空の目

北山双

空の目

 雑居ビルの屋上で、両手に収まる程の木椀に注いだ酒は、金色とも緑色ともつかない色をしていた。そこに失せていく日の光が映り、俺の中に宿った人物の影を映し出す。


 人種や年齢はよくわからない。四角い顔を縁取るフワフワした髪と、絵筆のような眉毛は真っ白だが、その下の大きな目はぎょろりとしていて真っ黒で、鋭く強い光を放っている。鼻と唇は太く、なんだか達磨大師や天狗を連想させる。

 ――こんな色の空と、石と鉄でできた地で、故郷(くに)の酒を味わうことになるとは。

 初めて聞いた彼の声は、真夜中に遠くから響く幹線道路の唸りにも似て、金属的で虚ろな感じがした。

「こんなところで悪いな。だがこっちにも都合があるんでね」

 ――十分だ。空と地と酒、それだけで十分。

 暮れかけた空には、夏と秋の狭間の雲が広がっている。ある所ではウロコを見せ、ある所ではモクモクと湧き。彼はまぶしそうに雲と空を眺めている。

「貴方の国の空は、どんな風だった?」

 ――わたしの目と同じだ。と、人にはよく言われたよ。空の目を持つから、人をあの世に送れるんだ、と。

「空の目、ねぇ。カッコイイっすね」

 空の目の男は微かに笑い、一口酒をすすった。舌を焼く甘酸っぱさと喉に残る微かな苦み。すぐ後から熱がやってくる。口に、喉に、胃に。

 思わず吐いた息が、花のように香った。

 ――ヂンタムトの酒は強すぎはしないかね。

「このくらいならまぁ。というか変わった味だな。ホントに果実酒なんですかね」

 ――外から来た人はみんなそう言う。ムトの木があるのはシロキルの山だけだから仕方がないが。


 最初に味わった強さは、二口め、三口めと進めるうち少しずつ馴染んできた。同時に、空の目の男の感覚が体の中に広がってくる。視界の色彩がぐっと鮮やかに変わり、下から聞こえてくる都会のノイズや臭気が耳と鼻に突き刺さってくる。

 それを和らげるようにもう一口すする。

 感覚が弾け、彼が見てきた幾つもの同胞の死の瞬間が頭の中に広がる。息苦しいほどに。

 その時々、彼の手元には今俺が手にしている木椀があった。


 詳しい地理は忘れてしまったが、「シロキルの山」と呼ばれる高山に住み着いた少数民族の中でも、ひときわ高い場所に住む部族。それが空の目の男の部族だ。


 彼の部族では、死にゆく人にヂンタムト酒を含ませるのだが、その時に使われるのがこの木椀だ。木椀の底にはシロキルの山で採れる黒い石が埋め込まれており、それが死にゆく人の魂を受け取り、完全に魂が石に移った時―即ち息を引き取った時―シャーマンである彼が酒ごと魂を呑み干し彼岸に送る。


 いつから続いてきたのかわからない程ずっと繰り返されてきたこの儀式は、彼の代で途切れることになる。

 外部から持ち込まれた病で部族ごと消滅したのだ。

 病を持ち込んだ人々は部族を助けようともしたのだが、人々が都会からシロキルの山に再び来た時には、もはや空の目の男しか生き残っていなかった。

 程なくして男も同じ病を発症し、病院に連れていかれたものの間に合わずに死んだ。


 木椀は彼の家に置かれたままで、やがて儀式の事など知らない輩に二束三文で売られた。


 それから、木椀は様々な国と人とを渡り歩き、様々な民族の「死の儀式」を研究している大学の教授の手を介して、ヂンタムト酒の小瓶と「部族滅亡の悲劇」という重すぎる謂れと共に俺の所に来た。

「キミの同業者の商売道具らしいんだけど。使ってみる?」

 重い謂れとは裏腹の軽いノリで渡された瞬間、例の天狗のような顔が脳裏に閃いた。木椀の底の石と同じ真っ黒な目に射抜かれた時、自分で考えるより先に言葉がでた。


「試す価値はありそうだ」


 今から思うと、俺、または彼が言った、というよりは、それぞれ別の思惑が合致し、二人同時に声が出た、という感じだった。

「俺は単純に「異国の同業者」への好奇心からだったな」

 ――わたしには君の好奇心が満月に見えた。深き夜の帳を打ち抜く窓のような。


 木椀の中の人影は、中身が減ったおかげで薄れてきている。というか、俺の顔と彼の顔がオーバーラップしている。これを飲み干した時、彼は自分が送ってきた人々と同じに、俺を介してあの世に行くのだろう。

「夜を超えては行けそうですか」

 太陽はもう消え、日の名残りも次第に薄れてきていた。空が藍色に沈んでいくのと対照的に、街は賑やかな人口の光を灯し始めている。

 ――君のおかげでうまくやれそうだ。ありがとう。またどこかで。


 日の名残りと街の灯りを映す彼の目が大きく瞬きした。

 同時に最後の一口が口腔から喉を滑り、胃の中へと沈む。指先から熱が引き、ボリュームを絞るように音と色彩が薄れていく。

 長く息をついた瞬間、足元から鳥のような影が飛び立ち、最後の光とともに消えた。


「またどこかで、なんて言われたら返しづらいじゃないか。借り物なのに…」

 俺は手の中の木椀を見つめ、ため息をついた。彼の気配はすっかり消えていたが、花の香はまだ漂っていた。

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空の目 北山双 @nunu_k

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