ホスタの言いたいこと

 顔になにかあたって目が覚めた。寝ぼけた頭のまま目を開く。

 遮光カーテンを引いている自室ではありえないほどの明るさにほんの一瞬驚いて、一気に頭が回転し始めた。実家にいるんだった、と思い出して、体を起こす。隣に譲が寝ていて、こちらに手が伸びていた。寝返りした拍子にわたしにあたったのだろう。

 枕元に置いてあったスマートフォンの画面を触って、時計を見る。6時の少し前。兄も義姉も起きて入るだろう。わたしも譲も、普段は起きている時間ではないけど、この家の人たちは朝がはやいから。お手洗いに行って、顔を洗って、歯磨きをする。幸運なことに二日酔いではないらしい。スポーツタオルを引き出しから出して、水道水で濡らして固くしぼる。体がべたついているので、簡単に拭く。

 うあ、とあくびがこぼれる。足音を殺して廊下を歩いて、離れから出る。庭にはまだ朝露が光っていた。素足で降りて、母屋と離れのあいだを抜けて、中庭の方に向かう。地面は冷えて、湿っていた。

 庭越しに、無人の兄の部屋が見える。鹿威しと小さな浮島がある小池は、昨日見たのと同じく水が枯れて、底の砂が白く乾いている。鹿威しの下にある手水鉢も、苔に覆われていたはずだけど、きれいに落とされている。きちんと掃除してから水を止めた形跡はあるので、兄はこの庭を放棄したわけではないのだろう。脇には目がくらみそうなくらい白いタチアオイが見事に咲いていて、足元には深い藍色のホタルブクロとキキョウが咲いている。植物へやった水と朝露で丸石がぴかぴかしていた。

 兄の一日は、朝日と一緒に目を覚まして、一人でごく簡単な食事をし、庭の植物に必要な水を与えることから始まる。早起きが苦手なわたしにはできない芸当だった。夏の盛りだというのに雑草一本だって生えてやいない。しゃがみこんでホタルブクロをつつく。こんなに暑くなったのにまだ咲いているなんて、珍しい。ホタルブクロが咲き終わるころは、たいてい夏休みが始まるころで、この家にずっといないといけなくなるのが憂鬱になったものだった。

 丸石がじゃりじゃりこすれる音がしたので、立ち上がって、振り返る。透ける紗の、カジュアルな着物が少し珍しく思った。


「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう」


 兄がわたしを指さす。


「シャツ。ずっている」

「ええ? 汚れてる?」

「濡れている」


 体を無理矢理ひねって、おしりのあたりのシャツを見る。湿って色が変わっている。あー、とため息が出る。土で汚れていないのは幸運だ。どうせ出かけるときは違う服に着替えるからいいのだけど。


「本当ね。……まあいいや」

「今日は」

「街の方に出かけるよ。ラーメン食べてくる。……車借りるって、義姉さんから聞いてる?」


 兄がかすかにうなずく。譲の運転で、このあたりの観光に行く予定だ。そろそろ譲が起きているか戻った方がいいかもしれない。

 昨日は目が覚めたら譲がいなくて、気が遠くなりそうなくらい驚いてしまった、と思い出す。この家で踏みにじられて、捨てられた、わたしの大切なものたちを思い出してしまったから。

 兄もちらっと離れの方を見た。紗の着物がさらさら音を立てている。カジュアルなものは兄の好みではないはずだけど、今は生徒さんたちもお手伝いさんたちもいないから着ているんだろう。着物は着続けないと、所作にすぐ表れる、は、祖母の言葉だ。律儀に守っているのは兄だけだろうに。


「芳乃」

「はい」

「譲さんは、」


 兄が言葉を濁したまま、じっとこちらを見おろす。反応に困ってうつむいた。ホタルブクロからぱたぱた音を立てて水滴が落ちているのが聞こえるくらいだ。わたしたちは、仲のいい兄妹では、ない。兄の言いたいことなんて半分もわからない。沈黙の中にこめられた感情すらも。

 別の人なのだ、と兄に対して、強く思う。兄の沈黙。兄の花。兄の家族。わたしなら口を開くところで沈黙を選ぶ兄を、理解できた試しがない。わたしが挿さない花を選び続けた兄のことなんて。

 なあに、ともう一度聞くか迷っているうちに、兄が嘆息をこぼす。


「……そろそろ望がご飯を作るころだから、行っておいで」

「うん。……お兄ちゃんがなにも言うことないなら、行くけど」

「……」

「言えばいいじゃない。言ってよ」

「……私が、たぶん、言いたいことは……」


 うん、とうなずく。昔は苛立って仕方なかった沈黙だ。

 待てる。今ならば。


「私の言いたいことは、芳乃が帰ってきたときに言ったことと変わらない。父さんと母さんには上手く言っておこうと、思う。……そう言ってお前をこの家に呼んだのに、あの体たらくだが。お前のやりたいようになさい。どうしようもなくなったら、この家の部屋はいくらでも空いているし、お前ひとり食べさせるくらいできる」

「うん」

「この家と縁を切ってもいい。お前がそうしたいなら、しなさい。たまにはここに帰ってきてくれたら、望と朔が喜ぶが。あの二人に会うためなら、たまにだったら、帰ってこれるだろう」

「うん。ありがとうね」


 ほっと兄が息を吐いた。不思議な気持ちで、その表情を眺めてしまった。ほっとするということは、兄が不安に思っていたということで、わたしの中で、兄と不安がつながることは、これまで一度もなかった。

 ここに来た日は、兄に一方的に父母のことは気にするなと言われて、わかったとわたしは答えて、終わった。兄がやると言うなら、わたしが手出しをしない方がいいとも思ったし、あの人たち相手にうまくやれる自信はなかった。

 わかった、と答えた。

 わかっていなかった。


「あのね、お兄ちゃん、勘違いしないでほしいんだけど、わたしはお兄ちゃんたちに会うためにこっちに来ているんだからね。お兄ちゃんが元気そうでよかったよ。暑いのは苦手でしょう」

「ああ」

「お父さんとお母さんは嫌いだけど、この家と、お兄ちゃんたちは好きよ。……言ってなかったかもね」


 嫌いな人の子どもの面倒なんか見るわけないでしょ、と言ってしまいそうなのを留める。兄を避けていないと言ってしまったら、少しだけ嘘になる。


「わたしは、その、お兄ちゃんに、この家のことも、お父さんとお母さんのことも、押し付けてしまったでしょう。お兄ちゃんより先にこの家から出てしまったし。わがままも言っているから、ちょっとだけ、会いにくいなあって思ってたのは、あるよ。勘違いされるようなこと、しちゃったかなあって、わたし、思って……」


 兄にこんなに大切にされているなんて、知らなかった。


「わたしがこの家を出る時に、家と縁を切ってもいいって、お兄ちゃんは言ったよね。わたしはこんな家、二度と帰るかって、あのとき思ってて、お兄ちゃんにはバレちゃったのかなあって思ってた。それから、わたしは勝手に気まずくて仕方なかったの」

「芳乃」

「うん」

「そういう風に思っていることは、知らなかった」

「言ってないもの」


 手が震えていたので、そっと背中に隠す。湿ったシャツが指先に当たった。わたしの思っていることを兄に言うなんて、初めてだった。兄もわたしも、お互い深く干渉しなかった。この家から逃げることしか考えていなかった、わたしは。


「勘違いさせてごめんね。義姉さんのことも、朔くんのことも好きだけど、それはお兄ちゃんの家族だからっていうのが、すごく大きいのよ。お兄ちゃんに顔を見せるのと、お兄ちゃんが元気にしてるかっていうのを確認するために、ここまで来たの。……あのね、だから、また来るよ。お兄ちゃんに会うためにね」

「うん」

「いろいろしてくれたんでしょう。ありがとう」

「べつに……」


 ふ、と兄が息を吐いた。いつもは後ろに流している前髪が、物憂げな瞳にかかる。はっきりとした顔立ちの人だから、光の中に立っていると顔のあちこちに複雑な陰影ができる。


「……私は、ずっと、芳乃に嫌われていると思っていた」

「……そう……」

「むかしむかしの話しだよ」


 朔くんに、目線を合わせて話しかけるときと同じ声だった。語尾を柔らかくして、単語と単語をつなげる、昔の兄では考えられない話し方。

 わたしが変わったように、兄も変わったのだ。義姉と出会って、朔くんを腕に抱いて。花と花器、彼にだけ見えている美しさ、それ以外のものに興味を示さなかったあのころとは、変わった。

 感情のいっさいを表すのを控える人だった。花と花器以外で、好みを話さない人だった。熱中症になりかけていても、なにも言わない人だった。子どもの泣き声がすると、そっとその場から離れる人だった。


「父さんも母さんも、私の面倒ばかり見て、芳乃はずっとほったらかしだった。ひどいことばかりだっただろう。私は私のこと手一杯で、良い兄ではなかったし、たいしてなにも思っていなかった」

「だって、お兄ちゃんの方が大変だったでしょう。小さいころから習い事ばっかで」

「いや、でも、なにかできたんじゃないかって、今なら思うんだ」

「なんにもできなかったよ」


 兄のことだけは、嫌いじゃなかったのに。嘘偽りなく。

 それは、兄にとって、救いになるだろうか。


「わたしもお兄ちゃんも子どもだったんだから。わたしもお兄ちゃんもなんにもできなかった。わたしたちの、昔受けた仕打ちは、大人たちのせい。そう思ってもいいでしょう。誰も怒ったり責めたりしない」


 それを責め立てるのはきっと自分の声だけ。


「それに、ねえ、もう過ぎたことよ」


 なにも履いていないつま先に、風に吹き飛ばされた雫が落ちる。濃紺のクロップドパンツ。丈の長いシャツ。夏の光を浴びるだけで、風が吹くだけで、生命を謳歌しているかのように揺れている。それはただの錯覚と知っているのだけど。

 兄の前髪が風に揺れているのを見上げる。過ぎたこと、と兄が小さく呟く。


「そう、過ぎたこと。過去のこと。もう手が届かないこと。わたしは、そう思うことにした。お兄ちゃんは、どう思う?」

「……芳乃が、そう思うなら」

「お兄ちゃんはどう思うの?」

「……」


 ぐしゃぐしゃと兄が頭を乱暴にかき混ぜる。不機嫌そうに目がすがめられる。なんてことない、と心の中で呟く。これがただの地顔と無表情のせいで生まれているだけだと、義姉さんに教わったので。


「……私、だけは。過去にしてはいけないと、思っている」

「うん」

「父さんたちと、同じ過ちを犯したくないんだ」


 血反吐を吐くようだった。


「この家を受け継いだことも、家名を継ぐのも、後悔していない。勝ち取ったものだ。だけど。けれど。俺は……私は。私だけは、忘れてはならない。なにを踏みにじったのか。なにを犠牲にしたのか。私だけではなくて、この家が。忘れてはいけない」


 大きく足を踏み出して、兄の肩を掌底で押す。ぱっと兄が顔を上げた。思いっきり息を吸う。


「わたしは踏みにじられてなんかない」


 歪なからだだけど。不安定な心だけど。それは幼少期の傷が無関係だなんて、言えないけど。


「わたしは不幸じゃない。昔は、そうだったかもしれない。お兄ちゃんの言う通り、踏みにじられたのかもしれない。けど、わたし、そんなに不幸そう?」


 引きつっていなければいい、と思いながら笑う。笑うのは、苦手。


「わたしは幸せ。自分で自分の面倒を見て、おいしいご飯を食べて、自分の好きなように花を部屋に飾って生きている。小説家で生計を立てられるなんて、本当に幸運。わかるでしょ? 自分の好きなことを職業にするのは大変だって」

「うん」

「お兄ちゃんが昔のこと気にしているなら、もう大丈夫。わたしは今、すべて充分。お兄ちゃんがそんなに気にしているなんて思わなかった……」

「……」


 親指と人差し指で、丸を作って、その中から兄がわたしを覗きこんだ。


「望は」

「うん」

「あなたが見ている世界はこれくらい狭い、と言った」


 否定できなくて、曖昧な声で返事する。箱庭のような作風が、兄の持ち味。小さく狭くて限りのある世界の中に、うつくしさ。視界の狭さは、間違いではない。兄の長所であり短所であった。それでいい、と育て上げられてしまった。


「今までたくさん見逃したのよ、と言われて、真っ先に芳乃の顔を思い出した」

「……」

「私は私にできる限りのことをするしかない、と、思っている」

「いいよ。そんなの」


 本当に視界が狭い、とため息をつく。兄がどのくらいのことをしたのか知らないけど。大学生のころはよく来ていた親戚からの連絡や、母が選んだ若い男たちの写真が来なくなったことには気づいている。

 昔の自分のやってしまったことに気付いて、ざっと血の気が引いてしまうのはわかる。兄の集中力と猪突猛進さを知っているので、なんだか不安になる。きっとわたしに知らせないまま、親戚たちの見合い話をすべて断って、わたしのことを兄の管理下に置くくらいはしている。そうじゃなければ、わたしが兄と同じ苗字を名乗って花を持つことはできない。


「お兄ちゃんには、守らないといけない人たちがいるでしょ。わたしはどうにかなるよ……まあ、できれば、このままがいいかなあ。お兄ちゃんが無理してなかったらね」

「……べつに、私は、なにも」

「ならいいけど。お兄ちゃんもなにかあったらわたしに言ってね? 義姉さんのことでも、朔くんのことでも。力になれることはあんまりないかもしれないけど、もしかしたらがあるからさ。兄妹なんだし」


 芳乃、と兄が名前を呼ぶ。


「お前が幸せそうで、よかった」

「ありがとう。お兄ちゃんこそ、幸せそうでよかった」


 言い終わってから、二人で顔を見つめあって、小さく噴きだす。幸せを願うなんて、ずいぶん今更だった。


          *


 駅のホームで泣き出してしまった朔くんに、電車の窓越しに手を振る。平日の朝一番の電車なので、席は見渡す限り空いている。譲が手を引いてくれるのについて行って、席に座る。

 朔くんの泣き声がまだ聞こえてくるようだ、思いのほか譲に懐いたようだった。駅のホームで譲の足にしがみついて帰らないでと泣いていたから。


「朔くん大丈夫かなあ……」

「まあ、義姉さんとお兄ちゃんがいるからね」


 それもそうか、と譲がつぶやく。ボックス席の椅子に深く座って大きく息を吐く。

 たくさん持たされてしまったお土産の紙袋を膝の上に乗せる。こんなにあっても二人では食べきれない。わたしの交友関係は狭いので、譲の会社に持って行ってもらうしかない。

 山と山の間を通り抜けていくのを、頬杖をついて眺める。ようやく気が楽になってきた。覚悟していたよりは、悪い帰省ではなかったけど。人の家に行くのは疲れた。譲も一緒だったし。

 眠るには乗り継ぎが近すぎるので、目をつむるわけにはいかない。スマートフォンでメールに目を通して、Twitterに昨日食べたラーメンの写真を投稿する。知り合いもイラストレーターがおいしそうですねとリプライをつけたので、おいしかったですと返信する。

 有名人というわけではないけど、公的なアカウントで、自分の位置がバレそうなツイートはできない。地元に帰っていることすら言ってないが。ざっとタイムラインを眺めて、後で確認しないといけないようなツイートをブックマークする。パソコンがなかったので、しばらく情報収集は簡単なものしかしていない。帰ったらまずは部屋の掃除、食べ物を買って、洗濯もしないといけない。通常業務に戻って、書くべきを書き、すべきをし。

 なんの花を飾ろう、とふと考える。ひまわりは少し管理が難しいけど、玄関に飾ったら見栄えがするだろう。玄関と、脱衣所と、台所と、リビング。気が向いたら違うところにも飾る。収集癖を持っているせいで、花瓶は台所の棚をひとつ埋めるくらいある。近所の花屋に、明日行こう。きっと綺麗な花がある。

 同じく窓の外を眺めている譲の顔を見上げる。すぐに目があった。


「なに」

「家帰ったらやることたくさんあるなあって思ってただけ」

「確かにね……」


 譲がいじっていたスマートフォンを伏せて、椅子の上に置く。


「まあ、譲は疲れたでしょ。わたしがいろいろやっとくから、ゆっくり休んでてよ。明後日から仕事だし」

「いや、僕もするけどさ……」


 義姉さんが包んでくれたおむすびを、きれいな刺繍がされたガーゼのハンカチの中から取り出す。具材は、肉みそと、わかめとちりめんじゃこを混ぜたものの二つだった。わたしのこぶしより大きい。譲の膝にひとつずつ落とす。ラップを剥いでかぶりついた。朝が早かったので、朝ごはんは食べていない。ここからまた長い移動が始まるので、しっかり食べておかないといけない。


「今日の夕飯はどうしようかなあ」

「お惣菜でいいんじゃない。家の近くの、お弁当屋さん、このあいだ買ってきたところ」

「ああ、うん」

「あそこ、夜の十時くらいまでやってるから、そこでいいだろ」

「そんなに遅くまでやってるの? 助かるね。そこにしよう」


 生活のこまごましたことを、ゆっくり話す。洗剤の在庫、衣替え、布団をそろそろ干したいね……。


「譲は、明日はどうする? わたしは少し買い物行かないと」

「一緒に行く」

「わかった。スーパーと、ドラックストアと、あと粟谷さんに挨拶しなきゃ。お土産持たされたし。ちょっと遠出するけど、大丈夫?」

「うん。今日はさっさと休まないとなあ。まだ帰ってもいないけど」


 ふ、と自分の顔が笑った。おむすびの最後の一口でほほを膨らませた譲が眉を上げる。


「譲と帰る家が一緒って、いいなあって思っただけ」

「ん……」


 譲がわざとらしく目線をそらして、窓の外を見る。わたしも窓の外を眺める。山と山のあいだを走る線路なので、代わり映えのしない風景だ。


「おかえりとか、ただいま、いただきますって……」

「うん」

「一人暮らしだと、言わないから、味気ないよな。芳乃に、おかえりって言われるのが一番好きだよ」


 そんなこと言うために目をそらしたのか、と思いながらわたしも努めて遠くを眺め続ける。一番好き、の、響きはこんなに甘いものだっただろうか。顔がまともに見れないくらい。


「家に灯りがついているのを外から見るのが好き。あとは、扉を開く前に料理のにおいがするのも。花を部屋によく飾ってくれるのと、二人で話すのと、」

「ちょっと、急にどうしたの」


 さすがに口をはさむ。なにを急に話し始めているのだろう。譲が口元を隠しながら笑う。


「芳乃が、一昨日、僕の好きなところを言ってくれたから、お礼をしないとなあって思ってただけ」

「今は素面だからやめて」


 はは、と短く笑い声が上がる。お酒も飲んでないのに、面と向かって好きなところを言おうなんてできない。譲も、そうだろうに。……いいや、そうなのかは、わからないけど。

 ペットボトルのお茶を口の中を湿らせる程度に飲む。嫌だとは言わないけど。


「また酒飲んだときに言えって?」

「ま、あ、うん……」

「芳乃は照れ屋だからなあ。芳乃、」


 つま先を軽く蹴られた。顔をあげる。うんと優しく笑った譲が、こっちを見ていた。


「また行こう。楽しかったよ」

「うん。ありがとう……」


 少し考えてからもう一度、ありがとう、と言う。二回も言わなくていい、と譲が笑う。この小さな旅路に譲が付き合ってくれたのが、どれだけわたしにとっての救いになったのか、彼はほんの少ししかわかっていない。なにもわたしは返せないのに。

 考えが暗い坂を転がり落ちていくのを止めるために、おむすびをほおばる。わざわざ焼いてくれたのだろう、お米に焦げ目がついていて、香ばしいにおいがする。

 電車は山と山の間を緩やかに曲がりながら走っている。わたしの生まれ故郷がずっと遠くに行くのを眺める。また行こう、と思ったのは、生まれて初めてのことだった。

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