後部座席

真花

後部座席

 さっき吸ったタバコの匂いがまだ車の中に詰まっている、親指くらい開けた窓、風、風が生まれたらそれに引き摺り出される、薄く消える、でもやっぱり微かに残り香は漂う。

「それってやっぱり、求めるもんじゃないと思う」

 夕方が車内に侵食して、運転席の真海まみの顔が、道を照らし始めた人工灯にシャープにかたどられる、同じ声が聞こえるのにもう一人の真海と入れ替わったみたいで、後部座席から、だからもう一度そこにいるのが彼女であることを確認しようと身を乗り出す。触れたことのないその頬の稜線、髪のパサパサ、呼吸、真海だ、少しだけそこにいて、もう一巡彼女を確かめてから俺はシートに戻る。

 車の中は狭いのに真海と二人なら十分で、俺達はときにこうやって彼女の車に集まって、適当に車を止めて喋り、それ以上の接近はせずに帰路に就く。停車している間に大事なことは全部、仕事の嫌なこととか笑えるエピソードとか、話すのだけど、一番饒舌になるのは駅までの短いドライブ、俺を送るまでの間。

「でもさ、俺はフェイマスになりたい気持ちが、やっぱどこか、あるんだよ」

千太郎せんたろうがやってるのって、小説だよね?」

 彼女は運転をしているから、俺の方を見ない。俺だけがずっと彼女を見ている。車窓に飛び込んで来たパチンコ屋から届く全てのものがその存在を主張して、引っ張り込もうとしている。いや、真海以外の全部が「あたしを見て」と色を放っている。運転に集中する彼女の視線の動きが好きだ。

「小説」

「しかも純文学でしょ? て言うか純文学って何よ」

 夕暮れはあっという間に沈み終えて、オレンジ色の光だけが彼女の影を映す。

「アートだよ。アートをするんだよ」

 彼女は黙って、ウインカーを灯して、右折する。グウンと遠心力がかかる。曲がらなければ行き先に着かない。

「アートって何よ?」

「俺のやりたいアートってのは、俺の遺伝子って言うか、俺のエッセンスって言うか、それを読んだ人に植え付けるような作品。それが目的」

 信号が黄色くなって、赤になる。

 キュッと車が止まる。止めたのは真海だ。俺は彼女が操作するのに身を任せて、彼女の意図した動きに即して動かされる。

「ほら、だったらフェイマスになるってことと矛盾してるじゃない」

「してるかな」

「千太郎を植え付けるって、受ける側も選ぶでしょ。誰も彼もが口を開いて待っている訳じゃないでしょ?」

「それは……そうだけど」

「相手を選ばなきゃいけない時点で、とにかく人気が出ることをゴールにしてるのとは違うと私は思うな」

「でも」

 車が動き出す。信号が青い。

「でも?」

「選ぶ相手が大多数ならダメ?」

「……つまり私は、千太郎を受け入れる人は少ないと思ってるんだ。でも、受け入れる人はとことんだと思う。それと数を増やすって両立は難しいと思う」

 次の信号も青い。全部青になればいい。違う、全部赤になればいい。

「その通りかも知れない。それに、大多数を選ぶ相手にするのは、万人受けを狙うのは、俺のしたいこととちょっと違う気がする」

「私もそう思うよ」

「アートをするなら俺はフェイマスにはなれない。ならない。目指さない」

「それでいいんじゃないの? ……さ、駅に着いたよ」

 俺は後部ドアを開けて半分降りて、くるりと彼女に振り向く。

「今度、俺の小説読んでよ」

「酷評になるかもよ?」

「それでもいい。勇気出さないと、信号は赤のままだから」

「信号はちゃんと青になるよ」

 運転席から振り返る真海のオレンジ色に染められた表情は、だけど笑っている。

 俺は頷いて「じゃあ」とドアを閉める、軽く手を振って駅に向かう。真海の車がブウンとロータリーを抜ける。


(了)

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