雨の日の幽暮れの

不透明 白

午後七時の待合室で

 春が終わりを告げ、梅雨の時期に入るや否や空の様子がおかしくなり、昼間でも薄暗い日々が何日も続く。

昨日は小雨が降ったり止んだりを繰り返していたので、明日こそは晴れてくれと空に拝んでみたが見事に裏切られてしまった。

営業が主な仕事の俺は、雨が降るたびにうんざりする。

傘を差しても濡れるものは濡れるし、何よりスーツが肌にまとわりついてくるあの感じが苦手なのだ。

そんな不愉快な現象に少し嫌々しながらも、いつも通り仕事をして、いつも通り帰宅をし、今の時刻は午後六時である。

 田舎に住むと纏わりつく条件、列車本数が少ないせいで待ち時間がだいたい45分ぐらいあるのだが、これももう子供の頃からこれなのでもう慣れてしまった。

「ふー、待合室は涼しいな」

 ホームの中腹あたりにある、全面ガラス張りでできた待合室へと入る。

 俺は思う、電車が来るまでの待ち時間を楽しめるか楽しめないかで、人生の幸せパーセント度合いが大きく変わると。

 特に雨の日の待合室は、いつもと違う楽しさを感じられるのだ。

 時々、待合室に入って来る人のおかげで開く自動ドア、そこから入ってくる湿気混じりの冷たい風は、体に引っ付いてくるしめっけを、涼しい粒に変えてくれる。

 そのタイミングがくることを密かに待ちわびつつ、鞄から文庫本を開いて読むという贅沢を嗜むのが至高であると、俺は常々思うのだ。


 少し時間が立ち、すっかり集中して本の世界にどっぷりと浸かった辺りで、視界の端に一人の人影があることに気が付いた。

 その人は入口に立っていて、全面ガラス張りでできた待合室からは丸見えである。

 それを曖昧に確認してから数秒経った。

 視界の端に存在するその人は、全く入ってくる様子もなくただただ入口に立っていた。

 その様子を不審に思って、本から視線を移しガラス越しにその人を見てみる。

 その人は背が低く、大きなつばが目立つ麦わら帽子に純白のワンピースを纏い、足元はなぜかぼやけて見えない。何回目をこすってもそれは変わらないようだった。

 顔は被っている大きな帽子のせいでよく見えない。そして、片手に黒い傘を持っていた。

 足元がぼやけて見えるのは、ただ疲れているだけなのか分からないが、とにかくそこにピントを合わせているはずなのに合わなかった。

 恐怖心が体中をはいずって回り、血の気が引いて手のひらの温度がなくなっていく感覚がする。

 思考がまとまらなくなっていく。

 生まれてこの方、全くと言っていいほどに幽霊や怪奇に触れることなく、ここまで過ごしてきた。そんな男が生まれて初めてこんな状況に巻き込まれそうになっている。

 そうなったらあなたはどうする?

 俺の場合はというと、それが人でなくとも人であっても変わらない。

 見えないふり、知らないふりをすることを選んだ。

 なるべくいい姿勢で視界を狭めて、さも「今、凄く本を読むことに没頭しています」みたいな顔をする。そして、電車が来たら一目散に駆け込む、これしかない。

 下手に視線を動かすと目が合ってしまいかねないので、なるべく本を見るようにする。こうなると、時間が分からないのが辛い。

 心臓がバクバク鼓動して、今にも飛び出しそうだ。

 そんな中、心を落ち着かせようと頑張って本を読もうと試みるが、文字を目で追っても全然内容が頭に全然に入ってこない。まるで、日本語に似た別の記号が羅列してあるかのような感覚だ。

 その女の人はゆっくりと前進してくる。まったく反応しない自動ドアを無視して。

 そのままぶつかるかと思ったその瞬間、奇妙な出来事が目の前で起きた。いや、起きてしまった。

 真っ白くて細い腕をガラスに向けて伸ばしたかと思ったら、スルッとこちら側へと突き抜けた。

 そこにガラスはなかったのか。思わず自分の目を疑う。

 そして、その疑いを晴らすかの如く、プラスチックが強く打付けられる音が耳を貫く。急に大きな音がしたものだから、体がびくりと大きく揺れる。心臓が胸を貫いて飛び出たかと思った。

 音がした方を見ると、目の前の女の人がさっきまで持っていたであろう黒い傘が、透明な自動ドアの前に落ちている。

 女の人はもう室内にいて、傘が外にあるということはすなわち、傘が入口を通り抜けなかったということだろう。

 ……自分でもなぜこんなことを思ってしまったかもわからないが、俺はそれを見て「ドジだなぁ」と思ってしまった。

「一番線を進む電車は、たった今○×駅を通過しました。間もなく当駅に到着しますので、しばらくお待ちください……」

 もう少しでこの地獄から解放される。

 怯える心を確かめつつも、人間の本能が故に目の前の動くもの、落としては拾い落としては拾いを繰り返す、この人ならざる者から目が離せないでいた。

「間もなく一番線に電車が参ります、黄色い線より離れてお待ち下さい……」

 時刻が迫る。

 幽霊みたいな女の人は黒い傘を持って入口の前に立っている。

 入り口は二つあるのであの女の人が待ち受けていない方、自分から見て右側の出入口から出ようと席を立つ。

 しかし、その時であった。

 グッと目線が固定され思い通りに体が動かない感覚、に陥ってしまった。

 ゆっくりと左側を向いて歩いて行く体を、必死に止めようとあがくがまったく効かない。

 思いっきり叫んでいるはずの喉は閉じ切っている。

 眼前には白いんワンピースを着た女の人が迫っている。ひたひたの髪が輪郭をなぞって張り付いている。その瞳からは、冷たい雨粒が流れ出している。

 女の人は傘を持っている方の手を持ち上げる。

「一番線電車が参ります。ご注意ください……」


 ごとんごとんと電車は揺れる。

 雨粒は勢い良く窓に飛び込んできて飛散し、また飛んでいく。

 今日は妹の誕生日だった。

 いつまでも忘れることはない。

「次は×△、お出口は右側です……」

 俺は忘れないように傘を強く握る。

 手のひらが温かい。まるで、誰かが優しく握っていたかのように。

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