番外編

残っていた感情(依人side)

 >>依人視点


 五月某日、毎年行われる学校行事である球技大会の日。

 依人にとってこの日は忘れがたいものとなった。




「試合終了!」


 審判を務めるバスケットボール部の男子生徒の声に、依人は我に返った。


(結果はどうなった?)


 試合中、無我夢中で周りが見えていないし、よく覚えていない。


 ちらりとデジタルの得点板を見ると、最後の記憶では同点だったはずだが、僅か二点だけ自分のクラスの点が上回っていた。


(まさか入ったのか)


 決勝戦への切符を得られたのは、依人が闇雲に投げたボールがゴールに入ったことが要因のようだ。


 チームメイトのクラスメイトとハイタッチを繰り返して喜びを分かち合いながらコートを出ると、学年問わず十数人の女子生徒が目の前に現れた。


 皆タオルやらスポーツドリンクが入ったボトルを手にしている。


「お疲れさまです!」


 彼女達は訓練されたかのように寸分の狂いもなく、依人に労いの言葉をかけた。


「どうぞっ」


 使ってくれと言わんばかりに彼女達は依人に差し出した。


「わざわざありがとう。でも自分で用意してあるから気持ちだけ受け取るよ」


 確か予備のタオルが教室に置いてある鞄に入っていたはずだ。

 依人はやんわりと断ると、残念がる彼女達の顔を見ない振りをして教室へ向かうべく体育館を後にした。


 体育館を出て、教室棟の一階の廊下を歩いていく。

 そこは人気がなく静寂が広がっていた。


 日頃依人の周りは常に女子生徒がいて賑やかだ。

 その静けさは、依人をほっと安心させてくれた。


 三年生のフロアは階段を上がった先の二階にある。

 もうすぐ階段に差し掛かろうとした時、依人は壁を伝って歩く一人の女子生徒を見かけた。


 体操服の色は統一されており、学年は不明だが、小柄で華奢な体格からして一年生に見える。

 彼女をよく見ると、歩き方は不自然で右足を庇っている。


 保健室はここからまだ遠くにあり、依人は何故か放っていくことが出来ず階段を通り過ぎて彼女の元へ向かった。


「足を痛めているの?」

「っ!」


 いきなり声をかけたせいなのか、彼女は驚いて肩をびくっと揺らして勢いよく振り向いた。


 その時、依人は衝撃を受けた。


 肌荒れとは無縁なほど滑らかな雪のように白い肌、黒目がちの形の良い大きな瞳、瞳を縁どる長い睫毛、さくらんぼのように赤い小さな唇。


 一言で言うと可憐な美少女。

 依人は思わず息を呑んだ。


「……」


 振り向いたきり固まったまま無言を貫く彼女。

 見る見る内に頬は赤く染まりだした。


「足、怪我しているよね?」

「……は、い」


 依人がもう一度尋ねると、我に返った彼女は無言のまま躊躇いがちに小さく頷いた。


 その声はとても小さいものだったが、鈴を転がしたようなソプラノはとても甘かった。


「嫌じゃなかったらおぶって保健室まで連れて行こうか?」

「そ、そんなっ、悪いです……っ」


 彼女は更に頬を赤らめたまま、ふるふるとかぶりを振った。


 潤んだ瞳は、身長差のせいで自ずと上目遣いになっており、それを目の当たりにした途端、依人の胸は騒ぎ出した。


(なんか放って置けないな……)


 意図があるのかないのか定かではないが、彼女の仕草を見ていると、依人の中にある庇護欲がいたく刺激された。


「いいから背中に乗って」


 依人はしゃがみこみ、おぶる体勢になった。


「し、失礼します……」


 彼女はおずおずと依人に近寄ると、背中に乗ってぎゅっと肩に掴まった。

 彼女が掴まっているのを確認すると、依人は立ち上がり、保健室まで歩き出した。


(軽い、)


 内心彼女の軽さに目が丸くなった。

 同年代の女子はダイエットに関心を持つ者が多いが、彼女の場合、これ以上痩せると身体が壊れてしまうのではないか。


 そう思うほど依人は彼女に不安を覚えた。



 保健室に辿り着くと、すぐさま彼女は養護教諭から手当てを受けた。


 足はただの捻挫だった。

 怪我の原因は、人とぶつかった時に転んでしまった拍子に足を捻らせてしまったようだった。


「名前書いてちょうだい」


 養護教諭から保健室を利用した際に記帳する用紙を受け取り、彼女は小さな手でボールペンでさらさらと書いた。


“佐藤縁”


 か弱い見た目に反して力強く達筆な字を目にした途端、依人はあることを思い出した。


“今年の新入生にレベルの高い女子が二人いる”


 四月の入学式を終えた後、クラスの男子生徒がそう騒いでいた。

 その内の一人が彼女……改め、目の前にいる縁だったのだ。


(これだけ可愛いと、男は放っておかないよな)


 縁の整い過ぎた顔を見て、依人は内心納得したのだった。


「失礼しました」


 保健室を後にし、縁は依人に深く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「そんなに畏まらないでいいよ。骨折じゃなくてよかったね」

「はい。今はさっきと違って嘘みたいにそんなに痛くないです」

「っ」


 縁がそう言ってはにかんだ瞬間、胸の中が締め付けられる感覚に襲われた。


「そう言えば、名乗ってなかったね」


 依人は胸の切なさを振り切るように名乗ろうとしたが、縁に遮られてしまった。


「あの……存じ上げています……入学式で在校生代表の挨拶をしていましたよね? ――桜宮先輩」


 頬を染めて小さく挙手しながら言ったのは苗字だとしても、嬉しさと切なさが入り混じった感情が胸の中で溢れ出して止まない。


「覚えていてくれたんだね」


 平静を装い、にこりと微笑みかけると、縁の大きな瞳が揺れた。


「はいっ。だって……」


 縁は何か言いかけたかと思えば、口を噤んで顔を隠すように俯き出した。


(何言いかけたんだろ……)


 依人は気になってしゃがみ込むと、縁の顔を覗き込むように見つめる。


「〜っ!」


 目が合うと、縁はそらすように潤んだ瞳を伏せた。


 縁の一挙一動が見逃せない。

 ずっとこの目に映していたい。


 一歩間違えると、ヤンデレにも捉えかねない考えが無意識に頭を過ぎった。


(名前しか知らない子に何考えているんだよ。今の俺は頭がいかれてる)


 内心、自分自身に突っ込みを入れた。


「桜宮!」


 突然耳に入った声に、依人は咄嗟に立ち上がり縁から距離を置く。


 声のする方へ視線を向けると、先程まで一緒に試合していたクラスメイトの男子がいた。


「もうすぐ決勝戦だから早く戻って来いって」

「悪いな。今行く」

「急げ急げ!」


 依人は駆け出す寸前、振り向くと縁に声をかけた。


「佐藤さん、またね」

「あ、はい……っ、さよならっ」


 依人は後ろ髪を引かれる思いで、縁と別れて体育館へ向かった。


(ボールが入らなければ良かったのに)


 もっと縁と一緒にいたい。

 そんな思いが依人の脳内を支配していった。


 この時、依人は自覚したのだった。


 消え失せたかと思った誰かを想う感情を、名前しか知らない縁に抱き始めていたことにーーーー


 その日以来、依人は学校で縁を見かける度に挨拶をするようになった。


 始めはぎこちなく返してくれた縁だったが、衣替えが済んだ頃になると、次第にぎこちなさはなくなり、今では縁から挨拶をしてくれることが少しずつ増えていった。


 六月のある日の昼休み、昼ご飯を買いに購買部に向かうと、並ぶ列の最後に縁がぼんやりと突っ立っているのを見かけた。


「佐藤さん、」


 依人はすかさず縁の後ろをゲットすると、軽く肩を叩いて話しかけた。


「こんにちはっ、先輩」


 縁は振り向くと照れながらにこりと破顔させた。


(癒されるな……可愛い)


 縁の愛らしさを目の当たりにして、頬が緩みそうになる。


「まさかここで会うなんて思わなかったよ」


 依人はよく購買で昼ご飯を買っていたが、これまで縁を見かけたことがなかったので、意外だと思った。


「今日は寝坊して、お弁当作れなかったんです」

「自分で作ってるの?」


 料理が不得意な依人は、意外だと言いたげに目をぱちぱちと瞬きをして驚きを露わにした。


「はい……お母さんが仕事で忙しいので、家事全般はあたしの担当なんです」

「……勉強との両立は大変だね」


 父親は? と言う疑問は喉まで出かかったが、すんでで飲み込んだ。

 土足で踏み込む真似は失礼極まりないし、何より縁に無神経な男だと軽蔑されたくなかったのだ。


「慣れましたよ」


 縁はなんてことないと言いたげに微笑んだ。

 縁のその微笑から、健気な一面が垣間見えた気がした。


 それぞれ昼ご飯を購入して、二人は途中まで肩を並べて教室棟へ向かう。


「あのっ」


 階段を登る前に縁は依人に声をかけた。


「あの、今更なんですけど、今度球技大会の日のお礼させてくれませんか?」

「お礼?」

「はい、本当はすぐにでもしたかったんですが……あたしに出来ることならなんでも言ってください」


(男に“なんでもする”なんて言っちゃ駄目だって……)


 良く言えば純粋無垢、悪く言うと無自覚かつ無防備。

 依人はそんな縁の危うさに、嘆息しそうになった。


 本当なら、危機感を持ってくれ、とたしなめたいが、縁はただ純粋に感謝しているだけなのだ。


「じゃあ、俺のお願い一つ聞いくれる?」

「はいっ、言ってください!」


 依人が応えると、縁は瞳をきらきらと輝かせた。


 依人は少し膝を折ると、縁の耳元にそっと顔を近付け、


「明日一緒にお昼食べてくれる?」


 内緒話をするように囁いた。


「お礼それでいいんですか……?」


 縁は依人の申し出に驚いているのか何度も瞳をぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 いつの間にか頬に赤みが指している。


「うん、それがいい」

「っ」


 可愛い、と言う本音を噛み殺して、指先で頬を撫でると、縁は頬を更に赤く染めてまぶたをきつく閉ざした。


「明日の昼休み、旧校舎の資料室横の空き教室の前でね」


 縁は無言で何度も小さく頷いた。


「また明日ね」


 依人はぽんと縁の頭を撫でると、颯爽とその場を後にした。



 翌日の昼休み。


「すみません、お待たせしました……」


 指定した場所の前で待っていると、心地いいソプラノが耳に入った。

 ぎゅっとランチトートを胸に抱えながら見上げる姿に、胸が痛くなる。


(それは計算……?)


「俺もさっき来たばかりだよ」


 依人は平静を装ってスライド式のドアを開けると、どうぞと促すように縁を先に入れた。


 教室で友人と食べることもあるが、たまに静かに過ごしたい時はここを利用していた。

 初めて足を踏み入れた時は埃だらけだった部屋だが、定期的に掃除をしているので今では綺麗に保たれている。


 隅に固まっている机を二つ真ん中まで運んでくっつけると、そこに腰をおろした。


「いただきます」


 二人は一緒に手を合わせて言うと食事を始めた。


 依人は不躾かと思いながらもちらりと縁の食べている弁当を盗み見る。


 小さな二段の弁当箱があり、一段は小さな梅干しが乗った白いご飯、もう一段は卵焼き、アスパラベーコン、里芋の煮っころがし全て手作りと思しき美味しそうなおかずがあった。


(佐藤さんのお弁当美味しそう……)


 過去に貰い物のフォンダンショコラで腹を壊した経緯があって人の手作りが苦手だった依人だが、何故か縁の弁当を見て食欲がそそられた。


(彼氏になる奴が羨ましい)


 登校途中コンビニで買ってきたサンドイッチを口にしながら、そんなことを思っていた。


 食事中、どちらも話しかけることなく静かだったが、依人は縁といる時間が心地いいと感じていた。


「ごちそうさまでした」


 縁が食べ終わるのを見計らうと、一緒に手を合わせる。


「佐藤さん、これあげるよ」


 依人は空き教室へ向かう途中、自動販売機で買った紙パックの黒ごまラテを買った。


「いいんですか?」


 縁は驚いて目を丸くさせると、慌ててランチトートから黒猫の絵が描かれた小さながま口財布を取り出す。


「お金はいいよ」

「だめですっ。ただでさえ面倒かけちゃったのに、甘えられませんっ」


 律儀な縁は強引に百円玉を依人に握らせた。


「それなら受け取るよ」


 依人は苦笑いを浮かべながらそう応えると、縁は「よしっ」と両手で依人の手を握った。


 触れた縁の手に、鼓動が過剰に跳ね上がった。


(中学生かよ……俺)


 豊富とまでは行かないが、それなりに経験のある依人は縁に対する己の反応に呆れた。


(俺、佐藤さんに振り回されてるかも。だけど嫌じゃない)


 握られたままの手を見つめながら考えていると、突然縁は素っ頓狂な声を上げた。


「……あ、あぁあっ、いきなり手を握ってごめんなさいっ!」


 縁は自分のした行動に気付くと、頭を抱えながら狼狽えだした。


(佐藤さん、結構天然……?)


 挙動不審な縁が面白くて、我慢出来ず噴き出してしまった。


「先輩!?」

「ごめん……佐藤さんの反応がツボったみたい……」


 今縁の顔を見ると、余計に笑えてくる自信があったのでので机に突っ伏して落ち着くのを待ちながら堪える。


「先輩……わ、笑い過ぎですっ!」


 顔が見えなくても、声音から狼狽えているのが手に取るように分かってしまい、また笑いが込み上げてくる。



 ようやく落ち着いてきたので顔を上げて、縁の顔を見ると、少し膨れっ面をさせていた。


「ごめんね」

「……キョドってておかしいって思ってますよね」

「おかしくはないよ。佐藤さんのそういうところ可愛いと思うよ」


 決してその場しのぎではない。

 大人しくてふわりとお人形さんのように愛らしく微笑む縁が、感情を露わにするところを見て、面白いの他に人間らしくて素敵だと思った。

 だから、心に浮かんだことを要約して“可愛い”なんて口にした。


 縁は依人に向けた目を見張ったまま硬直した。


「先輩って、誰にでもか、可愛いなんて言えるんですか?」


 心外だった。

 まさか軽い男だと思っているのだろうか……。

 暇潰しだとか、欲求解消でするその場限りの付き合いは、する人間もされる人間も嫌悪を抱くくらいだ。


「まさか。本当は騒がれるのは好きじゃないんだよ」


 縁に会うまでは、関わる女子は皆同じように見えた。

 己の内面を深く知らないはずなのに、熱に浮かされたように自分を囲む女子の心理が理解出来なかった。


 そう思ってしまったのは、何より自分が一切興味を示さなかったからだろうと依人は思う。


 しかし、縁だけは違った。

 もっと知りたい、色んな顔を傍で見ていたいと願わずにはいられないのだ。


 午後の授業前の予鈴が鳴り出した。


「そろそろ戻らなきゃね」

「……そうですね」


 縁は慌てて弁当箱を和風の弁当包みで包んで片付け始めた。


 もう少し二人だけの時間を堪能していたいが、授業をサボタージュする訳にはいかない。


 空き教室を出ると、二人で肩を並べて教室棟へ向かって歩き始めた。


「あのっ、」


 教室棟に入り、一階の階段の前で縁は立ち止まると、依人に声をかけた。


「あたし……先輩とお昼休みを一緒に過ごせて、楽しかったですーーーーさようならっ」


 縁は勢いよく深く礼をすると、手にしたランチトートを抱えるとそのまま階段を登り始めた。


「待って」


 依人は縁の腕を咄嗟に掴んでいた。


「先輩!?」


 縁は腕を掴んだ依人の手と顔を交互に見てはあわあわと狼狽えている。


 衝動的な行動だった。

 何か用が出来た訳ではなく、ただ引き留めたかった。


 今生の別れではあるまいし、二度と会えなくなることなどないことは分かり切っているのに。


(あれ……? 今の俺、意味の分からないことばかりしてる)


 決して多くはない過去の恋愛は、もう少し上手く立ち回れていた。

 しかし、縁を前にすると、自ずとポンコツと化してしまうのだ。


「明後日、また一緒に食べよ?」


 依人は縁に怪しまれたくなくて、咄嗟に次の約束を取り付けてみた。


 縁はぽかんと口を半開きにして、呆然とした様子で依人を見つめていたが、


「……はい」


 我に返ったのか、縁は潤んだ瞳を細めて愛らしい笑顔を見せてくれた。




 それがきっかけかは定かではないが、週に何度か一緒に昼休みを過ごすようになった。




「すみませんっ、遅く、なりました」


 ある日の昼休み。

 中々来ない縁を食事をせず待っていると、昼休み開始から二十分ほどで息を切らしながら現れた。


「あぁ、大丈夫だよ。俺もついさっき来たばかりだからそんなに待ってないよ」


 真面目な縁に罪悪感を抱かせぬように、依人はそう嘘をついた。


「それより、息切らしてるけど、廊下走った?」

「……先輩を待たせちゃいけないって思って」

「急いでくれたんだ。でも、怪我するといけないから今度はゆっくり来てね」


 手を膝の上に置いて、肩を上下させる縁の元へ近付き、少し乱れた縁の髪を手櫛で整えた。

 縁の髪は柔らかくてふわふわしている。


 幼い頃飼っていた柴犬の毛並みを思い出していた。


 遠くから見ると、縁は精巧に作られた人形のように見えるが、今の印象は小さな柴犬かうさぎと言った小動物の方が強い。

 実際縁に対して愛くるしいと思うことが多くなっている。


 ふと、縁の様子を見ると、目を伏せて、真っ赤な顔でぎゅっとランチトートを握り締めていた。


「ごめん、くすぐったかった?」

「いえ、大丈夫です……お昼食べましょう」

「そうだね」


 縁の一言で、ようやく二人は食事を始めた。


 相変わらず、食事中はあまり言葉を交わさない。

 しかし、そんな一時を何度も過ごしても、依人にとって心地いいものだった。


 おかかと細かく刻んだチーズが混ざったおにぎりを食べる縁の様子は、まさに小動物そのもので。

 依人はその愛らしさに頬が緩みそうになり、ペットボトルの緑茶を一気にあおった。



「佐藤さん」

「はい」


 昼ご飯を食べ終え、弁当箱を片付ける縁に声をかける。


「嫌じゃなかったら、連絡先交換しない?」

「あの、いいんですか?」


 弁当包みを結ぶ手が止まったまま、縁は目を丸くさせている。


「今日みたいにすぐ行けない日があったら便利でしょ?」

「そうですね」


 縁はセーラー服の胸ポケットから薄めのスマートフォンを取り出した。


 今は便利な世の中だ。

 紙に控えなくても、メールに載せて送らなくても、赤外線通信やQRコードですぐに交換が出来るのだ。


「佐藤さんのアカウントはこれ?」

「そうです。こっちが、先輩のですよね」


 二人はスマートフォンの画面を見せ合い、交換出来たことを確認した。


 連絡先を交換したことがきっかけで、用がなくても、軽くメッセージを送りあって雑談をするようになった。


 出会った頃よりも距離が少しずつ縮んできたものの、先輩と後輩の距離感は相変わらずだった。


 変わったことと言えば、依人の中にある縁への想いが大きくなったことだ。


 無意識の上目遣いで見つめられたり、笑いかけられると、抱き締めたい衝動に駆られてしまう。

 かろうじて、縁を傷付けて泣かせたくないと言う思いが無けなしの理性を働かせていた。


 いい先輩の顔を続けることに、疲れを感じ始めた頃。




「縁ちゃん、いつも勉強見てくれてありがとう」

「ううん。困ったときはお互い様だよ」


 朝、生徒用玄関の前で縁が同学年だろう男子生徒と話をしている場面を見かけた。

 これまで縁が他の男子と話しているところを見たことがなく、依人はその二人から目を離すことが出来ずにいた。


 男子が鼻の下を伸ばしている辺り、縁に惚れていることは明白だった。

 表立ってはいないものの、水面下では縁に憧れを抱く男は唸るほどいる。


「それで縁ちゃんにお礼がしたいんだ。ケーキ奢らせて?」

「そんなのいいよっ」

「いつもお世話になってるから、これくらいはしなきゃ」

「あの、ありがとう……」

「今度の休み行かない? オススメの店案内するよ」

「う、うんっ」


(……面白くないな)


 舌打ちしそうになる。

 好きな子が他の男と話しているところを見ると、虫唾が走る。


(無性にイライラする……こんなこと今までなかったのに)


 今までの恋でこんな強い嫉妬を抱いたことはなかった依人は、初めて知る己の一面に動揺を隠せなかった。


 このまま縁と向き合えば感じの悪い態度を取ってしまいそうな気がして、依人は気付かれないようにその場から立ち去った。


 そしてーーーー


“今日の昼休み、一緒にご飯食べよう”


 教室へ向かいながら、スマートフォンを操作し、縁宛にメッセージを送った。


 教室に辿り着き、クラスメイトの挨拶をそこそこに返しながら席に向かっていると、ズボンのポケット中にあるスマートフォンが震えた。


 早速、取り出して画面に指をすべらせると、縁から返事が来ていた。


“分かりました”


 可愛らしい笑顔の顔文字を添えたそれに、密かに抱いた苛立ちは嘘のように消え去った。


「俺は現金なヤツだな……」


 依人の独り言は、教室のざわめきに溶け込んだ。


 昼休みになり、依人はすぐさま教室を出て行き、足早に空き教室へ向かう。


 少しでも縁と過ごす時間が欲しい。

 そんな思いが依人を突き動かしていた。


 しかし、その歩みは突然止まった。


 ズボンのポケットに入れてあるスマートフォンが震えたのだ。

 長めの振動からメッセージの受信ではなく、着信だと判断する。


 依人は何も考えずにスマートフォンを取り出し画面を見たが、そこに表示された縁の名に目を丸くさせた。


「もしもし」

「もしもし、桜宮先輩ですか!?」


 着信は縁だが、耳に届いたのは縁とは違う声だった。


「あたし、縁の友達の北川鈴子です」


 鈴子の声音は、明らかに焦りがあり、依人は只事ではないと感じた。


「佐藤さん、何かあったの?」

「縁、さっきの授業で倒れました」


 鈴子の発言に依人の頭の中は真っ白になった。


「寝不足が原因みたいで、今は保健室で休んでーーーー」


 かろうじて鈴子の話を聞き取ると、踵を返して保健室に向かって駆け出した。


 保健室のドアの前に立つと、二回深呼吸をして逸る気持ちを落ち着かせる。


 ドアの取っ手に手をかけて静かに開けて中へ入ると、出迎えたのは長身の少女だった。

 緩く波打った栗色の髪に、縁とは違う大人びた綺麗な顔立ちをしていた。


「君がさっき電話した」

「あたしが北川です。さっきは驚かせてごめんなさい。今縁はこっちのベッドに寝ていますよ」


 鈴子は三つ並んでいるベッドの内の、一つだけカーテンで仕切られている方へ歩いていった。


 鈴子がそっとカーテンを開けると、そこには静かな寝息を立てて眠っている縁がいた。


 深刻な症状の可能性を考えていた依人は、その縁の穏やかな寝顔を見てほっと安堵の息をついた。


「んっ」


 しばらく声を殺して、様子を見守っていると、縁はようやく目を覚ました。


「あれ……あたし……」


 寝ぼけ眼に舌っ足らずの物言いは、普段より幼く見える。


「授業中倒れたのよ。心配したんだから」

「う……ごめんね?」

「また、本読み耽って夜更かししたんでしょう」

「うん……辞め時が分からなくて、つい……ごめんね」


 呆れ気味に窘める鈴子と、しょんぼりとペコペコと謝る縁。

 二人のやり取りを見ていると、姉妹のように映る。勿論、姉は鈴子で妹は縁である。


「没頭出来る趣味があるのはいいことだけど、ほどほどにしないと身体壊すわよ。桜宮先輩も心配したんだから」

「分かったよ……え、鈴子、今何か言った?」


 寝ぼけ眼を大きく見開かせる縁を見た鈴子は、こっちを見ろとように人に視線を送った。


「先輩!?」


 目が合うと、縁は大きく瞬きを繰り返した。


「あの、約束したのにごめんなさい……」


 縁は薄い掛布団を引っ張って鼻の高さまで顔を隠し、親に怒られた小さな子どものように気まずそうに依人の顔を窺っていた。


「気にしないで。風邪とか深刻な病気じゃなくてよかったよ」

「ご心配お掛けしましたっ」


 布団をぎゅっと握り締めたまま、縁は深く頭を下げた。


「寝不足って。北川さんが言ってたように小説読み耽っていたの?」

「はい。読んでみたかった小説が、上中下もある長編で、三日間ほぼ徹夜状態だったんです……やり過ぎですね」


 襟に結ばれたえんじ色のスカーフを弄りながら、縁はしどろもどろに打ち明けた。


「そこまでいくと本当に壊すよ」


 そんな縁の無茶に、依人は苦笑いを隠すことが出来なかった。


「また放課後迎えに行くから、それまでゆっくり寝てて?」

「迎えって」

「家の近くまで送るから。今の佐藤さんが一人で帰るのは心配だよ」

「だいじょうぶですよ?」

「また倒れたらいけないから、ちゃんと送らせて」


 念を押して言うと、縁は渋々と「分かりました……」と頷いた。




 放課後になり、宣言通り縁を迎えに行った。


 保健室へ入ると、縁は既に鞄を持っており準備万端だった。

 目の下のクマが残っているものの昼休みよりは顔色が良くなっている。


「佐藤さんは電車通学?」

「学校(ここ)から近いので歩きですよ」

「俺も徒歩十分のところだよ。俺達そこそこ近所みたいだね」

「意外ですね……でも、あたしを送ったら遠回りになりませんか?」


 眉を下げ心配そうに依人を窺う縁。


「気にしなくていいの」

「わぁあ」


 依人はわしゃわしゃと犬にするように縁の髪を撫でた。


 その後、縁の案内で丁重に自宅まで送り届けた。


「ーー今日はありがとうございました……っ」


 クリーム色のごく普通の一軒家の前、縁は何度もペコペコと依人に頭を下げた。


「今日はゆっくり休むんだよ。読書は禁止ね」

「はい……」


 読書禁止令を出されしょんぼりした縁の頭に、垂れた柴犬の耳の幻が見えた。


「そろそろ帰るね。お大事に」


 明日また会えると言うのに、縁相手だと別れが惜しくなる。

 しかし、体調不良の縁を炎天下の中、いつまでも留まらせる訳にはいかず、後ろ髪を引かれる思いで踵を返した。


「あの……っ」


 来た道を戻ろうとした瞬間、縁の小さな声が耳に入り、依人の歩みはピタリと止まった。


 呼び止められるとは露ほども思わず、内心驚いたが、ゆっくりと振り向き、縁に穏やかな笑みを向ける。

 しかし、その笑みは縁の顔を見た途端、消えてしまった。


 縁の丸っこい大きな瞳は潤んでいたのだ。


「佐藤さん、どうしたの?」


 思いの外言い方がキツかったのか、知らぬ間に失礼なことを言ってしまったのか。

 見当が付かないが、華奢な肩を震わせて涙を堪える縁を放って置くことは出来なかった。


「ごめんなさい。何度も迷惑を掛けてしまって……」


 縁が途切れ途切れに言ったのは、依人への謝罪だった。


「次からはしっかりするから、困らせないようにするから……嫌わっ、」


 次第に涙が溢れ出し、決壊した。


 頬を涙で濡らし、手で乱暴に涙を拭いながら小さな嗚咽を零す。


 依人はそんな縁を気付けば抱き寄せていた。


「佐藤さんを嫌いになることは後にも先にもないから」

「せん、ぱい……?」


 腕の中にいる縁は、涙は止まったものの目を大きく見張っていて、驚きを隠せないようだ。

 胸を押し返すなど拒否をしていない辺り、嫌がっていない……と思いたい。


「よく聞いて」


 依人の言葉に、縁はゆっくりと目線を上げて依人の方へ向けた。


「……好きです。俺と付き合ってくれませんか?」


 縁の頬はすぐに真っ赤に染まっていった。


「え……あの……」


 告白をしてから、縁はキョロキョロと目線を動かしてはエラーを起こしたロボットのように挙動不審になっていたが、しばらくして落ち着きを取り戻したのか再び依人を見つめた。


「俺が佐藤さんに構うのは、ただ好きだから。これから先輩じゃなくて“彼氏”として佐藤さんの傍にいたいけど、いいかな?」

「……はい……っ」


 縁は少し沈黙した後、相変わらず真っ赤な顔のまま大きく頷いてくれた。


「ありがとう」


 依人は唇にしたい衝動を抑えて、頭頂部に口付けを落とした。



 縁が、依人は遊びで自分を彼女にしたという誤解をしばらくしていたと後日知ることとなるが、二人の関係は確かにここから始まった。


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王子様の溺愛 水生凜/椎名きさ @shinak103

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