また会える日まで

 厳しい寒さが少しずつ和らぎつつある三月一日。


「これより、第〇〇回菖蒲高等学校の卒業証書授与式を執り行います」


 校内の講堂で、初老に差し掛かる利発そうな校長が壇上で卒業式の開始を宣言した。


 今日は依人が高校を卒業する日である。

 縁が札幌へ経つ日は、三週間後の修了式の日と先たが、依人が今日限りでこの学校に来なくなると思うと寂しさで胸がいっぱいになった。


「……っ」


 縁はおろしたてのハンドタオルを握り締めながら、溢れそうな涙を零さぬように唇を噛んだ。


「縁、大丈夫?」


 隣にいた鈴子が、縁の頭を撫でながら心配そうに顔を覗き込んだ。

 縁は大丈夫という意味でこくこくと小さく何度も頷いた。


「卒業生入場」


 吹奏楽の演奏が始まり、三年生が講堂に現れた。


(あ、先輩……)


 列の中に、縁はすぐに依人を見つけた。

 普段は学ランのボタンを一つ二つ外し、だらしなく見えない程度に着崩していたのだが、ボタンと襟のホックは全て留められて、きっちりと着こなしていた。


 右胸に付けられた小さな赤い造花を見て、縁は本当に卒業してしまうのだと実感した。


 三年生が全て揃い、席に着席する。


「校歌斉唱。卒業生、在校生、全員起立」


 寸分の狂いなく同時に立ち上がると、吹奏楽の演奏をバックに全員で校歌を歌った。



(このまま、時間が止まればいいのに……)


 縁は祝辞を述べている校長を恨めしそうに見つめながら、切実に願っていたが、虚しいことに式は滞りなく進んでいった。


「――――これより、卒業生による答辞を行います。卒業生代表・桜宮依人」

「はい」


 依人の凛とした声が静寂に包まれた講堂に響いた。

 背筋をぴんと伸ばして、姿勢よく壇上へ上がる依人。


 誰もが縫い付けられたように彼に視線を向けていた。


(入学式も、こうやって壇上に上がっていたね)


 縁はおよそ一年前の入学式の頃、初めて依人を見かけたことを思い起こしていた。


 当時、恋愛のれの字も知らなかった今より幼い自分は、人柄を全く知らないにも関わらず、依人の真剣な眼差しに惹き付けられ、柔和な微笑のギャップに叩き堕とされてしまった。



「雪が溶け、暖かな春の訪れを感じるこの良き日に――――」


 壇上に立つ依人は周りを一度見渡すと、紙を広げることなく真っ直ぐな眼差しを参列者に向けたまま答辞を始めた。


 死に際ではないが、依人との思い出が走馬灯のように縁の脳裏に次から次へと過ぎっていく。


(寂しいよ……)


 縁は今にも溢れそうな涙をハンドタオルで押さえながら、唇を噛んで嗚咽を零さぬように堪えていた。


「――――別れは寂しいですが、悲しいことばかりではありません」

「……」


 ふと、耳に入ってきた依人の言葉に、縁はぐしゃぐしゃの泣き顔のまま見上げる。


 遠く離れているにも関わらず、依人と視線が重なり合った。


 依人はきつく瞼を閉じると天を見上げた。

 それから顔を前方に向けると柔らかい笑みを浮かべ、穏やかな様子で答辞を再開した。


「……この別れは決して今生(こんじょう)の別れではありません。生きている限り、また会えることだって出来ます。また会えるその時まで、僕達はS高校の卒業生の名に恥じぬよう邁進(まいしん)して参りたいと思っています」


“また会える”

 依人のその言葉は、縁の寂しさで凍えた心を暖めてくれた。


(先輩……あたし達は離ればなれになっても、また会えるよね……?)


 縁は泣き顔を隠すのを辞めて、依人の答辞を一字一句逃さぬように耳を傾けた。


「――――以上で答辞の挨拶といたします」


 依人が姿勢を正し、深く一礼すると、静寂に包まれた講堂は、参列者の割れんばかりの拍手で包まれた。


「うっ、ひっく……」


 縁も堪え切れなくなった嗚咽を零しながら、手のひらが痛く感じるほどの大きな拍手を依人に贈った。


「卒業生、退場」


 全員立ち上がると、講堂を出ていく卒業生を拍手で見送った。


 吹奏楽の別れをテーマにしたJPOPの演奏が、参列者の涙腺を刺激したのか、すすり泣く声があちこちから聞こえる。


「縁、」


 卒業生がいなくなった後、鈴子は縁に向けて腕を広げて見せた。


「りんこ……っ」


 縁は突進する勢いで鈴子に抱き着くと、子どものように泣きじゃくった。


 鈴子はそんな縁を抱き留めては、優しく背中を撫でてくれた。

 卒業式が終わり、縁は誰もいない図書室の奥にある席に一人座って待っていた。


 この図書室も縁にとって一生忘れられない場所だ。

 この場所で、井坂が縁にキスしたことを依人にばらし、一触即発の空気が流れ、別れの危機を感じたものだ。

 井坂のしたことは許せないが、依人の度量と思慮深い一面にまた好きがおおきくなった。



(あの頃は、からかわれていると思ってたんだよね。でも、先輩の近くにいたくて受け入れたんだ)


 その当時の出来事を思い起こすと、懐かしさと甘酸っぱいさが縁の胸を満たした。


(第二ボタン欲しいな……でも、先輩は相変わらずモテモテだからな……)


 依人が中々現れないのは、おそらく大勢の女子に捕まっているからだろうと予想する。


 その予想は的中した。


「遅くなってごめんね」


 ようやく現れた依人は、卒業式の時のようにきっちりとした着こなしではなく、学ランやワイシャツのボタンが全てなくなっていた。中に着ていた黒のタンクトップも引っ張られたのか少し伸びている。

 まるで追い剥ぎにでも遭ったようだった。


「いえっ……先輩ぐったりしてません?」

「うん。本当はすぐに向かうつもりだったけど、女子が中々離してくれなくてね」


(モテる人は大変だ)


「お疲れさまです」


 縁は席を立つと、精一杯背伸びをして依人の頭をぽんぽんと撫でた。


「縁、泣き過ぎて目が少しちっちゃくなってる」

「うっ……が、我慢しようとしたんですよー」


 依人が笑いながら指摘したので、縁は頬を染めて恥ずかしげに目を伏せた。


 その時、ぎゅっと温かいものに包まれた。


「先輩、」

「このまま充電させて」

「あたしで良ければいくらでも」

「縁じゃないとだめだから」


 二人はしばらく言葉を交わすことなく抱き締め合っていた。


(時間が止まればいいのに。いっそのこと先輩の腕の中で死んでしまいたい……ドン引きされそうだから面と向かって言えないけど)


 息苦しくなるほど力強く抱き締められて、物騒なことを考えている自身がいた。


「ねえ、手を出して」

「……?」


 突然、依人に言われて、縁は不思議そうに首を傾げつつも素直に手のひらを出す。


 依人はその手のひらにあるものを乗せた。


「先輩、これは……」

「第二ボタンは何とか死守出来たよ。貰ってくれる?」

「は、はいっ。ありがとうございますっ」


 縁は依人の第二ボタンを胸に抱き締めたたまま大きく頷いた。


「先輩っ、あたしのスカーフ受け取ってくれませんか?」


 縁は胸元に結ばれた臙脂色のスカーフを解いて、依人の前に差し出した。


 第二ボタンとスカーフを交換したカップルはずっと仲良しでいられる……。

 この高校が戦後男女共学化した当初から言い伝えられているジンクスであった。


 その真偽は定かではないが、縁は藁にもすがる思いでそのジンクスにあやかろうとした。


「ありがとう。大事にするね」


 依人は快くスカーフを受け取ってくれた。


「あたしも大事にしますっ。えへへ、先輩と交換出来て嬉しいです……っ」


 縁は目を細めてふわりと微笑む。

 依人も釣られるように微笑み返すと、再び縁を抱き締めた。


「先輩っ、いきなりは恥ずかしいです」

「縁が可愛いこというからつい。これ以上可愛くならないでよ」

「〜っ」


 腕の中で茹でダコ状態に陥った縁を、依人は甘い笑みを浮かべて見つめた。



 それからは、縁は依人の膝に乗せられる形のまま、取り留めのない話を色々した。


 時が止まってしまえばいい……そう願っても時は無情にも過ぎていき、下校時間に差し掛かってしまった。


「送るよ」


 学校を出ると、依人はいつものように手を繋いで自宅まで送ってくれた。


 自宅までの距離が縮まる毎に、縁の心は鉛のように重くなっていく。今日ほど家に着いて欲しくないと思った。


 しかし、そんな思いとは裏腹に縁の自宅に辿り着いてしまった。


「ありがとう、ございました……」


 往生際の悪い手は弱々しく依人の学ランの裾を掴んでいる。


(もう会えなくなるなんて、嫌よ……)


 縁の瞳はじーんと熱くなり、雫が溜まり始めた。


“生きている限り、また会うことだって出来ます”


 しかし、依人の答辞の言葉を思い出し、縁の中の暗闇に一筋の光が差した。


(そうだよね。生きている限りまた会えるんだ。メソメソと悲しんでばかりじゃダメだ……変わらなきゃ!)


「あの、先輩……っ」


 縁は学ランの裾を掴んだ手を離すと、依人の瞳をそらすことなく真っ直ぐ見つめた。


「ん?」

「あたし、先輩と同じ大学を受けて、高校を卒業したら此処に戻ってきますっ」


 泣きそうになりながらも宣言するようにはっきりと言い放った。


(あたしも先輩に会いに行けるように出来ることをやっていくよ……あたしも、卒業します。嘆いてばかりの自分から)


「あたし、また会える日まで、成長した姿を先輩に見せられるように頑張りますっ……だから、先輩も、大学に行っても頑張ってください……っ」


 言いたいことを言い切ると、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


「分かったよ。俺、遠くから縁を応援しているよ。縁が向こうでも笑っていられるように祈っているよ」


 依人は泣きじゃくる縁を優しく抱き留めた。


「ありがとう、です……あたしも、祈ってます。あたしだと微力ですが、あたしはいつだって先輩の味方です」

「その台詞そっくりそのまま返すよ」


 そう言って、縁の小さな唇に口付けを落とした。


 別れ際、二人は「また必ず会おう」と言う誓いを込めて告げたのは、“さようなら”ではなく。


“またね”の三文字だった。


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