事の用事が済んだらこっちに来て、お母さんと一緒に帰ると、電話で譲のおじいちゃんから説明を受けた。譲のお母さんの居場所はスマートフォンのGPSで把握しています、と付け加えられたとき、胸がふわっと冷たくなった。そうでもしないといけないと、実の親に判断された、譲の母親が。

 もう彼女の心の拠り所は、譲しかないんです、と譲の祖母がか細い声で言った。そうでしょうね、と答えた。譲の母親に悪気なんてひとつもなくて、愛情深い親のままなのだろう。どこかで踏み間違えた一歩を間違いだと気付けないまま、ここまで生きてきてしまって、誰とも違う場所にたどり着いてしまって、そして時間は後戻りはできないのだ。だからといって、許せるわけではないけど。

 じゃがいもと玉ねぎとほうれん草、合いびき肉を炒めて、塩コショウと鶏がらスープの素で味付けをする。卵をひとつ、チーズを混ぜて薄く焼いて、さっき炒めたものに乗せる。一人のご飯なのでわざわざ包むのは、べつにいいだろう。譲がいたらスープのひとつやふたつつけるけど、自分のためだけの食事なんてこんなものだ。ケチャップをかけておしまい。たった三日しか過ぎていないのに、うんと冷え込みが強くなっている。まだ夕方の四時なのに、外はすっかり暗かった。

 昼食と夕食を兼ねた食事を黙々ととる。適当に作ったオムレツだけど悪くない。タンパク質の足しにしようと思って入れたチーズがびよんと伸びるのが思いのほかテンションをあげてくれた。

 平穏だ、というのはなにも間違っていない。わたしはこの部屋から一歩も出ることなく、洗濯物すら室内で済ませている。譲から頼み込まれたことだった。もともとインドアな生活だし、しばらく華道関係の仕事もない。脱稿しただけにすぎないので、編集者さんからメールや電話が来るし、冬のための身支度も済ませないといけない。家の中でやらないといけないことが多いのは幸運だった。

 ずっと平穏で、平和だった。この家の中だけ。すべてに取り残されているように。

 わたしだけが、夜中にこっそりと部屋の前まで来る、譲のお母さんの後ろ姿を見ている。


          *


 お風呂を済ませた夜の九時頃に、インターフォンが鳴った。

 椅子から立ち上がって、インターフォンのモニターを操作する。ふー、と長くため息をつく。いくつかの選択肢が生まれたことに対する倦怠感だった。

 明日、譲のお母さんは、老いた両親に連れられて帰る。今は祖母と一緒にホテルにいると聞いていた。ずっと夜中に来ていたのは、監視している祖母が寝ているからだろう。明日連れて帰られると聞いて、無理矢理出てきたのだろうか。自分の親ではないので、寒そうに頬を真っ赤にしている様子に、薄く同情心が生まれる。人を突き放すのは、本当に難しいことだ、とため息をつく。近所の人に見られたら困る、というのもあるけど。マイクのボタンを押し込む。


「はい」

『あの、』


 ふー、と口元の息が白いような気がした。マイク越しの声が、かすれている。


『譲に会わせてほしいんです』

「いないんですよ」


 どうか帰ってくれ、と祈る。諦めてくれ。もうここではないとわかってくれ。頼むから。あなたの居場所はここじゃないのだ。気弱そうなおばあちゃんが電話越しに謝っていたのを思い出して、胸が突かれるようだった。


「いないんです。本当です。もう、お願いなので、来ないでください」

『でも』

「でもじゃないんです」

『でも、譲に会いたいんです』


 ため息がいくつもいくつも出て行って帰ってこない。モニターの画面の電源を落とす。スマートフォンで、譲に短いメッセージを送る。きっと、数分待たせたくらいじゃ、彼女は帰らないだろう。どれだけ寒くても。

 すぐさま届いた、譲の返信の誤字をあげつらったメッセージを送って、玄関に向かう。外に近づくといよいよ寒かった。サンダルを突っかけて、ドアのチェーンをしたまま、玄関の扉を開く。


「寒くないですか」


 は、と短く吐いた息が白かった。夜の空気は、もう冬だった。

 白神染めが落ちて、薄い茶色になった髪が、街頭でぼんやり光っている。セーターと、厚手のカーディガンを着ている肩は薄い。わたしが直接出てくるとは思っていなかったのだろう。口がぽかんと開いている。


「こんなに寒いのに、そんな恰好じゃ風邪ひきますよ」

「あの、あなた……」

「梶原芳乃といいます。お名前をうかがってもいいですか?」


社会的規範にのっとって、自分から名乗る。譲に叱られそうだ、と思ったら頭が痛い。いいけれど。譲が会社の寮からここまで来るのに早く見積もっても30分はかかる。夜遅いのでバスは走っていないだろうし、車は持っていないし。会社の車を借りることになるだろうか、タクシーだろうか。今しかない、と、言えば、今しかない。


「わたしの名前?」

「ええ、はい。お聞きしていないので」

「志摩、杏子です」

「志摩さん」


 寒いでしょう、と低く言う。たった数分、玄関にいるだけなのに自分の四肢の先は冷えてしまっている。ドアのチェーンを手探りで探す。


「お迎えが来ますよ。寒いでしょうから、部屋の中で待った方がいいです」

「譲は」

「譲がこの部屋にいるのなら」


 ちゃりん、とチェーンが音を立てて垂れ下がる。ほんの10センチも開いていなかった扉を大きく開く。


「譲は、絶対にこの扉を開けないはずです。わかるでしょう? あの人、本当に頑固なんだから」

「……」

「スリッパはどこだったかな……ああ、どうぞ。たいしたおもてなしはできませんが。少しは暖かいと思いますよ」


 素っ気ないクリーム色のスリッパを並べて差し出す。しゃがめないので、ぽすっと床に落とすことになってしまったけど。

 カーディガンをかき寄せて立ちすくんでいる譲のお母さんに、小さくため息が漏れる。


「あの、わたしも寒いので。入ってくれませんか」

「……はい」


 この家に初めてあげる客人が、まさか譲のお母さんになるとは思わなかった。リビングのテーブルにはタブレット端末と、飲みかけのココア。どうぞ、と椅子を指す。緑茶があったはずなので、それでいいだろう。電気ケトルでお湯を沸かして、お茶を入れて客用の湯呑に注ぐ。ずっとお互い黙ったままだった。譲のお母さんの真向かいに座る。

 真向かいに座るのは対立の立場です、と昔受けたカウンセリングで言われたのを思い出す。間違いではない。タブレットを机の脇に寄せておく。


「……あの、梶原さんと、おっしゃったかしら……」

「はい」

「ごめんなさい、急に押しかけてしまって……」

「そうですね」


 冷えきったマグカップを両手で包む。


「困ります。あんまり、こんなことばかりされると」


 はい、と消え入りそうな声で返事が帰ってくる。優しくしたくて、扉を開けた訳ではない。困ることは困ることで、やめてほしいとしか言いようがないのだ。それが、譲の顔を曇らせるなら、なおさら。

 真向かいの相手のカーディガンの、大きなくるみボタンをなんとなく眺める。言いたいことも特に思いつかない。一応迷惑をかけられているので、なにかしらは言う権利はあるのかもしれないけど。頬杖をついて、じっとうつむいている人を見つめていたら、まるでわたしが加害者のよう、と考える。なんでそんなに弱弱しい顔をしているのだろう。

 お茶を小さくすすって、譲のお母さんがこちらを見た。湯呑を持った手がかすかに震えている。寒いのかもしれない。


「ごめんなさい。わたし、まさか、妊婦さんだとは知らなくて……」

「ああ……」


 勘違いしている。すべてわたしのせいだけど。自分の腹を撫でる。最近、おとなしい、


「大事な時期なのに、わたしが邪魔してしまったのね。あの子はわたしに知らせなかったんだわ……」

「……ええと、説明させてください」


 わたしが直接出てきたから、驚いていたのだと思っていた。たしかに息子の家に妊婦がいたら、それはそれは驚くだろう。


「さすがに、譲だって、知らせるとは思いますよ。直接ではないと思いますけど。あと、この子は」


 説明が難しい。想像妊娠だなんて、言ったって、どうすればよいかわからないだろうし。精神状態が不安定な人が子どもの近くにいるなんて知って、彼女の得にはならないだろう。視野の狭い人だからどう転ぶか判断がつかない。


「……この子は、譲の子どもじゃないんです」

「……」

「説明が難しいんですが、その、わたしたちは付き合っているというわけではなくて、たまたまどちらも一人だったので、埋め合わせようということで、一緒に暮らしているんです。志摩さんの想像しているような関係ではない、と、思います。腐れ縁のようなものなので……」

「でも一緒に暮らしているんでしょう。父親は?」


 冷えた口調に、曖昧に笑う。彼女は、ちゃんと大人の女性として振舞うこともできるのだ。わたしの濁したところをきちんと突くくらいのことはする。息子のことさえ関係なければ。だからといって。


「さあ? 志摩さんには関係ないことですから」

「でも」

「でもじゃありません。わたしと志摩さんは赤の他人ですよ」


 この件に関しては、わたしの責任もあるけど、志摩さんに優しくする道理はない。うんと冷たく言ったら、さっと顔色が変わった。


「でも譲はわたしの息子よ」

「ええ。でも、譲と縁を切るようなことをしてしまったのはあなたです。あなたが、譲を傷付けたんです」


 そんなことしなければよかったのにね、まではさすがに言わないけど。きっとわたしが言いたかったことはこれだけだろう。胸の奥がふつふつ沸騰してきたので、頭を冷やすために、冷めたココアを飲む。


「あなたが譲の母親であることは一生変わらないですけど、譲はべつにあなたの息子であるためだけに生まれたわけではないんですよ。もう成人して、自分のことをちゃんと世話しています。だれかに迷惑をかけているわけじゃないんですから、文句を言われる筋合いはありません。それが実の母親であっても」

「……」

「それを、わかってあげてくださいよ……」


 がちがちと玄関から乱暴に鍵穴と回す音がした。チェーンをかけているので、大きな物音になってしまいそう。さすがに近所迷惑なことはしないだろう。立ち上がって、はっきりと顔を強張らせた志摩さんを見下ろす。


「譲です」

「……」

「いいですか、あなたは一言も話してはいけません。なにも言わないでください。絶対に。これ以上譲を傷付けたくなかったら。約束できますか」

「なんで……」

「志摩さんはいまだに譲が子どもだって思っている。……まあ、親って、きっとそんなものですよね。だから、なんにもわかっていないんです。大人って、子どものことひとつもわかっていない人のことを言うんですよ」


 芳乃、と声が聞こえる。


「一言も話さないでください。謝る必要もありません。許されることだと思ってるなんて、譲の心に侮辱しているだけです。謝るくらいなら最初っからしないでください。もうしてしまったことなんだから、謝ったって遅いんです。だから、なにも、一言も、譲に話しかけないでください」 

「……わかったわ」


 ほんの数舜見つめあって、わたしから目線を外す。冷えた廊下を小走りで通り抜けて、玄関まで。10センチもない隙間の向こうで、譲が立っている。ああもう怒っている、と頭を抱えたくなる。半分はわたしのせいということにしておこう。

 扉が開きっぱなしだとチェーンは外せない。


「譲、扉閉じてよ。今開けるから」


 ね、と強く言う。冷静にさせないといけない人がふたりもいるのは面倒なことだわ、と内心で呟く。ばたんと扉が閉じた。チェーンを取って、こちらから扉を開く。一目散に部屋に入ろうとする譲を体ごとぶつけて止める。譲の顔を両手で包んで、こっちに向ける。


「譲」

「中にいるんだろ」

「いるよ。わたしの話し聞いてからにして」


 お願いだから。


「そんな感情的になられたら、困るよ。……いや、わたしのせいだけど。ちょっとだけわたしの話し聞いて。5分もかけないから」

「……なに」

「譲はなんにも話したらいけないよ」


 背伸びをして、譲の目をのぞき込む。冷えた頬だ。


「一言も。なんにも言わないで。怒るのは、仕方ないけど、そんな調子でなにか言ったら、取り返しのつかないことを言うよ」

「なんで僕が我慢しないといけないんだよ」

「それが大人だからよ」


 理不尽なことを言っている。わかっている。


「あとでわたしがいくらでも聞く。いくらでも叱られるから。お願いだから、今だけはなにも言わないで。志摩さんも、なにも言わないから。……謝ったりしないから」


 譲の顔が、くしゃっと泣き出す寸前のように崩れる。


「わたしと約束した。今だって、部屋の中でじっとしてるでしょ。譲もわたしと約束して、守って。お願い」


 冷たい玄関口のコンクリートが、足の裏に突き刺さる。


「譲」

「……わかったよ」


 大きく背伸びして、譲の頬に唇を押し当てる。皮膚と皮膚が触れ合うことなんて一度もなかったわたしたちではあるけど。


「ありがとう。大好きよ」


 譲の手を引いて、リビングに向かう。すりガラスの向こうは怖いくらいの沈黙だった。

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