最終話
駐輪場へ降りる。虫かごを見る。
はたしてぞうくんは、まだ虫かごの上に乗っかっていた。
「ごめんごめん! 降りられへんわなぁ」
ぼくは、虫かごと地面の間にダンボールを渡す。
(さいたま市 さいたま市 さいたま市……)
(ただ今 ただ今 ただ今……)
(光化学スモッグ 光化学スモッグ 光化学スモッグ……)
(注意報が 注意報が 注意報が……)
スピーカーを使った市のアナウンスだ。金属的な声が、空に飛んでいる。
ふと目を上げると、
ぞうくんをちらりと見る。
だけどぞうくんはダンボールに乗っかるどころか、虫かごの縁をちょろちょろと歩き回るばかり。うむうむ、鼻がかわいいね。その鼻が象に似ているから、ぞうむしっていう名前をもらったらしいね。
ぞうくんはとうとう、割り箸のてっぺんでぴたりと止まってしまった。
怖いのかな。
また、土の中に潜って、涼しいところで暮らしたいのかな。
ぼくがそう思った瞬間、ぞうくんの身体が二つに分裂した。
いや、ほんとにそんな感じに見えたんだ。ぞうくんの身体の間に、白いカーテンが広がっている。
そして。
ぞうくんは少し身震いした後、微かな羽音を立てて滑空した。
「わっ!」
ぼくはびっくりして、しゃがんだまま半歩ほど後じさりをする。
「おまえ、飛べるんか!!」
そうかぁ。
ぞうくん、おまえ。飛べたんか。
初めて飛んだんやな。そりゃ、緊張したよな。怖かったよな。
ぞうくんは自転車のタイヤへと着地した。そして満足そうに鼻を振る。誰にも聞こえなかったろうおまえの羽根の唄。ぼくはにやっと笑って、それを賞賛の言葉代わりにした。
ぞうくん、よかったな。
ここからが始まりやで。昆虫の寿命は短いとか、人間はばかなことを言うけれど、そんなもん人間が勝手に決めた話や。短かろうが短くなかろうが、おまえは精いっぱいこの世界を楽しんでくれよ。
うまいきゅうりはもうないで。いつも涼しいわけやない。
それでも、ええやろ。
なかなか、ええもんやろ。
ぼくはもうわからへんで。このへんでぞうむしを見つけても、それがぞうくんなのか別のぞうむしなのか、わからへん。だからここでお別れなんよ。後は自由に、好きなようにやったらええんやで。
でもな、ぼくは思うねん。
この世のあちこちで生きてるやつらな。みんなぞうくんみたいに、しっかりと生きてきたんやって。どんな辛いことがあっても、苦しんでも、今生きてるやつはみんな、今生きてることに間違いはないんやないかって。
そりゃゴキブリが出てきたらびっくりする。蜂とか怖いし、そもそもぞうくん、おまえも害虫って言われてるみたいやん。それでもぼくは、生きてるモンが嫌いになれへん。だってみんな、今を生きてるんやからさ。そして今までも、生きてきたんやから。
「あれ?」
さっきまでタイヤにへばりついていたはずのぞうくんがいない。
自転車をあちこちから見回したのだけど、ぞうくんの姿はどこにもなかった。
過ごしやすいところを求めてフレームの下に潜りこんだのか。
それとも
だけど答えは一つだけ。
だからぼくはその答えに従って、部屋でアイスコーヒーを飲まなければいけない。
ぼくは膝を伸ばして、小さく叫んだ。
「さぁ、夏やで!」
了
羽根の唄 木野かなめ @kinokaname
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます