王子様の溺愛

 ――――二年後。



 縁は高校三年生になった。


 二月初旬の朝、縁は母とシャベルを駆使してせっせと雪掻きに勤しんでいた。


 北国の冬は、前住んでいた街と比べて寒さが厳しい。

 札幌は釧路と比べると気温は多少高い方だが、積雪量が半端なかった。


 縁の住むところは市内の都心から離れており、地下鉄の駅はあるものののどかな風景が広がっている。

 辺り一面雪で真っ白だ。


「縁、そんなに根を詰めていると倒れちゃう」

「だって、緊張するもん。雪掻きしてなきゃ死ぬ!」


 縁の顔に緊張の色が出ているには訳があった。


 今日は志望校の合格発表を控えているから。

 朝の十時に大学のサイトに合否の結果が公開されるのだ。


 札幌に越してからは、縁は勉強漬けの日々を送っていた。


 依人のいない日常が寂しくて枕を濡らす夜もあったが、また会いたい一心で予備校に通い受験勉強に力を注いだ。


 その結果、先月の末に受けた試験は手応えがあった。しかそ、まだ安心は出来ず今日まで寝不足の毎日だった。


 しばらく雪掻きに集中していると、コートのポケットの中にあるスマートフォンから十時を知らせるアラームが鳴り出した。


(き、来た!)


 縁はシャベルを雪が片付いている塀に立てておき、一度自宅の中へ入った。


 リビングのソファーに座って、スマートフォンで大学のサイトにアクセスする。

 トップページのお知らせに“一般試験A合格発表”が表示されていて、縁は震える指先でそれをタップし、合否照会で必要なIDを入力した。


「……」


 縁は数分無言で画面を凝視していた。

 その間、何度も自分の頬を抓ったりした。


 スマートフォンを手に立ち上がると、フラフラと雪掻きをする母の元へ向かう。


「縁……?」


 様子の変わった縁に、母はただ見つめるしか出来なかった。


「……った」

「え?」

「受かったよ……!」


 縁は母にスマートフォンを手渡すと、こんもり積もった手付かずの雪の山にダイブした。


「やったっ、やったよっ、やったぁぁっ!」


 雪の上に寝そべってごろごろしながら、縁は歓喜の悲鳴を何度も上げた。


 傍から見たら頭のおかしい人だ、と頭の片隅で思いながらも、今の縁には、落ち着くことは出来なかった。


「よかったねぇっ、おめでとうっ!」


 母はスマートフォンをに見つめながらぼろぼろと泣きじゃくると、雪の山の上蹲っている娘をきつく抱き締めた。


 母の涙で濡れた画面には、こう表示されていた。


“佐藤縁様 菖蒲大学文学部合格”と――――


 春の訪れがまだ遠い北国で、一足先に桜が咲いたのだった。

 その日の晩、縁は依人が大学の授業とアルバイトが終わった頃を見計らって電話をかけた。


 遠距離恋愛を始めてから、平均週に二度は電話をしているが、毎回電話をかける時は緊張してしまう。逆に依人がかけてくる時も緊張してしまう。


 縁はコール音を聞きながら、無意味に自室を歩き回っていた。


「もしもし」


 四コール鳴った後に耳元に届いたのは大好きな声。


「もしもし、こんばんはっ」

「こんばんは」


 縁は立ち止まると敷かれた絨毯の上で正座になった。


「講義とバイトお疲れさまです。あの、電話大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。待っていたから」


 縁は一度深呼吸すると、単刀直入に入試の結果を依人に伝えた。


「あの、大学受かりました……春からまた同じ学校です」

「おめでとう。二年間よく頑張ったね」

「ありがとうございます……先輩が支えてくれたお陰です」


 受験勉強は全て順調だったわけでなかった。

 成績が落ちた時期があり、心が折れそうになった時、依人は縁の不安に耳を傾けては励ましてくれた。


「次会う時にお祝いしなきゃね」

「会ってくれることがあたしにとってお祝いですよ」

「それだけじゃだめだって」


 依人の小さな笑い声がした。


 もうすぐ電話越しではなく、面と向かって依人の声が聞けるのだと思うと、縁の鼓動は高鳴っていく。


「春になったら一人暮らしするの?」

「多分、前の家に戻ることになります。今は母方の従兄弟が住んでて、前々から大学が決まったらここに戻ってくればいいって」


 一人暮らしは密かに憧れてはいたが、「縁ちゃんが一人暮らしなんて危ない」と従兄弟に反対されてしまった。


「そっか……」


 依人はそう呟いたきり、しばらく黙っていた。


「あの、先輩はあのマンションにまだ住んでいるんですよね」

「そうだよ」

「またご近所さんですね」


 縁は目を細めて破顔した。


「同じ時間帯に講義があったら一緒に行こうか」

「はいっ。お弁当も一緒に食べたいです」

「一緒に食べよう。縁の手料理飢えてるよ」

「っ、その機会があったら先輩の好きなもの作りますね」


 二人はこれからのキャンパスライフについてお喋りに花を咲かせていた。


 依人と電話を終えると、縁は机の上に置いてあるキャラクターものの卓上カレンダーを手に取る。

 ペン入れ代わりのマグカップから赤いサインペンを取り出すと、今日の日付にバツ印を大きく書いた。


 依人と会える日を待ちわびながらバツ印を書く日々も後少しで終わるの思うと涙腺が緩みそうになる。


「早く、会いたいです……」


 縁の独り言は部屋に静かに響いた。


 月日は流れて、三月初旬。

 いよいよ縁の高校卒業の日がやって来た。


「もう、なんでこの日に出張なの。縁と外でご飯食べたかったのに」


 母はぷくっと頬を膨らませながら、二泊分の荷物を詰めたキャリーバッグを玄関前の廊下に置く。


「あたしは忙しいのに式に来てくれるだけで嬉しいよ」

「ごめんね……?」

「大丈夫だよ。休みになったらここに帰ってくるし」


 商談の日取りを指定した職場のお得意先に対して拗ねたり、しょんぼりする母を、縁は笑いながら宥めると、母の表情は笑顔に変わった。


「縁、今日何時に帰ってくるの?」

「遅くても三時までには帰るよ」


 転入先で仲良くなった友人と卒業パーティーをするのは後日なので遅くなることはない。


「よかった。夕方に縁の卒業祝いが届くの」

「卒業祝いってなあに?」

「内緒っ」


 縁が尋ねると、母は立てた人差し指を唇に当てて、お茶目にウインクをした。


「えー、教えてよー」

「届いたら分かるわよ。縁が喜ぶものだから楽しみにしてて」


 母はにこにこと笑みを浮かべながら、縁の頭をぽんと撫でた。


(あたしが喜ぶもの? 文学全集とか?)


 縁は首を捻って考えてみたが、母の上機嫌な笑顔を見ると文学全集は違うような気がした。


 縁はまだ知らない。

 数時間後にその卒業祝いに驚かされることに……。




 卒業式が終わり、縁は駅までの道のりを歩きながら友人達とお喋りをしていた。

 電車通学は縁だけだが、仲良くなってからはいつも駅まで付き添ってくれた。


 転入先の学校は中学から大学までの一貫の女子校だった。

 中学からの持ち上がりが多いと聞いて馴染めるか不安だったが、親身に話しかけてくれる子が多くて、今では何年も付き合ったかのような仲までになった。


 彼女達はそのままエスカレーターで大学に上がる。


「縁がここを離れるなんて寂しいなぁ」

「そのまま残ればいいよ! 彼氏に編入するように言ってあげてよっ」

「ちょっと、女子校だから無理っ」


 彼女達は普段のように普段のふざけた調子でお喋りをしながら笑っていた。


 駅に到着し、ここで別れるのだが、名残惜しくて改札を通り過ぎることなく立ち止まる。


「今までこんなあたしと仲良くしてくれてありがとう。皆に出会えてよかったです!」


 にこりと微笑みながら言うと、彼女達は一斉に涙目になった。

 無言でアイコンタクトを送り合うと、突進する勢いでがしっと縁に抱き着いた。


「ひゃっ」


 よろけそうになったが、踏ん張って受け止める。


「離れてても友達だからね!」

「縁のこと、絶対忘れないから」

「休みになったら戻って来てね。うちらも遊びに行くし」


(そんなこと言われたら、泣いちゃうよっ)


 彼女達に釣られるように、縁の瞳から涙が溢れ出した。


 通りすがりの人が奇異な目を向けていたが、気にも留めず抱き締め合ったまま別れを惜しむように皆で泣いた。


(ありがとう。あたし、ここに来て良かったって心から思えるよ)


 始めは絶望していた札幌での生活。

 しかし、友達に恵まれて、今となっては縁にとって愛おしくて幸せな二年間だった。




「ただいま」


 ドアを開けて玄関を開けたが、誰も返す者はいなかった。


(お母さん、二泊旭川に出張だもんね……)


 今暮らしている家は隣家とは五十メートル以上離れており、母がいなければ怖いくらい静かだ。


「荷物まとめようっと」


 縁は二階にある自室へ向かい、数日前に最寄りのスーパーでもらってきたダンボールに必要な荷物を詰めた。


 しかし、前住んでいた家に大体はそろっているので、荷物の整理もすぐに終わってしまった。


 午後三時前。夕飯の準備をするにはまだ早いので、縁はベッドの上に座って、スマートフォンを操作してアルバムのアプリを開いた。


「ふふ、写真、撮りすぎ」


 札幌に来てからの写真を眺めながら、くすくすと笑いを零す。

 縁は懐かしみつつ、どんどんさかのぼっていった。


「あ……」


 二年前の五月までさかのぼると、縁は一枚の写真に目が留まる。

 それは球技大会のもので、体育館で体操服姿でスリーポイントをしようとしている依人の姿だった。


(これって、こっそり撮ったものだっけ……)


 この頃はまだ遠くから見つめるだけで精一杯だった。

 まさか、一時間もたたぬうちに接点が出来て、後に付き合うようになるなど当時は夢にも思わなかった。


 付き合い始めはからかわれていると思っていた時期もあったが、依人も自分と同じ気持ちだと知った時は、泣いてしまうほど嬉しかったのを今でも縁は覚えている。


「写真を見たらもっと会いたくなっちゃったよ……」


 縁は依人の写真を表示したままスマートフォンを胸に抱き締めて、瞼をそっと閉じると、依人に思いをはせた。



「……ん」


 目を開けると辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 ススマートフォンの画面を見ると、 二時間ほど眠っていたのだと気付き、慌ててベッドから降りて部屋を出る。


「ご飯、作らなきゃ。野菜はお裾分けで沢山あるから……」


 階段を降りて、冷蔵庫に残っている食材を思い起こしながらキッチンへ向かっていると、インターホンが鳴り響いた。


(宅配便かな?)


 母が今朝に言った“卒業祝い”を思い出しながら、縁は受話器を手に取った。


「はい――――」

「あの……」


 相手の声が耳に入った瞬間、縁は心臓が止まりそうになるほど驚かされた。


 動揺のあまり、受話器を派手に落としてしまったが、縁はそれを戻そうとはせず玄関へ一目散に駆け出した。


 ドアを開けて、目の前の視界に映る人物に抱き着く。


 二十センチ以上高い背丈、爽やかそうなショートの黒髪、綺麗な二重瞼の優しくて甘い瞳。


 縁の元へ現れたのは、宅配のおじさんではなく、会いたくて仕方がなかった依人だったのだから。


「先輩……せんぱい……っ」


 何度も呼びながら離さないと言わんばかりに力強く抱き締める。


 依人は抱き着いたまま泣きじゃくる縁の背中に腕を回し、


「卒業おめでとう。縁」


 と優しい笑顔で囁いた。


(これは夢? まだあたしは寝ているのかな……夢オチだった嫌だな)


 頭の中でそんなことを思っていたが、包まれた体温と匂いが、夢ではなく現実だと縁に教えた。


 正真正銘、依人と再会を果たせたのだ。


「……先輩、どうして今日来ると教えてくれなかったんですか?」


 抱き着いたまま見上げては、頬を膨らませて依人に抗議する。


「ごめんね? 驚かせたくて黙ってた。縁のお母さんに言うなって頼んだからね」


 母が言っていた卒業祝いは、依人のことだったのか。

 あの時、上機嫌な笑顔を見せていた理由が今分かった。


「本当にびっくりしましたよっ……」

「はは、それはよかった」


 依人は笑いながら縁の髪を愛おしそうに撫でた。


 その大きくて温かい手のひらに、縁の涙腺は緩んで雫がぽろぽろと頬を伝った。


「びっくりしたけど、また先輩に会えて、すっごく嬉しいです」

「俺も嬉しいよ。二年間何度も縁に会いに行きたいって思ったよ」


 依人は玄関の中へ足を踏み入れてドアを閉じると、縁の顎を上げて唇を重ね合わせた。


 久し振りの口付けに、縁の胸の中は歓喜に震える。


(先輩、好き……大好き)


 依人への想いが堰を切って溢れ出す。


「はぁ……」


 触れるだけの口付けは、縁を容易にとろとろに溶かしていった。


「その顔、俺以外に見せたらだめだよ?」

「はい……」


 一体依人にどんな顔を見せていたのか見当がつかなかったが、依人以外の人とキスはしたくないし、見せるつもりはないので縁は素直に頷いた。




「縁のお母さんが出張から戻るまでは、ここにいるからね」


 あれから、ダイニングで向かい合うように座って、作ったクリームシチューを一緒に食べていると、依人は縁にそう告げた。


「しばらく一緒にいられるんですか!?」


 縁はシチューをすくおうとしたスプーンを持ったまま、目を丸くさせた。


「縁が一人だからよかったら泊まっていけって、縁のお母さんが言ってくれたんだよ」


(お母さん、そんなこと言ってたの!? びっくりだよっ。先輩と一緒にいられるのは嬉しいけど、ね)


「明日、札幌を観光しますか? 少しは案内出来ますよ」

「それもいいね……でも、」


 依人は立ち上がると、身を乗り出して縁の耳元で囁いた。


「〜っ」


 縁の真っ白な頬が瞬時に染まっていく。


“先に縁を可愛がりたい”


 依人が大胆な発言をしたせいだ。


(か、か、可愛がりたい!?)


 いきなりの甘い発言に、鼓動がバクバクと暴れ続けている。


 縁は動揺を鎮めようと、湯のみに入っている冷めたほうじ茶を、ごくごくと一気に飲み干した。


 夕飯を食べ終えた後、二人はリビングで縁が淹れた温かいコーヒーを飲みながら、お互いの近況や世間話などの話で花を咲かせていた。


「北海道ってやっぱり寒いね。ここへ向かう途中も雪がちらついていたよ」

「四月でも雪が残っているくらいですよ。桜の開花なんかは五月と遅いんですよ」

「へえ」


 身振り手振りで話す縁に、依人は微笑ましそうに耳を傾けていた。


「先輩、ずっと疑問だったのですが、どんなバイトをしているんですか?」


 縁は実は前々から気になっていたことを依人に尋ねた。

 知っているのは大まかな勤務時間だけで、それ以外は全く知らなかった。


(コンビニか飲食店かな? 接客をしてたら女のお客さんにモテそう)


 縁は、コンビニでレジ打ちをしている依人が、複数の女の子に言い寄られている様子を頭の中で思い浮かべた。


「内緒」


 しかし、依人は縁の疑問に答えてはくれなかった。


「教えてくれないんですか?」


 縁はしょんぼりと残念そうに眉を下げる。


「どんなバイトだと思う?」

「えっと、バーテンダー、カラオケ店員、飲食店のホール、コンビニのレジ打ち、家庭教師……」


 縁は指を折りながら思い付く限り職種を挙げてみた。


「どうですか?」


 目を輝かせながら依人の反応を待っていると、依人はにこりと微笑み、両方の人差し指で小さなバツ印を作った。


「全部はずれ」

「うう、はずれですか……結局どこで働いているんですか?」

「その内教えてあげるよ」


 結局、依人にうやむやにされてしまい、分からずじまいに終わった。


 今教えてください、と本音が喉まで出かけたが、しつこく何度も尋ねるのは気が引けて、素直に頷いた。


 ふと、リビングの壁に掛けられている時計に目をやると、時刻は八時を過ぎていた。


(そろそろお風呂の準備をしなきゃ。先輩、移動でお疲れだろうから、先に入ってもらおうっと)


「そろそろ、お風呂の準備をしてきますね。先輩から入ってくださいねっ」

「ありがとう」


 縁は依人を一瞥してから、ソファーから立ち上がると、浴室へ歩みを始めた。

 リビングを出た瞬間、縁は頬に集まる熱を自覚した。


(さっきのやり取り、なんだか同居しているみたいだよ)


 廊下を歩きながら、ほてり出した頬を覚ますように手のひらでパタパタとあおぐ。


 しかし、頬のほてりは中々消えてはくれなかった。


(もし先輩と一つ屋根の下なんてしたら、心臓が持たないよ……)


 胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。




「おまたせ」


 リビングに現れたのは、湯上がり姿の依人。

 黒の長袖のTシャツに同色のスウェットと言う変哲もない格好だと言うのに、どこからともなく色気が漂っている。


(先輩、また格好よくなった……もうすっかり大人の男の人だよ)


 縁は思わず見とれてしまったが、頬が緩まないように引き締めては平静を装う。


「温まりましたか?」

「ちょうどいい湯加減だったよ。縁もゆっくり入っておいで」

「はい、行ってきますね」


 縁はにこりと微笑み、あらかじめ用意した着替えを抱き抱えながら小走りで浴室へ向かった。


 それから四十分後、縁は乾ききっていない髪のまま浴室を後にした。

 いつもはドライヤーで丁寧に乾かすのだが、一刻も早く依人の元へ行きたい気持ちが縁を焦らせたのだ。


「先輩」


 リビングに入り、ソファーに座っている依人に声を掛ける。

 スマートフォンの画面を見ていた依人の視線が、縁に向けられた。


「ちゃんと温まった?」

「はいっ」


 縁は笑顔で頷くと、依人の隣に腰を下ろした。


「毛先が濡れてる。ちゃんと乾かさなきゃ風邪引くよ?」


 依人の指が縁のひと房の髪に触れる。

 髪の毛に神経は通っていないはずたが、触れるだけで胸が甘く締め付けられてしまう。


「普段はちゃんと乾かしてます。ただ、先輩のとこに早く行きたくてつい……」


 視線を床に落とし、自分のパジャマの裾を握り締めながらぼやくと、突然、抱き寄せられた。


「あ、あのっ」


(いきなりは、ドキドキするよ……っ)


 二年前と比べて少し逞しくなった腕に、縁の鼓動は早鐘のように打ち続けている。


「不意打ちでそんなことを言うの、反則だって」


 依人は縁の首元に顔を埋めると、小さく呟いた。


(反則なのは先輩の方です!)


 最早心臓は悲鳴を上げていると言っても過言ではない。


「せ、先輩、ちょっと離れてくれませんか?」

「なんで? さっき積極的に抱き着いてきた癖に」

「それは……っ」


 顔を上げてにやりと意地悪そうに口角を上げる依人。

 唇が触れ合いそうな至近距離に、縁は茹でだこのように赤く染まりだした。


「照れてる? 本当、可愛い……」


 依人はそんな縁を離すどころか、更にきつく抱き締めて密着させた。


「ひゃ、ち、近いですっ」


 依人の甘さが炸裂して、縁の余裕のキャパシティは限界を超えてしまいそうだ。


「可愛がるって言ったでしょ?」

「んっ、」


 依人はお構いなしにそっと縁の顎を指で上げると、ゆっくりと唇を重ね合わせた。


 縁の呼吸に合わせるように離れたかと思えば、また塞いでいく。

 甘ったるい口付けに、全身の力はすぐに抜け落ちていく。

 口付けは何度も繰り返されて、縁は声を洩らしながら受け止めるしか出来なかった。


「ご馳走さま」


 依人は最後に唇に触れるだけの軽い口付けを落とすと、縁を解放させた。


(あれ……? 今あたし、離れるのやだって思ってた)


 抱き締められた時は恥ずかしくて仕方なかった癖に、いざ離れると無性に寂しくなった。


(先輩に甘えたい、可愛がってほしい……)


 縁はおずおずと近寄ると、くっ付いてぎゅっと依人に抱き着いた。


「さっき、離れてって言ってなかったっけ?」


 依人の問いに縁はぶんぶんとかぶりを振っては、さらに引っ付く。


「あれは嘘ですっ。やっぱり、いっぱいぎゅってして……キスしてほしいです」


 抱き着いたまま見上げると、甘えるようにねだった。


「その誘い方、誰に教わった?」

「え……?」


 依人の言っていることが分からず、きょとんと小首を傾げてしまう。


「――――キスで我慢しようと思ったのに」


 依人が何か独りごちた瞬間、縁の視界に映っていた依人の顔が、今では見慣れたリビングの白い天井に変わった。


「……っ!」


 そっとソファーの上に押し倒されて、自分の上に依人が跨っている。

 いくら抜けていても依人のした行動が分からないほど、鈍感ではない。


 全身の熱が上昇していくのを自覚した。


「ごめん。今の俺は縁に優しく出来ない……どうしても無理なら俺を蹴飛ばして、逃げて」


(優しく出来ないなんて言っておいて、あたしに猶予をくれようとしている……先輩はとっても優しい人だ)


 言葉とは裏腹に手首を掴む手も縁に気遣うように優しいものだ。


 そんな依人に無性に愛おしい気持ちが湧き上がり、縁は一切抵抗することなく笑顔で依人を見つめた。


「あたし、先輩を蹴飛ばすことも逃げることもしません……あたし先輩の卒業式の時から考えていたんです」


 縁は潤んだ瞳をしたまま依人の耳元に顔を近付けると、内緒話をするように囁いた。


 "――――次に会う時が来たら、先輩のものになるって"



「縁……」

「はい……ひゃあっ」


 依人は縁を一瞥すると、性急に軽々と抱き上げた。


「本当にいいんだね?」

「はい……っ」


 この時の縁は、今にも湯気が出てもおかしくないほど真っ赤な顔だった。


(聞いて確かめるってことは、あたしをもらってくれるって意味だよね?)


 依人がその気だと知ると、縁の鼓動は緊張で暴れだした。


「緊張してる?」

「正直緊張してます。大好きな人にあげるんですから……」


 ガチガチに固まる縁に、依人は落ち着かせるように額と頬に軽い口付けを落としていった。


 口付けのお陰か、縁はふにゃふにゃと軟体動物のように脱力した。


「縁の部屋は二階?」

「奥の部屋です……」


 依人は縁を抱き上げたまま、リビングを出て階段をゆっくり上がっていく。


 縁は依人の肩にしがみつくと、赤い顔を隠すように首元に埋めた。




 再会を果たしたこの夜、二人にとって一生忘れられないひと時となった――――



 翌朝の九時前。


 縁は鈍い筋肉痛を感じながら、珍しく暖かな日差しが射すキッチンに立って遅めの朝食の準備をしていた。


 ふんわりとしたチーズオムレツ、プチトマト、コンソメスープ、週に二三度は食べるデニッシュをテーブルに並べると、まだ眠っている依人を起こしに自室へ向かった。


 自室へ足を踏み入れると、シングルベッドの上で布団に包まって穏やかな寝顔を晒す依人がいた。


「先輩、起きてください。朝ごはん出来ましたよ」


 指先で軽く頬を突っついて見るが、昨日の夜に加えて長距離の移動で疲れていたのか中々起きる気配が見られない。


「先輩、起きて?」


 ベッドの淵に座って、依人肩を軽く揺らしている内に、長い睫毛でふち取られた瞼がゆっくりと開いた。

 まだ完全に目覚めていないのか、焦点が合っておらず寝ぼけ眼だ。


「おはよ……縁」

「おはようございます……きゃっ」


 依人は縁の肩を抱いた状態でもたれ掛かってきた。

 密着して伝わる体温に、縁は真っ赤な顔のまま固まってしまう。


「縁……身体は大丈夫?」

「ちょっと筋肉痛があるくらいで大丈夫ですよ」

「よかった……あの時激しくしちゃったから」

「〜っ、なっ、何言ってるんですかっ」


 依人の言葉は誇張ではなかったので、昨夜のことがありありと脳内に蘇り、思わず狼狽えてしまった。


 その時、背中に依人の腕が回されて、きつく抱き締められる。


「先輩……」


 依人の体温を感じるだけで縁の瞳はとろけていく。


「俺、自分でも引くくらい独占欲が強いなぁ……」

「今……何か言いましたか?」


 依人の独り言は縁の耳にほとんど届かず、聞き返すと「なんでもないよ」と笑顔で濁された。




 朝食を食べ終えた後、縁は食器を洗う依人の隣に立っていた。

 依人は座ってていいよと言ったが、傍にいたくて洗った食器を布巾で拭いていた。


(こうやって先輩と過ごせるなんて幸せ……)


 特別なことはしていないのにそう思えるのは、隣に依人がいるからだ。


 食器を拭きながら縁は無意識に頬を緩ませていた。


「どうしたの? にこにこしちゃって」


 縁の表情に気付いた依人は、タオルで濡れた手を拭きながら笑いかける。


「あの……すごく幸せだなって思いまして……」


 照れ笑いを浮かべながら、思ったことを告げると依人は目を丸くした。


(あたし、変なこと言ったかな……?)


 縁は不思議そうに依人の顔を窺っていると、驚きの表情ははにかんだものに変わった。


「……俺も、縁と同じこと思っていたよ」

「嬉しい。一緒ですねっ」


 縁は目を細めて満面の笑みを浮かべた。


(怖いくらい幸せ……もう、あたしは先輩から離れられないよ)


「先輩、」


 縁は腕を伸ばすと、依人の背中に回してぎゅっと抱き締めた。


 不意にこつん、と額が触れ合う。


「縁、話したいことがあるんだ」

「え……」


 前触れもなく話を切り出されて、藪から棒になんだと不思議そうに依人を見つめる。


「座って話そうか」


 手を引かれてリビングに場所を移すと、ソファーに並んで腰掛けた。


(話ってなんだろう? まさか……ううん、ネガティブ禁止!)


 縁は別れを告げられる妄想を必死に掻き消すと、緊張した面持ちで依人を見つめた。


「春から従兄弟のお兄さんと住むって言っていたよね?」

「はい。来週荷物を送る予定です」

「そのことなんだけどね……」


(どうしたのかな……)


 縁は緊張した面持ちで、依人が話を切り出すのを静かに見守っていた。

 待っている間、緊張してしまい背筋を伸ばして畏まってしまう。


 リビングの壁に掛かっている時計は一分も経っていないが、縁はその間が長く思えた。


「春になったら俺と一緒に住もうか」


 その時、耳に入ったのは予想もしない発言だった。


「……えっ、ええ!?」


 縁はフリーズしたパソコンの画面のように固まったが、我に返ると、動揺を隠せないのかきょろきょろと目線を動かしていた。


「住むって、本気なんですか?」

「縁から大学合格の話を聞いた時から考えていたんだ」

「でも、あたし達まだ学生だから、難しいんじゃないですか……?」


 大学生になると高校生よりアルバイトの選択肢は増えるが、それでも親に頼らずに生活するのは容易いものではない。


「昨日、今度バイト先教えるって言ったの覚えてる?」

「覚えてます」

「バイト先ね、家の会社」


“ウチノカイシャ”

 頭の中で、呪文を詠唱するように頭の中で繰り返す。


 依人の言葉から、桜宮家がやっている会社があるという意味になる。

 依人はいい所の子息と言う推測に辿り着いた瞬間、縁はムンクの叫びと同じポーズをし、ひどく驚きを露わにした。


「学生しながら親の仕事を手伝っているんだよ。だから金銭面は大丈夫」


 縁は、二足のわらじをやってのける依人のハイスペック振りに開いた口が塞がらなかった。


「先輩、あたしが彼女でいいんですか……?」


 一般家庭の自分では、依人に相応しくないのではないか、そんな不安が縁の心を占領する。

 押し潰されそうな不安に涙腺が緩み始めた時、温かいものに包まれた。




「縁じゃないと駄目だから」


 耳元で囁かれると同時に、依人に力強く抱き締められていることに気付いた。


「やっと縁を抱き締められるんだ。もう離してあげられない。他の男に渡す気なんかないから」

「せんぱい……」


(あたし、先輩の彼女でいいんだ)


 目が熱くなり、じわりと涙が溜まっていく。

 その涙は、先ほどの不安から来るものではなく、喜びから来るものだった。


「縁、俺と一緒に住んでくれるかな?」

「はい……っ」


 縁は涙を浮かべたまま笑顔で頷いた。


「ありがとう」


 甘さが孕んだ瞳を向けられて、縁は魂が抜き取られたようにぼーっと夢見心地になっていた。


「ひゃっ」


 ふと、左手に冷たい感覚が走り、縁は我に返った。

 恐る恐る左手を見ると、薬指にキラリと輝くシンプルなシルバーの指輪がはめられていた。


「これは……」

「俺は二十歳になったばかりでまだ半人前だけど、将来縁と添い遂げたいって思ってる。だから――――」


 次に聞こえた言葉に、縁は涙を抑えることが出来なかった。


“俺と結婚してくれませんか”


 それは紛れもないプロポーズの言葉だった。


(あたし、果報者過ぎるよ……)


 ついに縁は込み上げてくる涙を抑えられなくなり、小さな嗚咽を零し続ける。


「返事は?」

「こんなあたしでよければ……謹んでお受けします……っ」


 依人は嬉し泣きをする縁を包み込むように優しく抱き締めた。


「一生かけて溺愛するから、覚悟してて?」


 唇が重なり合う。

 今までで一番幸せな気持ちになれる口付けだった。


「先輩、好き、大好きです」

「俺も誰よりも縁が好きだよ」


 縁は、もっと溺れていたいと懇願するように依人の背中に腕を回した――――





 あたしは、お姫様なんて柄じゃない。


 だけど、どうかお願いです。


 これからもずっと、あたしだけの王子様でいてください。



 end.

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