老人館の殺人〜ナイチンゲールの啼く夜に

赤木冥

老人館の殺人


■序


 陽は沈もうとしていた。

けれどその赤々とした光の残渣は、空をいっそ禍々しいほど美しく染め上げていた。   

 喩えば、わたしの人生もそんな風に鮮やかに、そして美しく、誰かの心に残るものだったのだろうか。

そう、自問する。

耳の奥で、記憶の中の母の声が囁いた。

(ああ、お母さん)

久しぶりに紡いだ言葉は酷く温かくて、涙が零れた。

会いたい。会いたい。会いたい。

母に会いたい。

 真っ赤な夕焼け空は、燃え上がっていたあの日の空をわたしの記憶の片隅から引きずり出す。最後にわたしを抱きしめた母の手の強さ。そして、ぬくもり。

(待っていてね)

 そう言い残して母は不器用に微笑んだ。汚れ、強ばった顔をわたしの為に、どうにか笑顔の形にした、その少し歪んだ微笑みがわたしのまぶたに刻み込まれている。

 そんな母を愚か者だと嗤う人もいた。

 わたしはそいつの顔をはっきりと覚えている。嗤った顔を。

(あんな寝たきりの年寄りを助けるために死にに行くなんて、馬鹿じゃない?)

 嘲るように嗤う顔、声、仕草。わたしは今も忘れていない。

 母は愚かなんかじゃない。母は馬鹿じゃない。わたしはそう叫んだ。

吐き出した言葉を砕き潰すような大きな音が轟き、大きな柱が崩れ落ちるのが見えた。わたしは震える手を握り締め、何度も、何度も何度も母の名を呼んだ。そして、母を嗤

う者に全力で抗議した。母の誇り、母の尊厳、母の……わたしの大好きな自慢のお母さん。その母を嗤う者を許すことなんてできなかった。

 母は本物の天使だったんだ。自らの使命を全うしようとする者を何故、嗤う。

わたしは、母の言葉を信じた。そして、待った。母が帰ってくるのを。

 でも。

戻ってきた母は、二度とわたしを抱きしめることも、わたしに微笑みかけることもない、ただの骸になっていた。

 ねえ、お母さん。

わたしはあの日からずっと……。





■一


 ゆら、ゆらゆら、ゆらゆら。

 漣めく水面には僅かな光が見えていても、この澱みの水底までは届かない。そこに溜まった泥に半ば埋もれた体は、自由に動くことさえできない。助けを、と開きかけた唇からは、緑色に濁った水が流れ込み、僕は……溺れそうになる。

 息が、息ができない。

 誰にも届くことのない悲鳴。誰にも縋ることのできない指先。

 僕は、澱みの底でもがいている。ここが、僕の居場所だというのに。

 僕はしがない内科医だ。臨床の最前線で命のやり取りをすることから逃げ、この老健施設『雪の園』の医師になってかれこれ三年。代わり映えのない穏やかでゆるゆるとした毎日を過ごしている。

日本の高齢化は著しく、女性の平均寿命はついに八十七歳になったそうだ。ちなみに男性は八十歳。僕は到底、八十歳まで生きられる自信なんてないから、すごいものだと思う。

 僕の名前は榊蔵人。三十六歳。

フランス人だった母親は、僕がフランスに戻る日がいつ来てもいいように、と蔵人と書いてクロードと読ませる小洒落た名前を付けた。

もっとも、今の僕がフランスに旅立つ日は来そうにない。

ここは、行く先を見失った川が澱みを作る場所に似ている。人生という川は上流から下流へと流れ、とどまることを知らず、時に滝を飛び越え、急流を経て、やがては海へと還る。流れ行く時と流れ行く人の命の中でその勢いを失った川は時として澱みとなる。

ここは澱みに似ている。

 そして、僕は時々、溺れそうになる。この、澱んだ日々に。



 かしましい笑い声がホールに響き渡った。

 せりだしたテラス部分から燦々と射し込む陽光でホールは眩しいほどに明るい。

大型テレビから流れるラジオ体操を伴奏に、少ししゃがれた高い声が僕を呼んでいる。

「クロちゃん。クロちゃーん」

犬や猫じゃないんだから、やめてもらいたいものだけれど、彼ら……三婆はそんなことお構いなしだ。

「クロちゃん。早くしないと始まっちまうよ」

僕を呼ぶ声の主は、その声と同じくらい水気のない手を振り、皺だらけの顔で笑う。

「はいはい。始めていてくれていいよ」

「クロちゃんがいないとつまらないじゃないの」

「いや、僕、まだ回診中だから」

と言ったところで、こんな時だけ聞こえないふりをする老女たちには敵わない。

僕は、首から下げた聴診器を白衣のポケットに突っ込み、枯れ枝のような手をふる老女のところへと歩を向けた。

輪になった三婆の手元には花札が配られていて、ご丁寧に僕の分まで置かれている。

「はいはい。クロちゃんはむっちゃんの隣ね」

ニコニコと笑う太めの老女が隣の椅子を叩いて示す。ゴブラン織の座面から埃が舞い、光の道筋に合わせてキラキラと光る。ああ、チンダル現象だ、なんて、どうでもいいことを思い出しながら腰を下ろすと、老女たちが屈託のない笑みで僕を迎えてくれた。

このかなりBMIの高い女性は安岡睦美さん。八十五歳。既往歴は脳梗塞。高血圧・脂質代謝異常症・糖尿病の三大疾病をコンプリートしているんだけれど、本人はそんなことに御構い無しだ。現在は下肢の筋力低下が進んで車椅子生活をしている。物忘れは激しいけれど、あっけらかんとしていて、一見認知症に見えないのが恐ろしい。

その隣にいる先刻、僕を呼んでいたのが加藤ちづさん。九十三歳。高血圧と心房細動がある。認知症はなくて、かくしゃくとはしているのだけれど、転倒して大腿骨頚部骨折をして手術を受けてから要介護認定を受けた。この老健施設の中では二人ともかなりの古株だ。

 老健施設……介護老人保健施設、というのは要介護一以上の介護認定を受けた六十五歳以上の高齢者が入ることのできる施設で、在宅復帰を目指しリハビリを中心とした生活を過ごすことを謳っている。特別養護老人ホームや慢性期病床を持つ病院であれば終身での入居や入院が可能だが、この老健の場合、表向き入居期間は三ヶ月が上限だ。

が、それは飽くまで表向きの話だ。

特養……つまり特別養護老人ホームや慢性期病床に入ることのできる人数には限りがあるし、一方で在宅での介護、在宅での生活にも限界がある。今の日本の制度ではその受け皿があまりにも不足している。

 だから、この施設でも表向き、三ヶ月で一旦退所、そして翌日にはまた入所、というあまり褒められたものではない方法で長期の入所を受け入れている。

この安岡睦美さんも加藤ちづさんも、僕がこの施設の常勤になった時には既にここで暮らしていた。或る意味、僕よりも先輩達だ。

まぁ、彼らは人生の先輩でもあるんだけどね。

「今日は三時のおやつをかけているの」

 全て自分の歯だと云うのが自慢の三ツ森葉子さんがにかっと笑う。すらりとした美人で髪を黒々と染め、八十八歳という年齢には到底見えない。そして、その年齢に見えないだけではなく、彼女は末期の肺がんを患っている。既に、肺の中にはいくつもの転移があって、対側の肺にまでも転移は及んでいる。そのせいで、日常生活を送るにも常に酸素吸入が欠かせない。十分な疼痛コントロールのおかげもあって、酸素のボンベを引っ張って、園の中を自由に歩き回っていて、この雪の園ではナンバーワンの情報通だ。

「おやつはかけちゃダメだからね?おやつ込みでカロリー計算してるんだから」

 医師らしく、正論をビシッと申し立てたところで老女たちにはどこ吹く風。

「いいじゃないのぉ。クロちゃんにも分けてあげるわよぅ。ねえ、みっちゃん」

 安岡さんと三ツ森さんが頷き合う。この人たちにとっては僕なんて子供か……下手したら孫かひ孫みたいなものだからか、こんな時には完全に彼女らの掌の上だ。僕の精一杯の反論を笑い飛ばした老女に背中をバシッと叩かれる。

「そうよ。クロちゃん若いんだから、しっかり食べないと」

 朗らかな老女たちの笑い声に僕は頭を抱えた。



「もう。榊先生は入所者さん達に甘すぎます」

 僕より入所者さんと年の近い看護師長が両手を白衣の腰に当てて仁王立ちで僕を睨む。 

シルバーグレーの髪をお団子に纏めた小柄なその人は老健師長になるまでは、隣にある総合病院の総師長だった。前田佐和子さん。七十二歳。

実は、彼女が隣の総合病院で総師長をしていた頃、僕はそこで研修医をしていた。お尻に卵の殻をつけてピヨピヨと上級医のあとをついて歩いていた頃から、若い医者たちが一度は憧れる救急の現場でボロ雑巾になるまでの過程も全て知っている。

 僕がもう急性期での仕事に耐えかねて病院を辞めようとした時に、この施設の施設長に、と推してくれたのも彼女だった。

五十年近く……僕が生まれるずっと前から看護師として働いてきた前田さんはヘタレの僕にとって本当に頼りになる人だ。

化粧っ気のない肌は年齢相応の皺を刻んでいるけれど、眼光は鋭く、新たな医療知識の学習にも積極的で、まだまだ現役バリバリだ。鶏ガラのように骨と皮ばかりの細い体のどこにこんな体力があるのだろうと驚くほどにアクティブで、今ここに居たかと思うと次にはあちらにいる。そのうえ、流石は元総師長。患者さんの状態を観察する医療者としての能力も高くて、三十床たらずとはいえ、状態の変わりやすい高齢者ばかりを預かるこの施設に医師は僕一人、という状況を過不足なく手助けしてくれる。

老健施設は入所者百人の施設には常勤医師を一人置かなければならない、という決まり事がある。大元の隣にある総合病院には関連施設として老健が三つあって、それぞれにスタンスが決まっている。

 僕の勤める『雪の園』は完全個室、手厚い介護、快適な環境を押し出していて、それだから収容人数が二十五人と少ないのだ。その代わりに、入所費用は他の2施設に比べ遙かにお高くて一ヶ月の入所費は大卒の初任給を軽く上回る。他の2施設『花の園』『月の園』はどちらも四人部屋ばかりで、一施設で百人超を収容する。『花の園』はごく普通の老健だけれど、『月の園』は寝たきりや胃瘻の患者さんが対象になっていて、この雪月花、三つの老健施設はそれぞれに役割を分担しているのだ。つまり、僕の働いている此処『雪の園』はラグジュアリーなサービスを提供することを売りとした高級老健施設というやつだ。

すなわち、此処で暮らしている人たちは、経済的にかなり余裕がある人ばかりだ。

ご家族が事業をされていたり、ご本人の蓄えが潤沢だったり、いずれにせよ、高額の入所費用の支払いが維持できるような人が対象になっている。

 だからと言って、彼らは入所者であって、僕たちは医療従事者。

医療はサービス的側面があるとはいえ、決してピュアなサービス業ではない。疾病の治療が主体だ。例えば、高血圧の人が「高血圧の管理をして欲しい」と来院すれば、どんなに塩辛い食事が好きな人だったとしても減塩を指導するのは当たり前のことだし、手術や処置は患者さん自身への侵襲を伴う行為だ。

 勿論、患者さんの意思が最も尊重されるから治療を拒否することは可能だけれど、いくら患者さんの希望でも受諾しかねることだってある。例えば、糖尿病の患者さんが「甘いものが好きだから」と、際限なく甘いものを食べることを許可するか、と云えば、それは否、だ。なぜならば、僕たちはあくまでも医療従事者で、彼らは患者だからだ。

この施設でも、そうだ。

館内には落ち着いた赤い絨毯が敷かれ(とはいえ、本物のホテルのように毛足の長いものではなくて、滑りにくく汚れにくい、こうした施設用のものだ)、レクリエーションの時間以外には穏やかなクラシック音楽がBGMとして流れ(これもレクリエーションの時間になると美空ひばりの演歌やラジオ体操に取って代わられる)、調度品も一見するとこういった施設のものには見えない特注品。食事は嚥下機能が低下した人向けのものも含めて、元ホテルのシェフが作っていて(ホテルのシェフの作るペースト食ってどんなものなのか少し興味はあるけれど)、おやつの時間にはプチフルールまで提供される。

 こんな、一見するとラグジュアリーな施設でも、ここはあくまでも老人保健施設で、ホテルではない。

できる限り、患者さんの求める快適さを尊重はするけれど、じゃあ、どうしても必要な投薬や治療、介護、それに生活の管理をしないでいいかと言えばそうじゃない。

どんなに「餅が好きだから餅を食べたい」と主張されたとしても、餅を安全に飲み込む機能が失われた人にそれは許可できない。その人が死ぬかもしれないとわかっていて、それを容認することは、ここが老健施設である以上、できないんだ。今の医療は訴訟リスクと隣り合わせで、仮に糖尿病の患者さんの希望に従って好きなものを好きなだけ食べさせた結果、高血糖性の昏睡にでもなってしまえば……或いは、飲み込むことが上手にできなくなった人の求めに応じてお餅を食べさせた結果、窒息死でもしてしまえば、あっという間に僕たちは被告席に座らせられてしまう。そんな社会なんだ。だから、医療の許す範囲内で安全に過ごしてもらうことが、こうした施設が担う役割だ。そう、理解はしている。

 難しいところだとは思うのだけれど、人間が人間らしく、自分の尊厳を保ち、自分自身の好きなことを好きなように選び取りながら死までの日々を過ごすことができるなんて、現代ではほとんど皆無だ。

 僕には本当はわからない。

嚥下機能が低下してお餅を食べられなくなった時、どうしてもお餅が食べたいのに食べられないまま死んでいくのと、お餅を食べてその所為で窒息死するのと、どちらが幸せなのか。

僕がまだ三十代で、そんな局面に立たされたことがないからか、それとも僕の想像力が足りないせいか、いずれにせよ、僕はこの施設の患者さんと接する中でしばしばそんな想いにかられてしまう。

甘いものが大好きな安岡さんに、好きなだけ好きなものを食べさせてあげたい、と思う気持ちもあるけれど、勿論、そんなことをすれば、下手をしたら、高血糖で安岡さんは昏睡状態になってしまうかもしれない。長期的には腎臓が更に悪くなって、透析しなくてはならなくなるかもしれない。けれど、高齢の安岡さんのおとずれるかどうかわからない未来のことを語るより、今をいかに幸せに生きてもらうか、が大事じゃないか、と言われれば、それもそうなのかもしれない。

僕には、まだそのあたりのことが割り切れずにいる。それは、僕の医者としての未熟さ、そのものなのかもしれない。

 三人の老女と僕が座るテーブルの横で怖い顔をしてみせる師長さん。

「安岡さんは糖尿病なんだから、人のおやつまで食べちゃダメでしょう! 先生も、ちゃんと止めてください」

「……はい。ごめんなさい」

「え〜。でも、まだ私が勝ったんじゃないから、食べてないよ〜ぅ」

 安岡さんがふっくらとした頬を更に膨らませる。

三時のおやつをかけた花札がバレて、僕と老女三人は絞られているところだった。だから言ったのに……と云いかけたのを飲み込んで、僕は大人しく、厳格な師長に頭を下げた。

首を竦めていた安岡さんがおずおずと僕の影から顔を覗かせ、師長の顔色を伺う。

「さわちゃん、あんまり怒ると皺が増えちゃうよぅ」

「そうよ。血圧も上がるよ」

ちづさんがしゃがれた声で相槌を打つ。

ああ、やめて。やめてよ。師長さんの機嫌がもっと悪くなる……。

案の定、前田師長の視線は更に鋭さを増し、一定温度に保たれているはずの室内が心なしか寒く感じられた。動物的本能で恐れをなす僕とは対照的に、老女たちは邪気のない笑顔を浮かべていて、まるで怒られているのは僕一人のような有様だ。

 トドメとばかりに、年齢を感じさせない外観の三ツ森さんが、師長の青く燃え盛る怒りの炎に油をドバドバと注ぎ込んだ。

「美容と健康のために、あんまり怒っちゃダメよ? さわちゃん」

「加藤さんっ! 安岡さんっ! 三ツ森さんっ! いい加減にしなさいッ」

両手を握りしめた師長がワントーン高い声で叫ぶ。

「花札は没収です」





■二


 事務机と十冊に満たない本が放り込まれたスチール製の本棚。黄ばんだカーテンと机の上に置かれた電子カルテ用のパソコンが一台。座るたびに不快な金属音を立てる椅子に腰掛けた僕は決して美味しいとは言い難いインスタントコーヒーをひとくち啜る。

『施設長室』と白いプラスチックのプレートに書かれた黒い文字はいかにも厳しいが、室内は安っぽい事務室みたいだ。無機質で殺風景な部屋。僕の持ち込んでいる私物といえばこのマグカップと通勤用の鞄ひとつだけだ。

空虚な空間にこうして身を委ねていると、僕は途方もなく透明になり、そのまま消えてしまうんじゃないか、なんて良からぬ妄想にかられる。

一般的には医者っていうのは花形の職業みたいに思われがちだ。ドラマでは失敗なんて絶対しない医者とか、博愛の精神を具現化したみたいな滅私奉公の医者とか、そんな奴いないから! とツッコミたくなるような『理想の医者像』が描かれていて、救急の現場でかっこよく働き、患者さんたちを救う美男美女の医者にみんな憧れを抱く。

言っておくがあんなものはただの幻想だ。

医者になって知ったのは、人間はいつか死に行く生き物だ、ということだ。

何を当たり前のことを? って思うだろうけれど、今の社会では『死』という概念が希薄だ。生きるか死ぬか、なんていう生命の危険を感じることのない時代だから仕方のないことなのかもしれないけれど、人はいつか必ず死ぬものだということをみんな忘れがちだ。

 僕も他の医学生のご多分に漏れず、低からざる志を持って医師になった。それが酷く傲慢なただの思い込みなのだと知るまでそう時間はかからなかったけれど。

どれほど手を尽くしても助からない人はいる。誰かの命を救うことができるなんて、思い上がりも甚だしい、と救急の現場で働くうちに僕は知った。僕たち医者にできるのは、助かるはずの命を助かるようにそっと手を添えるだけのこと。それだけのことしかできないのだ。

救急搬送されてきた多発外傷の自分より若い男の子に「助けて」と言われたのに。初診で悪性リンパ腫を診断した気さくなパン屋のおばちゃんは「まだまだやりたいことがあるから死ねないわ」と笑いながら血液内科に転科していったのに。

僕は……いや、僕たちが学んできた現代医学は助けられなかった。彼らの命が尽きるのをなんとか食い止めたかったけれど、僕には何もできなかった。

そして、そんな無力感に苛まれる僕に追い討ちをかけるように、救急の現場では無責任で身勝手な暴言を吐く患者や患者家族もいて、僕はますます疲弊した。九十代のお爺さんの重症肺炎には、ガイドラインでも人工心肺装置の適応はないのだけれど、それを伝えるなり、襟首を掴まれ、ICUの壁に押し付けられた時には、恐怖よりも、怒りと虚しさしかなかったっけ。「人殺し」と罵るその患者家族にとっては、僕は許し難い存在だったのかもしれない。感謝して欲しいなんて云わない。ただ……医療には限界があるんだっていうことをわかって欲しかった。

僕たちだって……いや、弱いのは僕だけだから……勝手に僕たち、と云うのは烏滸がましいか。搬送されてきた全ての人を助けることができるならば、助けたい。

でも、医療には限界がある。僕たちにできるのは、助かるはずの命を助けることだけなんだ。その無力感に打ちひしがれた時から僕は空っぽになった。

この空っぽの部屋は今の僕ととてもよく似ている。

そんな僕をこの施設に、と推薦してくれた時、前田師長は笑いながら言った。

「先生は居てくれるだけでいいのよ。お年寄りはね、それだけで元気と安心をもらえるのよ」と。

そんなことあるはずないのに。ただ居るだけの張りぼてに意味なんてない。

むしろこの施設は行き先を見失い、泳ぐことを辞めてしまった僕が逃げ込んだ澱みだ。清流の流れとは隔絶された水はゆっくりゆっくりと腐っていく。その淀みの中で、僕は

ただただ、与えられたルーチンワークをこなしている。

パソコンを立ち上げ、電子カルテに定期処方を打ち込む。

今日は226号室の那須原一さんの足がむくんでいた。一さんは確か心不全があったはずだから、気をつけないといけない。長時間作用の利尿剤を半錠だけ処方する。しばらくは呼吸状態が悪化しないかスタッフにも注意してもらわないと。

それから、203号室の山本ウメさんは明日から外泊だから、今日家族が迎えにきたら食事形態を指導しておかないと、誤嚥してしまう。それから……それから……。

キーボードを打つ乾いた音が室内に響く。

ただでさえ不味いのに、冷め切って砂糖水みたいになったインスタントコーヒーをひとくち飲んで、カルテを書く。

老健施設は医療保険ではなくて介護保険が適応されるから、老人達は施設入所時に高額な薬剤は切られて入所してくる。こういう内服の薬は施設からの持ち出しになるからだ。  

本当ならば、飲ませてあげたいお薬も使えない。そんなジレンマ。空っぽになっても、それでもまだそんなことを思うなんて、つくづく僕も馬鹿だ。どうせ何もできっこないのに、それでもまだ医者という呪縛の中にいる。

コンコンコン、とドアがノックされ前田師長が顔を覗かせた。

「榊先生。ちょっといいかしら」

「あ、はい」

僕は慌てて立ち上がる。

椅子はやっぱり不快な音で軋んだ。

「先生、研修医の時と変わらないんだから」

ケラケラと笑いながらやってきた師長に僕は今まで座って居た椅子を勧める。

「やぁね、年寄り扱いしないでくださいな。それより、ちょっと耳に入れておきたいことがあるんですけれど、よろしいですか?」

僕より頭ひとつ低いところにある鋭い目が光る。

「番場さんのことですけれど、スタッフや他の利用者さんに対してセクハラがひどいみたいなんですよ」

番場さん。番場多々郎さん。八十四歳。既往歴は大腸癌とラクナ梗塞。基礎疾患は高血圧、高脂血症、糖尿病をフルコンプ。明らかな認知症の診断はされていないけれど、言動からは感情の抑制も効きにくくて、その可能性が限りなく疑わしい。216号室の特室に入所している、元大学教授だったそうで、常から他の入所者に対しても、僕たちスタッフに対しても威圧的な態度をとる。

とはいえ、元々の性質というのはあるから、抑制が効きにくくなったせいで、そういう本来の性格が前面に出てしまっているのだと考えると、今の横柄で威圧的な態度はこの人の本質なのかもしれない。

 日本社会の高齢化は顕著で、今は八十五歳以上の二人に一人が認知症を患っている。認知症、と一言に言っても、タイプや程度は様々だ。物忘れという印象ばかりが先行する認知症だけれど、他にも色々な症状がある。ものすごく怒りっぽくなったり、被害妄想になったりする場合もあるし、盗癖が出たり、幻覚が出たりする人もいる。

元々の性格とどんなタイプの認知症か、それから現在の認知症の重症度。こう言った複合的要素が絡み合って、認知症患者さんの『個性』が決まってくる。

「番場さんか……」

僕は思わず溜息をもらしてしまう。

今日は僕もどやされたところだ。

『このクズが! 儂に偉そうに指図するな。社会のゴミめ。お前みたいな若造に指図され

るいわれはないわ』……と。

僕がクズ、というのはあながち間違いではないんだけれど、一応はこの施設の常勤医で、入所者の主治医である以上は、入所者が内服薬を捨てているのを見つければ注意せざるを得ない。それを注意したところの返しが先刻のアレだ。僕に対してでもこれだから、他のスタッフに対しての態度にも目に余るものがある。

「うちの鈴木さん、今日バイタルチェックに行った時、胸を揉まれたそうなんです」

「あー……」

看護師の鈴木早苗さんのはちきれそうになっている白衣の胸元を思い出し、僕は、あー、としか言えなくなる。細身で小柄なのに豊かな胸をしてメリハリのある体つきをした鈴木さんは、爺さん連中のアイドルだ。年を取ろうが、認知症になろうが、男の本能というやつなのだろうか。若くて可愛い看護師さんは総じて人気があるし、中でも鈴木さんの人気は群を抜いている。

でも、いくら可愛いからといって、セクハラは犯罪だ。電車の中で隣に立っている女性の胸をいきなり揉んだら、それは痴漢で、警察に捕まる。施設の看護師だから触っていいはずなんてどこにもない。それだって十分に犯罪に値する。

そんな当たり前のことさえ、認知機能が低下するとわからなくなってしまうのか。それとも、欲望が理性を凌駕しているのか。食欲、性欲、睡眠欲。動物としての三大欲求を僕たちは普段、理性でコントロールしている。その理性の箍が、認知症のせいで緩んでしまうのだろう。だからといって、こういった性的ハラスメントは決して許されることではない。本来ならば警察に届けてもいいはずなのだけど、施設や病院でのハラスメントは表沙汰にもされず、有耶無耶のうちになかったことにされてしまうことが多い。

施設のスタッフが入所している老人に暴力を振るった、なんていうニュースを見ることが時々あるけれど、高齢者施設の看護師が入所者からセクハラを受けた、なんていうニュースはテレビでは流れない。マスコミも世間も、誰もそれを咎めようともしないし、問題にしようともしない。実際は、入所者からスタッフへの暴力やハラスメントというのはとても多い。それに抗おうと手を振り払っただけでも、暴力行為だ、なんて訴えてくる人もいる。自分がしたことは棚に上げて。

それを指摘しても、世間の風潮もあって、結局悪いのは施設の職員や医療従事者にされてしまうこともしばしばだ。だから、みんな実害のない程度のハラスメントや暴力には耐えているんだ。

「鈴木さん、大丈夫ですか?」

「しっかりした子なんでね。それでもやっぱり、そんなことを許すわけにはいきませんよ。それに、鈴木さんだけじゃないですよ。入所者の山口さんもつきまとわれて、ことあるごとに胸やお尻を触られていますよ」

「えっ、そうなんですか?」

「山口さんは認知症があるから、後からそのことを先生に伝えたりはしませんけどね。嫌がる山口さんの胸もあからさまに触っていましたよ。どうにか止めましたけれど、いくら認知症があるとは言え、そういったことはトラウマとして心に刻まれていくものですよ」

「そうですよね……。どうしたもんかなぁ……。一度、番場さんのおうちの方に来てもらって相談するしかないかなぁ……」

「認知症があるから、病気の後遺症があるから、ってなんでも許されるものじゃありませんよ。それならば然るべき施設に入っていただかないと」

「とりあえず、鈴木さんはB担当から外した方がいいね。勤務組んでもらうのが大変になるかもしれないけど……」

仁王立ちになった前田師長は憤然とした様子でうなずいてみせる。

「気づいてあげられなくて申し訳なかったな……鈴木さんに」

 ぽつりと呟くと、師長さんは少し表情を和らげて、いいえ、と言葉を繋いだ。

「先生は若い男の方だから、鈴木さんも先生には申し上げにくいはずですから、そこは気付かないふりをしてあげてくださいな。先生だって、女性の患者さんから手を握られたり、あらぬところを触られたりしたとして、そんなことを若い女性の同僚に知られたいですか?」

「……確かに。それは嫌だね」

僕は幸い露骨な性的ハラスメントを受けたことはないけれど、リハビリに向かうためのエレベーターの中で、男性スタッフが女性の利用者から抱きつかれたり、下半身を触られたりした事例もあるというから、こういう問題はもはや女性だけの問題ではない。

「でも、気づけていなかったのは、やっぱりだめだな……」

 失格だ、と自分自身に烙印を押そうとする僕に師長さんが「こら!」と声を上げる。

「その考え方は改めないといけませんよ、先生。先生はね、それくらいどーんと構えていればいいんですよ。わたくしたち看護師は患者さんに寄り添うのが仕事ですからね。医者は冷静に全てを判断し采配するのが仕事ですよ。研修医の時に、家村先生から言われていたでしょう? 榊先生」

「……はい」

やっぱり僕はこの人には敵いそうもない。

素直に頷く僕に、白髪の天使はにっこりと微笑んだ。





■三


ウォウォウォウヮンとも聞こえる滑舌の悪い男の声が楽しそうに聞こえて来る。

「今日はいい天気ねえ」

車椅子に腰を下ろした老人は隣に並んだ老女の手を右手で包み込んだ。

聞き慣れればわかるのだけれど、老人は「桃子さん」とその名を呼んでいたのだ。

不自由な呂律のまま老人は老女へと語りかける。

 老人は宮内重信さん。八十七歳。217号室、特室の患者さんだ。以前はスーパーの社長だったというシゲさんは、脳梗塞後遺症で右半身が不自由だ。

その隣にいるのは山口桃子さん。八十二歳。218号室の特室に入所している。脳血管型認知症の一種、Binswanger病の患者さんだ。変形性股関節症の手術で入院したのを機に、認知症が一気に進行してこの四月に入所して来た。加齢性の筋力低下もあって、よちよちとペンギンのように歩くけれど、運動機能自体は保たれている。その保たれている運動機能の所為で徘徊することもあって、在宅では管理しきれない、とご家族は云う。まぁ、そうだよね。四六時中監視しているわけにはいかないし、座敷牢に閉じ込める、なんて前時代的なことをするわけにもいかない。徘徊して事故なんかにあってしまったら本当に悔やんでも悔やみきれないだろう。

 まだ僕が救急をやっていた頃。冬の朝、低体温症で運ばれてきた老人は、徘徊の末になぜかドブ川に入り込んで、凍るような水にずっと浸かっていた人だった。ドブ川の生臭いにおいも去ることながら、心停止するんじゃないかとヒヤヒヤしながら治療したのを思い出す。幸いあの人は助かったけれど、徘徊する認知症患者さんのご家族は大変なんだなぁ、としみじみと思った。

 桃子さんは仏壇屋の後家さんで、今は息子夫婦がお店を継いでいるそうだ。おっとりと穏やかで、物忘れは激しいけれど、人に声を荒げているところを見たことがない。ぽっちゃりとした体に名前と同じ桃色の半纏を羽織り、シゲさんに寄り添っている様は微笑ましい。徘徊さえなければいいんですけれど、と家族面談の時に息子さんは困ったように微笑んでいた。僕はふとそんなことを思い出す。

 張り出したテラス部分はガラスばりの温室になっていて、この季節でも胡蝶蘭が何鉢も置かれている。小さいけれど温室や中庭もある。この施設ならでは、だ。

「いいわねぇ。老いらくの恋」

いつの間にか僕のそばに立っていた三ツ森さんがうっとりと呟く。

「クロちゃんも恋しないとダメよ?」

両手を胸の前で組み合わせた三ツ森さんは少女のように笑い、僕の背をバシンッと叩いた。

「い……痛い」

「もー。クロちゃんは本当にしゃっきりしないんだから。それじゃあお嫁さんが見つからないよ?」

歩行器を押したちづさんがこちらにやって来ると皺だらけの顔でニヤニヤと僕を見る。  

若い頃はさぞかし美人だったんだろうな、と思わせる彫りの深い顔立ちで、年齢を感じさせないしゃっきりと伸びた背筋が印象的だ。

「あたしの若い時なんて、そりゃあモテたもんよ。いい男衆がいっぱいいたわ」

「えっと……それは、大正時代?」

「やだね、クロちゃんは。昭和よ」

「あ……そうか」

「もう〜。クロちゃんはデリカシーがないんだから〜。そんなんだからお嫁さんがいないのよぅ」

 いつの間にか車椅子で登場していた安岡さんが尻馬に乗る。

僕と出歯亀三人衆を余所に、桃子さんとシゲさんは手を握り合い、三ツ森さん曰く老いらくの恋を楽しんでいるようだった。聞こえてくる会話は相変わらず少しばかり噛み合っていない。それでも、二人の浮かべる笑顔はとても穏やかだ。

 認知機能が低下して、桃子さんは今日が何月何日かもわかっていないはずだ。家族の名前も顔もほとんど思い出せない。調子のいい時には息子さんのことだけはわかるみたいだけれど、家族が面会に来ても名前を呼ぶことは殆どない。ただ、名前は忘れても、顔を忘れても、家族のことは家族だとわかるみたいで、面会の時には少しだけ懐かしそうなそぶりをする。人間っていうのは不思議だな、と僕はそれを見ていて思った。桃子さんはシゲさんの名前も覚えていないのだろう。けれど、今ああして半身不随の男性に手を握られても振り払うでもなく隣に座り笑顔をたたえている桃子さんは、きっとシゲさんのことをなんとなくわかっているように僕には思えた。

あの二人が本当に恋をしているのだとしたら……相手の名前もわからないのに惹かれ合っているのだとしたら、それはなんだかとても。ロマンチックだな、なんて柄にもなく思ってしまう。それが本当に幸せかどうか、なんて誰にもわからないけれど。

「私の旦那様はね」

 二人の様子を眺めていた三ツ森さんが懐かしそうに呟く。

「融通が効かないって言ってしまえばそれまでだけれど、すごく真面目な人だったのよ。警察官をしていてね、上手に浮気なんてできっこないようなかたーい人だったの」

 三ツ森さんが話すたびに、シューと酸素の流れる音が後を追いかける。

「十七でお見合いをして、お嫁に行ってから、ずっと家庭一番で暮らしてきたわ。あの頃は女学校に行くような子も多くはなくて。三人の子供を育てながら旦那様の帰りを待っていたものよ。三つ指をついて『おかえりなさい』って旦那様をお迎えするような家庭だったの」

僕は軽く相槌を打ち、三ツ森さんの一人語りに耳を傾ける。

「そんな生活、今じゃ冗談じゃないっていう女の人が大半でしょうね。でもね、私は幸せだったのよ。あんな石頭でも、私たち家族をずっと養って、守ってきてくれたんですものね。先立たれてしまったけれど、幸せだったの」

綺麗に染めた黒髪を揺らし、三ツ森さんが微笑む。その隣でちづさんもどこか遠くを見つめている。

外に吹く木枯らしを感じることのない温室のようなこの施設の中で、僕たちはそれぞれの時間を今この時も刻んでいる。八十八歳の三ツ森さんにも三十六歳の僕にも。同じように時は降り積もる。

 感慨深げに目を細めていたちづさんがぽつりと呟いた。

「そうさねェ。人生、長かったようで、あっという間だったよ。後悔してるわけじゃぁないよ。でもさぁ、もしも人生をもう一回……ううん、やり直したいんじゃないんだよ。違う人生も体験できるなら、どんな人生を送りたいだろうね、って考えることもあるんだよ。この年になるとさ」

「ちづさんなら、なんだって出来ると思いますよ」

お世辞ではなく、僕はそう思った。

僕たちは忘れがちだけれど、いま『老人』と呼ばれる人たちにも、僕たちと同じ……いや、それ以上に若かった頃があって、そして今があるんだ。当たり前のことなのに、ね。時は戻らない。ただ、しんしんと降り積もっていくんだ。逃れられない時の流れのなか、僕たちもいつかは『老人』になる。そのとき、今日の日のことをどんな風に思い出すんだろう。そもそも、覚えていられるんだろうか。

 穏やかに微笑み合う二人にも、それからこの出歯亀の三婆にも、それぞれに生きてきた時間がある。たくさんの人と出会い、知らない経験をし、いくつもの喜怒哀楽を織り上げて、そして今がある。今のこの人たちがいる。

 少ししんみりとした僕の気持ちを見透かしたように、ちづさんが、カッカッカッと高く笑う。

「クロちゃんも、後悔のないように生きるのヨ。あたしくらいの年になってから、あれもやっておけばよかった、これもしておけばよかったって思ったってさァ、もう時間が足りないンだからね」

「……はい」

 軽やかだけれどとても重いその言葉に僕は小さく頷くことしかできなかった。





■四


 ガシャーン、と何かの倒れる音がする。

今日も楽しげな三婆こと、ちづさんと安岡さんと三ツ森さんの包囲網から抜け出し、僕は音のした方へと駆けつける。

歩行器が横倒しになり、車輪がカラカラと回っている。その横ではいささか濃い化粧をした老女が叫び続けていた。

「泥棒! 私の指輪を返せ! それは私の指輪よ!」

 傍らでは、桃色の半纏を羽織った桃子さんが、きょとんとした顔で立っていた。そのふっくらとした白い手を掴んだ老女は、桃子さんの左手薬指に食い込んで外れそうもない指輪を引き抜こうとしていた。

「松永さん。落ち着いて」

僕は桃子さんの手から老女の手を引き剥がし、叫ぶ女性に声をかけた。

彼女は松永亞以子さん。七十八歳。既往は陳旧性心筋梗塞、認知症、高血圧、アルコール性肝障害、甲状腺機能亢進症。顔色も見たいからあまり濃いお化粧はしないでね、と何度お願いしても、毎日これでもかというほどに厚くファンデーションを塗り、真っ赤なルージュを引いている。オシャレをしたい。自分をよく見せたい、というのが女性心理なのかもしれないけれど、流石に濃すぎる化粧は僕の立場からすれば、やめてもらいたいところだ。まぁ、一方でお化粧をすることが認知症の高齢女性にとっては良い刺激になる、なんていう話もあるから、一概に禁止にすることはできないのだけれど。

「どうしたんですか? 松永さん」

「この女が、私の指輪を盗んだの。泥棒よ!」

普段はなにかに縋らないと立てない、歩けないと言って聞かないはずの松永さんは、何にも掴まることなく、両足で大地を踏みしめ怒りに唇を震わせていた。だが、松永さんが『自分の指輪』だと主張している透明な石のついた金色の指輪は、いつも桃子さんがしているもので、左手の薬指にしっかりと食い込み、どう見たって桃子さんのものだ。アクセサリー類も化粧品同様、施設には持ち込んでほしくないものではあるのだけれど、結婚指輪だけはできれば最後までつけさせてやりたい、と願うご家族も多い。だから、この施設では、紛失のリスクと手がひどく浮腫むと外せなくなるから最悪の場合、指輪を切ることもあることを理解してもらって、着用したまま入所されている方もいる。

 桃子さんは、なんのことだかさっぱりわからない、といった様子で首を傾げている。

「松永さん。これは山口さんの指輪ですよ。いつも山口さんがなさっている指輪です」

「ちがうちがうちがーう! 私の指輪。私の! どろぼーう」

キンキンとした金切り声に幾分耳の遠くなった入所者さんたちも遠巻きにこちらを眺めている。揺蕩うように流れるBGMの柔らかなヴァイオリンの音色とは裏腹な、剣呑とした声色が響き渡る。

 再び桃子さんに手を伸ばした松永さんの手を止めようとした時、松永さんの爪が僕の手の甲を引っ掻く。チリッとした痛みが走って、皮膚が破れる。じわりと血が滲み、僕は顔を顰めた。

 更に喚きながら手を振り回す松永さんの様子に前田師長がパタパタとナースシューズを鳴らして駆けつける。

「松永さん。いい加減になさい! その指輪は、山口さんが元々つけていらしたものです」

 師長さんは、桃子さんを庇うように僕の隣で仁王立ちになり、腰に手を当てた。その様子に、松永さんの怒りの矛先は師長さんへと向かう。

松永さんはインプラントだと自慢していた歯をギリギリと噛み締め、再び叫び始める。

「うるさい、ババア! おまえみたいなブサイクなババアとは口も聞きたくない。私はお客様なのよ? 高いお金を払ってここにいるの。あんたなんかクビよ、クビ! 言いつけてやるんだから!」

 破綻した論理、抑制の効かない感情、被害妄想。どれをとっても、認知症の症状として矛盾しない。

 一般にもよく知られているアルツハイマー型認知症の症状に、被害妄想がある。お金を盗られた、人から悪口を言われた、などと事実とは異なる被害を訴えるのが一般的だ。一方で、前頭側頭型認知症では認知機能の低下とあわせ、万引きを繰り返すようになったり、性格が変わってしまったりする。アルツハイマー型認知症に次いで患者数の多いレビー小体型認知症では、認知機能の低下以外に虫や小さな動物などの幻視があったり、パーキンソン症候群のような動きにくさが出現したりもする。

 松永さんの症状は、アルツハイマー型認知症の物盗られ妄想とほぼ一致している。

 彼女はご自分の貯金でこの施設に入っているそうだけれど、身元引き受け人の姪御さんにもかなりの暴言を繰り返しているのを僕は何度も見てきた。「貯金をくすねているだろう」と食ってかかられた姪御さんは困ったように笑っていた。

 松永さんの場合は、この被害妄想と物盗られ妄想が如実に現れて、姪御さんを糾弾しているようだった。でも、それがいくら認知症の症状だとわかっていても、泥棒扱いされて気持ちのいい人間なんていない。この姪御さんが手を離してしまったら、松永さんはこれからどうするんだろう、と僕はその時にぼんやりと思った。

「さっさと指輪を返しなさいよ! この雌豚」

 桃子さんに掴み掛かろうとする松永さんを押しとどめ、師長さんがいささかきつくも聞こえる口調で言い放つ。

「いい加減になさい。他人様のものを盗ろうとしているのはあなたですよ。松永さん」

 振り上げた腕を師長さんが掴むと、袖が捲れ、引き攣れた皮膚が覗く。松永さんの右腕には、二の腕の下辺りから手首にかけて、大きなケロイドがある。手術や火傷、外傷の後に皮膚が瘢痕化してしまったものがケロイドだ。触れると正常な皮膚よりも痛みを感じやすく、見た目にもその部分が目立つこともあって、形成外科でケロイドを切除する手術を受ける人も少なくない。小さなケロイドならば手術である程度までは治すこともできるのだけれど、かなり大きなケロイドだから、手術をしても完全に治すことは難しいのだろう。

松永さんは、この大きなケロイドを隠すように夏場でも長袖の服を着ている。認知機能が低下しても、だ。不思議なもので、こだわりや嗜好は認知機能が低下しても残存することが多い。これも執着心という人間の浅ましさが理性の箍が外れ、むき出しになってしまうからなのだろうか。

 松永さんは更に眦を上げ手を振り払うと、捲れた袖を戻し、師長さんを睨みつけた。

「あなたどこの看護婦? 私は婦長なの。あなたの部署の上に報告するわ!」

 僕はそんな松永さんの様子を眺めながら、これまでの彼女の人生がどんなものだったんだろう、とふと思いをはせる。確か、この人も元看護師。前田さんの立場も僕の立場もそして施設というものの役割も十分にわかっているはずだ。独身で、面会に来る家族は姪だと言う女性が一人きり。それも三ヶ月に一度の契約更新の時だけ。何度注意してもやめてくれない厚化粧用のファンデーションや口紅はその時に姪御さんが差し入れている。それもやめてもらうように頼んでいるんだけれど、持ってこないと松永さんは姪御さんに手をあげる。いつも帰り際に何度も頭をさげる姪御さんが可哀想で、診察の妨げになる化粧品の持ち込みを僕は容認してしまう。師長さんからは「先生は甘すぎる」と怒られるんだけれど。

「わたしはこの施設の師長です。あなたが報告すべき相手など存在しませんよ」

 師長さんの凛とした声が響く。

「あなたはもう婦長ではありません。あなたはここの入所者です」

 ピシリと事実を突きつけられても松永さんは怯む様子もない。

 当然だ。

彼女は、自分が看護師として働いていた、自分が最も輝いていたと感じていた時間を今も生きているのだ。彼女の世界では、彼女はまだ現役の婦長で、若く美しく、権力も持ち、全てを手に入れているはずなのだから。怖いものなんてきっとないのだろう。

「そうよ、私はお客様なの。お客様は神様なんだから、さっさと言うことを聞け! このクソババア」

 心の痛くなるような言葉。たしなめようと口を開きかけた僕に先んじて、師長さんが静かに「違います」と断じた。

患者さんや患者さんのご家族には勘違いしている人がいる。病院はただのサービスを提供する場所、そして自分たちは客だ、と。

病院は病気の人を治療する場所だ。 

介護施設は、介護が必要な人達を介護する場所だ。ホテルやアミューズメントパークじゃない。勿論、御本人の意志は尊重されるべきものだけれど、それだけじゃない。必要な治療、必要な介護を提供する場所なんだ。そもそも、病院に来る人は病の治療のために来るのだし、介護が必要な人は家ではその介護を十分にできないからこう言った施設に入るんだ。お客様は神様、だから全て自分の思うままに、なんて行かないんだ。そのことを取り違えている人がたくさんいる。でも、まさか、自身が元看護師の松永さんまでそんなことを言うなんて……。それとも、今まで幾度となくそんなことを言われてくる中で、彼女自身の心の片隅にそんな呪いが染み込んでしまったのだろうか。

医療への情熱も真正面から向き合う勇気も失くして、僕はここに来たはずなのに、それなのに、胃の奥の方で暗い気持ちがグラグラと沸き立つ。

「あなたは患者としてここにいるのです。お客様になりたいならば、然るべきホテルにでも旅館にでもお行きなさい」

 淀んだ思いに足を取られそうになって俯く僕の隣で、師長さんが静かな口調で云った。そんな静かな怒りに沈んでいく師長さんとは裏腹に、松永さんはなおも興奮し、金切声

で叫んだ。

「うるさーい! 私はお客様なの。私は婦長なのよ!」

その台詞に、僕の隣で白髪の天使が、ふんっ、と鼻息を吐き出した。

「だからなんだっていうの! 師長だったならば、初心にかえって、ナイチンゲール誓詞を思い出しなさい」

尚も言い募ろうとする松永さんに師長さんがぴしゃりと言い放った。

僕は溜息をついた。

ここは、やっぱり澱みだ。





■五


 中庭から笑い声が響く。窓越しに伝わる楽しげな空気に僕はふと設えられた小さな庭園に目をやった。

小さいながらも日本庭園風の中庭には真っ赤なフェルトのマットが敷かれ、こぎれいな格好をした老人達がお茶席の真っ最中だ。

講師として招かれている茶道家は僕とそう年齢の変わらないであろう男性で、老女たちはその所作をうっとりと眺めている。淀みのない所作で披露されるお手前は、門外漢の僕から見ても美しく、非日常的だ。

少しへしゃげた六角形を二つ繋げた形をした『雪の園』は一見、瀟洒なホテルか別荘のような佇まいだ。一階はデイサービスを主体とした介護施設になっていて、時々こんな風に催し物が行われる。例えば、一月には書道家の先生を招いての書初め大会や、お琴の鑑賞会。二月には豆まき大会、三月には雛祭りの茶会。今月、十二月はお正月に向けて、フラワーアレンジメント教室が開かれる。それ以外にも、こんな風なお茶席やクラシックコンサートなど、様々な催し物が目白押しだ。

まるでホテルのような洒落たフロアで行われるレクリエーションの数々は、世間一般の描く旧態依然とした老人ホームのイメージとはかけ離れていて、どちらかといえば、マダム達が嗜むカルチャースクールや、最近流行の朝活女子の自分磨きにも似ている。

 朝から経営母体の医療法人名がデカデカと車体に書かれたマイクロバスが、スクールバスよろしく、老人たちを各所でピックアップし施設まで送り届ける。他の老健施設でのデイサービスが座ってできる体操だとかカラオケ大会だとかなのに比べて、この施設のデイサービスは『いかにも』なものではなくて、どちらかというと上品な奥様方が好みそうなラインナップになっていて、入所者以外からも人気がある。マイクロバスはいつも満員だ。

 そんなデイサービスの利用者に混じり、施設入所者も希望があれば日中のこうしたレクリエーションに参加できるから、人気のイベントの日には認知機能や運動機能がある程度保たれている入所者はこぞって一階に『お出かけ』する。

 今日は三婆も少しばかりおめかしをして、朝から茶席に参加中だ。

ホールの窓から中庭を眺めている僕の隣に、ふ、と人の気配がした。

誰か、と確認するまでもなく、仄かな白檀が香り、それが前田師長だと察する。

「年老いてからこんな時間を過ごせるのは少し羨ましいですね」

あちこちで楽しげにあがる笑い声に、師長さんの眼差しが和らぐ。

「そうだね。毎日、いろいろなものをすり減らして生きているけれど、自分が老人になった時、どんな時間を過ごすのかな、ってふと考えるなあ」

「あら、先生はまだお若いからいいですけれど、わたくしなんて、もう他人事じゃない年齢ですからね」

「……えっと、はい」

「もう。そこは上手を言わなきゃだめでしょ」

「あ……。師長さんは、まだお若いから」

とってつけたような僕の一言に師長さんがクスリと笑う。

「ほんと。先生は変わらないわねえ。不器用っていうか……なんていうか」

「す、すいません」

少し下にあるきっちりと結われた髪は真っ白で、そういえば、僕が研修医になったばかりの頃はまだ黒に白が混ざっている程度だったのに、なんてことを思い出す。昔より骨張って見える肩や背中。入所者のなかには師長さんと同い年の人だっている。いつまでこの小さな背中は患者の命という重荷を背負いつづけていくんだろう。いつになれば、その重荷をおろすことができるんだろう。

 窓の向こうで楽しそうに茶会を楽しむ老人たちと師長さんの姿を重ね絵のように眺める僕に、白髪の天使が先刻とはうって変わった無機質な声で云う。

「そういえば、今日は、松永さんの姪御さんがいらっしゃる予定でしたわね」

「はい……」

灰色をした重たい感情が僕の中にわき起こる。嫌だな、と呟きそうになるのをすんでのところで飲み下す。

「先生。苦手なのはわかっていますけれどね、今日はお話をしていただかなくてはいけませんよ」

「……はい」

松永さんは入所費用の滞納が今月で三ヶ月目になる。今月支払いが滞れば、強制退去も考慮せざるを得ない。とはいえ、姪御さん以外に身寄りのない彼女が強制退去になった場合、身元を引き受けなければならないのは姪御さんだ。ただでさえ、この三ヶ月分の入所費用はトータルで九十万近い。

より費用の安いグループ施設への紹介も以前から何度も提案してきたけれど、松永さん本人が拒否して、話が進まないまま立ち消えになっている。

 僕たちは等しく年を重ねる。

その重ねた年の行く先を決めるのはお金なのだ、と僕はこの施設で働き始めて嫌というほど思い知った。

どんな生き方をしてきたのか。家庭はあったのか。仕事はどうだったのか。

家族を大切にして、子供達からも愛されている老人……例えば、桃子さんのような人……でも、在宅での介護には限界があって、こうして施設に入所している。

そうではない……そもそも、在宅での介護をうけることの出来ない人に至っては、雪の園みたいな高額の施設ではなくてもいいけれど、なにがしかの介護を受けられる施設への入所が必要になる。

僕自身、未だ独身だ。

このまま、家庭を持つこともなく、子供もいない……そんな未来があるのかもしれない。

そして訪れる老後。兄弟もない僕を待っているのは孤独死への道だ。

お金がある間は施設に入って暮らせるのだろうけれど、じゃあ、その先は?

真っ黒に塗りつぶされた未来しか、今の僕には見えない。

だから、この施設で働くようになってから、僕はきっちりと貯金するようになった。それから、貯蓄型の保険にも入った。

それでもやっぱり、不安は尽きない。

 松永さんの今置かれている状況は、決して他人事ではなくて、僕自身がいつか直面するかもしれない未来のひとつなんだ。

だから……だからきっと、僕はこんなに気持ちが滅入って仕方がないんだ。

「事務長も立ち会ってくださいますから。そんな顔しないで」

ちらりと盗み見た横顔に柔らかな微笑みを浮かべた前田師長はまるで出来の悪い息子を見つめる母親のような眼差しを僕になげかけていた。

不安までも見透かすようなその眼差しに、僕は曖昧に頷いた。



 中庭に面した一角に面談室はあった。

窓からは、中庭の奥にしつらえられた小さな茶室とそこに至る露地が見える。椿のてらりとした緑の葉が、冬の陽射しに美しい。

 僕は目の前に座ったほっそりとした女性から目を逸らし、窓の外を見つめた。

 先ほどまで中庭でお茶会に参加していた面々は、面談の始まる前にぞろぞろと茶室へと入っていった。この後は全員で俳句を楽しんで、本日のレクリエーションは終了、の予定だったはずだ。

少しつり目がちのぱっちりとした目元は松永さんと少しだけ似ていたけれど、叔母とは反対に、化粧っけのない姪御さんの横顔には疲労の色が浮かんでいて、実年齢より歳を重ねて見えた。ささくれだち、荒れた指先を落ち着きなく擦り合わせ、彼女は俯いていた。

まだ暖房が効いていないせいか、それとも僕が窓際に座っているせいか、室内は少し肌寒い。それなのに、緊張ゆえか、彼女の肌を汗が伝い落ちていた。

何年も着ているのだろう古いコートには毛玉がたくさんついていて、灰色のカーディガンに少し色褪せた紺色のスカートという質素な服装と相俟って、そこだけモノトーンのように沈んでいる。

僕の隣にはでっぷりと肥った蔵田事務長が腰かけ、その肉肉しい壁のような体に阻まれ、僕は逃げようにも逃げられない状況におかれていた。濃厚な整髪料の臭いに吐き気がする。

「ですからね、こちらもやむを得ず申し上げているんですよ」

事務長がねっとりとした口調で言う。

僕は、この人が苦手だ。

「でも……今すぐには……」

合皮のソファに座った女性が更に深くうつむくと艶のない乾いた髪が一房こぼれた。その拍子に、頬を伝った汗が机の上に落ちる。

彼女は松永さんの姪にあたる。

叔母、とはいえ、現代日本の家族制度の中で、叔母と姪が恰も親子と同じほど強い繋がりにあるか、といえば、それは否、だ。

彼女にとってみれば、亡くなった父の姉。身寄りのない親戚の叔母さん。

それを切り捨てるには、彼女は曖昧に優しかった。

『身元引受人』である彼女は、今、ふたつの選択肢を提示されていた。ひとつめは、滞納金を支払い、松永さんを雪の園にこのまま入所させる方法。もうひとつは、滞納金は分割で徐々に支払っていただき、そのうえで松永さんには退所してもらう、という方法。この場合、ご自分でケアマネージャーに相談し、次に入所できる施設を探すしかない。それまでの間は、在宅で過ごして貰うことになる。

 もし僕が……もしも僕が彼女の立場だったらどうだろう。

身寄りのない親戚に同情してしまうんじゃないか?

同情し『身元引受人』になってしまうんじゃないか?

そんな優しさの辿り着く先がこんな結末だとしたら?

僕は、日本の高齢者社会の現状にふと絶望する。

「わたくしたちも、ボランティアでこういった施設を運営しているわけではございませんのでね。ご自宅で介護が難しい方はたくさんいらっしゃいますしね、この施設も空きをお待ちいただいている方もたくさんみえるんですよ」

「……はい」

「お支払いがないまま、こちらで介護を継続する、というのはどうしたって、おかしな話だということくらい、ご理解いただけますよねぇ」

 粘着質な言い回しは真綿で首を締めるかのようだ。こんな言い方しなくたって、彼女は十分にわかっているはずだろうに。

 本来なら立ち会ってくれるはずの師長さんは、この家族面接が始まる直前に不整脈発作を起こした患者さんを連れて、隣の病院に行っている。

 僕は、彼女の追い詰められていく心情を計りながらも、施設長という立場上、なにも言えずにいた。

 わぁっと中庭から歓声が響いた。

 僕は窓の外に視線をうつす。小さな茶室から着飾った老人たちが中庭にわらわらと出てくるところだった。その中には彼女の叔母、松永さんの姿もあった。若いケアワーカーの腕に縋るようにしながら、見た目だけはそれらしく作られた茶室前の小路を意外にしっかりとした足取りで歩いている。

 いたたまれない。

昼下がりの明るい日差しの中、楽しげに笑い声をあげる老人たちと、この暗い部屋のなかで俯き、心ない言葉でいたぶられている僕とそう年齢の変わらない女性。

歓声につられ、緩慢な動作で視線をあげた彼女は、焦点の合わないようなどこか胡乱な眼差しで窓の外を眺めながら、掠れた声を絞り出した。

「叔母の……貯金は、もう……」

 握りしめた指先が細かく震えている。ぽたぽたと汗が流れ落ちている。

明るい窓の外から目を逸らした彼女は力なくかぶりをふる。その度に、ぱさついた髪の毛が宙を舞った。

「前回もお話ししましたようにねぇ、今月が期限なんですよ。うちの施設は希望される方もとても多いので、滞納が続かれるならば、出ていただかないとねぇ」

「……わかって、います」

握りしめた拳が色をなくしている。

「でもっ……三ヶ月分……九十万も……。うちには、子供が二人いるんです……。そんな金額、もう……」

どうしようもないジレンマ。

僕にはどうすることもできない。

国の決まり、施設の決まり。

どうしようもないことなんてわかっている。

わかってはいるけれど、ただ抑えようのない怒りと悲しみ、虚しさが僕の中を満たしていた。

 僕は、深い深い澱みの底に、いた。





■六


「ねぇねぇ、クロちゃん」

 回診中の僕を見つけた僕のところに、三ツ森さんがゆっくりと歩いてくる。するりするりと床を這うような足取りで酸素の機械を引っ張って歩く姿は、長い黒髪と相俟って、かぐや姫のようだ。ただし少しばかり年嵩の。

「クロちゃん、ちょっと聞いて?」

「どうしたんですか?」

 真剣な表情の三ツ森さんに僕はほんの少し嫌な予感がする。もしかして、癌が更に進行してなにか症状が出始めたんだろうか。僕は三ツ森さんの様子を注意深く窺う。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、三ツ森さんは至極真面目な面持ちのまま、突拍子もないことを僕に囁いた。

「人魂が飛んでたのよ」

「はい? ヒトダマ?」

 僕は思わず鸚鵡返しに問い返してしまう。

 想定外の台詞に大きな声を出した僕に、三ツ森さんは、しーっ、と人差し指を立て、周りを見回す。内緒話でもするように後期高齢者になったかぐや姫は片手を頬に当てる。

「むっちゃんが見たらしいのよ。人魂」

「ヒトダマっていうのは、あの怪談なんかで出てくるヒトダマのことですか?」

「そうよぉ。そうに決まってるじゃない。他に人魂がある?」

「いえ……不勉強なので、他にヒトダマというものは知りませんが……というか、三ツ森さんの仰っているヒトダマも僕は見たこともないですし、聞いたこともないんですけど」

「そりゃそうよ。そんなにその辺を飛び回っていたら困るじゃない」

「いや……うん、まぁそうなんだけど」

 いきなりとんでもないことを言い始めた三ツ森さんを僕はまじまじと見つめる。三ツ森さん、脳転移は今のところなかったはずなんだけど……もしかしたら転移の見落とし? と、僕は一ヶ月ほど前に隣の総合病院で撮影してきたMRI画像を思い出し、ヒヤリとする。そんな僕の表情の変化に気づいた様子で、三ツ森さんは、頬を膨らませる。

「ちょっと! クロちゃん! 私はボケてないわよ!」

「ええと、三ツ森さん、頭痛とか吐き気とかない?」

「もーぅ。病気じゃないの! 本当に見たんだから! そりゃ、むっちゃんはちょっとばかりボケてるけど、それでも、半分くらいは本当のことを云ってるわよ。私だって信じられなかったの! でも、一緒に見ちゃったのよ! 人魂」

 俄かには信じがたい言葉に僕は腕組みをし、首を傾げた。

「二人で見たんですか?」

「ちづさんもいたわよ」

「ああ……いつもの三……人で」

 三婆、と言いかけて僕は慌てて言い直す。

「そうよ! だからそう云ってるじゃないの。おかげでむっちゃんなんて怖がっちゃって、ずっとソワソワしてるわよ」

 なるほど、と僕は少しばかり合点がいく。

 いつもならば三人で揃ってお喋りに花を咲かせている三婆が、今日の回診時、安岡さんとちづさんは、二人で緑茶を飲んでいて(そして僕にもお茶が出されて、ポケットには一口羊羹がねじ込まれた)、三ツ森さんだけが安岡さんの部屋の入り口からそう遠くないホールの椅子に腰掛けていたのだ。

 喧嘩でもしたのか、と思ったらそうではなかった、ということか。

「むっちゃんが落ち着かないから、落ち着くためにはやっぱりまず、お茶とお菓子でしょ。だから、ちづさんがついていてくれるっていうから、二人はむっちゃんのお部屋でお茶。私はクロちゃんに報告しなくちゃならないし、ここで待っていたのよ。だって、むっちゃんの前で云ったら、またむっちゃんが不安になっちゃうじゃない?」

 世間話でもするような調子で三ツ森さんは喋り続ける。

「最初に見たのはむっちゃんだったの。それで、ナースコールを押したけど、その時にはもう消えちゃっていて、翌日、私とちづさんもその話を聞かされて、今度は三人で張り込んだんだけど、一週間くらい人魂は出なかったのね。それが……昨日の晩、よ」

 辺りを見回し、いつの間にか大きくなっていた声のトーンを落とすと、三ツ森さんは深刻そうな顔をして僕に囁く。

「ここからでも見えるんだけど、あそこに物置があるじゃない?」

 三ツ森さんの指差す方には物置……ではなくて、一応処置室がある。処置室の前に置かれた今は使っていない処置台には未使用のオムツの箱が山になっていて、処置室のドアは隠れていて三分の一ほどしか見えない。

「あの物置のあたりで人魂がふわふわとしてたのよ」

「夜勤の看護師さんが歩いていたんじゃなくて?」

「まさか! いくら私たちが年寄りだからって、看護師さんの白衣と人魂は見間違わないわよ。黄色っぽいこれくらいの大きさの光が、ふわふわ、ふわふわ、って」

 両手の人差し指と親指で三ツ森さんはマルを作ってみせる。

「毎日出るわけじゃなくて、時々。それも、ほんの数分だけなのよ」

「はぁ……。それよりも、三人とも、それを見るために夜更かししていたんですか?」

「そこは見逃して頂戴。ちょっとした好奇心よ」

 茶目っ気たっぷりに微笑む老女に僕は小さなため息をつく。まったく……。僕のいない夜の時間帯にこの人たちは何をしてるんだか……。

「こんな大事件は、やっぱりクロちゃんに知らせてあげなくちゃならないでしょ。それにむっちゃんも不安がってるし。この『雪の園』に幽霊が出るなんて、そんなの怖いし」

「……怖いって、それを三人で見物していたんじゃ?」

「そうよ。だって、本当かどうか確かめたいでしょ。それに一人じゃ心細いじゃない」

「怖いって言いながら見たいっておかしいでしょうに。もう……夜はちゃんと眠ってくださいよ」

「そんなの、気になって眠れない方が体に悪いわ。それでね」

 いささかげんなりとする僕の気持ちなんて知る由もなく、三ツ森さんの話は続いていた。館内に流れるヴィヴァルディの四季は夏の嵐を奏でている。

「私、さっき覗きに行ってみたの。あそこの部屋」

 そこで三ツ森さんは少しばかり顔をこわばらせて、あの部屋……と指差す。

「クロちゃん、あそこで誰も死んでないわよねぇ」

「……はあ?」

 あまりの言葉に、僕は溜めていた息を一気に吐き出した。

「もう……死んでないです。僕が知る限り。で、鍵がかかってて入れなかったんじゃないですか?」

「そう! そうなのよ。だから気になってね」

「あー……もう。はいはい。見せてあげますから」

 三ツ森さんは見ていてわかるくらいに顔を輝かせて、両手を胸の前で組む。

「お見せするので、今日からは三人ともきちんと眠ってくださいね」

「じゃあ、二人も呼んでくるわね」

「ああ、もう。三ツ森さんはあまり動き回らないで。息、苦しくないですか? 僕がお二人を呼んでくればいいんですね?」

「ありがとう。クロちゃん。流石、外国の人よねえ。女性への優しさがあるわ」

「……いえ、僕は日本人ですから」

 口の減らない三ツ森さんにはロビーの椅子で待っていてもらい、安岡さんとちづさんを連れてくると、三人は顔を見合わせて嬉しそうに頷き合っている。安岡さんの車椅子を押す僕の後を、三ツ森さん、ちづさんと続き、業務用物品の詰まった段ボール箱の隙間を抜け、処置室の前に置かれた古い処置台ごとおむつの箱をどけると、僕はポケットから鍵を出した。

「クロちゃん、お化けが出てきたら、守ってよぅ」

「大丈夫。幽霊だってこんな婆ァたちの命なんて今更欲しくないだろうサ。ねェ、クロちゃん」

「ところで、ここは元々なにをするお部屋なの?」

 鍵を差し込もうとする僕に三人が三人とも好き勝手なことを云う。

「あのね、この部屋は『処置室』って言って、怪我をされた方などの処置をするお部屋なんです。幽霊が出るような理由なんてないですよ」

 鍵を回すと、かちゃり、と小さな音が鳴る。扉を押し開けると、白く、殺風景な部屋が広がる。部屋の奥には大きめの処置用ベッドが一つと、銀色に光る処置台、丸椅子が一つにゴミ箱、畳まれた掛け布団がひと組置かれている。あまり使われない部屋なのに、思ったより埃が溜まっていなくて、時々誰かが掃除してくれているのかもしれない。

「へぇ〜。中はこんな風になってるのね」

「みっちゃん、お化けは〜?」

 車椅子に乗った安岡さんが身を乗り出す。ちづさんまでもが物珍しそうに、室内を見回している。

「長いことここに厄介になってるけど、初めて入ったヨ」

「大きな傷で縫わなくてはならない時や、骨折して固定しなくちゃならないような時にしか使いませんからね。この部屋は」

 歩行器に体を預けたちづさんは窓際まで歩み寄り、かけっぱなしで日焼けした白いカーテンをめくる。北東に向かった窓からは施設の車寄せが見えた。

「なぁンだ。本当に何にもありゃしないねェ。むっちゃん、お化けはここには隠れてなさそうだヨ。ほら、見てごらん」

「お化けいない?」

 ちづさんがカーテンの向こうを安岡さんに見せている間、入り口に立った三ツ森さんは室内を見回していた。

「淋しいお部屋ね」

「僕が来てからはまだ一度も使っていませんし、必要最低限の物品しかここにはありませんから」

 三人が納得するまで処置室を見て回るのを僕は見守った。そして、人魂騒動は一旦、幕を閉じた。





■七


 年末年始は施設も閑散とする。

大晦日だけ。或いは三ヶ日だけでも、と外泊する入所者も多い。特にこの施設ではそれが顕著だ。普段は二十五床満床なのに、この期間には大半の人が外泊する。

 今年は驚いたことに、寝たきりで胃瘻からの栄養注入が必要な201号室の佐々木京子さんが三日間の外泊をする。佐々木さんは七十七歳。脳梗塞で寝たきりになって、自力での食事摂取ができなくなり、胃瘻を造設された。脳血管型痴呆もあるから、簡単な意思疎通くらいしかできないのだけれど、お孫さんが看護師になったそうで、おばあちゃんと年末年始くらいは過ごしたいから、と介護役を買って出たんだそうだ。

 僕の祖父母はもうみんな亡くなってしまった。両親は健在だけれど、医者になってから十二年。年末年始に実家に帰ったことは一度しかない。僕も両親が健在なうちに親孝行しなくちゃな、なんてぼんやりと考えながら、リクライニングの車椅子ごと介護タクシーに乗り込む佐々木さんを見送った。

 最後に、外出用の酸素の機械を引っ張った三ツ森さんが大きく手を振り、迎えに来た息子さん達とともに雪の園のドアを出て行くと、施設に残ったのはわずか9人になった。

年末年始、家業が繁忙期のシゲさんと病状の安定しない田野倉昭三さん。寝たきりの杉原幸之助さん。それに番場さんの四人が男性の居残り組。女性が五人で、姪御さんだけが身元引き受け人の松永さんに、一族郎党が帰省するから人数が多すぎて面倒がみられないと言われてしまった桃子さん。お孫さんが受験生だからと今年は帰省できなかった安岡さん。体調の優れない近藤シズエさんに、家族がみんな遠方に住んでいるちづさんだ。

結局、松永さんの入所費用滞納問題は年をまたぐことになった。というのも、年末年始はどこの施設も新規の入所者はとらないし、それを手配するケアマネさんたちもお休みだからだ。蔵田事務長は年末にかかるまえに即刻施設から出てもらうべきだ、と最後まで主張していたけれど。師長さんがガンとして譲らず、決着は年明けに、ということになった。

 入所者の大半が帰省してしまうと、施設の中はなんだかガランとしてしまい、一定温度に保たれているはずなのに、ほんの少し寒く感じる。

これで一年が終わる。

 どんよりと重たい雲が垂れ込めた空は、すっかり暮れ、冷たく湿った風が吹き抜けた。首筋を冷気が撫で、僕は慌てて首をすくめる。

「冷えてきましたねー」

 事務の平野君が入り口の自動ドアに鍵をかけ、笑顔で僕に振り返った。

「降るかな? 雪」

「そうっスねぇ。この空、どう見たって降るっぽいスよねぇ。降らないで欲しいなー」

「平野君、今日当直?」

「そうそう。くじ引きで負けました。年越しそばも正月手当も出るから、頑張るっス」

 人好きのする笑顔で平野君は僕に小さなガッツポーズをして見せる。施設前のスロープで話し込んでいると、足元から冷気が這い上がってくるようだ。

「今年は暖冬だっていうのにね。なにも大晦日に降らなくてもいいよねぇ」

「元旦の初仕事、雪かきになっちゃいますよ」

「え、そんなに積もるかな?」

 他愛のない会話の端々から、今日は大晦日なんだ、と改めて痛感する。不思議なもので、時間は連続していて、二十四時間という区切り自体は変わりはしないのに、なんだか特別な気持ちになってしまう。昨日と同じ、明日と同じ一日のはずなのに。

人間は不思議だ。

エピソードや名前をつけることで、他と同じ一日を特別なものに変えてしまうのだから。

たとえば僕が野良猫だったら、今日が大晦日だ、なんてことに感慨なんてカケラほども感じないだろう。

「さあ、仕事も終わったし、紅白見ながら蕎麦食うぞぉ」

「事務の人の当直室ってこの奥にあるんだっけ?」

「そっス。安心してください! 鈴木チャンに夜這いなんてかけませんから! あっちは二階だし……」

「聞き捨てならないなぁ」

「だって、鈴木チャンかーわいぃじゃないっスか。おっぱいもおっきくて」

「こらこら。セクハラになっちゃうよ」

顔を見合わせた僕たちは思わず吹き出して、それから会釈を交わす。

「一年間お疲れ様でした」

「先生も、お疲れ様でした」

「よいお年をね」

「先生も」

 手を振る平野君に軽く頭を下げて、僕は施設長室のドアを開ける。

今日の当直は、事務の平野君と看護師の鈴木さんと前田師長。ケアワーカーの鴻池君。

平野君も鈴木さんも鴻池君もそうなのだけれど、医者の世界でもそうであるように、年末年始は若手が勤務を担う、という暗黙のルールがある。

 平野君と鴻池君は三十前後、鈴木さんは二十台。家庭を持っていない二十台から三十台というのはこういう時、損な役回りだ。僕もこの施設に移るまで例年、年末年始の勤務要員だった。けれど、この施設のように施設医はひとりしか配置されていない場合、施設医は土日祝日、年末年始はお休み位なっていることが多い。そんなわけで、年齢的にはまだ年末年始要員足りうるはずの僕はありがたく、大晦日から三ヶ日はお休みさせてもらうことになっていた。

そんな世の中の慣習なんてどこ吹く風。前田師長は自分から年末年始の当直を引き受けたそうだ。曰く、鈴木さん一人じゃ心配だから、とのことだけれど、僕からすると前田師長の体の方が心配なんだけれどね。いっそ、僕が代わりに泊まるのも提案してみたんだけれど、あっさりと却下された。

 確かに僕たち医者は、看護師さんたちのように患者さんのオムツ交換や体位向換をする技術はない。介護士の鴻池君が居てくれるとはいえ、何かがあったときに、看護師一人では対応が難しいだろう。この規模の施設ならば、当直帯に看護師が一人……もしくはゼロになる施設なんてザラなんだけれど、前田師長にはそれが許せないことのようだった。

 施設長室で私服に着替えて部屋の鍵を探していると、師長さんが階段を降りてくるところだった。

「あら。まだ帰ってなかったんですか?」

「ああ、師長さん。お疲れ様です」

「榊先生。早く帰って、今日くらいはゆっくりなさいね」

「今日くらいは、って。急性期に居た頃より毎日ゆっくりさせてもらってるよ」

「そうですねえ。確かに急性期とは違う時間の流れ方をしていますね、ここは。けれども、先生。あなたはちゃんと頑張っていますよ。頑張りすぎなくらい。もう少し肩の力を抜いてもいいんですよ」

「そうなのかなぁ……」

「そうよ。昔っから真面目なんですから」

 ふわりと雪の華が舞い落ちるように、涼やかな笑みを一瞬浮かべ、師長さんは僕の肩をポンポン、と二度叩いた。

「さ。早く帰りなさい。休めるときに休むのも医者のスキルって習ったでしょう」

「そう……ですね」

まるで母親のように微笑む師長さんに頷いて、僕は一瞬泣きそうになった。頑張っているよと云われたことも。頑張らなくていいよと云われたことも。どちらも、こんな不甲斐ない燃え尽き症候群の僕には勿体ないくらいの優しい言葉だった。

「師長さん。今年も一年、ありがとうございました。お年なんだから、あんまり、無理しないでね」

「あらやだ。人を老人みたいに言わないでくださいよ」

からりとした声で笑った師長さんに頭を下げると、僕は通用口の扉を開けた。

「先生、良いお年を」

背中に投げかけられた温かい声に送られ、僕は帰路に着いた。ほんの少し特別な一日を過ごすため、ほんの少し浮き足立った気持ちで。

見上げた空は重苦しい灰色に塗りつぶされていて、今にも雪が舞い落ちてきそうだ。僕はマフラーに顔を埋めると、両手をポケットに突っ込んで歩き出した。


……そして新しい年はとんでもない幕開けになったんだ。





■八


元旦。朝六時。

やけに静かだと思ったら、外は一面の銀世界だった。案の定、大晦日は雪模様だったらしい。まだ空は夜の色で、窓越しにしんとした冷気が伝わる。

 僕はベッドサイドに置いたリモコンで暖房を入れながら、スマホを反対の耳に押し当てる。

「ごめん。それで、どうしたの?」

電話は数時間前に時節の挨拶を交わした平野君からだった。

あけましておめでとうございます、を云う暇もなく、電話口の彼は恐ろしく慌てた様子で喚きたてる。

「ん、ちょっと落ち着いて順を追って話してくれる? 誰が亡くなったの?」

昨夜の雪で今日は酷く冷え込む。

こんな日は、急激な血圧の上昇が引き金になって脳出血やクモ膜下出血、腹部大動脈瘤破裂や急性大動脈解離などの致命的で発作的な傷病者が増えるんだ。僕は施設入所者の顔を思い出していた。

 今日外泊しないで施設にいるのは九人。一番調子が悪かったのは近藤さんだけれど、それならば予定されていた死だ。延命処置はしない、という承諾書にご家族からのサインももらっているはずだ。

 悲しいけれど、僕たち医者は……いや、全ての医者がそうとは限らないから、僕は、だ。人の死を数えない。数えても数えても人はいつか必ず死ぬから。特に、僕が受け持つこの施設は、高齢の病を抱えた人ばかりが集うから、いつどこで誰が亡くなってもおかしくはない。昨日までそこに座っていた人の席が空席になることなんて儘ある。

 研修医になったばかりの頃。初めて受け持った患者さんが亡くなって、僕は酷く落ち込んで、泣いた。そんな僕に、指導医の先生は言った。「泣いている暇があるなら、今生きている患者さんのことを考えろ」と。

確かにそうだった。僕たち医者が受け持つ患者は一人きりじゃない。一人の人が亡くなっても、新しい一人の患者が増えていくだけ。その繰り返しだ。そうして、僕たちは……いや、僕は、だ。人の死に対する正しい心の在処を見失っていくんだ。

 だから、今こうして施設の誰かが亡くなった、と言われても、まるで他人事のようにその言葉は響いていた。今日は本院が死亡確認を断ったのかな、珍しいな、とささやかな違和感を覚えながら。

「亡くなったのは誰?」

「それが……」

平野君の歯切れの悪い物言いに、穏やかな眠りの淵から叩き起こされた僕は少しばかり苛立つ。用があるなら早くいえばいいのに……。

「松永さんと番場さんと近藤さんが……」

「……えっ?」

僕は言葉を失う。

昨夜、施設に残っていたのは全部で9人。それが一度に3人も?

「それ、本当?」

「本当っス。こんなことで嘘つくはずないじゃないっスか! 先生、どうしたらいいっスか?」

 平野君が電話口で早口にまくしたてる。

「一度に三人も亡くなるなんて……。それに、近藤さんは兎も角、あとの二人は急変しそうもなかったのに……」

 呆然と呟く僕に、平野君が殆ど悲鳴のような声で叫んだ。

「ちがうんです! ちがうんっスよ。刺されてるんです!」

 僕の手からスマホが滑り落ち、フローリングの床に当たって、大きな音を立てた。




 見覚えのある建物が雪に白く染まり……そしてその前にはパトカーが一台とおそらく警察車両らしき紺色のライトバンが止まっていた。

 近藤さんは兎も角、あとの二人は……いや、確かに高齢でいつなんどき何があってもおかしくはないけれど、少なくとも昨夕の段階で急変するような全身状態ではなかった。それに、詳しくはわからないけれど「刺されている」という平野君の言葉に、警察へも連絡するように指示を出していたから、その所為だろう。

 思ったより早い……というか、僕が到着まで想定外に時間がかかった所為で、警察の方が先に到着してしまっていたらしい。

 ため息をついてタクシーの支払いをする僕に「なにかあったんですかねえ」と運転手が何気なく問いかけたけれど、僕はなにも答えず、車を降りた。

 施設長であることを告げると、入り口に立っていた警察官は、どうぞ、と道を開けた。

 二、三、四……。制服を着た警察官が三人に、人相の良くない私服の……おそらくは警察の人間だろう……が、二人。それから……。

嫌な、予感がした。

予感……というより、それは冷静に考えれば大いにありうる事態で……。

くるんくるんの天然パーマに丸メガネをかけ白衣を着た人影が視界の片隅に映った気がして、僕は警察関係者らしき人間を観察するのをやめ、施設長室、とプレートを掲げた部屋に逃げ込もうと試みた。

……が、それより先に、伸びてきた大きな手が僕の腕をぐいと掴み、あっさりと捕獲されてしまう。

「おおっ、おおおおお? おお? おまえは、くろすけじゃないか!」

この場の重く沈んだ空気とはあまりにも不釣り合いな明るい奇声が響く。

僕の姿を見つけて駆け寄ってきた平野君が、その場で凍りついている。

なんてこった、と天を仰ぎ、僕は深い溜息をついた。

そんな僕を後ろから半ば羽交い締めにし、薄汚れた白衣を纏った男が笑った。

「こんなところに隠れてたのか! くろすけ。フランスに帰っちゃったかと思ったぞ! くろすけ、この辺りにちょっとお肉が……あっ、白髪! 抜いていい?」

考えてみればこういう事態だって十分にあり得たんだ。

監察医、とだけ書かれた白いプラスチックの名札を恨めしい気分で見やり、僕はもう一度大きな溜息をついた。人の脇腹を摘んだり、グルーミングをするように人の髪を掻き回したりする大幅に失礼で他人との距離感がおかしいこいつを、残念ながら僕は知っていた。名前の書かれていないネームプレートだけれど、僕はそいつの名前を呼ぶ。

「藤堂……」

できれば、いや、できることならば、二度と会いたくなかった奴。

大学で同期だった藤堂要。

傍若無人で唯我独尊。ふわふわの天然パーマがトレードマークで、ひょろりと縦に細長く、喜怒哀楽の喜と楽に感情が振り切っているのだろう騒がしい男だ。大学時代は、酒を酌み交わすこともあったのだけれど、医師国家試験に合格したそのあと、僕たちの道は決定的に違えてしまった。

今の日本では、二年間の初期臨床研修を終了しないと、医師国家試験に合格しただけでは、いわゆる『臨床医』にはなれないのだ。普通に医者として人を診察したり、治療したりするためには、必ずこの初期臨床研修を終了する必要がある。

ところがこの藤堂は「俺は生きてる人間を診察する気はないから」と、初期臨床研修をせず、国家試験の合格と同時に、法医学講座の門を叩いた。

普通は、いざというときに、臨床医としてアルバイトをしたりして稼げるように初期臨床研修だけは終わらせることが多いのだけれど、藤堂にはそんな将来のための計算もへったくれもなかったようだ。

そんな藤堂を、僕は……。

開きかけた記憶の蓋を無理矢理閉じて、かぶりを振る。

 僕の葛藤なんてどこ吹く風。

マイペースそのものの藤堂は僕の眉間に指をぐいぐいと押し当て、のびろーのびろーと何やら呟いている。

「くろすけ、相変わらずアンニュイな雰囲気満載だな。流石、半分フランス産。でもこのっ、眉間の皺はっ、いただけないね! ほら、くろすけ。こうやって〜、のびろーのびろーって毎日やってたら皺も薄くなるよ」

 逃げようと半歩引きかけた腕を掴まれ、こうやって、と僕の手を眉間に持っていこうとする。

「離せよ。変態」

「失礼な! それが久しぶりにあった親友にかける言葉? 冷たーい。くろすけのくせに。あっ、そうか! くろすけ、照れてる? 照れてたのかー。そっかー。やあ、くろすけってば可愛いなぁ」

「手を離せ。触るな」

 人の頭を両手で挟み込んでぐりぐりとしながら僕の顔を覗き込む藤堂は、相変わらず、人好きのする笑みを浮かべている。人の感情に疎くて、人の云うことを聞かないあたり、全く変わっていない。僕はその手を掴んで振り払うと目を逸らした。

「藤堂先生、お知り合いですか?」

 怪訝そうな顔をした警察官が僕と藤堂の顔を交互に眺める。

藤堂『先生』。

そりゃあそうだ。大学の……医学部医学科の同級生で、一緒に国家試験も受けた。お互い幸いにして合格。医師免許がある、という一点においては僕もこいつも同じ立場なのだから。

 藤堂は振り払われた両手を見つめて首をかしげ、それから僕の顔、制服を着た警察官、と順に眺めて、にっこりと笑った。

「うん。友達。親友だよ」

「……違います」

「ひっどーい! 実習だって同じ班だったのに!」

「おまえはさぼりまくっていて殆ど来てなかったじゃないか」

「覚えてるじゃん。やっぱ友達じゃないか」

「……友達じゃなくても覚えてるだろ。それくらい」

「やあねー。拗らせた三十路。昔の方が可愛かったぞ。くろすけ」

 施設長・榊蔵人、と事務所の前に貼り出されたをプレートを爪で弾き、藤堂は唇を尖らせた。

「どうしてんのかと思ったら、こんなとこにいたなんてねぇ。世の中狭いわ。でもまだ俺も施設に入所する歳じゃないから気づかなかったなー」

 それにしても、と僕の顎を片手でぎゅぅと掴んで、右から、左からと眺めた藤堂はフンと鼻を鳴らした。

「冴えないツラしちゃってー。大人の深みが出るのはいーけど、くら〜い顔してるとツキまで逃げちゃうよ。ほら、暗くてじめじめしてるとカビが生えちゃうでしょー? カビとキノコしかお友達がいなくなっちゃうよ。ま、俺は親友だけど」

「うる、さいな」

 しつこく伸ばされる藤堂の手を払い、僕は彼を睨みつけた。

「おまえこそ、なんなんだよ。監察医? 仕事で来たんじゃないのか? さっさと仕事をすればどうだ?」

「安心して。仕事は仕事、愛情は愛情! 両方しっかりやっちゃうよー」

 邪険な僕の態度をものともせず、うっすらと笑みさえ浮かべた藤堂は警察官から差し出されたビニールの手袋を慣れた様子ではめた。

「さて。施設長のセンセイも来られたし、見に行きましょうか」






■九


 私服の警察官……おそらく刑事というやつだろう……二人と、制服の警察官一人に伴われた藤堂と僕が二階に上がると、ナースステーションで昨夜の当直担当者たちが固まって座っているのが見えた。

 たったの一晩で。

同じ二十四時間。

そう思っていた。

そのはずだった。

昨日と同じ今日が、続くはずだった。

それなのに……。

「師長さん」

 呼びかけた声は不細工にひび割れていた。

目を真っ赤にした鈴木さんが師長さんに縋り付き肩を震わせている。その奥では、鴻池君が大きな体を丸め、両掌で顔を覆っていた。

 三人の元へ歩み寄ろうとする僕を、警察が制止する。

「あ、施設長の先生はこちらへ一緒にお願いします」

 振り返ると、師長さんが力強く頷いて見せた。僕はうなずき返し、警察官の後を追う。

 藤堂は、白衣のポケットに両手を突っ込み、目を細め周囲を見回していた。いつの間にやら、ふわふわの髪の毛を手術室でよく見かけるキャップに押し込み、靴にもしっかりとシューカバーをつけている。

 ナースステーションの奥、テラスになっている明るいガラス張りの空間から、中庭を見下ろした藤堂が、ふぁー、と間延びした声をあげた。

「こりゃすごいねー。高級ホテルみたいだな。なぁなぁ、くろすけ。一ヶ月の家賃っていくらくらいかかるの。ごはん美味しい? 俺も一泊二日くらいで泊まれる?」

 角を丸くした特注の家具。座った時に立ち上がりやすいように配慮された椅子は、こういった施設には珍しく、ゴブラン織の座面に防汚加工が施されていて、介護老人福祉施設とは思えないゴージャスな雰囲気を作り出している。

太くて丸い柱はクッション性を重視したコルクで覆われ、静音設計の行き届いた床は、毛足の長い絨毯が引かれているわけでもないのに、殆ど足音が響かない。床にもコルク素材が使われているそうで、滑りにくいというおまけ付きだ。

 大きな窓に囲まれた六角形の一角はテラスになっていて、雪景色が白い絵画のようだ。

 奥の居室が並んだエリアの間口は広く、開放感に溢れている。

 私服の警察官が部屋番号を確認しながら、それぞれの部屋を覗いていく。

ほとんどの部屋が帰省中で空っぽとはいえ、いきなり知らない……それも警察官に覗き込まれたら、入所者さん達だって驚くはずだ。それくらいの配慮もできないのか、と苛立ちを覚える。

「あの、すいません。他の入所者の方が不安になるので、無闇に関係のない部屋を覗かないでもらえませんか」

「こちらも仕事なので。……あ、先生。こちらの部屋です」

 ムッとした様子を隠そうともしない中年の警察官は、僕に対する態度とは裏腹の慇懃さで藤堂に208号室のドアを開け頭を下げる。ドアの前には立ち入り禁止、と書かれた黄色いテープが貼られている。まさか……近藤さんの死にもなにか不審なことがあったのか?

「さて、と。施設長のセンセ。とりあえず、一緒に確認してくれるかな」

 暖房の切られた室内はホールより一段気温が低かった。亡くなられた方の腐敗を少しでも遅らせるため、暖房を切ったのか、と思い至る。

 藤堂に背を押され、室内に入ると、ベッドの上にはまだエンゼルケアの終わっていない近藤シズエさんが紙のように白い顔をして横たわっていた。

 痩せこけた頬。落ち窪んだ眼窩。深く刻まれた皺と乾いた唇。

「近藤さん……よく頑張ったね。おつかれさま」

 眠っているように安らかな表情の近藤さんに伸ばそうとした手を、藤堂が遮る。

「おっと。一応まだ触っちゃだーめ。この人は……と」

 僕を体ごと押しのけた監察医はビニール手袋をした掌を合わせ一礼してから、近藤さんのご遺体を覗き込む。

「んー。瞳孔散大、対光反射なし。角膜混濁……わずかにあるかなぁ。眼瞼結膜は蒼白。溢血点なし。顎は〜……硬い。よっこいしょ……」

 体を屈め、布団をめくった藤堂はご遺体の手首にビニール手袋の手で触れ、関節を曲げる。

「手首はもともと硬いのかなー。肩はそこまで硬くないし。死斑は指圧で消退。死後三、四時間ってとこかね」

 脇に立つ制服を着た警察官が藤堂の言葉をメモしていく。

「ちょーっと失礼するよー」

 そんな声をかけ、藤堂はご遺体に着せられた浴衣をはだける。

「明らかな外傷は……なさそう。ん、るいそう著明、腹部正中に手術痕、腹部やや膨隆、腹水貯留を疑う。両下肢は浮腫顕著。鼠径リンパ節触知。あ、右ね。左はあんまわかんないかな。くろすけ、この人は病死してもおかしくないような人だったの?」

 次々と所見をつけていく藤堂の姿に戸惑う僕は、突然質問の矛先を向けられ、言葉に詰まる。

「え、えと……近藤シズエさんは、八十九歳で、卵巣癌の末期だった。骨転移、肺転移、肝転移と腹腔内播種、リンパ節転移があって、痛みと呼吸苦の緩和をしていた。いつ亡くなっても……おかしくは、なかった」

「ふぅん。それで、顔に跡がついてんのね」

 藤堂が指で示した近藤さんの頬には酸素投与用のマスクの跡がうっすらと残っている。

「この施設は、基本的にDNAR……蘇生処置不要の意思表示をした人ばかりだけど、呼吸苦があれば、酸素吸入をするのは緩和医療として妥当性くらいあるだろう?」

「はいはい。くろすけは落ち着いて。別に酸素マスクをしていたからどうとかはないからね。あとで詳しい話は昨日の当直さんに聞こうかねぇ」

 OKとでもいうように藤堂が片手をあげると、周りから覗き込んだり、メモをとったりしていた警察官が足早に出ていく。

 近藤さんの浴衣を整え、布団をかけた藤堂がもう一度合掌するのを、僕はまるで違う世界の出来事のようにぼんやりと眺めていた。部屋の隅で僕たちの様子を見守っていた、チャコールグレーのコートを着た男を振り返り、藤堂は声をかけた。先刻の感じの悪い警察官だ。

「で、次はどこ? 世良さん」

「こっちです。先生」

 世良、と呼ばれた中年の男が大きな円柱の向こう側、西側に並んだ部屋へと僕たちを案内する。先刻の僕への態度と入所者への配慮の欠如で僕の中での評価は最低だ。

救急をやっていた頃、搬入された患者が救命できず亡くなると、異状死体として警察を呼ぶことがあった。

医師法には『死体または妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときには、二十四時間以内に所轄警察署に届けなければならない』という一文があって、死亡してからの搬入や死因が医療機関への受診歴のある疾病によるものでない場合のような死因が明らかにできないものは、異状死体として警察に届け出なくてはならないことになっている。

だから、救急車で運ばれてきた人でも、どうにも死因がわからない場合や首吊り、刺されたり殴られたりしているような時には、警察を呼んで、検視をお願いしなくちゃならない。で、事件の可能性がわずかにでもあれば、警察の取り扱いになるわけなんだけれど。

そんな手続きを時としてしなくてはならなかったから、刑事と呼ばれる人とも会ったことがある。その人たちもそうだったけれど、刑事と呼ばれる人種には独特の近寄り難いような雰囲気があって、僕はそれが苦手だった。そして、この世良という刑事も、僕が苦手な類の雰囲気を身に纏っていた。

僕は、半歩ほど藤堂から遅れて刑事の背を追った。

 この施設は、高級ホテルの慣習に則って、4と9、それに海外では嫌われる13号室がないから、収容人数は二十五人だけれど部屋番号は232号室まである。225号室は南西の部屋で、222号室に加藤ちづさん、223号室に安岡睦美さん、225号室に松永真紀さんが入所している。

落ち着かない空気は室内にいる入所者たちにも伝わっていて、223号室のドアが少しだけ開くと、中から安岡さんが顔を出した。満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに呼びかけた。

「あっ、クロちゃん」

 225号室の前に立っている警察官が怪訝な顔をして僕と安岡さんの顔を見比べる。

「安岡さん。今は出てきたらダメだよ」

「クロちゃん、ちょっと聞いてよぅ」

「今は聞いてあげられないんだ。ごめんね」

「あのね、」

 なおも言いつのり、安岡さんは、ドアを開けて出てこようとする。その隙間から、今度はちづさんまでもが顔を覗かせた。

「ちづさん、安岡さんのところにいるんですか?」

「むっちゃんがどうもそわそわして落ち着きがないからねェ。様子を見に来たのさ。クロちゃん、えらいことになったじゃァないか。とりあえず、あたしはむっちゃんと此処に居るからさァ。安心しとくれ。さ、むっちゃん、あっちでお茶でも飲んでよう。外は面倒な人がいっぱいだ」

 ほら、おいで。と安岡さんを促す声がして、ドアは開いた時と同じように、すぅっと閉まる。扉の向こうから、安岡さんの楽しそうな声がかすかに聞こえた。

 そんな二人と僕のやりとりを眺めていた藤堂がにやにやと笑いながら僕の耳元に囁いた。

「クーロちゃん」

「……その呼び方、やめろ」

「まぁまぁ。そんなにツンケンしてたら、いいところは顔だけなのに残念すぎるし、カビとキノコが生えてくるよ」

 はい、次はここね、と、225号室を改めて示されると、二人の登場で弛緩した空気が一気に引き締まるのを感じた。

「ここは松永亞以子さんの……部屋、です」

 この部屋も、最初の部屋と同じように暖房は切られていて、室内は冷んやりとしていた。  

ただ、先刻と違うのは……。

近藤さんは安らかに、眠るような顔で寝台に横たわっていたけれど、松永さんは……。

 コルクの床に老女は力なく倒れ伏し、そして、息絶えていた。昼間と同じように濃いメイクを施した顔は苦痛に歪み、真っ赤に塗った爪の先には、マニキュアの赤とは違う赤黒いものがこびりついている。苦しみにのたうちまわったのか、首から鎖骨にかけて引っ掻いた爪の跡が何本もミミズ腫れになり残っていた。そばには壁から引っこ抜かれたナースコールが蛇のように床を這っている。

 言葉を失くす僕をよそに、藤堂は松永さんの傍らに膝を着くと、鼻を鳴らした。

「失禁あり。でも、他におかしな臭いはしないかな」

 先程と同じように合掌し、松永さんの亡骸を観察し始める。

「瞳孔散大、透過性やや低下。対光反射なし。眼瞼結膜蒼白。下顎に軽度硬直。口腔内観察は困難だねー。おーい。くろすけ。この人の既往やなんか教えてよ」

 淡々と所見をつけていく藤堂に比べ、僕は情けないほどに狼狽していた。

「あ、ご、ごめん。この方は、松永……亞以子さん。七十八歳。心筋梗塞既往のある人で、高血圧と脂質代謝異常、それから認知症があった」

 そう……そして、昨日まで、元気だったんだ。いつもと同じように、怒ったり、笑ったり……していたんだ。

 死は全ての人に平等にいつかは訪れるものだけれど、こんな風に、予定されていない死を目の当たりにするのはやはりこたえる。

 松永さんは急死するに足る病歴を有していたし、この死が病死だとしてもおかしくはないのだけれど。

「ふぅん。明らかな心不全兆候はなかったのかい?」

「心不全自体はあったとは思うけど、コントロールは良好だったと思う……」

 そう、と小さく答えて、死斑を指で押していた藤堂が首を傾げた。

「ま、とりあえず、次行こうかね。三人だっけ」

 立ち上がった監察医は世良と呼ばれた中年の刑事になにか耳打ちすると、従前と寸分違わぬ様子で部屋を後にした。



 近藤さん、松永さん、と監察医の検案に立ち会わされた僕は、最後のひとり。番場さんの遺体がある部屋へと向かっていた。

 ホールの南側、日当たりの良い五室は、部屋自体も他の部屋より広くて、室内にトイレもある、いわゆる『特別室』になっている。

 もともとの入所費も相当高いこの施設の中で、もう一段費用がかかる部屋だ。

215から220の五室がそれで、216号室は番場さんの部屋だった。

「お次はこちら。216。まずは一緒に確認よろしくね。くろすけ」

 二人の人間の死を前にしても動じる様子ひとつない藤堂に戸惑いを覚えながらも、僕は警察官に伴われ、薄汚れた白衣の後を歩いていた。見慣れた施設だというのに、まるでよそよそしい他人の家のようだ。

 木目を模したカバー材でコーティングが施された引き戸を、制服警官がゆっくりと開ける。いつもならばすぅっとスムースに開く扉が、今日はやけに重たげに軋みながら開くのを僕はぼんやりと眺めていた。

 ドアが開くと、冷気とともに鉄臭い臭いが流れ出してきた。顔を顰める僕をよそに、藤堂は涼しい顔をして、室内に足を踏み入れる。

 濃密な血の臭い。

 腕一本が通るくらいの隙間が開いた窓からは冷たい風が吹き込んできていると云うのに、それでまったく薄まる気配もない血の濃い臭いが部屋中に立ち込めていた。

意を決した僕は室内を覗き込み、そのまま、不甲斐なく藤堂の白衣に縋りついた。そうでもしなければ、倒れてしまいそうだった。

何も食べていないから吐くものもないのだけれど、胃が裏返りそうなほどの吐き気に襲われる。酸っぱいものが上がってきて、空えづきする僕の背を、藤堂の大きな手が撫でた。

 事故で体の一部が失くなっていたり、脳が脱出していたり、或いは、飛び降り自殺なんかでありえない方向に体が捻れていたり……そんな人が搬送されてくることもあったから、死と向かい合うことには慣れているつもりだった。でも……。

 顔見知りの……入所者の、ただならぬ『死』は、僕にとってあまりにも衝撃的だった。

 血の海の中、胸にナイフが突き立てられたまま横たわる、力を失った肉の塊。あちこちを何度も刺されたのか、赤く染まった衣服は何箇所も破れ、赤黒い肉がのぞいている。その頭はおかしな方向を向き、頭髪の乏しい後頭部はぱっくりと割れ、僅かに覗く白いものはおそらく頭蓋骨だろう。見開かれた目は濁り、半開きの唇からは、色の悪い舌がでろりとはみ出している。他の二人より遥かに濃密な死の色。そのうえ……。

 倒れそうになる僕の体を傍らに立っていた瀬良刑事に預けた藤堂は、平然と室内を見回していた。

「あらまあ、なかなかすごい有様だねえ」

 隣で若い制服警官も口元を覆っている。

 何より異様だったのは、オフホワイトの部屋の壁に描かれたメドゥーサのような塊とそこから伸びる無数の蛇がはったような赤黒い跡だった。子供の落書きのようなその拙い筆致が殊更に不気味さを増長させている。

 それはおそらく、色調からして、番場さんの血液で描かれたものだと思われた。

「これは流石に、事件性なし、とはいかないねー」

 こんなご遺体を前にしても藤堂は顔色ひとつ変えないまま、いつもと変わらぬ口調で、そう云った。一方の僕は、この施設で殺人事件が起きた、と云う事実と、その事実を否が応にも思い知らせるような番場さんの亡骸の状態に、情けなくもその場にへたりこんだ。






■十


「それじゃあ、少しお話しを伺わせてもらいましょうかね」

 チャコールグレーのコートを着た中年男の台詞は、テレビドラマなんかでは耳にしたことのある台詞で、リアルにそれを耳にするのはなんだか不思議な感覚だった。まるで他人事みたいに聞こえる。

 三人の遺体を一通り確認させられた後、僕は師長さん達が集められていたナースステーションに合流していた。

 あの状況を見た後でも、僕は信じたくなかった。番場さんが殺されていた、というその事実を。電話で平野君が「刺されていた」と云っていたことを思い返すと、師長さんや鈴木さんも番場さんの遺体を目にしたのかもしれない。だとすれば、どんなにショックだっただろうか。鴻池君も大きな体を丸め、疲れ果てた様子で椅子に座り込んでいる。

 彼らから少し離れた丸椅子に座るよう指示された僕を、刑事が黒縁メガネの分厚いレンズの向こうから無遠慮に見つめた。値踏みするような……いや、値踏みじゃない、これは容疑者を見る目なんだ、と僕はその眼差しが不快な理由に思い至る。

「施設長さんがそちらさんでしたっけ」

 耳障りの良くないざらりとした、だが、よく通る声だった。そのいささか失礼な言い草に、ムッとした僕が口を開こうとしたところで、藤堂が茶々を入れた。

「うん、そう。くろすけだよ」

 場違いに明るい声が嬉しそうに答える。藤堂はナースステーションに置かれたカートを物珍しげにあちこちと開けて覗いていて、睨みつけた僕の視線に気づくよしもない。

「ああ、先生のお知り合いでしたね。で、なんてお名前でしたっけ」

「……榊蔵人です」

 世良という刑事の物言いがぶっきらぼうなのは僕に対してだけではなさそうで、仕事で面識のある藤堂に対しても同程度に愛想のない喋り方をした。相手によって態度をコロコロと変えるよりはマシなのかもしれないけれど、警察というのはどうしてこうも横柄な態度を取るんだろうか。横柄でなければ権威が保たれないとでも思っているのかもしれないが、はっきり云って不愉快だ。

「そうそう。榊先生ね。あんたさんは後から来られたみたいですが。あんた、昨夜はどうしてましたかね」

いつの間にか僕たちの後ろに立っていた……おそらくはこちらも刑事だろう……ダウンジャケットを着ていて、ミシュランタイヤのキャラクターのようにいかつい男がB5のノートを開き、やりとりをメモしていた。

 覗き込むと、ノートの文字は男の外観に反して、なかなかの達筆で、誰が何を云ったかが、こと細かに書かれていた。

「僕は家にいました」

「一人で?」

 爬虫類じみた視線が僕を上から下まで無遠慮に眺める。

「はい。独身ですし……実家に帰るほど休みがあるわけじゃないので」

「そのことを証明してくれる人はいますか?」

 ああ、本当にこんなことを聞かれるんだ、と紙切れほどに薄っぺらい僕自身の『アリバイ』を証明する手立てなんてないことを噛み締めていると、横から藤堂の声が飛んできた。

「くろすけはそんなことしないよー。だって、人畜無害でそれどころか、人畜に害されて自分が爆発しちゃうようなお馬鹿さんだよ。殺されることはあっても、殺す方にはなれないよ!」

 うふふふ、と気色の悪い含み笑いを漏らしながら、藤堂は僕を指差す。

「人間ってさ、二種類だと思うの。殺せる人と殺せない人。くろすけはね、無駄に優しいから殺せなくて自分が殺されちゃうんだよ」

 意味のわからない持論を展開する藤堂に、刑事が溜息をつく。

「もー。先生。根拠のないことを云わんといて下さい。アリバイと先生の主観は別なんですから」

「え、だってさ。意味ないじゃん。殺せない人のアリバイを探すのって無意味じゃない?」

「しかしねぇ、先生。窮鼠猫を噛む、って諺くらいご存知でしょう。何かの拍子に殺してしまうことだってありますよ。人間」

「それはその鼠が殺せる側だっただけだよ。俺なら窮する前にやっつけちゃえーって思うけど、窮しても相手のことを信じちゃうお馬鹿さんがいるんだよねえ。くろすけみたいな」

 全く根拠のない台詞を並べて胸を張った藤堂は「じゃあ、アリバイが見つかるまで、俺がくろすけの保護者になるから」とかなんとか、これも警察に対しては何の説得力もないことを言い放つときょろきょろと周りを見回し、ナースステーションを勝手に出て行く。

「あっ、藤堂先生! もう……まったく、あの先生にも困ったもんだ」

 中年の刑事は腕組みをすると、深々ともうひとつ溜息をついた。どうやら藤堂に振り回されるのは今に始まったことではないようだ。当の本人は、何か興味を引くものでもあるのか、入所者の居室の前を檻の中のオラウータンよろしく行ったり来たりしている。

「まあ、あんたさんのアリバイは後でも結構ですわ。なんせ……おっと、この話は今はやめておきましょう。えーっと、大晦日はあんたさんは家にいた、として、ここの施設には誰がいたんですかね?」

 世良はやけに歯切れの悪い物言いをしてから、気を取り直したように僕に向き直った。

「わたしと、ここに居る看護師の鈴木、ケアワーカーの鴻池、それから事務の平野です。平野は一階の事務室にずっといたはずですよ」

 僕がなにか言うより前に、凛とした声が答えた。前田師長は泣きじゃくる鈴木さんの背を撫でる手を止め、立ち上がった。

「あー。えーと、あんたは前田さんだったね。たしか、師長さんでしたっけ?」

「ええ。そうです」

「じゃあちょっとついでに教えてくれますかね。ええと、昨日ここに残っていた患者は何人だったんですか?」

「九人です。ひとつ申し上げてよろしいでしょうか?」

 夜勤明けの白衣には少しばかり皺が入って、いつもは髪の毛一筋の乱れすらない白髪が、わずかにほつれていた。けれど、あくまでも毅然としたその態度は小柄な師長さんを大きく見せる。

「ここは老健施設です。事件があったのは理解しておりますが、今も施設に残っておられる方々の安全の確保がわたしたちの職務です。ここで全員留め置かれたのでは、それもかないません。日勤の者が間もなく参りますので、それまで他の方々のケアをさせていただいてよろしいですか?」

「それは……」

「あなた方がいらしてから、もう二時間近くなりますが、ご自身で痰を出すことも十分にできない方もみえます。糖尿病でインスリンの注射をしなくてはならない方も見えます。のちほど、ゆっくりとお話ならば致しますから、患者さんのケアをさせてください」

「ぼ、僕からも、お願いします」

 きっちり三十度のお辞儀をする師長さんに並んで僕も頭を下げると、世良刑事はうぅと低く唸った。

「仕方ねぇなあ。これ以上、問題が増えてもこっちも困るし。……おい、おまえも行ってこい」

 ダウンジャケットを着たいかつい刑事がメモを取っていたノートを閉じると敬礼する。

「じゃあ、カートをお願いしますよ。刑事さん」

 おそらくは、師長さんの行動の監視係、という意味もあってのはずが、白髪の天使はもう一枚うわてだった。大型犬のような刑事を従えて、前田市長がナースステーションを後にすると、世良は肩を竦める。

「とりあえず、こっちはこっちで進めるか。で、昨晩、ここに残っていたのは、亡くなった三人以外にはどなたが?」

 世良が鈴木さん、鴻池君、僕、と順繰りに見渡した。目を真っ赤に泣き腫らした鈴木さんが、鼻を啜りながら「昨夜は……」と、小さな声で話し始める。

「202号室の田之倉耕平さん、207号室の杉原光太郎さん、217号室の宮内重信さん、218号室の山口桃子さん、222号室の加藤ちづさん、223号室の安岡睦美さんがいらっしゃいました」

「その六人の昨日の晩の様子はどうだったんだ?」

「田之倉さんは夜の十二時に吸痰をした際にはバイタルも問題ありませんでした。呼吸器のアラームも鳴ることもありませんでしたし」

「ちょっと待てよ。その人はそもそも……」

「田之倉さんは、」

 ここが老健施設だ、ということを完全に失念している様子の刑事の言葉に声をあげかけた僕をいつの間にやら戻ってきていた藤堂が遮った。

「世良さん、その人、寝たきりの人工呼吸器付きの人みたいよ」

 看護師が申し送りなどに使っている処置表が挟まれたボードを示し、藤堂がにっこりと笑ってみせる。カートのあたりでゴソゴソしていると思ったら、いつの間にかあんなものを見つけていたのか。

 憮然とする僕をよそに、藤堂は他の患者さんの基本情報を読み上げていく。

「ちなみに、杉原さんっていう人は前立腺癌の末期患者さん、宮内さんは脳梗塞後遺症があって、山口さんと安岡さんが認知症、加藤さんは大腿骨頸部骨折後、らしいよ」

「え、ってことはなんですかい? みんな寝たきりですか?」

「どうなんだろう。くろすけ、どうなの?」

 勝手に診療情報を見るな、と怒る気力も失せ、僕は首を横に振った。

「人によりけりです。杉原さんは動ける方ですけれど、痛みをとる治療で今はほぼ眠られているし、宮内さんは半身麻痺はありますが、杖での歩行の訓練もされている。山口さんは歩くことはできますが……」

「あー。 待って、待って。ひとりひとりにしてもらえませんかね。そう矢継ぎ早に言われちゃわかんねえや」

「人工呼吸器がついてる寝たきりの人が起き上がってハンマー片手に徘徊してたらホラーだね! ね? そう思わない? ハリウッドのホラーっぽくて面白いけど」

 藤堂の軽口を黙殺すると、刑事は溜息をつきナースステーションを見渡した。

「じゃあ、先にそっちの看護師のねーちゃんとにーちゃんから話を聞かせてもらおうかね」





■十一


 事件翌日。

入所している患者さんたちへの聴取が順次始まった。

それも、この施設で。

そのうえ、僕も立ち合いで。

というのも、師長さんに連れられていったミシュランくんのような刑事が認知症のある桃子さんや安岡さん、それに脳梗塞後の宮内さんに傾眠状態の杉原さんの様子を上司に報告して、普段の様子がわかる人間の付き添いが必要だと判断されたらしい。

 ミシュランのマスコットに似た刑事が大きな体を丸め、僕に頭を下げる。

 やってきたのは刑事が二人、と、その後ろで、ミシュランくんと同じくらい上背のある藤堂が笑みを浮かべ、ひらひらと僕に手を振っていた。監察医という人種が普段からこんなにフラフラと外出できるものなのか。生憎、僕には見当もつかなかった。

「なんでおまえがいるの?」

「え? くろすけに会いたかったから。やあね。くろすけってば。ツンデレかしら」

「は? 僕は会いたくない」

 藤堂から視線を逃すと僕は刑事に向き直る。

「それで、なんで監察医のセンセイまでご一緒なんですか? ご遺体はそちらにお渡ししたと思いますが」

「ああ、藤堂先生も、あんたさんに聞きたいことがあるそうで」

「俺の用事はあとでいいよ!」

 粗暴な世良刑事の口調にカチンと来る前に、藤堂が言葉を差し挟む。近藤さんと松永さんと馬場さんのご遺体は昨日のうちに警察に引き取られていった。このあとは事件性あり、との判断で司法解剖に回されることになると聞いた。

事情聴取は、まず職員……つまり、師長の前田さん、看護師の鈴木さん、ケアワーカーの鴻池君、事務の平野君の四人が夜勤明けにもかかわらず、あれやこれやと尋ねられたらしい。曰く、事件の時になにをしていたかとか、物音を聞かなかったかとか、人間関係はどうだったかとか……そんな有り体なことを聞かれたそうだ。次いで、今日。患者さんへの事情聴取が始まることになった。

外部からの侵入者の可能性はなかったのか、と患者さんへの聴取前に尋ねた僕に、世良刑事は苦虫を噛み潰したような顔をして、吐き捨てるように言った。

「生憎とねえ、あの雪だったでしょう。わたしらが到着した時、雪の上には猫の足跡ひとつなかったんですわ。だから昨日、あんたさんのアリバイが曖昧でも、まぁしゃあねえなあ、と見逃したんですよ。そのうえ、誰の仕業か知らねぇが、防犯カメラが切られていたんですよ。洒落ンならねぇでしょ?」

僕が駆けつけた時には既に警察が来ていたから気づかなかったんだけれど、施設からの通報で警察が施設に到着した時には……足跡ひとつない真っ白な雪に『雪の園』は包まれていたのだという。つまり……。

 『雪の園(・・・)』は密室だった(・・・・・・)。

警察が来るまで、外部からの来客も、そして『雪の園』から外に出た人間もいなかった……ということを、奇しくも警察が証明することになったのだった。

 それにしても……防犯カメラが切られていたなんて……。

「ここの施設は、節電かなんかのために、防犯カメラは切ることになってるんですかね?」

「いえ……そんなはずはないと思います」

「それなら、誰かが切ったってことですな」

「ええ。じゃないと、切れるはずは……。あの……いつから防犯カメラは切れていたんですか?」

「それが、大晦日の夕方からなんですがね、それ以前にも何回か、カメラの電源が切られてたみたいでねぇ。日付が飛んでいるところがあるんですわ」

 僕の知らないところでそんなことがあったなんて……全く気づいていなかった。もっとも、防犯カメラの画像を確認することなんて、普段はまずないから、防犯カメラが一時的に切られていたとしてもなかなか気づくことは難しかったとは思う。

「そんなわけで、防犯カメラさえありゃあ、手がかりも掴めたかもしれないんですが……肝心の防犯カメラが切られていたんじゃぁ、どうしようもねえ」

 世良はぼりぼりと頭を掻く。相変わらず分厚いレンズには髪の毛の脂がついて、テラテラと光っている。

「とりあえず、僕はあなた方の取り調べに同席しろ、ということですね?」

「そうなりますなぁ」

 まだ溶け残った雪が残る中庭をチラリと見た世良が溜息を漏らした。

 いつもならばデイサービスで賑わう一階のホールも、あの事件の所為で一時中止になっていて、僕たち以外、誰もいない。明るくて空っぽの空間には、弦楽のセレナーデがいつもと同じように流れていて、その華やかな旋律がやたらと耳についた。

 空いている部屋を借りたい、という警察の申し出で、処置室が臨時の取調室になった。

 二階のナースステーションの奥、以前、三婆が人魂を見た、と騒いでいた部屋だ。一ヶ月も経たないうちにまたこの部屋に入ることになるなんて、と妙な因縁を感じながら室内に踏み入ると、僕は僅かな違和感を感じた。処置用のベッドの足元にはいつから置かれているのかわからない掛け布団が前からあったのだけど、それがくしゃりと丸められていた。そこだけがやけに生活感があってそれがこの部屋に違和感をもたらしていた。日焼けしたカーテンを開けると、白い室内に陽光が満ちた。

「じゃあ、始めましょうかね」

 世良の言葉を合図に、取り調べが始まった。



 まず連れてこられたのは、安岡睦美さんだった。安岡さんは、ドアのところで落ち着きなく周りを見回して、僕を見つけると安堵したように満面の笑みを浮かべた。

「クロちゃーん」

 ミシュラン刑事が押す車椅子に乗った老女が可愛らしく手を振る。

世良刑事の前で車椅子のストッパーをかけると、僕は九十度の位置に座る。車椅子の座面に隙間が全くないほどみっちりと収まった安岡さんは、不思議そうな顔で世良刑事を見つめた。

「早速ですが、名前とお年を教えてもらえますかね。ああ、それから誕生日と」

「私? 安岡睦美っていうのよぅ。三十七歳だけれど、なんでそんなこと聞くのよぅ」

 世良が僕に目配せする。

僕はため息を吐きそうになるのを我慢して、安岡さんの顔を覗き込んだ。

「安岡さん。こんにちは。この人、警察の人でね、調べていることがあるから、安岡さんに教えて欲しいことがあるみたいなんだ。ちょっとだけ、教えてもらってもいいかな?」

 二度ほど小さな目を瞬かせた安岡さんは首を傾げる。

「でも知らない人だよぅ」

「僕のことはわかるよね?」

「クロちゃんは知ってるけど、私、この人は知らないもん。今日はお店が忙しいから私も手伝いに行かなきゃならないのよぅ」

 安岡さんは老舗の和菓子屋さんの奥様だった。和菓子の知識は豊富で、ご家族も本人の好きだったお菓子を、としばしばお菓子を差し入れる。糖尿病だからダメだ、と何度か注意はしているけれど、少しだけなら、と甘い顔をしてしまう僕も僕だ。

そんな和菓子屋さんだった頃の記憶があるせいか、安岡さんはしばしば「店に行かなければ」と口にする。

 ノートを持ち、部屋の片隅に立つミシュラン刑事も手を止め、困ったように眉を寄せている。

「じゃあ、お店に行く前に教えて欲しいんだけど、一昨日の夜のことは覚えてる?」

「一昨日?」

 そういえば、僕が来た時、ちづさんが安岡さんの部屋から顔を出した。

「ちづさんと一緒に居たでしょう? あのときはなにを食べていたの?」

「千鳥のお干菓子をお正月だからいただいてたんだよぅ」

「おうちの方が送ってくれたの?」

「そうよぅ。クロちゃんにも今度あげるからねぇ」

 まんまるの顔に屈託のない笑顔を浮かべる安岡さんに、ありがとう、と答える。

「ところでさ、お菓子を食べてる時に、なにか変わったことはなかった? 思い出せそうかな?」

 認知症の人にとってもそうなのだけれど、エピソードを伴った記憶というのは、そのほかの記憶よりも強く印象に残る傾向にある。一昨日なにかなかったか、と尋ねるよりも、一昨日○○をしていた時に、なにかなかったか、と尋ねる方が、より記憶を想起しやすいのだ。

「ええとねぇ、大きな音がしてびっくりしたんだよぅ。そしたら、ちづさんが、だいじょうぶぅって来てくれたの」

「ちづさんが入ってきた音だったの?」

「んーん」

 安岡さんが首を傾げると、世良刑事が不満げに鼻を鳴らした。

「おいおい、そこんところを詳しく思い出しちゃくれねえかな」

 世良が突然、声をあげると、安岡さんは体をびくりとさせて凍りつく。

「おい、ばあさん。こっちはそこんとこを詳しく知りてぇんだ。それはどんな音だったんだ? 何時頃?」

「知らないっ! 知らないよぅ」

 突然、いやだーと叫び、安岡さんが車椅子をガタガタと揺らす。

「大丈夫だよ。この刑事さんは安岡さんに質問をしたかっただけだよ」

「嫌だ! この人、怖いよーぅ」

 せっかく安岡さんが思い出しかけていたというのに、これでは台無しだ。

興奮し、叫ぶ安岡さんに世良は肩をすくめた。

「困ったもんだね。次の人を先にするか。おい、その人を外に出して」

 人を人とも思わないような無礼で尊大な態度に、僕は、世良を睨みつけた。

「世良さん。僕は手伝うように言われたので、同席していますけれど、あなたが邪魔をされるのでしたら、僕が同席する意味はないんじゃないですか? あらかじめ、お伝えしたように、認知症の患者さんは、ああなると落ち着くまではお話なんて到底できませんよ? あなたが興奮させておいて、その態度はなんなんですか?」

 世良は鼻を膨らませ、不満げに「しかしね」と、続けた。

「先生。あんたの質問はまどろっこしくて、菓子がどうとかこうとか、そんなの関係ないでしょ。自分が聞きたいのは、あの晩の話なんですよ」

 貧乏ゆすりをしながら、喧のある目つきで睨む世良に、僕は大人気なく言い返してしまう。放っておけばいいのに。

「じゃあ、うかがいますけれど、世良さんは四日前の夕ごはんに何を召し上がりましたか?」

「は? 四日前? そんなもん、覚えてませんよ」

「じゃあ、日曜日の夜、テレビをご覧になりましたか?」

「ああ、毎週、見るわけでもねぇサザエさんが流れてますわ。日本人って、あの時間はサザエさんをつけてること多いでしょ」

「サザエさんを見ながら夕食を食べましたか?」

「まぁ、時間的に、そうなりますわなぁ。ちょうどあの番組は夕飯どきだからねえ」

「では、先週、サザエさんを見ながらなにを召し上がったんですか?」

 ハッ、と世良が息をのむのが伝わる。

「……なめこの味噌汁を食った……」

「わかりますか? 記憶ってこういうものなんです。特に認知症の人は、短期記憶を保持しにくくて、子供のころや若い頃の印象的だった記憶の方が強く蘇りやすいんです。だから、なにか紐づけられることを紐付けて聞いてあげないと、なにも思い出してはくれない」

 バツが悪そうに視線を逸らした世良は、歯切れの悪い口調で「すんません」と呟く。

車椅子を押し、安岡さんを部屋の外まで送っていったミシュラン似の刑事が申し訳なさそうに頭を下げる。

「僕は、捜査に可能な限りは協力をと思っていましたが、あなたがそうやって患者さんを興奮させるようなことをするのならば、協力は致しかねます。それから、この施設の入所者の方々はみんな、ご高齢です。認知機能の衰えている方ももちろんたくさんいる。だからと云って、軽んじられるような方々じゃない。彼らは、きちんとこの歳まで年齢を重ね、それぞれに一生懸命生きてこられた方です。あまり無礼な態度は謹んでいただきたい」

「すんませんでした!」

 ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がった世良が僕に頭を下げた。

そんなことして欲しいんじゃない、と言いそうになるのをすんでのところで飲み込み、僕は小さく頷く。

「謝って欲しかったんじゃないんです。ただ……もう少しわかっていただきたかっただけです」

 僕自身、大人気なく刑事をやり込めてしまったから、おあいこのようなものだ、と少しだけ苦々しく思いながら「もういいです」と告げ、ミシュラン刑事にも頭を下げる。

「じゃ、じゃあ、次の方をお連れしますね」

 ノートを尻ポケットに突っ込んだ部下が、いそいそと部屋を出ると、世良は改めて「すんませんでした」と僕に謝る。

「どうもせっかちでね。でも、先生はすごいもんだね。ああやってコミュニュケーションがとれるもんなんだな。俺にはできねぇや。次はさっきみてぇなことはしませんで、よろしくお願いしますよ。榊『先生』」

 にっ、と笑った世良に、僕は渋々頷いた。世良の中で僕は『先生』に昇進したらしい。





■十二


 二番目に連れてこられたのはちづさんだった。手押し車を押すちづさんの後ろで、ミシュラン刑事がちづさんの体に触れるか触れないかのあたりでオドオドと両手を前に差し出しながら着いてくる。

「だ、大丈夫ですか?」

「あぁ。転げそうになったら、あんたが支えてくれるんだろう? 頼りにしてるよォ」

 かっかっかっ、といつもと変わらぬ様子で笑う九十三歳に大男が椅子を引き「どうぞ」とエスコートする。

「ああ、ありがとうよ。あんた、なかなか好い男じゃないか」

 ちづさんは椅子に浅く腰掛ける。スッと姿勢を正すと、正面に座った世良を真っ直ぐに見つめた。

「加藤ちづと申します。そろそろお迎えが来るかしらと思っているうちに九十三にもなりました。お勤め、ご苦労様ですねェ。そちらさんのお名前もうかがってよろしいかしら?」

「へ? ああ。すいませんね。捜査一課の世良です。九十三にはとても見えませんなあ」

「あら、上手いこと言うねェ。憎まれっ子世に憚るっていうけれど、長く生き過ぎちまった」

「そんなこたぁないでしょう。その年でそれだけしっかりされていたら、大したもんです」

「いいやァ、そちらさんも今言いなさったようにねェ『その年で』と言われるくらいに生きちまったってことさァ」

「あ、こりゃ、すいません」

 先程とは打って変わって、すっかりちづさんのペースに巻き込まれた世良はペコペコと頭を下げる。安岡さんに対する態度とは大きな違いだ。認知症の人に対して、自分より下に見るような態度を取る人が多いけれど、この人はその典型なのかもしれない。認知症の患者さんの大半は自分より長く生きている人生そのものの先輩でもあると云うことを僕たちはしばしば忘れがちだ。けれど、この施設に来てたくさんの認知症患者さんに接していて気づいたのは、彼らは確かに認知機能の面では低下し、劣ったかもしれないけれど、彼らの生きてきた軌跡は厳然とその足元まで繋がっているということだ。職業だけじゃない、親として、子として生きてきた時間が彼らにはある。だから僕たちもきちんと敬意を持って接しなくてはならないはずなんだ。それなのに、認知症の患者さんにはまるで子供の相手でもするように接する人が多い。だけど、僕ですら、この施設に来てようやく感じたことを、一般人(まぁ、警察が一般か、と問われれば否かもしれないけれど)にそれを強いるのは無理なことだとも思う。

 そんなことを僕がぼんやりと考えているうちに、ちづさんが口を開いた。

「世良さん、あんた、この前の事件のことを聞きに来たんだろ? 番場さんを殺したのは誰なんだい?」

「あ、いや、それを調べに来てるわけでね」

「あんなクソジジイでも、一緒にここで生活していた手前もあるし、おかげであたしの大切な友達も、ここに帰って来られなくなってるのさァ。さっさと解決しておくれよ。あたしの知ってることなら、いッくらでも、話してやるからさァ」

 いつもと変わらないちづさんのかくしゃくとし、言いたいことをはっきりと云う様子に、世良は目を瞬かせていた。自分が侮っていたはずの相手に先手を打たれるなんてきっと思ってもいなかったんだ。

「そのまえに幾つか教えて欲しいんだけどさァ、松永の婆さん。あれはどうなんだい? 同じ日に死んだんだろう? あたしゃ、気になって気になってねェ。夜も眠れないなんて、老人の健康にはよくないだろう」

「いやぁ、それは……」

 流石に口ごもる世良に、飄とした風にちづさんはなおも言いつのる。

「いいじゃないか。この年になるとねェ、どうやって死ぬかってなァ、大事な価値のひとつなのサ」

「はぁ。なるほど」

「あのババアがもし殺されたのなら、花の一つでも手向けてやりたいじゃァないか。クソジジイもあたしみたいなクソババアもさ、みんないつか死んじまうんだ。あんただってそうさァ。生き残った人間が、死んだ人間にしてやれることなんざァ、そうありゃしないだろ」

「ごもっともです」

 しばし唸り声をあげて悩んだ世良は、うん、とひとつ頷き、意を決したように口を開いた。

「松永さんが殺されたかどうか、実はまだ捜査中なんですよ。だから、あんたさんにお答えしたい気持ちも山々なんですがね、残念ながら答えられるものをこちらも持ってないんです」

「あれ、そうなの?」

「病死か誰かに殺されたのか、それもあって、あんたさん方のお話をうかがいたいんですわ」

「はーぁ。なるほどねェ」

 ちづさんはいささか演技めいた仕草で深々と首を縦に振り、世良をじっと見つめる。

「ちょうど大晦日だったねェ。あたしもこんな年だろう。来年の除夜の鐘を聴けるかどうかもわからないからサ、除夜の鐘の音をしみじみと聞いていたよ。ねェ、あんた。次の年も同じように季節を感じられるか、なんて、まだ考えたこともないだろう? そうやって考えるようになるとさァ、毎日が特別な一日になるもんなんだヨ」

「なるほど……」

「あの晩は大晦日の鐘を最後までしっかり聴いて、それから、どうにも寝付けなかったから、ちょっとホールを覗いたのさ。なんだろうね。子供の頃、親が寝静まってから、真っ暗な部屋にこっそり起きて行ったことはないかい? ああいう気持ちサ。特別な夜に、ちょっとだけ子供に帰るつもりでネ、ホールに出たら、人魂が飛んでたんだ。それで、むっちゃんのことが心配になってネ、むっちゃんの部屋に行ったんだよ」

「は?」

 世良が素っ頓狂な声をあげる。

「人魂? また出たの?」

 僕も思わず口を挟んでしまう。

「また? またってなんですかい? それに人魂って、そんなもん本当にあるんですか?」

 世良の至極真っ当な反応に、僕は以前、三婆から人魂を見た、と相談された時のことを話して聞かせた。世良は、あー、とか、はー、とか言いながら話を聞くと、いささか呆れたような口調で尋ねた。

「はぁ。それは何時頃でしたかね?」

「さあねぇ、わからないよ。でも、除夜の鐘が鳴り終わった頃さね」

「火の玉? いや、人魂でしたっけ? そいつを見た時間帯、誰かに会いませんでしたか?」

「会ったよ」

 世良の顔色が変わり、目つきが鋭くなる。

「誰にですかい?」

「師長さんだよ。夜の巡回に来てくれてネ、冷えるから風邪を引かないように、って、あたしの部屋からカーディガンを取ってきてくれたのさ」

「その後、師長はどうしました?」」

「そりゃあ、他の患者の部屋を見にいったサ」

「番場氏や松永氏の部屋もですかい?」

「あたりまえだろう? こいつの様子はみるけど、こいつは飛ばしてやれ、なんて、あの人はそんな人じゃァないよ。きっちりとした仕事をなさるからねェ」

「大きな物音や争う様子はその時にはなかったんですかね?」

「あるもんか。そんなことがありゃァ、このちづさんが成敗しに行くサ」

「ははぁ……」

 落胆する、とはこういうことだ、と言わんばかりに、世良は肩を落とす。ちづさんのペースに巻き込まれ、これではどちらが事情聴取されているんだかわからないと思いながら話を聞いていた僕は、ふと気になったことを尋ねる。

「ねえ、ちづさん。安岡さんの部屋に行く前後に大きな音はしなかった?」

「さあねぇ。覚えてないヨ」

「他には? 誰かに会ったり、見かけたりしませんでしたかね?」

 世良も更に問いかけたが、ちづさんは小さく頭を振った。

「ああ、あと松永の婆さんが部屋に入って行くのを見たヨ」

「松永って、死んじまった人ですか?」

「そうサ。何をしてたのかは知らないけど、綺麗にお化粧をしたまんまで、人魂に続けて暗闇で出会ったから、一瞬白塗りのお化けかと思ったヨ」

 そう言うとちづさんは、かかか、と笑ってみせた。けれど、その声はいつもよりずっと乾いていて、僕にはから笑いにしか思えなかった。ほんの少しだけ、ちづさんがいつもより小さくなった気がした。ちづさんがなにかを隠しているのかどうか、僕にはわからなかった。少なくともあの夜は、誰にとっても特別な夜だったのだ。





■十三


 三番目は宮内重信さんだった。禿頭はいっそ潔いほど一本の頭髪も残しておらず、穏やかな表情と相俟って、高僧のような佇まいがある。

脳梗塞後遺症で右半身の麻痺があり、ピンと伸ばされた右腕の先の右手首は内向きに曲がっている。左手に四点杖を持ち、右足を引きずりながらゆっくりと部屋に入ってきた宮内さんは、泣きそうな顔をして僕を見つめた。

「ふぇんふぇえ」

「宮内さん。こんにちは。今日はこちらの刑事さんたちに、大晦日の夜、物音を聞いたりしなかったか、何か見たりしなかったか教えてあげて欲しいんです。不安になるよね。ごめんね」

 頭を下げた僕に、宮内さんはかぶりを振ってみせた。

構語障害、と云って、喋るのにも後遺症のある宮内さんの声を聞いた世良は、はぁ、と間抜けな声をあげた。宮内さんは、半身麻痺と構音障害はあるものの、認知機能はほぼ正常な方だ。あるいは宮内さんならば、なにかの手がかりを知っているかもしれない。

「先生、あんた、すごいな。この人がなんて言ってるのかわかんのか」

「……一応主治医なので……ある程度は……。それにどうしてもわからなければ、五十音表で指を指してもらえばいいことですし」

「はぁ……確かにこりゃ、おまえの言うように、俺らだけでの聞き込みは無理だな」

 片隅で背を丸め、大きな体で小さくなっていたミシュラン刑事が頷く。

「ああ、すんません。捜査一課の世良ってもんです。お名前を教えてください」

 宮内さんが椅子に腰を下ろすと、世良が今度は自分から名乗った。

「うぉううぉ。うぃうあういふぃふぇうぉおうぇう」

「どうも、宮内重信です、とおっしゃっています」

「お、おう。早速だけど、大晦日の晩のことを教えて貰いてぇんだ。あんたさんも、あの夜、この施設に残ってたんだろう?」

 宮内さんは頷くと、あの晩は……と、話し始めた。

「ひうぇうぉんうぉっあああ、あいあいいえうぇ、うぉうううぉあおいあいあ。うういあうあ、うぉううぇうぃうぇうえあいあ」

「冷え込んどったから、足が痛くて、毛布を持って来てもらいました。鈴木さんが持って来てくれました、だそうです」

「それは何時頃で、その時、看護師のねーちゃんの様子でおかしなことはなかったかね?」

「うぉうあううああっえうえ、ういいあああういあうあ、うあっえいあおいえう。ああっあおううあうえああいあえうぅおお。あおおあいいおあ」

「紅白歌合戦で石川さゆりが歌ってた時です。変わった様子なんてありゃしません、あの子はいい子だ、と」

「おおうぃおああおい、いおおあうぅえあいえうあえ、っうぇいうああ、うぉうぉあおいいおうぉああうんあおっうぇうゎわわっうぇうえあいあ」

「『大晦日なのに仕事なんて大変だね』って言ったら、『この後いいことがあるんです』って笑ってくれました、と言ってます」

「お孫さんみたいに可愛がってたんですな」

「ああいううぉうぃあ、いああえいあっうぇうぉあいあいうぉんうぇう」

「あ、今のはなんかわかったぞ。ああいう子には幸せになって欲しいもんだ、か?」

 刑事が得意そうに親指をグッと立ててみせると、宮内さんも左手の親指を立ててみせる。「宮内さんはその後、休まれたんですかね?」

 安岡さんへの取り調べの時とは態度を改めた世良刑事は恐らくは使い慣れていない丁寧な言葉で宮内さんに尋ねた。

「おおいあおおえ、えうぉああいあいあ」

「大きな音で目が覚めた……安岡さんも大きな音がしたって言ってましたね」

 僕の言葉に世良はギロリと僕を睨み据えた。

「ちょっと! 先生は余計なことは言わないで」

「あ、はい……」

「目が覚めたあなたはどうしました?」

「うえうぉうぉっうぇおおいえあいあ。いいおおうおえあああ、いあいあうぉええいあいあ」

「右の方の部屋から、光が漏れていたそうです」

「誰か見ましたか?」

 その問いに一瞬動きを止めた宮内さんは、小さな目を数度瞬かせ、うう、と唸った。

「あえおいああっあおえ、あえああおいえいいぅえおえあうあおおおいあいあ」

「誰もいなかったので、誰かがトイレに行って転んだのかと思った、と」

 宮内さんの部屋は217号室。隣の216号室は番場さんの部屋で、反対の隣、218号室は山口さん……桃子さんの部屋だ。その音が桃子さんの転んだ音なのでは、と心配したのであれば頷ける。

「あなたは様子を見に行ったんですかい?」

 少し俯いた宮内さんは、ゆっくりと頷く。

「それで、他に何か見ましたか? 或いは、誰かに会いましたかね?」

 世良の言葉に僅かに顔を歪めた宮内さんは、ゆっくりと体を起こし、背筋を伸ばした。それから左膝の上で自由のきく左手をぎゅっと握りしめた後、その手をひらき、分厚い掌を見つめ、なにかを覚悟したようにもう一度手を握りしめた。

「ええいああうああんうぉ、うぉうおういあっえ、ああいああいあいあ」

 僕は、宮内さんの言葉に凍りついた。まさか、なんで? そんな?

「おい、先生。なんて言ってんだい?」

「出てきた番場さんと……口論に……なって、刺し殺してしまった……って」

 世良は一瞬遅れて、素っ頓狂な声をあげた。





■十四


少し休憩して情報を整理しましょう、と云う警察の申し出に僕は同意し、部屋を出た。

 頭の中では先程の宮内さんの言葉が何度もこだましていた。

 宮内さんが番場さんを殺した? 宮内さんが、番場さんをあんな惨たらしい姿にしたというのか? いや、そんなことができるのか? そもそも、宮内さんは右片麻痺があって、スプーンで食事を食べることすらうまくできないというのに? 認知症はあっても力は強くて体は不自由ではなかった番場さんを宮内さんが刺し殺すなんてできるんだろうか?

 ……わからない。

 自問しながらホールに向かうと、窓辺には藤堂が立っていて、ひょろりと長い影が僕の足元にまで伸びていた。傍らのテーブルにはちづさんと安岡さんが座っていて、打ち解けた様子で藤堂と談笑していた。

 藤堂は僕に気づくと、満面の笑顔で手を振った。

「おーい。くろすけ。結構待ちくたびれたー」

「……待っててくれなんて頼んだ記憶どこにもないんだけど」

 思案に耽っていた僕を現実に引き戻したうえに、僕の中に苦い記憶を呼び覚ますその笑顔に、藤堂を睨め付ける。今の僕には藤堂に会うような心の余裕なんてなかった。あの穏やかな宮内さんが、番場さんを殺した、というのは本当なのか? でも、そんなことできるはずはない、と思う自分と、けれど、本人がそう云っている、という事実が真っ向からぶつかり合い、心の中で軋む音がしていた。  

「おや。クロちゃん。ご機嫌斜めかい? お正月早々からそんな顔するもんじゃァないよ」

 藤堂はその言葉に、うんうん、と同意を示す。

そんな僕の感情なんてどこ吹く風で、藤堂はひょいと眉をあげ、室内より一段明るい中庭を指さした。

「それより、くろすけ。俺、あっちの庭見たいんだけど」

「勝手に見に行けばいい」

「えー。くろすけと行く」

「そうよぅ。カナメちゃん、ずぅーっとクロちゃんのこと待ってたんだよぅ」

 安岡さんは邪気のない笑顔で頬を膨らませて見せる。

「むっちゃん、ちづちゃん、また来るね。むっちゃんのお菓子美味しかったよ! ごちそうさま! 今度、俺のカレーも持ってくるね。俺、くろすけが来たから行くね!」

 うつむき、唇を噛む僕の腕をとり、鼻歌混じりに藤堂は中庭に向かおうとする。

その手を振り払い「触るな」と言った自分の声があまりにも剣呑としていて、そのことを僕は嫌悪した。

「あっ、ごめんごめん。もっと優しくエスコートしたほうがよかったか」

 な、と云って笑う藤堂は、昔と同じで、そのことが更に僕に追い討ちをかける。ふわふわの天然パーマは、僕が着いてくると疑いもせず、背をむけ、歩き出す。今日はあの薄汚れた白衣ではなく、ライトグレーのダウンジャケットで、その背中に大学時代の藤堂が重なって見えた。

 逃げ出す勇気もない僕は、仕方なく歩き始める。中庭に繋がるドアの前で振り返った藤堂は、そんな僕を見て、笑った。……気がした。



 一月の寒空の下、並んでベンチに座ると、お尻が冷たい、と藤堂はひとしきり騒いで、上の窓から覗いていた三婆ならぬ二婆に愛想を振りまいた。その間、僕は、溶け残った雪の脇に咲いたクリスマスローズを見つめていた。くすんだピンク色をしたこの花には毒があるのだ、と藤堂が昔、教えてくれたのをなんとはなしに思い出す。

「僕はお前になにひとつ用事はないんだけど。藤堂センセイ」

「やー。友達から『先生』って言われると照れちゃうね」

「普通だろ。医者なんだから」

「だって、俺、卒業してから殆ど誰にも会ってないしねー」

「……そんなこと知らないよ」

 突き放すような僕の言葉をどう思ったのかは知らないが、藤堂は僕の顔を覗き込み、おもむろに古びた丸メガネを外しポケットに捩じ込んで、僕を見つめた。

「くろすけ、なにを怒ってるの?」

「は?」

 至極真剣な様子に、僕は眉を顰める。

なにを、って、こっちが「なにを?」だ。

「おまえ、頭か記憶か感情か、どれかがおかしいんじゃないか?」

 よく考えなくても失礼な僕の返しに、藤堂は、唇を尖らせる。

「頭は良くないけど、記憶は正常だし、感情の障害もないと思うけど」

「……だったらなんで、あんな酷いことを云った僕をいまでも友達だなんて思えるんだ?」

 思考が掻き乱されていた所為で、感情の抑制が効かない。

僕自身、バーンアウトするまでは忘れていた。気づきもしなかった。臨床医として、緊急性の高い重症の患者を助けることこそが、医者としての使命で、最も価値のあることだと思っていた。そして……そして、その価値観を藤堂に押し付けた。なんなら、藤堂のことを軽蔑すらした。軽蔑されるべきは僕だったのに、だ。

「ん? ひどいこと? どれ? 俺のこと覚えてないって云ったこと?」

「もっと前だ」

「もっと……?」

「『生きている人間を救えないような医者が医者でいる意味なんてあるのか? 目の前で苦しんでいる人間を助ける技術も身につけないで、おまえ、医者のつもりか』って、僕はおまえに云った。国家試験に合格して、飲みに行った日だ」

「ああ! あったね、そんなこと」

「ずっと思ってた。おまえに酷いことを云った、って。よりにもよって、国家試験の合格祝いの日に、さ。それに……」

 藤堂の天然パーマの頭が、北風に揺れた。

くすっ、と藤堂が笑う。

「えーっ。そんなこと気にしてたの? くろすけは俺のこと心配してんだなー、って寧ろ、俺はくすぐったかったけどね。だって、人間、興味のないものにそんなこと云わないでしょ。愛されてる感満載で俺、グッと来ちゃった。もうこのまま、くろすけにプロポーズしたくなるくらい! 俺はね、臨床医には向いていない。人との距離の取り方がわかんないし。人と接するのも苦手だもん。ただ、人間って、生まれたら必ず死ぬわけでさ。『死』を診る医者が居たっていいじゃん……そう思ったけど、照れちゃって言えなかったんだよね」

 笑うと目尻に皺が寄った。昔の藤堂にはなかった、皺。

十二年。それだけの時間が、僕だけじゃなくて、藤堂の上にも流れていた。

「おまえをあんな風に詰ったくせに、僕はこんな風に人を助ける現場から逃げ出した。おまえ何様だよ、って自分でも呆れるよ。自分の価値観でおまえを否定して傷つけて、挙句、自分が救急の最前線から逃げ出すなんて、最低にも程がある。おまえにだけは……会いたくなかった。見ろよ、今の僕を。老健でただぼんやりと管理医師なんてやってるんだぜ。呆れるだろう?」

「俺はくろすけに会えて嬉しいし、今のくろすけもちょっとねじ曲がっちゃったけど、その分、可愛がりたくなっちゃうような庇護欲が掻き立てられて、ぎゅーってしていい子いい子したくなっちゃうよ。それに、先刻も云ったように、俺は傷ついてなんてない。むしろあの時、俺はプロポーズしたくなるくらいときめいたんだもん。まさかその後、十二年もくろすけに会えなくなると思ってなかったけど。俺、淋しかったんだよ。くろすけ。……ただ、さぁ」

 笑んだ藤堂の瞳の奥に温度の低い光が一瞬浮かんで消えた。

「くろすけが会いたくなかった理由って、俺に嫌われてたら悲しいから、じゃなくて、自分が傷つきたくないから、だよねー。それが俺、ちょっと切ないなー。俺はこんなにくろすけに会いたかったのにさ」

 心臓を鷲掴みにされたようだった。

……ジブンガキズツキタクナイ?

「な……どういうことだよ、それ」

「だってそうでしょ。俺は嫌ってないし、おまえに会えてものすごく喜んでるのなんて、このまえからわかりきってたことでしょ。それなのに、くろすけったら、俺のこと避けて冷たくしてさー。しかもその理由を俺の所為にしようとしてる。残念ながら、俺は今もくろすけのことお気に入りなの。勝手に俺のことを言い訳にする、その方が、俺、傷ついちゃうな。くろすけはね、俺に会うことで、俺を責めた言葉がそのまま自分に跳ね返ってくるのが怖かったんだ。……違う?」

「ち、ちが……」

 声が掠れた。

冬の乾燥した空気のせいだけじゃない。僕は、動揺していた。藤堂の言葉が、あまりにも真実を射抜いていたから。

「ねえ。くろすけ。君はなんて云って欲しかったの? 俺に」

「……なにも」

「嘘ばっかりー。俺のこと全然忘れてない、って会った瞬間にわかっちゃったし。くろすけが、救急で燃え尽き症候群になって、病院辞めた、っていうのは、法医学教室でもうっすら耳に入ったんだよね。ほら、俺、くろすけのこと大好きだから。それで、どこに行っちゃったんだろう、って思ってたら、こんなところで会えたじゃん? すっごく嬉しくって。それなのに、くろすけってば、冷たいしさー。その理由に、怒ってもない俺の気持ちを利用するのは、手短に言って、悲しい。そのことの方が、俺は腹立たしい」

 笑みをうっすらとはいた唇で語られる言葉は明るいトーンのままで、その色とは裏腹に、僕の心は黒く澱む。気づくと、僕は「ごめん」と謝っていた。それ以外の言葉が見つからなかった。

 僕は最低だ。

そして、藤堂にはやっぱり会いたくなかった。昔から、嘘も方便も効かない、言葉や物事の本質をつかまえるのが上手い藤堂には、僕のこんな自己本位で、身勝手な言い分なんて通らないことはわかっていたから。

「ほらほら。そんな顔しないの。くろすけは顔だけが取り柄なんだから。……と、あと、そのクッソ真面目でナイーブなところも可愛くていじり倒しくたくなっちゃうんだけど。こう、くろすけを見てると昔っから、うちで飼ってたボルちゃんを思い出しちゃうんだよねぇ」

 子供をあやすように、大きな手で僕の頭を撫でると、藤堂は昔のようにヘラヘラと笑ってみせた。

「……ボルちゃん?」

「そ! ボルゾイのボルちゃん。足がスラーっと細くて、さらさらの毛で顔が小さい美人なわんこちゃんなんだけど、くろすけとそっくりでね。もう、こう……ぎゅーってして首筋をクンクンしたくなっちゃうんだよね〜」

 そう云うと藤堂は僕に抱き着いて、人の首筋に鼻を押し当てる。ふわふわの天然パーマが顔を容赦なくくすぐる。

「や、やめろ。変態」

 両手で藤堂の体を押し退けると、不満そうに藤堂は鼻を鳴らした。

「なんで! 体臭くらい減らないじゃん! ボルちゃんの方がいい匂いだったけど! くろすけもうちょっとクンクンさせて」

「離れろ変態」

 十二年前の藤堂がこんな風だったかどうかは思い出せないけれど、藤堂はいろいろなものを踏み越えて、僕のそばに来てしまった。元から距離感はおかしな奴だったけれど、それに拍車がかかった感はある。

 警戒心を露わにした僕に、藤堂はひょろりとした長身を折り曲げ、ベンチから立ち上がった。

「ま、そんなわけだから、くろすけは諦めて、俺と仲良くするといいと思う」

「……んだよ、それ」

 藤堂は空を見上げた。つられて見上げた正月過ぎの空は、少し白々しくて、どこか淋しげだった。僕は、藤堂の無精髭の生えた口元を眺める。

 ああ、こいつは変わらないんだ、とその無精髭の横顔が少し懐かしい。

「ねえ、くろすけ。生きているっていうことは、いつか死ぬっていうことだよ。死は生きることの一部なんだ。正面切って、救急で患者助けるのも、生きることを助けることだろうけれど、ここでこうやって、じじばばの『生きている』時間を幸せにする手助けすることは、救急より劣ることなの? 俺は違うと思う」

逆光の中で空を仰いでいる藤堂は、なにかのモニュメントのようにきれいだった。

「俺ね、くろすけに云われて一応考えたのよ。法医学ってそんなにダメかな〜って。でもさ、その人がどうやって死んだのか、なんで死んだのか、その人の『死』をきちんとその人の命の終わりに還すことは、きちんとその人の『命』に向き合うことじゃないかな〜って、俺なりに結論づけたわけ。それにね、俺、知りたいんだよね。死んだ人がいるなら死んだ理由を。俺はね、我儘だから、知りたいんだ。生きることの意味も。死ぬことの意味も。理由も」

 歌うような藤堂の口調は悔しいくらいに僕の中に吸い込まれ、胸にひとつ、またひとつと落ち、静かな波紋を広げていく。なんでこんなに、生きることや死ぬことを軽やかに語るんだ。それなのに、決して軽んじているわけではないことが伝わってくる。藤堂は、生きることも死ぬことも、それを全部まとめて、知りたいのかもしれない。僕は……そんなことにさえ気づかないまま十二年も……。

「あ、それからさ、同じように、ここであの患者のじじばばが幸せそうにしてられんのは、おまえがいるからでしょ。カルテ見たけど、おまえ、ちゃんと、じじばばのこと考えて、仕事してんじゃん。君はここでこうやって、あのじじばばが人生の最後を過ごす手伝いをしてんじゃん。それもさあ、ぜーんぶ、人の命のためでしょ。だから、そんなに自分を卑下したり、いつまでもうじうじしてないで胸張っといたらいいよ。じゃないと、あのじじばばに失礼だ」

 僕の会いたくなかった人は、浅ましい自己本位な僕の気持ちまでお見通しで……それなのにどこまでも優しかった。その優しささえ、僕のささくれだった醜い心には染みて、痛かった。返すべき言葉さえ見つけ出せない僕はただ、藤堂を見つめていた。

どこかで鳶が鳴いた。

「君は君を許せばいい。くろすけ」

 流れるように言葉を紡ぎ終えると、藤堂は軽く口角をあげ、大きくひとつ息を吐き出した。白い吐息が寒空に溶ける。

 頬に一筋、冷たいものが触れ、僕は気づく。

僕は、泣いていた。バーンアウトしたときも泣けなかったのに。僕は。

「って、ちょちょちょ、くろすけ〜。泣くなよ」

 慌てた藤堂がポケットを探り、結局、シャツの袖で僕の頬を拭おうとするのを払い除けて、僕は笑った。

「そんなとこで拭くなよ。ばか」

 僕の流れ着いた澱みは、もしかすると、そんなに悪くないところなのかもしれない。初めて、そう思えた。

そう云えば、水の流れが穏やかな場所には魚たちが集まるのだ。安寧を求めて。もしかすると、ここはそんな場所なのかもしれない。





■十五


残る二人の聴取はそれぞれの部屋で後日行うことになった。何故なら、杉原さんは末期の前立腺癌で、麻薬を使った緩和を行っているため傾眠状態で、覚醒している時でなければ話を聞くなんて到底できないし、山口桃子さんは最近興奮が強くて、昼夜逆転もあるから、できれば少しでも環境の変化を減らすために、そうお願いした。

 意外なことに、世良はそれを了承した。

 想定外に老人の事情聴取に時間を要したことと、宮内さんの『自白』があったこと。それに、杉原さんや桃子さんが証拠の隠滅を行う可能性が極めて低いことが理由だった。

 名残惜しそうに手を振る藤堂を連れミシュランのキャラクターのような刑事が帰ると、師長さんが「ちょっといいですか」と僕に声をかけた。

 館内の三つの部屋にはいまも立ち入り禁止のテープが何本も貼られ、物々しい空気を醸し出している。警察官が交代で警備……という名の見張りだろう……に立ち、帰省中だった患者さんたちは、一旦関連病院の他施設に預かられることになった。本当ならば、この施設自体を立ち入り禁止にしたいのだ、と世良刑事は苦虫を噛み潰したような顔をして云っていたけれど、残っている患者さん達がすぐに入所できる施設もないし、とりあえずは事件の起きた三部屋への立ち入りだけが禁止されている。それでも、館内の物品の持ち出しがないように出勤時と退勤時には警察官のボディチェックがあって、更には、帰省中の患者さんの部屋への立ち入りも規制され、今いる患者さん達のケアを最低限行うことだけがかろうじて許可されている。

仲良し三婆も帰省している三ツ森さんが戻ってこないから、二婆になっている。二婆は相変わらずだけれど、やっぱり少し元気がないように見える。

 三ツ森さんも杉原さん同様、末期癌の患者さんだから、しばらくは病院にレスパイト入院して様子を見ることにしたらしい。

 華やかで明るい空気に満ちていた『雪の園』は、静寂と緊張感に支配され、まるで別の施設のようになっていた。

 その所為か、あんなにいつもニコニコと笑顔だった桃子さんは、時折泣き出しては叫ぶことが増えた。環境要因の変化は、せん妄を引き起こす要因になるし、認知症の人ならば尚のことだ。

 ふと見ると、いつもは桃子さんの部屋の前に飾ってある桃色の造花が床に落ちていた。僕はそれを拾うと、桃子さんの部屋の扉の脇にそっと吊るす。桃子さんの部屋には桃色の造花、番場さんの部屋の前にはコーヒー豆を象った木彫り……それぞれの部屋には番号を覚えられない認知症患者さんのためにこうした飾りが置かれていた。今は……桃子さんも安岡さんも精神的に落ち着かなくて、以前のようにテラスでそれぞれが重い思いに過ごす姿は見られない。

「先生」

 この数日の疲れをおくびにも出さず、いつもと同じようにアイロンの当たった白衣を身にまとい、きっちりと髪をアップにした師長さんは警察の目を避けるように、ナースステーションの奥で僕に深々と頭を下げた。

「先生、申し訳ございません。あの日はわたしが居たというのに、こんな事件になってしまい……。わたしの管理不行届です」

「え、いや。その、とりあえず、顔をあげてください。それに……あの、そんなことは」

「そんなことは、あるんです。あるんですよ」

 師長さんの眉間に寄った皺が深くなる。

「実は……こんなものが、届いたんです」

「これは?」

 一見すると、ただの年賀状のようだったが、差出人の名前はなく、宛先には施設名が書かれている。

 裏返すとそこには、コンビニで売られている予め印刷された絵柄の横に黒いインクで

『ヤク中患者を抹殺せよ』

と、印刷されていた。

「年賀状と一緒に配達されていたんです。ちょうどあのドタバタとしていた時に配達されたようで、わたしも先程気が付いて……。警察の方にお渡しする前に、先生にお見せした方が良いと思いまして」

 ファンシーなプリントと、それとは相容れない無機質に浮き上がった黒い文字が悪意を滲ませている。このハガキの『ヤク中』というのは、もちろん羊に似た生き物のヤク、ではなくて、何らかの薬のことだろう。

「ヤク中患者、ってなんのことだろう。少なくとも、うちは救急をやっているわけでもないし、オーバードーズの患者さんが運ばれてくるわけでもないし……なにかの間違いじゃないかな? ここは老健だけれど、そういう施設と勘違いした人の嫌がらせかもしれない」

「アルコール依存症の方や薬物依存症の方の更生施設も世の中にはありますけれど……ここがそんな施設じゃないことくらいは、流石にみなさん、おわかりになるんじゃないでしょうか……」

「……そうですよね。それなら、これはなにを意味しているんだろう……。確かに、緩和のために麻薬を使用している患者さんもいますが、それをよく思わない誰かがいるとか?」

「まさか。それならば患者さんのご家族がこの葉書を送られたということですか?」

 師長さんの声が一瞬剣を孕む。

「いや、仮に麻薬を治療に使用することをよく思わないとしたら、です。でも、ご家族からは安寧に最後の時間を過ごしてほしい、という要望もあって、そのうえで緩和医療について説明を十分行っているつもりだし……そんなはずはないですよね」

「ええ。そうですよ」

「この文面の通りだとすると『ヤク中』といえば、違法な……大麻や覚醒剤……コカインやヘロイン……くらいしか僕には思いつかないです」

 そういえば、救急医だった頃、覚醒剤中毒の患者が搬送されてきたこともあったけれど、正直、ぱっと見ただけでは、その人が薬物依存かどうかなんて僕にはわからなかった。警察官や麻薬取締官にはわかるんだろうか。一ヶ月に一度行っている採血では貧血の有無や電解質の異常、肝機能、腎機能などをチェックはするけれど、その項目にはトライエージなんて含まれていないし、詳細な薬物検査を全員に行うはずもない。そもそも、入所する時点で、そんな検査はしていないから、万が一、ヤク中と呼ばれる薬物依存の患者さんがいたとしてもそれを隠して入所しようとすれば、できてしまうかもしれない。

「もし、そういった違法な薬物がこの施設に持ち込まれていたとするならば、それ自体、わたしの落ち度ですわ」

「師長さんの落ち度じゃないでしょう。ご家族からの持ち込みの全てをチェックできるわけではないし……」

 安岡さんのお菓子も、亡くなられた松永さんの化粧品も……。持ち込みが禁止されているものは入所するときに書面でお渡ししているのだけれど、そのうえで、持ち込みがわかったときには、再度、注意喚起もしている。それでも、家族からの要求に他の荷物に紛れ込ませてこっそりとそうしたものが持ち込まれていることも多い。もし、違法な薬物がそうしたものに紛れ込んでいたら? ……不安要素は膨れ上がるばかりだった。

 僕は念の為、スマートフォンで葉書を撮影する。

「あんな事件の後だし、警察に渡しておこう」

「そうですね。気味が悪いですし」

 師長さんは僕に会釈すると、ナースシューズをパタパタと鳴らし、足早に見張りの警察官のところへ駆けて行った。





■十六


 杉原さんの聴取は殆どなんの収穫も得られず終わった。末期癌の緩和のため、医療用麻薬を相当量使用しているせいで、杉原さんはずっとうとうとしている。

 僕の頭の隅っこには、先刻見たハガキの黒い文字が染み付いていたけれど、杉原さんの状態を『ヤク中』とは言わないだろうし、それになにより、あの文字から滲み出る悪意は、今の杉原さんに向けられたものではないように思えた。

 ミシュラン刑事を従えた世良は意気揚々と杉原さんの元に向かったものの、数分後にはがっくりと肩を落とし部屋を出ることになった。

 薄ぼんやりと覚醒していた杉原さんは、まず今日が何月何日か……いや、それ以前に、今がどの季節かもわからなかった。大晦日の夜になにかいつもと変わったことはなかったかと尋ねられると、「花火が綺麗でした」と答えた。

インパクトの強い出来事があれば覚えているはずだ、という世良の目論見は泡と消えた。

 次いで、僕たちは山口桃子さんのところへ向かった。

 桃子さんは普段から失禁も見られていて、おむつをしているのだけれど、この数日、一気に認知機能の低下が進み、便捏ねをすることがある、として介護衣を着ていた。赤ちゃんの着るつなぎのような服を着ている桃子さんを見て、世良が尋ねたので、僕は説明する。

「便捏ねというのは、認知症の進行した人にしばしば見られる症状で、オムツの中に排泄した自身の便を、オムツ内に手を突っ込んで触ってしまうことなんです」

 世良は声にこそ出さなかったものの、嫌そうに眉を顰める。

「子供であれば『それは直接手で触れるのは汚いからダメだよ』と諭しながら、子供自身が成長していくことで便に触る行為は無くなっていくものなんですけれど、認知症の方の場合は、そうした理解を促すことは難しいんです。仮に、一時的に理解を得られたとしても、すぐに忘れてしまいますし」

「ああ、確かにそうですね」

「便は一般的な認識として汚い、とか臭い、とかその辺りのことは誰にでもわかることなんですけれど、そういうことまで認知症の方からは抜け落ちてしまうのかもしれません。

それに、感覚的に『汚い』と云うだけではなく、実際に便を通じて、大腸菌をはじめとした細菌への感染をきたすこともあります。ですから、便捏ねをする患者さんには介護衣を着てもらうことがあるんです」

「なるほどねぇ」

「あの服、大きな丸いボタンが上のところとか手首のところとかにあるでしょう。あれはグッと押し込んでからじゃないと開かないんですよ。あのボタンのところにファスナーの取っ手部分を嵌め込んであるので、あのボタンが開けられないとファスナーが開かない。そんな構造になっているんです。便捏ねをするような患者さんの場合、この特殊なボタンを自分で外すことはまずできないから、おむつの中に手を入れることは出来なくなります」

「へぇ……いろんなものがあるんですねぇ」

 妙に感心した様子のミシュラン刑事が世良の後ろで一生懸命にメモをとっている。こんなことをメモしてどうするんだろう。

 それにしても、いままで桃子さんは認知症はあるものの、そうした行動はなかったし、今回の件が精神的負荷になり一時的に認知症に重なるせん妄の症状が増悪したのか、それとも、時期的に認知症が進行したのか……僕の心はどんよりと曇る。

 桃子さんは、この数日表情も乏しく、あの朗らかで優しい笑顔は消えてしまっている。

「桃子さん。こんにちは」

 ドアを開け覗き込むと、桃子さんはつぶらな瞳を瞬かせ、キョトンとした顔で僕を見た。

 大勢の見知らぬ人がいちどきに押しかけると、桃子さんがパニックを起こす可能性もあったから、まずは僕だけが部屋に入る。

 椅子に腰掛けていた桃子さんは、つなぎの介護衣の上にピンク色のカーディガンを羽織っていた。今日はトレードマークの桃色の半纏は着ていないようだ。

「今日はね、少しお話を聞かせて欲しいんだ。わかるかな?」

「モモコ、よっちゃんと遊ぶ約束があるの」

 僕はしゃがみこんで桃子さんと視線を合わせる。僕の目の前にきちんと揃えて置かれた爪には僅かに黒い爪垢が残っていた。

「よっちゃんと遊びに行くまででいいから、少しだけ教えてもらえないかな?」

 老女の声色で語られる幼児のような台詞。勿論、よっちゃんなんていう友達はこの施設にはいない。もしかすると、桃子さんの子供の頃の友達なのだろうか。

「桃子さん、大晦日の日のこと、覚えているかな?」

「おおみそか?」

 ドアのすぐ近く、桃子さんからは見えない位置に陣取った世良とミシュラン似の刑事が立ち、僕たちの会話を聞いている。僕はあらかじめ、世良刑事から桃子さんに質問する事項を手渡されていた。

「雪が降っていたでしょう? あの雪の日、桃子さんはどうしていたかな?」

「雪! 雪だるま作るの! 雪や、こんこ。霰や、こんこ。降っても降ってもまだ降り積もる」

 桃子さんは嬉しそうに歌い始め、よちよちとした足取りでくるりと回った。

「夜だったけど、雪だるまを作りに行ったの?」

「おじいちゃんと雪だるまを作るの」

「おじいちゃんって?」

「隣のおじいちゃんだよ」

 隣のおじいちゃん、というのは幼い頃の桃子さんの記憶の中にいる人物なのか、それとも、隣の217号室の宮内さんを指しているのかは定かではなかったが、僕は頷いてみせた。

「桃子さんは隣のおじいちゃんを誘いに行ったの?」

「うん。モモコ、おじいちゃんのところに行ったんだけど、そしたら、怖い人が来て……」

 そう云うと、桃子さんは急に青ざめ、絹を裂くような悲鳴をあげた。

「やめてえええ!」

「桃子さん?」

「いや! 怖い! やめて!」

 桃子さんの叫び声に、ドアのところで待機していた二人の刑事が飛び出す。

「どうした!」

「来ちゃダメです!」

 僕は振り返り、世良達をドアの外へと押し返し、背中越しに桃子さんに声をかける。

「桃子さん! 落ち着いて」

「やめてやめてやめてやめてやめてやめて」

 顔を引き攣らせ、目を固く閉じ、両手を無闇に振り回す姿は異様ですらあった。

「世良さん。中止にしてください。これじゃあ無理だ」

 がつっ、と桃子さんの拳が僕の肩に当たる。心は子供に戻ってしまっていても、体は成人のそれで、相応の力もあるから、かなり痛い。僕は小さく呻いたが、それでも桃子さんの興奮は収まる様子はなかった。

 その怯える姿に、先日の安岡さんの聴取の様子が重なって見えた。

やっぱりあの夜、なにかがあったんだ。そして、そのことが、安岡さんや桃子さんの心に影を深く落とし、認知症の症状を悪化させている。証拠はなにもない。けれど、僕はそう確信していた。





■十七


元旦に降り積もっていた雪はほとんど溶けて、歩くと泥と混ざり靴を汚した。

朝にはアイスバーンになっていた雪が溶けたのは幸いだったが。

 これで明日からは車で通勤できる、とため息混じりに駅に向かう道を辿っていると、エンジン音を立てながら車が一台横付けされた。

 レトロな……といえば聞こえの良い古いミニクーパーは、誰かを誘拐するのには不向きなようにも見えたけれど、突然のことに僕は辺りを見回す。

 僕みたいな人間を攫う理由なんて思い当たらないけれど、人通りの少ない道。退路を確保するべく一歩後ずさった僕の目の前で車の左側のドアが開いた。

 助けを求め叫ぼうと身構えた僕に、中から現れた天然パーマが揺れた。

「くろすけ〜。施設に行ったらもう帰ったって云うし、追いかけて来ちゃったー」

 来ちゃった、じゃねぇ。と、藤堂の運転する車の助手席に乗せられた僕は心の中で毒づく。

「攫われるかも、って思っちゃった?」

 にやり、と口角をあげた藤堂は、人の心を見透かしたようなことを言って笑う。

「普通の人間は、あんな風に車が寄ってきたらそう思うだろ」

「え〜。そう? 白馬に乗った王子様が来たのかもしれないじゃーん」

「そんな怪しい人間について行くな、って云うのは最近では子供でも知ってる」

「ああん。もう。くろすけってばツンデレ! 連れないんだからぁ。はー。ボルちゃんみたい。クンクンしたい」

 減らず口を叩く監察医の横顔を盗み見たが、その表情から真意を窺い知ることは出来なかった。

「それで。なんか用事だったんじゃないのか?」

「うーん。そうねぇ。くろすけと十二年分の愛を育むことかなっ。とりあえず、俺のおうちにお持ち帰りしまーす」

「は? 僕は明日も仕事だし、おまえに対する失礼な誤解については反省しているけれど、そんなものは育みたくない」

「大丈夫。親はなくとも子は育つ! 俺たちも育とう」

 僕のクレームなんてどこ吹く風といった様子で藤堂は鼻歌混じりにハンドルを操る。ミニの狭い運転席に体を縮こまらせている姿は、昔のドラマに出てきた胡散臭い教授みたいで、藤堂のキャラクターと相俟って妙にしっくりときていた。

 古い車ならではのやけに響くエンジン音と、地面からの振動を直に伝えるチープなサスペンションのせいで、藤堂の家に着く頃には僕はげっそりとしていた。



 藤堂の家は出身大学を挟んで僕の家とはほぼ正反対の方向、下町情緒の残る少しばかり寂れた商店街から裏道に入ったところにあった。街並みに溶け込む古い一軒家の前に車を止めると「到着」と、呑気な声で藤堂は告げた。

 車に酔ってふらつく僕の腕を取ると、ひょいひょいと藤堂は家に入っていく。

 玄関先には脱ぎ散らかされた靴があったが、どれも男物でサイズからいっても全て藤堂のものらしかった。

 室内に「たっだいまー」と声をかけるも返事はなく、かといってそんなことを気にする素振りもない藤堂は懐かしい趣のある引き戸を開け、そこに設られたソファに僕の体をどさりと落としこんだ。

「ちょっと待ってて。あったかいもの持ってくる」

 僕はすっかりくたびれた革のソファに座ったまま室内を見回した。ソファが乗っかっている絨毯は畳の上に敷かれているようで、テレビでしか知らない『昭和の』日本の家の雰囲気がある。大きなソファの向こうには昔の病院には必ずあったシャーカステンが無造作に置かれ、脇に医学書が何冊も積み上がっていた。脱ぎ捨てられた分厚いコート。絨毯の上には数本の電気コードが蛇のように這っている。部屋の隅に置かれた電気スタンドが投げかける白熱球の灯りは柔らかく心地よい。埃の積もった大きなテレビは最近のもののようで、部屋のレトロな雰囲気からはやけに浮いていた。物が多く、雑然とした部屋なのに、妙に落ち着いた。

「お待たせ〜」

 両手にマグカップを持った藤堂は片足で器用に扉を開け閉めし、その片方を僕の前においた。ローテーブルの上に積まれた書類を端に寄せ、自分の分も並べる。

 大きなソファに藤堂が腰を下ろすと、僕の座る側までソファのスプリングが弾んだ。

「……それで。何の用だ?」

「んー。ちょっとこのまえのご遺体、気になることがあって」

「なに?」

 藤堂は湯気のたつマグカップを持ち、ふうふうと子供のように表面を吹き冷まし、紅茶を啜った。丸眼鏡が湯気で白く曇る。それを外し、ローテーブルの上に置くと、藤堂は足を組み、ソファに体を沈み込ませた。

「くろすけ。俺はあの人たちがなんで死んだのか知りたい。くろすけとも利害関係は一致するよね? 俺に協力して。くろすけ」

 上背があるせいで、普段は僕よりも高いところにある視線が、ソファに体を預けている所為で、斜め下から僕をじっと見つめる。射抜くような強い眼差しに、背中がぞくりとした。

「それは……どういうことだ?」

「俺は警察の情報もある程度は手に入る。俺はね、本当のことを知りたいの。あの人たちが死んだのは何故か。あの解剖所見は何でなのか。解剖だけではわからない、あの人たちのことを一番知っているのはくろすけだ」

「警察は?」

「世良さんたちは勿論、きちんと捜査してくれると思うけど、『俺が』知りたいの。じっと待ってるのって性に合わないんだよね。ねえ、くろすけだって知りたいでしょ? あの人たちがなんで死んだのか」

「……それは……。そんな出過ぎたこと、許されるのか?」

「許されるかどうかなんてどうでもいい。俺が知りたいんだ(・・・・・・・・)」

 やけに偉そうに顎を上げて僕を見ると、藤堂は手を伸ばす。

「ねえ、くろすけ。俺、知りたいんだ」

 僕の頭の中で亡くなった三人の顔が水面に映った画像のように浮かび上がり消えていく。差し出された大きな手。

 逡巡がなかったといえば嘘になる。

けれど、僕の知らなかった藤堂の法医学者としての存外に熱い一面が、その迷いをかき消した。

「わかった」

 藤堂の手を握ると、それ以上の力で強く握り返された。

「やったー! じゃあよろしくね。くろすけ」

 僕は、ふん、とそっぽ向いた。

「それじゃあ、はじめようか」

 こうして、僕たちの捜査は始まった。

「ね。くろすけ、現時点であの三人の死因、なんだったと思う?」

「近藤さんは……病死でいいと思うんだけど……」

「うん。そうだね。あの人は病死だ、っていうのに俺も同意だ。検案でも病死だろうな、とは思ったんだけどね。今回は三人一度に亡くなっていたし、事件性を否定できなかったから解剖させてもらった。結果、あの人の死因は癌でいいと思う。全身に転移巣があったよ。命が『尽きる』ってこういうことなんだなぁって思うくらい。一生懸命生きて、生き尽くしたんだねえ」

「……そうか」

 生き尽くした、という藤堂の言葉が僕の中心にストンと落ちてきた。近藤さんの生きてきた人生が無易に消えてしまったのではなく、最後の最後まで生き抜いていたことが誰かに伝わったのだ、とそのことが僕には無性に嬉しかった。

 ああ、そうか。あの頃の僕は否定してしまったけれど、死は生のためにある。十二年もかかったけれど、ようやく僕はそのことに気づいた。

「ありがとう。藤堂」

「ん? なにがよ?」

「近藤さんが頑張って……がんばって生きてきたことをわかってくれて」

 ふふ、と藤堂が目を細めて笑う。

「意外に法医学者も悪くないでしょ?」

 僕は頷く。

 心なしか藤堂は嬉しそうだった。僕の頭に大きな掌を乗せて、ぽん、と一度撫でると、うふふふふ、と気色の悪い声をあげる。

「遂に俺の魅力に気づいたか!」

 僕はその手を払い除け、藤堂を睨む。

「調子に乗るな! どこをどう曲解すればそうなる。さっさと続きを話せ」

「やぁん。くろすけってばほんと、ツンデレ」

「その頭、毟るぞ」

 いやぁん、と妙なシナを作り、藤堂は体を捻る。

「話すってばー。次はおじいさんの方ね」

 おじいさん、つまり、番場さんだ。流れた血の海に溺れるようにして死んでいた姿を思い出すと、胃の奥がキリキリと痛んだ。

「番場さんは、やっぱり刺し殺されていたのか?」

 言葉を絞り出し尋ねると、藤堂は首を横に振った。

「いいや。違う。あの人の死因は外傷性脳挫傷だと思う。頭蓋内は血まみれで、くも膜下出血、急性硬膜下出血も合併していた。頭蓋骨は僅かに陥没していたけれど、何かで殴られたのか、それともどこかに打ちつけたのかは今の段階では不明だ。いずれにせよ、その外力が加わった所為で、頭皮が損傷したのは間違いないね」

 もともと、頭髪はわずかだったが、頭皮の肌色とは違う、白いものが捲れた頭皮から覗いていたのを思い出す。顔には幾筋も血液の赤黒い跡が残っていた。

「何箇所も刺されてはいたけれど、あれ自体は致命傷じゃない。むしろ、あの傷には生活反応は見られなかったんだ」

「えっ」

 執拗とも思えるほど、何箇所も刺されていたというのに? 

僕の中で疑問が沸き起こる。

「じゃあ、頭のことが原因で死んだ後に誰かが刺したってことか?」

「うん。そうなるね」

 誰が? 何故? 何の為に?

「大体、何回も何回も相手を刺すのは、恐怖心や深い怨恨が相手にある場合が多いってされてる。でも、それ以外に、遺体を損壊しようと……要はバラバラにして証拠を隠滅しようとするときや、或いは、以前に日本でも起きたけれど、人体解剖に近い感覚で行われることもあるみたいだね」

「……そんなこともあるのか」

「多くはないけれど、そういう事例もある。つまり、あのおじいさんの死因は頭部外傷なんだけれど、それで心臓が止まった後に、何度も刺されたってことさ」

 僕は開きかけた口を閉じ黙り込む。

「刺されていたのは首、腋下、鼠径。最後に心臓にナイフを突き立て、凶器を置いて行ったみたいだね」

 心臓にナイフを突き立て、と聞き、自分の心臓が鷲掴みにされたように苦しくなる。それはまるで……。

「映画で吸血鬼を葬るときのようだな。あれは杭だったけれど」

「そぉね〜。そんな映像的な美しさはなかったけど」

 藤堂はひょいと肩を竦める。

「番場さんを刺した人は、生き返るのが怖かったのかな?」

「そりゃぁ、死んだ人間が生き返ったら怖いもんね!」

「……そうじゃないと思うけど……」

 的外れな藤堂の合いの手に僕は脱力する。ああ、こいつはこういう奴だった。

「頭を殴って殺したはずの番場さんがもし死んでいなかったら、生き返って自分の罪を暴くかもしれない、って怖くなるのが普通だろ」

「あー。そっちね! 人を殺そうとする方が悪いじゃ〜ん。そんなの。人を呪わば穴ふたつ、って云うじゃんね! 殺そうとするならそれくらいの覚悟がいるよね」

 普段は丸眼鏡の奥で表情を隠している目が眇められ、明るい声色とは正反対に冷たい色を浮かべる。その藤堂の眼差しに、スッと部屋の温度が下がったように感じた。僕はローテーブルに置かれたマグカップを手に取った。

 紅茶はまだ温かくて、少しだけ気持ちが落ち着く。

「他人の命を勝手に終わらせるならば、代償に自分の命を差し出すくらいじゃなきゃね!」

「そのハンムラビ法典式の発想やめろよ」

「普通でしょ。悪魔と契約するのだって、命懸けだって、水木しげる先生が『悪魔くん』に書いてるじゃないの〜」

「……書いてない」

「え、そうだっけ?」

「で、松永さんの死因はなんだったんだ?」

 すぐに脱線しそうになる藤堂の説明を本題に引きずり戻して、僕は問いただす。

「あー。はいはい。メイクばっちりのおばあちゃんね!」

 藤堂はそこで、うーん、と小さく唸った。

「あのね、この人の死に方がなんかちょっと納得できないんだよね。俺」

「松永さんの死因は何だったんだ?」

「心筋梗塞。元々、冠動脈にある程度の狭窄はあったみたいだし、ステントも入ってたけど、残存している冠動脈狭窄であんなに広範な心筋梗塞を起こすかなぁっていう、ね。回旋枝にも左前下行枝にも確かに狭窄はあるんだけど、左室がほぼ全周性に壊死してた」

「それなら病死じゃないのか?」

「うーん、それ自体は、そうねぇ」

 そうねぇ、と云いながら自分の頬に大きな掌を当て、首を傾げる。

「ただね、尿検査で覚醒剤反応が出たんだよね。それに血液からも」

「……は?」

「あの人、元々覚醒剤中毒の患者さんなの?」

「……そ、んなわけない。そんな人はあの施設にはいないはずだ」

「じゃあなんで、おしっこから覚醒剤が出たんだろう」

 ね? と藤堂が首を傾げると、ふわふわの髪の毛がフワリと揺れた。





■十八


 藤堂に拉致され、死因究明を一緒にする、と約束した翌日。僕は藤堂の家で一夜を過ごす羽目になり、おんぼろミニで『雪の園』まで送り届けられた。「帰りもお迎えに来るね」と満面の笑顔で告げる藤堂を一発殴り、眠い目を擦りながら施設長室に向かうと、事務長が待ち構えていた。

「おやおや、先生。珍しいですねぇ。お友達とご出勤ですか?」

「……友達じゃないですけれど。ああ、本年もよろしくお願い致します」

「そうでしたねえ。年が明けて、本当ならばおめでたいはずですのに、困ったものですねぇ」

 ねっとりとした喋り方がいつも以上に鼻につき、僕は苛立つ。事務長は言外に、今回の事件のことを指す口ぶりで眉を顰めてみせた。

「全く……。余計なことなんてしなくても、もうすぐ死ぬ人ばかりなのに。誰があんな余計なことをしてくれたんでしょうねぇ。お陰でこっちはいい迷惑ですよねえ。先生」

「……人が死んだんですよ。その口ぶりはどうかと思うんですが」

「ああ、失敬。けれど、老人医療ってそういうものでしょう。あんな年寄りにこんな高額な入所費用をかけて。いいお客様です。それが……今回の件で台無しですよ」

 元より、この事務長とはソリが合わなかったが、こうもはっきり言葉にされると、嫌悪感を通り越し、呆れる。

「まあ、松永さんに関しては死んでいただいてよかったとも言えますが。あのまま強制退去にしたのでは施設の評判にも関わりますし、かといって、施設の費用は払えません、ではこちらも商売として成り立ちませんから」

「そうかも……しれませんが、そんな言い方は……」

 口ごもる僕を蜘蛛のような目がその口調と同じくらいねっとりと僕を見つめ、ふん、と笑う。

「まったく、医者っていうのはいいご身分ですね。医療にだってお金はかかっているんです。慈善事業じゃないんですよ。こんな施設、お金のため以外になにがあるっていうんですか? あの人たちだって、お金があるから、ここであんな風に気ままに暮らせるんです。お金がなければ、家で孤独死したって仕方ない。そんな時代なんですよ。だからね、お金のない人間は相応の暮らしをしていくしかないってことですよ」

 確かに、僕たち医者は、医療費のことに疎い。特に僕のような雇われの医者は、目の前の患者さんと向き合い、治療することしか考えていないことが多い。そのためにどれだけの費用が必要で、そのうちどれだけが患者負担になるのか。介護保険は? 助成金は? 高額医療の減免は? 蔵田事務長の言うことも尤もではあった。

「その通り、なのかも、しれません。でも……亡くなられた方のことをそんな風に云うのはやめませんか」

 蔵田は馬鹿にしたように笑う。

「は。死んだ人間に配慮をする意味がどこにあるんですか。もうなにも感じない、なにも聞こえない、なにも喋らない。そんな感傷より、この事件をどうにか収めて、施設の経営を正常化させる方法を考えてもらえませんかね。先生」

 僕は返す言葉を見つけられず黙り込む。

「大体、施設で殺人だなんて、洒落になりませんよ。事故物件と同じですよ。全く。なんてことをしてくれたんだ。高級感が売りの施設で冗談じゃないですよねぇ。それにこうも警察がうろついていたんじゃあ、デイサービスも再開できない。ああもう。困ったものです」

 嘆かわしい、とばかりに首を振る事務長の前で立ち尽くす僕の背に、ドン、と誰かがぶつかった。

「おっと、すいませんね」

 振り返ると、この数日ですっかり見慣れた世良の顔があった。

「おや、先生。こんなところで会うとは奇遇だなあ」

 この施設に勤務しているのだし、奇遇もなにもあったものじゃないのだけれど、これは世良なりの助け舟なのかもしれない、と僕は察する。

「あ、世良さん。おはようございます」

 黒縁の汚れたレンズの奥で、世良の目がニヤリと笑いかけた。

「そちらは事務長さんですかね。いやあ、お騒がせしてすいませんね。うちの者が。まぁ、犯人逮捕の為、事件の真相究明の為、ひいては、そちらさんの為ですから。ご協力お願いしますよ」

「協力? しているじゃないですか。今だってこうして、施設長のセンセイにご相談していたところですよ」

 不満感を全面に押し出した事務長が世良に食ってかかる。世良はといえば、そういった対応に慣れているのか、ニヤニヤと口の端に嫌味な笑みを浮かべたまま、事務長を値踏みするように見つめている。

「ほう。そいつは邪魔してすんませんな。しかし、こっちもちょいと榊先生に伺いたいことがあるんで、先生をお借りしていきますよ」

 いささか強引に僕の腕を掴むと、世良は歩き出す。引きずられるようにして、僕も後を追う。更にその後をミシュラン君のような刑事が追いかけてくる。

「せ、世良さん。ありがとうございます」

「いーや。なんの。しかし、イケ好かない奴ですなあ。人間の命をなんだと思ってやがる」

「……ええ。あんな人が施設の運営をしているだなんて、幻滅しますよね……すいません」

 僕の言葉に、世良は一瞬歩を止め、ぷっ、と吹き出した。

「いや、それ、先生が謝るとこじゃあないでしょう。先生だって雇われでしょ? 藤堂先生の仰るように、だいぶ天然なんですな。榊先生は」

 藤堂の奴がなにをどう吹き込んだのかは知らないが、二階のテラスに着くまで世良は笑い通しだった。僕が見上げると、ミシュラン刑事は「すんません」と頭を下げた。



 穏やかに晴れ渡った青空。射し込む陽射し。

テラスのテーブルに世良と差し向かいに座ると、ミシュラン君は大きな体を丸め、世良の隣に腰掛けた。

「ま、先刻のはアレですけどね。先生に伺いたいことがあったってぇのも事実なんですわ」

 世良はポケットからおもむろに写真を取り出した。

「まずね、この葉書。先生もご覧になったと思うんですがね、これ、差出人に思い当たる節はないですかね?」

 写真には昨日師長さんに見せられた葉書の表と裏がそれぞれ写っていて、こうして見ると昨日、葉書の文字から感じた禍々しいような悪意は感じられない。不思議なものだな、と写真を手に取りマジマジと見つめ直す。

 そういえば、昨夜、藤堂は「松永さんの遺体から覚醒剤反応が出た」と云っていた。もし、この葉書がそのことを指しているのだとしたら? いや、でもなんのために? そもそも、僕は松永さんが覚醒剤に手を染めていたなんて知らなかった。本当に松永さんは覚醒剤を使用したんだろうか?

 僕はしばし、そのことを云うべきか悩み、それから思いきって世良に尋ねた。

「思い当たる節は全くないんですが、昨日、藤堂から『松永さんの尿から覚醒剤反応が出た』と聞きました。それは……本当なんですか?」

 世良は僕の問いかけに「ふぁっ」とおかしな声をあげた。

「おいおいおいおい。藤堂先生は……。そんな重要事項を関係者に話しちまったらいけねえだろう」

「……です……よね」

 やっぱり訊いてはいけないことだったか、と口ごもる僕に、腕組みをしてしかめ面をした世良が「まぁでもねえ」と取りなす。

「ってか、まぁ、榊先生に聞くしか、あの爺さん婆さんのことはわかんねぇし、俺たちも持ちつ持たれつ行くしかねぇしなあ。実際、こうして話を伺ってるわけですしねえ」

 肩をすくめた世良は「ここだけの話にしといてくださいよ」と念を押す。僕は頷き、世良を見つめた。

「あの婆さんの小便からは覚醒剤が出たんだが、ついさっき科捜研から来た連絡だと、髪の毛からは覚醒剤は出なかったってぇんだ。おかしな話でしょう?」

「えっ。じゃあ、もしかすると、ただの偽陽性だった可能性もあるんですか?」

 覚醒剤……アンフェタミンは一般的なトライエージでは、一部の風邪薬の成分で偽陽性を示すことがある。アンフェタミンではない物質で、トライエージで陽性に出てしまうことがあるんだ。もしかして、それではないか、と僕の頭を希望的観測が過ぎる。

「いやあ。それは残念ながら、本物の覚醒剤の成分だった。間違いねぇ。ただ、覚醒剤の場合、長期使用していると髪の毛なんかでも検出されるからねぇ。髪の毛で出てないってこたぁ、なにかと間違えて覚醒剤を飲んだ可能性はないかってことになるんだが……まあ、そんなもんが間違いで手元に届くことなんざあ、まずないとは思うんですがね」

「はい……僕も、そう思います」

 麻薬系の薬物に関しては、一部を医療用で用いることもあるけれど、覚醒剤は別だ。覚醒剤がなんらかの薬剤と間違って配薬されることなんてないし、いわんや、僕が処方できるはずもない。そもそも、覚醒剤は処方薬じゃない。

「その覚醒剤は……どこから紛れ込んだんでしょうか」

「そいつを俺らも調べなきゃならねぇんですよ。あの婆さんがどういう入手経路で覚醒剤を手に入れたのか」

「でも、常用していたわけではなさそうなんですよね?」

 僕が言い募ると、世良は曖昧に頷く。

「髪の毛の所見からはね。あの婆さん、少し前までつるっぱげだったなんてこたぁないですよね」

「ありません」

「ですよねえ。まあ、仮につるっぱげの時に覚醒剤を使っていたとして、髪が生え始めたから覚醒剤をやめました、なんてことがあれば、わかりますわな」

「うーん……わかるかどうかは……微妙かもしれませんが」

「ほら、あれでしょう。覚醒剤って使っていると妙にハイになったり、攻撃的になったりする人もいるじゃないですか。それから冬だってぇのに気持ち悪いくらい汗をかいていたり」

「はい。でも……松永さんは認知症のせいで、しょっちゅう攻撃的になって怒っていたから……それに、あれが覚醒剤のせいだったとは思えないです。髪の毛から覚醒剤が検出されなかったことからも長期使用していたわけではないようですし」

 僕たちは三人揃って首を捻った。

「もし、あの婆さんがここで『覚醒剤を使ってみよう』と思ったとして、じゃあ、この施設の中にヤクの売人がいるってことですかい?」

「……まさか」

 写真の中の葉書には『ヤク中患者を抹殺せよ』とだけ書かれている。これが入所者さんたちを示す『患者』とは限らない、ということか。

「あり得なくは……ないですよね」

 僕はそのことに思い至り、そう答える。嘘はつけなかった。

「この葉書の文書が、僕たち職員の誰かを告発している可能性もゼロではない、っていうことですよね」

 世良は写真と僕の顔を見比べ、あちゃー、と声に出した。

「ってこたあ、なんですかい。俺は容疑者かもしれねぇ先生に相談しちまったってことですかい?」

「あっ、あっ、えっと、いえ、あの。ぼ、僕はそんなことはしていませんし、ええと、容疑者じゃ……」

 慌てる僕を尻目に、世良はにぃっと口角を上げる。

「冗談ですよ。確かにね、職員に売人やらヤク中の奴やらがいないってぇ保証はないが、このタイミングでこんな葉書が来るっておかしいでしょう。可能性としては否定は出来ねぇけど、俺はこいつぁ、あの婆さんのことを指してるって考えてるんですよ。しっかし、先生は本当にこう、面白いねえ。素直っていうかなんていうか」

 脇でメモを取っていたミシュラン刑事が笑いを堪え、肩を震わせているのが見えた。

「とりあえず、この葉書があの婆さんを指しているとして、なんの目的で出されたか、だ。予告殺人の可能性だってあるわけでしょ。そうなりゃあ、大ごとになってくるわけだ」

 僕は神妙な顔をして頷いた。

 もうひとつ伺いたいことが、と世良はもう一枚、別の写真を取り出した。

 そこには柄まで赤黒く染まったナイフが写っていた。刃先には固まった赤黒い血液が付着し、脂がてらてらとカメラのフラッシュを反射している。刃渡りは十五センチ程度で持ち手の部分まで金属でできている。

「……これは……」

 聞かなくても明白ではあったが、僕は世良を見つめ尋ねる。世良の口から出た答えは僕の想像と寸分違わぬものだった。

「あの爺さんの胸に刺さっていたナイフです。これに見覚えはないですかね?」

「あり……ます」

 番場さんの遺体を前にしたときには、それどころではなくて、しっかりと確認することはできなかったのだけれど、写真のナイフに僕は確かに見覚えがあった。

「誰のものなんです? このナイフは」

「番場さんご自身の……ものです」

 番場さんが「この施設では果物の皮も剥かずに食べろというのか」と文句を言い、家族に持って来させたフルーツナイフに間違いなかった。ドイツの有名なメーカーのものなのだ、と自慢する番場さんを宥め、施設ではナイフの持ち込みは禁止されている、と何度も持ち帰らせていたはずのものだった。

「施設では、こういった危険物の持ち込みは……固く禁じられているので……何度もご家族にお返しして、持ち帰ってもらっていたんです。それなのに……また……」

 こんなことが起きるはずではなかった。けれど、なにかの事故で入所者が怪我をしたり、揉め事が起こったときに相手に怪我をさせたりしては困るから、とカッターナイフや包丁、ハサミなどの持ち込みは禁止していた。

 だから……あれほど云ったのに、と僕は唇を噛む。

「その爺さんは、そういうことが頻繁にあったんですかい?」

 死者をそんな風に告発することは憚られたが、僕は「はい」と答えざるを得なかった。

「そのナイフは先月にも危険だから、とご家族にお返ししたんです。こんなことになるなんて、思っていなかったけれど……。でも、認知症の患者さんも多いこの施設で、感情のコントロールも難しい人もいる。そこで万が一のことが起きたらいけないから……」

「ははぁ。なるほど。じゃあ、もひとつ伺いますけど、このナイフを爺さんが持っていることを知っていた人間はどれくらいいるんですかねえ?」

「それは……」

 先月。ナースステーションの前でご家族と話していたとき、番場さんがやってきて怒鳴り散らした時のことを思い出す。

「恐らく……入所者の方々の半数くらい……それから、スタッフは全員知っていたと思います」

「ほほう」

「持ち込まれていたナイフをご家族に返す時、番場さんがやって来て言い合いになって……。師長さんが怪我をされたんです」

 ナイフを取り上げられ激昂した番場さんと師長さんが揉みあいになり、その拍子に、ナイフの切先が師長さんの左腕を傷つけた。幸い深い傷ではなくて、五針の縫合は必要としたけれど、大きな事件にはならなかった。

その騒ぎを、リハビリ中だった人たちはみんな見ていたし、スタッフは番場さんにナイフを持ち込ませないよう注意を払っていたから、そのナイフのことを全員が知っていた。

 世良の目がぎらりと光った。

「それじゃあ、そのことを師長が恨んでいてもおかしくはないってことですね」

「師長さんは! そんなことしません!」

「さあねえ。人間、なにが起こったっておかしくはないですからねぇ。あとはあの宮内ってぇ爺さんか。自分が殺したって言ってた」

 僕の心に黒い霧が立ち込めた。





■十九


「で、くろすけはそんなに落ち込んでるわけ?」

 そっぽ向く僕を後ろから羽交い締めにすると、人の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回し、髪の毛に顔を突っ込んでクンクンと嗅ぎ回す。

「もー。ほんっと、くろすけは変わんないねえ。箱入りすぎて、おじさん、困っちゃう」

「やめろ。おまえの昔の飼い犬じゃないんだから」

 ただでさえ上背があるから鬱陶しいのに、そのうえ、このキャラクターの所為で更に鬱陶しい。絡んでくる藤堂を睨みつけ、しっしっ、と手を振る。

「ケチ! 匂いくらい減らないじゃん! 俺はくろすけもボルちゃんも同じくらい好きなんだからね!」

「意味がわからない」

 溜息をついて、かき乱された髪の毛を整えながら、僕はソファに座り直す。古いソファは、いい具合に革がこなれていて、体ごと沈み込む。

朝の予告通り、施設を出ると水色の古いミニクーパーが止まっていた。素知らぬ顔をしてその脇を通り過ぎてやろうとしたが、待ち構えていた藤堂に車に引きずり込まれ、再び藤堂家に連行されてしまった。

「今日は絶対に帰るからな。風呂も入りたいし、着替えたい」

「えーっ。うちのお風呂に入ればいいじゃん。なんなら俺と一緒に入ろう。ボルちゃんもよく洗ってあげてたから! 俺が洗ってあげるよ!」

「断固として拒否する」

「大丈夫! 俺、一人暮らしだから」

「なにが大丈夫なのかさっぱり理解できない」

 言い切ると、藤堂はしゅん、と萎れた様子で上目遣いに僕を見る。

「じゃあ、お風呂は一緒に入らないでいいから泊まってってよ。俺の服貸してあげる。パンツも貸してあげる。なんならお揃いで」

「馬鹿か。おまえの服なんてデカくて無理だ」

 くだらない会話をしながら、僕はふと気づいてしまう。

「おまえ、この家に一人なのか?」

「うん。そうだよ。ここ、俺の実家なの。親父は十五年前に死んで、お袋は失踪」

「え……」

「まあ、人間生きてるといろんなことがあるよね! だから、この家には俺が一人で住んでるの。くろすけも暮らしてもいいよ! 部屋はそこそこあるから」

「……それは遠慮しておく」

「もう〜。顔は派手なのにその辺が慎ましやかな日本人だよね。くろすけ」

 なんてことない話のひとつ、に紛れ込んだ台詞に僕は絶句した。十五年前ならば、藤堂はまだ大学生だったはずだ。僕はあの頃、藤堂の友達だったはずなのに、そんなこと全く知らなかった。

 思い返してみれば、藤堂とは飲みに行ったり、僕のワンルームマンションに遊びに来たりすることはあっても、藤堂の家に行くことはなかった。それに、あの頃は楽しいことも夢も山ほどあったから、家族の話なんてすることはまずなかった。そんななかで、藤堂が親を亡くしていたなんて。

 僕は目の前のことに囚われすぎて、あまりにもたくさんのことを見ないまま生きてきたのかもしれない。

「ちょっとぉ、神妙な顔しないでよ。俺が云ってなかったんだから、くろすけが知らないのは当然なの。どうせまたおかしなこと考えてたんでしょ〜」

「そんなこと……」

「俺は憐れまれるのも同情されるのも嫌いなの。そんなものじゃ満たされないよ。人間。どうせなら……同情するより愛をくれ、かな! それに、俺はいつか親父の件もお袋の件も俺の手で調べ上げるからいいんだ」

 いえい、とVサインをする藤堂に僕は深々と溜息をつく。

「用がないなら帰る」

「あるってば! 用事。あるから待ってたんじゃん」

 藤堂は傍らに置いたトートバッグから紙切れを数枚取り出すと僕の前に置いた。

「婚姻届じゃなくてごめんね」

「……おまえ、ほんと、いい加減にしろよ」

「だって、俺、くろすけ大好きなんだもん。まぁでも、これは……別件なんだけど」

 そこには藤堂がわかる範囲で書き出したと思われる『雪の園』に当日居た人間の名前が羅列されていた。

「いろいろ考えてはみてるんだけどさ、まずは情報をきちんと整理したいな〜と思って。そのためには、俺の解剖所見とくろすけの情報、両方が必要じゃん。俺は彼らの解剖所見や検査の結果については君より詳しいし、君は俺よりあのじじばばや施設のスタッフのことについては詳しいよね。二人で初めての共同作業、っていうやつだよ」

 余分な一言は黙殺するにしても、藤堂の云うことには一理あった。

 A4の紙、5枚に番場さん、松永さんの解剖所見や死因、死亡推定時刻をはじめ、当日施設にいた六人の既往歴や残存障害の有無、それにスタッフの名前や年齢がわかる範囲で書かれている。

藤堂は警察ではないから事情聴取に立ち会ってはいないし、元々その人がどんな人なのか、そしてそこにどんな人間関係があったかも知らない。それでも、施設の中をちょこまかと歩き回りながらこれだけの情報を仕入れていたことに僕は感心した。

「とりあえず、くろすけはそこに書いたリストの順に知ってることを教えてよ。事情聴取にも立ち会ったんでしょ」

「うん」

 それから僕は、今までのその人のこと、先日の事情聴取で聞いたこと、その時の様子など、覚えていることを藤堂に話した。

 藤堂は時折相槌を打ちながら、メモをとっていく。その手が、宮内さんの『自白』のところでぴたりと止まった。

「宮内さんていうのは、脳梗塞後遺症で右片麻痺があるんだよね? どうやって殺したのか聞いた?」

「いや……。あの時は、刺殺されたんだと思っていたし……。刺されて倒れて、頭を打ったのかと思ったから」

 たまたま手にしたナイフで心臓をひと突き。倒れたところを更に……なんて、テレビドラマのワンシーンみたいなことをあの時は想像した。それに、そのあと、警察から一旦休憩を言い渡されて……。

「被害者の番場さんっていうのは、右片麻痺のある宮内さんが殺せるような、そういうヨボヨボのおじいさんだったの? 体格的にはどちらかというとガッチリしていたし、それなりに筋肉はあるように見えたけど」

「いや、番場さんは……認知機能の低下が著しかったけれど、身体的障害はなくて、力も強かった」

 ふむ、と呟き藤堂は頬に手を当てた。長い人差し指が、トントン、とリズミカルに頬を叩く。

「番場さんの致命傷は頭部の外傷だってことはこのまえ説明したよね。もしそのことを指して宮内さんが『殺した』と云っているのならば、方法はふたつだ。傷は後頭部にあるから、前から突き飛ばす。もう一つは後ろから殴る。ただ、傷の形状からすると、もし後ろから殴ったならば、板状の……溝の蓋とか? ああいうやつの真ん中の平らなところでやや右側から殴らないとあんな形にはならない。宮内さんが殺意を持って番場さんと正面から向かい合ったとして、窮鼠猫を噛む、みたいなことがないとは云い切れないけれど、どうしたって半身麻痺のある人間が不利だよね。よほど油断している時ならば突き飛ばすこともできるかもしれないけれど、人間って動物だから、流石に殺意のある人が目の前にいれば感じるよねぇ」

 喩えば……と、唐突に藤堂は体を起こし、僕にのしかかり、首元に両手を当てた。

「……っ! やめろよ!」

 僕は咄嗟に藤堂の体を両手で突き飛ばし、自分の喉元に掌を当てる。藤堂はよろめいた拍子に落ちた眼鏡を拾い、ローテーブルの上に置いた。

「天然のくろすけだって、咄嗟の時には、こんなに俊敏に動ける」

 ごめーん、と軽い口調で云って、藤堂はなにごともなかったかのように腰を下ろす。僕の心臓はまだバクバク云っているのに。非難がましい目で睨み据えても、そんなものどこ吹く風で、そのまま言葉を継ぐ。

「いずれにせよ、右片麻痺のある宮内さんが正面から番場さんを突き飛ばすのは現実的じゃないし、後ろからそれなりの重量のものを持ち脳挫傷を起こすほどの力で相手を殴り殺すのって不可能なんじゃないかな。しかも、俺たちが部屋に入った時に、そんな板状の重そうな凶器になるものってなかったよね。まぁ、ぶあつ〜い板みたいな氷を予め準備しておいて殴って、証拠隠滅のためにその氷はかき氷にして食べた、って云うならアレだけど。そんなにいっぱいかき氷を食べたらお腹壊しちゃうもんね〜。血がついてたからいちごシロップをかけました! なんて嫌だし〜」

 最後の一言はともかくとして、監察医としての藤堂の姿に僕はやっぱりまだ驚いてしまう。発せられる言葉には説得力があって、僕は深く頷いた。

「で、くろすけ。宮内さんは左手でナイフを握ることならばできるんでしょ? ならば、倒れている番場さん……まあ、宮内さんは生きていると思っていたのだろうけれど……を刺すことならばできたはずだよね」

「それはできると思う」

「普通は、傷口の形や刺入の角度なんかで利き手や刺した人の身長なんかを推測する……のは、講義でも習ったと思うんだけどさ〜、実はね……この人、心臓以外の傷は『切られて』いるんだよね〜」

「……どういうことだ?」

 ソファを軋ませて僕の方に身を乗り出した藤堂は、伸ばした人差し指を僕の首筋に当てた。そして、その指先を喉仏の横までスゥッと真横に走らせる。背筋がぞわりとし、肌が粟立つ。

「包丁で肉の筋を断つみたいにね、こうやって、真横にナイフを引いて血管が離断されていたんだ」

 抑揚のない声が冷やりと耳に滑り込む。僕は首筋を慌てて掌で抑え、隣に座る男に問いかけた。

「それは……どういうこと?」

「明らかな目的意識を持って血管を切っているんだ。首、鼠径部、腋下。どれも太い動脈が走行している場所をね。それから最後に心臓を刺したみたいなんだよね〜。つまり、衝動的に刺したんじゃなくて、なんらかの目的があって遺体をナイフで傷つけている……まぁ、その時点で、生きてるか死んでるかわかってなかったかもしれないけどね」

「でも宮内さんは元々スーパーの経営者で、医学の心得はないはずだ」

 僕たちならば、解剖学も一通り習っているから血管の走行もわかる。だけど、宮内さんが医学に携わっていた、という話はついぞ聞いたことがない。

「その辺のことこそ警察に頼もうじゃあないか。彼らはそういうことのプロなんだから」

 藤堂はニヤリと笑った。途端にお腹がグゥと鳴る。取り繕う間もなく家主が云った。

「とりあえず、ごはん食べよっか」



 手っ取り早くできるものでいいか、というので頷いたら、三十分足らずでスパイスカレーが出てきた。

「おまえ、すごいな。こんな短時間で作れるものなの?」

「これね〜、簡単なんだよ。ヨーグルトのパックに前の日の晩に鶏肉とおろしニンニク、おろし生姜を放り込んでおいて、で、クミンとターメリックとチリパウダーとコリアンダーを気分に合わせてお鍋に入れて、で、炒め玉ねぎペーストっていう超絶素敵な逸品があるから、それも鍋に入れるでしょー。で、全部まとめて炒めてから、トマトを一個刻んで入れて、煮込んだら完成! ほら、楽でしょ」

 藤堂はなにやら作り方を説明していたが、僕にはさっぱり理解できなかった。だが、カレーとナンは存外美味く、まるで大学生の頃に戻ったようで少し面映い気持ちになる。藤堂は昔からハマり症で、蕎麦にハマれば蕎麦打ちまでやってみたり、菓子作りにハマればその辺の女子に混じって料理教室に通ったり、やり始めると納得するまでとことんやり込むところがあった。おそらく、今回の事件も、気になるところを見つけたが最後、徹底的に調べなければ気が済まなくなったのだろう。

 食事をしながら杉原さん、安岡さん、ちづさん、桃子さんと残る四人の事情聴取について話し終えると、藤堂は不満げに鼻を鳴らした。

「その人たち、どこまで本当のことを云ってるのか、わかんないよねぇ」

「それは仕方ないさ。認知症のある人にとっては数時間前……場合によっては数十分前のことだって思い出すのが難しいこともあるんだ。それに、妄想が混じることもあるし」

「それはくろすけから見てもわかんないもんなの?」

「……わかる、とは云えないな。僕が判じるっていうことは、つまりは僕の主観がどうしても入ってしまうから」

「いいじゃん。主観が入ってたって」

 藤堂は喋りながら、メモ用紙にあれこれと文字を連ねている。それを覗き込んだところで僕はあることに気がついた。

「これ、三人とも同じくらいの時間に亡くなっているのか?」

「んー。解剖所見ではね。ただ、実際は三人揃って、せーの、で死ぬはずはないから。俺の見立てでは番場さんが一番最初に亡くなってると思うんだよね」

「なんで?」

「大量に血液を喪失すると、死斑は出ない。だから、直腸内温度とか死後硬直とか……あとは、瞳孔の透過性とか……そんなんで死亡時間を推定するんだけど、この人は、死後硬直からは推定四〜五時間。だけど、直腸内温度から推定すると死後六〜八時間になる」

「結構ばらつきが出るもんなんだ」

「そうよー。今は、優秀なパソコン君が外気や直腸温を入れると計算してくれるんだけどさ、血液を喪失することで体温の低下がはやくなるんだよ。逆に死後硬直は外気が高いほど発現しやすくなる。ねえ、くろすけ。覚えてる?あの日、俺たちが部屋に入ったとき、あの部屋、すっごい寒かったんだよね〜。だから、死後硬直の発現は遅れて、逆に直腸内温度は本来より下がっていて、それで死亡推定時刻にズレが生じたんじゃないかって思うんだよね〜」

 淡々とした口調で説明する藤堂は『医師』の顔をしていた。相変わらず、なにを思っているのかはさっぱりわからないけれど。

「じゃあ実際に亡くなった順番は、番場さんが先で、その後に、近藤さんと松永さんが亡くなっているってこと?」

「そうだねえ。近藤さんと松永さんはどっちが先かはわからないかなぁ。せめて防犯カメラの画像があればよかったんだけど。カメラの電源を誰が切ったかわかったの?」

「いや……まだ」

「もーぅ。おーそーいー」

 ギャルのような口ぶりで体をくねらせる藤堂を冷ややかに一瞥し、僕は溜息をつく。

 施設で殺人事件が起きたことも大問題だけれど、こういう時にこそ役立つはずの防犯カメラが切られていたことも大きな問題だ。

「まったく、誰が切ったんだろう」

「んー。今回の事件が計画的犯行とすれば、犯人が切った可能性。それからそれ以前にも何回かカメラの電源が切られていたことからは、たまたま今回カメラを切りたい理由を持った誰かがいたタイミングで事件が起きた可能性。更には、コンピューターの何らかの誤作動の可能性。この辺りが考えられるかねぇ。もし、犯人が切ったのでなければ、以前に切られていたタイミングと今回になにか共通項があるはずじゃん?」

「なるほど」

「なんか盗まれたりしてないの? あんな高級そうなところだったら、入所者の金品を目当てに……とかさ」

「そういう事件を防ぐために、金品や装飾品の持ち込みは禁止しているんだ。それでもこっそり持ち込む人はいることはいるんだけれど、そんな高価なものは誰も持ち込んでいないはずだよ」

「じゃあ、個人情報の抜き取りとかは?」

「うちの患者さんの個人情報? まぁ、相応にお金のある家の人ばかりだからあり得なくはない……のかなぁ」 

「とりあえず、くろすけは、カメラが切られていた日に共通点がないか調べてみて〜」

 僕はそれを承諾し、駄々を捏ねる藤堂を説得してどうにかその夜は家に帰してもらった。





■二十


 翌日出勤すると、施設に入るなり甲高い女性の声が聞こえた。

 慌てて二階に駆け上がった僕が目にしたのは、ホールの真ん中に寝転がり、手足をバタつかせ叫んでいる桃子さんの姿だった。目には涙を浮かべ、体の大きさや年齢を除けば、ショッピングセンターで時折目にする子供の癇癪のようだ。

「どうしたの?」

 近くで立ち尽くすケアワーカーの鴻池くんに声をかけると、眉を下げ困り果てた様子で「それが……」と小さな声で答えた。

「お気に入りの半纏がない、って怒っていらして……」

「半纏、ってあの桃色の?」

「はい。汚れていたので洗濯に出してるんですよ」

「それはいつ洗濯に出したの?」

「年末です」

「そ……っか」

 僕はほっと胸を撫で下ろす。もしや、あの事件の時に付着した血液の汚れじゃ……なんて考えが心の片隅を過ったからだ。

 僕はしゃがみこんで桃子さんを見つめた。

「桃子さん。今日のカーディガンも半纏に劣らず素敵ですよ」

「いやぁ! モモコのちゃんちゃんこ」

 僕の声が届く気配は全くなく、桃子さんはばんっ、ばんっ、とかなりの力で床を叩き、泣き喚く。

 鴻池くんはムッとした様子のまま、桃子さんを見つめている。

 認知症の患者さんにはしばしば説明も通じないし、理屈も通らない。そのことは、認知症患者さんの家族や介護者にとって、途方もないストレスになる。



なかなかおさまらない騒ぎに、ちづさんが、手押し車を押しながら、こちらに近づいてきた。僕の隣に手押し車を止めたちづさんは、そこに腰を下ろす。

「あらァ、桃ちゃん。そのおべべ、かわいいじゃァないか。ちょっと見せておくれよ」

「やだぁ!」

「ちょっとだけだからさァ。あれ、綺麗な桃色だねェ。桃ちゃん。桃子の桃色かい?」

 両手でカーディガンの裾を引っ張った桃子さんは、それを見つめ、次いでちづさんを見つめ、うん、と頷いた。

「あらあら。そんなところで寝転んじまったら、おべべが汚れちまうよォ。ほれ、ばあちゃんの方においで」

「おばあちゃん、だあれ?」

 キョトンとした顔で、泣くのをやめた桃子さんがおずおずとちづさんに問いかける。

 二人の老女が向かい合って話しているはずなのに、会話は恰も、老女と子供のそれだ。

「ばあちゃんは、そこのお部屋に住んでいる、加藤ちづっていうのサ。モモちゃんにも会ったことがあるよ」

「そうなの? モモコ知らない」

「そうかい。いいヨ。覚えていなくても。これからまた仲良くしておくれよ」

「うん! わかった。でもね、モモコ、今日は母さまとお出かけだから、おばあちゃんとは遊べないの」

「そうかい。そいつァいいねえ。どこに行くんだい?」

「銀座の三越!」

 桃子さんは無邪気な笑みを浮かべた。泣いたからすが笑った、とはこのことだ。

「三越でね、母さまとクリームソーダをいただくの。綺麗な緑色でね、しゅわしゅわするんだよ」

 いま、桃子さんにはなにが見えているんだろう。桃子さんはなにを思っているんだろう。

 恍惚の人、という映画があったけれど、認知症になってそれまでのその人とは別人のようになってしまうことは、周りの人からすれば受け入れ難いことだと思う。それに、認知機能の低下を御本人が「自分はダメになってしまった」と強く嘆くことも多い。

 でも、いまの桃子さんを見ていて、ふと思ってしまう。もし、いま、桃子さんの周りに広がる世界が、桃子さんがとても幸せだった子供の頃の記憶で彩られているのならば、それは桃子さんにとって幸せなことなのかもしれない、と。

 二人のやりとりを見つめる僕の前で、ちづさんがにっこりと笑ってみせた。

「桃ちゃんはお母さんが大好きなんだね」

「うん。母さまも父さまも大好きだけど、父さまはお国のために戦わなくちゃいけないから、モモコ、母さまとお留守番するの」

「そうかァ。桃ちゃんはえらいねェ」

 床にペタリと座った桃子さんの頭をちづさんが優しく撫でた。あんなに興奮していたのが嘘のように、以前の桃子さんのように、柔らかな表情で桃子さんは微笑んでいる。

 桃子さんは由緒ある呉服屋さんの跡取り娘だった。大旦那だった父親を戦争で亡くし、若いうちに入婿さんを貰い、それから子育てと店の手伝いをずっとしてきた。戦中戦後の動乱の時代を生き抜くことはどれほど過酷なことだったのだろう。僕には想像もできない。

 桃子さんが今、思い出している幼い頃の記憶は、おそらく桃子さんにとって一番心が自由だった頃のことなのだろう。

 そういえば、この数日、シゲさんと桃子さんが一緒にいるのを見かけない。まぁ、認知症の症状が一気に悪化した桃子さんが、かなりの興奮状態にあったからやむを得ないのかもしれないけれど。こんなところにまでも、今回の事件が影を落としているのか、と胸が痛んだ。

「ちづさん、ありがとうございます」

 よちよちと自分の部屋の方に歩いていく桃子さんの後ろ姿を眺めながら、ちづさんに声をかける。ちづさんは、いつものように、にぃっと歯を剥き出して笑った。

「こんなものは年の功さァ。ま、子供をあやすのはクロちゃんより一寸ばかり上手いってことさねェ。そういや、クロちゃん。カナメちゃんとは仲直りしたのかい?」

「カ……カナメちゃん?」

「ほぉら、このまえ来てた、背ェの高い子だよ」

「……ああ……。藤堂ですか」

「あの子もいい子だねェ。クロちゃんもいい子だけどさァ。友達は大事にしなきゃだめだよ」

 僕は曖昧に頷く。

 無性に悲しかった。あの事件がなければ、桃子さんはいまもシゲさんの隣でうっとりと微笑んでいたんだろうか。あの事件がなければ、三婆は今日も揃ってうるさいくらいに楽しい時間を過ごせたんだろうか。あの事件がなければ……でも、あの事件が起きたから、僕は藤堂と再会した。

 番場さんを殺し、メッタ刺しにした犯人に、「おまえのしたことは番場さんだけじゃなく、そのほかの高齢者からも、幸せに過ごしていた残り少ない時間を奪ったのだ」という事実を突きつけてやりたくなる。

 けれど、それと同時に、番場さんを殺した犯人を見つけたくなかった。だって、犯人は、僕たちかこの人たち……いま施設に残っている六人……の中にいるんだから。

 願わくば、あの事件が起きる前の日に戻りたい、と僕は相も変わらず、ヘタレなことを思った。それができないならば、犯人を見つけ出して問いたいと思った。

 何故、そんなことをしたのか、と。






■二十一


ちょっと疲れたから有給休暇を取りたいし、勤務状況をその前に確認したい、と云ったら、平野君はすんなりと勤怠表を貸してくれた。

 あの日、事務当直をしていた平野君は僕の顔を見るなり、勢いよく喋り始めた。

「先生、なんか大変なことになっちゃったっスね。俺なんて、あのいけすかない刑事にすっげーしつこくあれこれ聞かれましたよ」

 情けない顔をした平野くんが泣き言を云う。

「もうあの晩、最悪だったんスよ。雪のせいで配達を頼んでた年越し蕎麦は届かないし。松永さん? あの亡くなったお婆ちゃんの姪だっていう人から何回も電話がかかってくるし。おかげで紅白歌合戦の狐坂55見られなくって。俺、あのグループの野琴ちゃんっていう子がすっごい好みなんスよ。鈴木ちゃんとちょっと似てるっスけど、おっぱいがこう、ぼーんと大きいのにウエストはキュッとなってて、足なんかスラーッとして美人系って云うよりは可愛い系? なんスけどね」

「え。ちょっと待って」

「えっ、先生も野琴ちゃんタイプっスか? やっぱあのFカップが……」

「いや、そこじゃない」

 立て板に水の勢いだった平野くんにストップをかけ、僕は今の会話を反芻する。

「松永さんの姪御さんから電話があったの?」

「あー。そっちっスか。なんか、やったらテンション高い感じでね『年越しなんで叔母に差し入れた甘酒を飲ませてやってくれ』って。しつこいしつこい。『もう飲んだか?』『飲ませてくれたか?』って四回くらい電話がかかってきたんスよ」

「甘酒?」

「そっスよ。甘酒。ね。甘酒なんて別に好きな時に飲めばいいじゃないっスか。それを何回も何回も電話してきて」

 なにかが引っかかる。

本来、アルコール類は持ち込み禁止だけれど、甘酒は基本的にアルコール度数は1パーセント未満だから、お酒じゃない。だから、持ち込み禁止には引っかからないし、松永さんは糖尿病もなかったし、嚥下機能低下もなかったから、ご家族が送ってきた甘酒を飲んだって別になんの問題もない。ただ……。

 それを飲まないことになんの問題があるんだろう。

なぜ、それを飲ませようとしたんだろう(・・・・・・・・・・・・・・・)。

「えっ、それ、平野くん、誰かに伝えた?」

「伝えましたよ。師長さんに。大体、そんな気にすることっスか? 甘酒を飲まないと死ぬ病気、みたいなラノベじゃあるまいし。あ、俺はおっぱいがないと死ぬ病気、かもしれないっスけど」

 それに、あのいつもオドオドとして視線を合わせることすら避けるような姪御さんが、そんなに何度も電話をしてくるなんて、それ自体が釈然としない。それは本当にあの姪御さんだったのか。

「あっ、あとね、先生」

 考え込む僕をよそに喋り足りない、といった様子の平野くんは、更に言い募る。

「鈴木ちゃん、彼氏いるっぽいんスよ。もう、俺ショックで。あのおっぱいが他の男の手であんなことやこんなことされちゃうなんて、もうショックでショックで。先生も同じ男としてわかるでしょ!」

「……僕はそこまで執着はないから……その、おっ……ぱいに」

 口に出すのが憚られる気もして、小声で答える。大体、女性の胸が大きかろうが小さかろうが、内面を映すものじゃないし……はっきり云ってどうでもいい。

「えっ、先生、ちっぱい派ですか?」

「いや、そういう問題じゃないけど」

「俺はね、叶姉妹の美香様みたいなおっぱいが理想なんスけど、ああいう妖艶な美人じゃなくて、こう、あどけない可愛い系の子に美香様のおっぱいがついてるのが最高なんスよねえ」

 いささか呆れながら、熱く語る平野くんを眺めていて、僕ははたと思い出した。

「あの、平野くん。おっ……ぱいの話はちょっと置いておかせてもらって、あの晩、大きな音が聞こえたこと、なかった?」

「え? 音っスか?」

「うん。日付が変わるか変わらないかくらいの時に大きな音がしなかった?」

 首を捻り、宙を見つめていた平野くんは、あぁ、と頷いた。

「しました、しました。えーっと、除夜の鐘が聞こえ終わったくらいに、ドン、って。誰かが転んだ音だと思ったんで、別に気にもならなかったスけどね」

「そうか……ありがとう」

 安岡さんの云っていた『大きな音』は確かにあった。ちづさんは聞いていないと云っていた。ちづさんは嘘をついたのか? 嘘をついたならば、それはなぜ?

「平野くん、ありがとう。ちょっと用事があるから、またね」

 僕は勤怠表を片手に施設長室に足ばやに向かう。もう一度、全員の証言をタイムラインに沿って見直す必要があるように思えた。スチール製のデスクに勤怠表を置くと、僕は藤堂にメッセージを送った。



 白衣を羽織って二階のフロアに上がると、師長さんがぼんやりとテラスから中庭を見つめていた。その横顔は心なしか少し年老いたように見えて、ふっと寂しさを覚える。

「師長さん」

「あら、先生」

「随分お疲れのようですね」

「ええ、少し疲れたかもしれませんねえ。この歳になるとなかなか疲れがとれなくなるものなんです」

 ひっそりと微笑む横顔に、僕の胸がチクリと痛んだ。

「師長さん。少しだけ教えて欲しいんです」

 僕はなけなしの勇気を振り絞り、罪悪感をねじ伏せる。警察でもない僕が、こうして話を聞くことが果たして許されるのかどうか、僕にはわからなかった。でも、僕は、僕にできることをしたかった。

「けっして、師長さんを疑っているわけでもないし、みんなを疑いたいわけじゃないんです。でも、なにがあったのか、どういうことが起きていたのか、僕は知りたくて……」

 小さな中庭は常緑の下草ばかりが青々と茂り、木々は冬枯れで茶色くくすみ、黙している。

「そんな遠慮しなくたっていいんですよ。先生。わたしだって、なにがあったのかしっかりと理解できておりません。わたしがいたのに、あんな事件が起きてしまったことが悔やまれてならないんです」

「はい……」

 唇を噛み締め俯く姿に、僕の胸も胃もキリキリと痛む。

「あの夜は、先生がお帰りになられた後から雪が降り始めました。除夜の鐘の鳴る頃に『冷えてきたから』と宮内さんが仰ったので、鈴木さんに毛布を持っていってもらいました。その時点では近藤さんの容体もまだ落ち着いていらして、松永さんも番場さんもお変わりはありませんでした。けれども、大晦日の夜でしょう。みなさん、何処となくソワソワとしていらっしゃいましたよ」

 僕はぼんやりとその光景を思い描く。大晦日だと理解できていた人は勿論、たくさんの入所者さんが一時帰宅されたり、自分は帰ることができないのか、と落胆されたりしている空気を認知症のある方なりに感じ、みんないつもとは違うことを感じていたんじゃないだろうか。ちづさんもそう言っていた。

 来年の大晦日を迎えることができるかどうかわからない自分にとっては、大晦日そして元旦という繰り返される一年の終わりと始まりも、特別な一日一日であるのだ、と。

「わたしは先に休憩をいただくことになっていたので、日付の変わる頃には仮眠室におりました。そうしましたら、除夜の鐘ではない、大きな音がしましてね。どなたかが転倒されたんじゃないか、と鈴木さんのPHSに電話をしました。わたしが見に行けばよかったんですが、難しいんですよ。師長という立場も。休憩中の師長が様子を見に出てきた、とそれだけで負担に感じる子もいるんです。それで鈴木さんにお願いしました」

「どなたが転倒されたんですか?」

「休憩が終わってから、安岡さんが転倒された、と伺いましたよ」

 安岡さんが転倒? 安岡さんとちづさんは一緒にいたはずで、ちづさんは安岡さんが転んだなんて云っていなかった。誰かが、嘘をついている? と云うことなのか。

「あっ、そう云えば、除夜の鐘が終わる頃に人魂? ……火の玉? みたいなものが飛んでいませんでしたか?」

 僕は、ちづさんの証言を思い出す。

「えっ? 火の玉ですか?」

 唐突な僕の言葉に師長さんも驚く素振りを隠さない。

「ええ。見たという人がいて……」

「生憎、わたしは見ておりませんねぇ」

「そ、そうですよね。師長さんが仮眠室を出たのは何時頃でした?」

「二時前です。松永さんの姪御さんから何度も電話がかかってきて『甘酒を飲ませて欲しい』とおっしゃっていると事務の平野さんから連絡をいただきました。ですので、仮眠室を出たついでに、松永さんの部屋に伺ってお伝えしたところ『甘酒を温めて欲しい』と云うので、詰所の電子レンジにかけて温め、お渡ししました」

「そんな時間まで松永さんは起きていたんですか?」

「ええ。お部屋の電気も煌々とついていらっしゃって。消灯時間にみなさんのお部屋の電気は消させていただくんですけれど。そうしなければ昼夜逆転を起こされてしまっても困りますしね。それでもご自身でもう一度電気をつけられる方も多いんですよ」

 確かに。宵っ張りの人にとっては二十一時の消灯というのはとても早く感じられるに違いない。特に、大晦日の夜だ。テレビの番組も夜が明けるまで特番がぎっしりと詰まっている。

僕たちは忘れがちだけれど、入所者の方たちも、僕たちと同じように三十代、四十代、と歳を重ねて、その末に今ここにいるんだ。入所者の方たちの今の姿は、あの人たちの生きている人生のほんの一部でしかない。だから、かつての習慣をなかったことにはできないのかもしれない。

「そのあと、松永さんは?」

「さあ、甘酒を飲まれたかどうかまでは管理できかねますし。わたしは温めた甘酒をお渡ししたところまでしか存じ上げません」

「それから、三時過ぎに近藤さんの血圧と脈拍が下がり始めたので、仮眠中だった鈴木さんを起こして対応致しました」

 近藤さんの対応については看護記録にもはっきりと書かれていたので齟齬はなかった。

「鴻池くんは?」

「鴻池さんも近藤さんのところにいらっしゃいましたよ。わたしと鈴木さんの二人では体位向換をするのも難しいですし、お手伝いしていただいていました」

「じゃあ三人とも、三時過ぎからは一緒にいたんですね」

「いえ、わたしは近藤さんの部屋とナースステーションを行き来しながら、近藤さんのご家族にお電話を入れさせていただいておりました。お看取りでと伺ってはおりましたけれど、やはり大切な家族の最後に立ち会いたいお気持ちがあれば、それを叶えて差し上げたいでしょう」

「……そうですね」

 僕はその言葉に同意する。今はやむにやまれぬ事情で、ご家族の面会は酷く制限されているけれど、それでも、最後のひとときだけは会わせてあげたい、という僕と師長さんの一致した方針で、臨終間近の方は、ご家族にご連絡を入れさせていただいて、希望があれば会ってもらうことにしている。

 僕ならば、大切な人の最後のときにはそばにいたいと思うから。

尤も、それは僕のエゴでしかないのかもしれないけれど。

「近藤さんのご家族は遠方ですし、せめて、とお電話をスピーカーに切り替えて、近藤さんの耳元に置かせていただきました」

「ありがとうございます。師長さん」

 こういう細やかな配慮に師長さんの重ねてきた経験と人柄が映し出されているように思えた。

「鈴木さんはその間、近藤さんのそばにいたんですか?」

「はい。少しの時間を席を外すことはあったと思いますが、そんな長い時間、近藤さんのところを離れることはできなかったと思いますよ」

「鴻池くんは?」

「鴻池さんは、容体が変わられてからお体を整える間お手伝いしていただきましたが、その後は、田之倉さんと杉原さんの体位向換に行ってもらいました。ちょうど時間だったので」

「近藤さんの容体が悪くなってから息を引き取られるまで大体どれくらいの時間でしたか?」

「一時間ほどです。四時になる前にご家族にもう一度お電話を差し上げました」

 疑おうと思えば全てが疑わしい。けれど、疑いたくはない。葛藤しながら、僕は俯き、小さく頭を振った。

「番場さんの異変に気づかれたのはいつ頃でしたか?」

「五時過ぎ……いえ、五時半頃でした。近藤さんが亡くなられて、お体をきれいにしてから、遅くなってしまいましたが、鈴木さんに四時の巡診に回ってもらって……その時に」

「師長さんはその時は?」

「わたしは詰所で配薬のチェックと注入食の準備をしておりました。六時になったら注入食を繋がなくてはなりませんから」

「お世話をおかけします」

 僕たちの知らないところで、看護師さんたちはこうしてお仕事をしてくれているんだ、と改めて知り、頭が下がる。

「真っ青な顔をした鈴木さんが小走りに戻ってきて、知らせてくれました」

 その様子を思い浮かべていた僕の頭の隅っこを藤堂の言葉が掠めた。

「そういえば、そのとき、番場さんのお部屋は暖かかったですか?」

「あっ、そうなんです。番場さんのお部屋の暖房は切れていて、窓が開いていました。窓は兎も角として、お部屋が暖かいとご遺体が傷むのが早くなってしまいますから、私は近藤さんのお部屋の暖房を切りに行ったんです。少しでもご遺体を良い状態でご家族にお渡しできれば、と。では……誰かが番場さんのご遺体を先に見つけて、傷まないように暖房を切られたということでしょうか?」

「そこは……誰にどういう意図があったのかはわからないんですが、暖房が切れた部屋に番場さんのご遺体がずっとあったのならば、死亡推定時刻が少しズレるかもしれない、と藤堂が言っていたので」

 師長さんは「あら」と呟き、頷く。

少し考えるように白いものの混じった睫毛を瞬かせ、言葉を繋いだ。

「番場さんのお姿を鈴木さんと二人で確認してから、残りの方々のお部屋を一緒にラウンドして……松永さんが倒れて亡くなっているのも発見しました。その時に、わたしが松永さんのお部屋の暖房は消しました」

「それで僕に電話をくれたんですね」

「ええ。流石に、番場さんのご様子は普通ではありませんでしたしね。平野さんに警察と先生を呼んでくださるようにお願いしました」

 話し終えた師長さんは十ほど歳をとったように見えた。いつものキリッとして威圧感さえ感じるような師長さんではなく、年相応の疲れた老婆がそこにいた。

「長い看護師人生の終わり間際にこんなことがあるなんてねえ。先生」

 返す言葉を探して、僕は口ごもる。

 なんていえば良いのか、正解を見つけられずに、僕はただ、冬枯れの木立を見つめた。

僕たちは、そのまましばらく、言葉もなく立ち尽くしていた。





■二十二


「いやー。くろすけから遂に誘ってくれるなんて! 十二年の集大成! 飼い犬よりも懐かないくろすけが! ボルちゃん、俺ついにやったよ」

「大学時代は普通に誘ってただろ」

「そうでもなかったよ。くろすけは基本、ツンツンツン、だったもん。俺とボルちゃんは最高に仲良しだったのに。くろすけはなかなかハグもさせてくれないし」

「おまえのテンションがおかしいのは昔と変わらないけど」

 僕たちはソファに並んで座り、豚の生姜焼きをつついていた。メッセージを入れた時、ちょうど藤堂は解剖中で、結局、帰り道に回収された僕は、三日連続で藤堂の家に来ていた。

「それで、なにかわかったの〜?」

「手がかりに……なりそうなことと、それからおまえと一緒に考えてみようかと思って」

「やーん。もう、くろすけってば。ちょっと匂い嗅いでいい?」

「変態。触るな。今食事中だろ」

 藤堂の作った生姜焼きにはこれでもかというほど生姜がたっぷりと入っていて、食べている端から体が温まってくる。

 大皿に盛られた生姜焼きを口に放り込んで、炊き立てのごはんを噛み締めると、旨味が口の中に広がる。

「相談しなきゃならないことはふたつある。けれど、どっちも根拠はまだないから、世良さん達に確かめてもらわなきゃならないと思うんだけど……」

 僕はわかめの味噌汁を啜る。「豆にする? 麦にする? それとも、あ・た・し?」と馬鹿なことを言いながら藤堂が作った味噌汁は、鰹出汁に麦味噌、わかめと油揚げの入ったオーソドックスで少し懐かしい味がした。

「ひとつめは……」

 僕はコピーしてきた勤怠表を藤堂に手渡す。食事中に渡すのもどうかと思ったけれど、興味津々といった様子の藤堂に急かされたからだ。

 行儀悪く箸を咥えた藤堂は、それを片手でペラペラと捲る。

「あらまぁ〜。くろすけ、これ働きすぎじゃん? 仕事は週に三回までがちょうどいいと思うんだよね。俺」

「……それはどうかと思うけど」

「で、どうだったの〜?」

「防犯カメラが切られていた日に共通していたのは……」

 僕の説明に、ははーん、と頷き、少しばかり相手を小馬鹿にするように藤堂は眉を上げる。

「しかも、実はこの日、人魂を見たって騒いでいる入所者さんたちがいたんだ。しかも、この日にも多分……」

 僕は、ちづさんたち三婆が人魂を見た、と騒いでいた日と、安岡さんが一人で見たと云っていた日を指さす。

「どこで見たって?」

「……処置室の前を飛んでいたって」

「へぇ。普段はその部屋ってどうなっているの?」

「鍵がかかっていて閉め切られている。基本的に少し大きな処置が必要な怪我でもしない限りは使わない部屋だからね。何針も縫うような怪我をした時にはその部屋で少しだけ鎮静をかけてあげて、処置するんだ」

「なるほど」

 生姜焼きと千切りキャベツをまとめて箸で持ち上げた藤堂は、もう一度、ふぅん、と馬鹿にしたような声を上げた。

「俺わかっちゃったかも。あのさ、君の施設、お花畑が広がってたりする?」

「は? 中庭に小さな温室はあるし、テラスにもいつも花が置いてあるけど」

 ぶっ、と藤堂は吹き出し、ひとしきり笑い転げ、笑いすぎて息も絶え絶えになりながら、僕の頭をわしゃわしゃとかきまわした。

「ちょ、食事中にやめろよ」

「もう、くろすけが可愛すぎる。あー! 可愛いっ。ほら、あーんしてごらん。ボルちゃんにもよく食べさせてあげたなぁ」

 藤堂は生姜焼きを一切れつまむと僕の口元に持ってくる。こいつの思考回路にはついていけない。僕は藤堂を両手で押しのけ、断固拒否の姿勢を示す。

「自分で食べられるし、変なことをするな!」

「えー。ボルちゃんなら喜んで食べたのに」

「犬に生姜焼きはダメだろ……」

「え、そこ?」

 ようやくおとなしく食事に戻った藤堂は、もぐもぐ、と音がしそうなほどよく咀嚼し、喉仏が上下に動いて嚥下し、それからもう一度唸った。

「けど、そうすると、あの日カメラが動いていなかったのは、殺人事件とは無関係、っていうことになるねぇ」

なんのことだかよくわからないままの僕に藤堂は云った。「恋は盲目ってやつさ」と。僕はもう一度勤怠表に目を落とし、その意味をようやく理解した。



「それから、師長さんと事務の平野くんからも話を聞いてきたんだけど」

「お。くろすけ、やる気あるじゃーん」

 空っぽになった皿や茶碗を重ねてテーブルの端に置くと、藤堂は例の紙を取り出した。

 二人から聞いた話を要約して伝えると、藤堂は、ふん、とかなんとか適当な相槌を打ちながら最後まで僕の話を聞き、それから「あのさー」と気の抜けた声をあげた。

「もし、先刻の仮説が大当たりの大正解だったとすると、その日付が変わるあたりから師長が仮眠室から出てくるまでの間、君のところのスタッフの誰にもきちんとしたアリバイがないことになるんじゃない?」

「そうかも、しれない」

 除夜の鐘が鳴り終わる頃には、師長さんは仮眠室にいた、と云うけれど、それは本当のことだったのか。ちづさんと安岡さんは一緒にいたと云うけれど、それは嘘じゃないのか。鈴木さんと鴻池くんは? それから、自白をした宮内さんはいつ番場さんを殺したのか? 松永さんはいつまで生きていた? 何が、あった?

 一つの糸口が掴めれば、毛糸玉が解けていくように解けていくのかもしれない、と僕はどこかで期待していた。

「それから、おかしなことを聞いたんだ」

 松永さんの姪御さんから大晦日に電話が何度もかかってきていたこと、その内容が「甘酒を叔母に飲ませたか」と執拗に確認するものだったことを手短に伝えると、藤堂は再び鼻を鳴らした。

「それで、藤堂に聞きたかったんだ。解剖した時、胃内の食物残渣に甘酒は含まれていたのか?」

「うーん。難題だね。甘酒は米が原料だけど、発酵しているからねぇ。米だったであろうもの、が含まれてはいたから、甘酒だった可能性はあるかな〜。でも夕飯に米を食べていたとすると、肉眼では鑑別は難しいね」

「その甘酒になにか含まれていた可能性は?」

「叔母を毒殺しようとしたっていうこと? それは、あるかもしれないね。非力な女性が使う方法としては妥当だと思うよ」

「……そんなこと、するような人には見えなかったんだ。松永さんが亡くなったって電話したときも、すごく驚いていて……」

「それは演技じゃなく?」

「そんな風じゃなかった」

 松永さんが亡くなられたことを姪御さんに電話した時、彼女は酷く狼狽していた。言葉を失い、そのあと、意味をなさない言葉をいくつも繰り返し、それから号泣した。あれが演技だったとは僕には思えなかった。

「そんなもんかねぇ。でも、君はその甘酒に毒でも混ぜてあったんじゃないか、って疑ってるんでしょ? それって矛盾してるじゃん」

 藤堂の云うことは的を射ていた。

 姪御さんの動揺が仮に演技だったとしたら、とんだ名女優だけれど、あれが演技には見えなかった。けれど、その一方で、彼女には。

「でも、彼女には動機があるんだ」

「ふぅん。どんな?」

 僕の前に置かれた湯呑みに番茶が注がれると香ばしい匂いが立ち込めた。

「松永さんはもう三ヶ月も入所費用を滞納していて、身元引受人で保証人にもなっている姪御さんはその費用の納入を迫られていたんだ……うちの事務長から。トータルで……」

 指を立てておおよその金額を知らせると、藤堂は「おひゃぁ」と妙な声をあげた。

「松永さんは、退所に同意してくれなくて、そのことを姪御さんが苦にした可能性は否定できないと思う」

「なるほどねぇ。それでいっそ殺しちゃえーってことね。でも、あのお婆さんの死因は心筋梗塞だよ。覚醒剤は検出されたけど、毒物は……あっ!」

 ばっ、と身を起こした藤堂は、僕の肩を掴み、ゆっさゆっさと揺さぶった。

「くろすけ! ハガキだ!」

「ハガ……キ。……あのハガキ、か?」

「そうそうそう。もし、その姪が、殺すつもりじゃなく、松永っていうお婆さんが覚醒剤を使ったように見せかけたかっただけだとしたら?」

「どういう、こと?」

「そのまんまさ」

 藤堂は得意げに小鼻を膨らませると、片手を頬に当てた。

「姪はお金を払えない。だからといって、自分の家に引き取って介護をするのは無理……だったんじゃない?」

「うん……そうだ。姪御さんの家には子供も居て、大変だ、ってこのまえ涙ながらに訴えていた」

「どこかの施設に入れるにしたってお金はかかる。じゃあ、お金がかからなくて叔母を預かってくれる場所はないか」

「そんな場所ないよ」

「いーや。あるんだよね〜。一箇所だけ」

「宗教施設ってことか?」

 ち、ち、ち、と気取った仕草で藤堂が立てた人差し指を振ってみせる。

「そんなとこに入れって云われて『はい、わかりました』って云うことを聞くような人じゃなかったんでしょ?」

「……うん」

「本人が拒否しても有無を言わさずに入れることができる場所。……覚醒剤を使ったら、入れられる場所」

 僕は思わず目を見開き、藤堂を見つめ返した。

「……そうか……。警察……」

 僕の呟きに藤堂は頷く。

「そう。警察に逮捕されれば、施設代も……なんなら、医療が必要になった時の医療費も無料になるじゃん!」

「なる……ほど。じゃあその甘酒には覚醒剤が混ぜてあったってことか?」

「その可能性があるんじゃなーい? 明日、胃内容物の覚醒剤検査を出してみる」

「でも、松永さんの死因は心筋梗塞じゃないのか?」

「うん。そうだよ。つまり……あのお婆さんが死んだのは偶発的なものだった(・・・・・・・・・)可能性があるってことさ」

 そこで一旦言葉を区切ると、光の加減で見えていなかった眼鏡の奥の瞳と目が合う。藤堂の目は獲物を見つけた猟犬のように楽しげに輝き、僕と目が合うとにっこりと笑った。

「アンフェタミンは冠動脈の攣縮を誘引することがあるんだよ。元々冠動脈にステントが入っていて、狭窄もあった人でしょう? そこに冠動脈の攣縮が起きれば、致死的な心筋梗塞を起こしてもおかしくはないじゃん。つまり予期せぬ死だったんじゃない?」

「予期せぬ、死」

 僕は、藤堂の言葉を口の中で繰り返してみた。氷みたいに冷やりとした言葉だ。

 あの姪御さんは、殺すつもりまではなかった、それが死んでしまった……それであんなに焦っていた、と云うのか。

 けれどそれは、とても筋の通った説明で、僕は「なるほど」と小さく呟いた。

「じゃあ、それならなんで、ハガキは施設に送られてきたんだ? 警察に電話でもしたほうが確実じゃないのか? だって、今回、たまたま松永さんと近藤さんと番場さんがいちどきに亡くなったから、雪の園には警察がやってきたけれど、そうじゃなかったら、あんなハガキ一枚、たちの悪いイタズラとして処理してしまっていたかもしれない」

 ポップな絵柄の年賀状と気色の悪い文章を思い出しながら、もしこんな状況の時に届いていたのではなければ自分はどうしただろうか、と考えてみる。わざわざ警察に知らせただろうか? 答えは否だ。わざわざ入所者たちを疑ってかかるようなことなんて、きっとしない。そう伝えると、藤堂は唇を尖らせた。

「君が今云ったんじゃん。『そんなことをするような人じゃない』って。つまり、彼女は、叔母が死んでしまうなんて想定外だった。死ぬかもしれない、っていう可能性にさえ考えの及ばない、浅はかで愚かな人間だったってことさ。そして、相手を殺してしまうことにも考えが及んでいないから、殺す覚悟もない。自分が通報することで叔母が捕まる、という責任を負う覚悟ももちろんない。ズルくて小賢しいから、施設に責任を転嫁したのさ。通報するかしないか、っていうね。はー。愚かで醜い。醜いよ」

「……それは言い過ぎじゃないか? 彼女は叔母の面倒をずっと見てきた優しい人だぞ」

「優しい? 優しいんじゃなくて、それは拒否する勇気がなかっただけだ。もしくは偽善だ。人に施したつもり、人に優しくしたつもり、それっていいことしてる〜っていう自己満足で気持ちがいいからね! 自分が責任という重さを背負わなければ、いくらだって優しいふりなんてできる」

「藤堂! おまえは彼女のことなんて何も知らないだろ」

「そうだよ。これはあくまで一般論さ。もしかしたら、彼女はそこまでの計算さえできないほどに愚かで優しさを搾取されていただけかもしれない。でもいずれにせよ、愚かだ。叔母がいつか重荷になる可能性を考えなかったことも、覚醒剤で人が死ぬかもしれないと考えなかったことも、施設にハガキを送るなんて中途半端なことをしたことも。どれもが『優しさ』なんてものを隠れ蓑にした卑怯で愚かな人間のやることだ」

 藤堂は、呆れたように手をひらひらと振る。こいつの云うことはおそらくほとんど真実に近しいのだろう。

 僕はいたたまれなさに俯く。

 疲れ切った姪御さんの横顔を思い出す。叔母の面倒を見てきた彼女は、決して愚かなだけじゃない。確かに、先々、さまざまな問題が生じることまで考えていなかったのかもしれない。でも、そんなことにまであらかじめ考えが及んでいる人が果たしてどれくらいいるんだろう。僕にはできなかった。藤堂のように、彼女を愚かだと、卑怯者だと断じることは。

 俯いた僕の頭を藤堂がぐしゃぐしゃと撫で回す。僕は抵抗する気力もなく、ただあの優しい……と今までは思っていたその人のことを思い出していた。藤堂は、クンクンと人の後頭部の匂いを嗅いで、満足したように大きくひとつ息を吐き出した。

「明日、俺たちのこの仮説を世良さんに伝えよう。裏付けは警察にしてもらおう。そこはプロの仕事、だね!」






■二十三


 翌日。それは僕にとって酷い厄日になった。

 藤堂に送ってもらい施設に到着すると、待ち構えていた様子の平野くんが飛び出してきた。

「せ、先生〜」

「あ、おはよう。平野くん」

「やっと来てくれたっスね。もう、俺、泣きそうでした」

「なにかあったの?」

「それが……」

 平野くんに伴われて中に入ると、香水のきつい匂いが立ち込めていた。眉を顰め、ロビーの脇、大きな鉢植えの向こうに置かれたソファーに目をやると、けばけばしい原色の花柄が垣間見えた。

「あれは?」

「番場さんの娘さんらしいっス」

 僕たちの気配に気づいた様子で、目に優しくない色柄がスッと立ち上がり、こちらを向いた。

「この、人殺し!」

 向くと同時に、甲高い声が一階全体に響き渡った。

「も、もう、来られてからずっと、あの調子なんです」

 かつかつかつ、とヒールを鳴らし、五十代半ばだろう女性が僕たちのもとへ歩み寄る。

「父が殺されたってどう云うこと? なんのために高い金払ってこんなとこに入れてたと思ってるのよ!」

 僕は唖然としてその女性を眺めた。

「父はね、Z大学の教授まで勤めた立派な人間なのに、その父が殺された? 施設の管理体制はどうなってるの? 訴えてやる。施設の管理責任者はあんた?」

 女性の剣幕に平野くんはコソコソと事務室に隠れる。僕は逃げるわけにも行かないし、極力、平静を装って彼女を見つめ返した。

「はい。管理責任者ではありませんが、施設長は僕です。医療面での管理は僕が行っていました。このたびは大変なことになり、大変申し訳なく……」

 彼女は舐めるように僕を見て、鼻で嗤った。

「こんな若造が施設長?」

「入所される際にお会いしていると思いますが」

「私が居れば、こんなところに父を預けなかったわ! 私は普段アメリカに居るの。だから、弟夫婦に父のことは任せていたのに。弟の嫁が、自分で面倒を見たくないからって、こんな施設に父を入れたのよ。あんたは、入所者の家族の顔もわからないわけ? 父が入るときについてきたのは義妹」

 罵られても仕方のないことだが、滅多に面会に来られない患者さんのご家族の顔までは覚えていない、と云うのが本当のところだった。番場さんのご家族は、入所されてから誰も、一度も来られていなくて、今回も事件のことを電話して、初めて来られたのがこの方、と云うことになる。

「申し訳ありません」

「申し訳ってねえ、その頭は同じ言葉を繰り返すしか能がないの?」

 彼女はそう云って僕の頭を小突く。突然のことにふらつく僕を更に二度、三度と小突き、僕は尻餅をついた。それを見て、女はケラケラと可笑しそうに笑う。

「そのまま土下座なさい。父が殺されたのはこの施設のせいでしょう。ほら、早く」

「致しかねます」

 僕は立ち上がり、娘さんを見つめた。大切な家族が殺された、それは取り乱してもおかしくないことだとは思う。けれど……。

「亡くなられたことは非常にお気の毒だと思います。施設の管理責任を問われるような死因だったことも否めません。その点については、深くお詫び申し上げます」

「そんな、形式上のお詫びなんて、いくらもらったって仕方ないのよ! 父を、父を返しなさいよ!」

 叫んだ女はそのまま僕に掴みかかる。長い爪には華やかなネイルアートが施されていた。ワイシャツの襟元を両手で掴み、僕の体を揺さぶると、女は僕を突き飛ばす。僕はもう一度、みっともなく尻餅をつく。その僕をハイヒールのつま先が蹴る。

「ほら! 早く! そこで地面に頭をついて、申し訳ありませんでした、って謝りなさいよ。この人殺し。父を返してよ」

 座り込んだまま唇を噛み締めると血の味がした。突き飛ばされた拍子に口の中が切れたようだ。悔しさとどうしようもなく理不尽な気持ちで胃が締め付けられるように痛い。

 彼女の憤る気持ちは理解できなくはない。どんな患者だったにせよ、彼女にとっては大切な家族だ。それを突然失った。それも殺されて。そのことを嘆き、悲しむ気持ちは理解できる。

けれど、自分はアメリカに居て、弟夫婦に面倒を見させていたって? そんな責任は全部他人に押し付けて、そのうえでこんな仕打ちをする権利がどこにある?

 やり場のない怒りが込み上げる。

 埃を払い立ち上がろうとした僕の腕をひょろ長い影が手を伸ばし、支えた。

「……藤堂?」

 名を呼ぶ僕の声に答えず、いつもの明るさのかけらもない藤堂の低い声が静かにけれどはっきりとした意思を持って女性に呼びかけた。

「あのさー。おばはん」

「ちょ、やめろ」

 藤堂は仁王立ちになり、番場さんの娘を名乗る女性を見下ろしていた。

「あんた誰よ」

「藤堂要だっ。人に名前を聞くなら自分が名乗るのが筋だろ。アメリカ人は名乗らないのか? 中学の英語の教科書に『hi,Jane.How are you? I am Tom.』なんて書いてあるのは、あれは嘘か」

「はぁ? なんなのこいつ。頭おかしいんじゃないの?」

 そこには幾分同意するが、どっちもどっちだろう。突然乱入してきた藤堂を、僕は唖然と見つめていた。

「ちょっと、あんた関係ないんだからどっかに消えなさいよ」

 彼女の怒りの矛先が藤堂に向かいかけた時、藤堂は「ひとつ」と唐突によく通る声で云った。

「俺はあんたの父親の解剖を担当した監察医だ。関係は、ある!」

「解剖ですって?」

 女の眦が更に釣り上がり鬼女の相を呈する。

「人の父親に……なんてことを……!」

 掴みかかる手を払い除けた藤堂は、いつになく厳しい口調で続ける。

「犯罪性のある異状死体は解剖に付す必要がある。なんで死んだのか、どんな生き様だったのか。殺されたのであれば、なんでどうしてどんな風に死ななければならなかったのか。犯人は誰なのか。それが、その人の人生の最後にしてやることのできることだ。あんただって知りたくないか? 自分の父親がなんで死んだのか、どうして殺されたのか、どんなふうに死んだのか。たくさんの人間が、あんたの父親のために、今も必死で捜査を続けてる。あんたが、アメリカで正月を満喫してから帰ってくるまでの間も、ずーっと警察もこいつも俺も、調べ続けてる」

「私はそんなこと許可してないわよッ」

「当然だ! あんたはいなかった。あんたはあの人の家族かもしれないけど、一番の家族じゃない。一番のご家族……あんたがこの施設に入るときにキーパーソンにした弟さんとその奥さんには承諾ももらってる。ま、司法解剖の場合、法的義務があるから、承諾の有無は必要ないけどねっ」

 監察医を睨みつけ、更に言い募ろうとする番場さんの娘に先んじて、藤堂の凛とした声が「ふたつ」と畳みかける。

「自分で面倒見てたわけじゃないのに、やれ弟の嫁のせいだ、施設のせいだ、っておまえ、ただのクレーマーか。アメリカかぶれでなんでも訴訟で金に換えるってやつか? ふざけんなよ。ここにいるくろすけは、馬鹿が着くほど一生懸命、患者のこと考えて、考えて、考えすぎてちょっと壊れちゃったんだぞ! おまえみたいに親が死ぬまでなんにもしないで、いざ死んでしまったら口だけ出すようなやつと大違いなんだからな!」

 彼女は文字通り。怒りに体までも震わせている。藤堂を指さし、突然高笑いを響かせた。

「侮辱罪で訴えてやる。国際弁護士を手配して、あんたなんかが一生かかっても払い切れないくらいの賠償金を請求してやるわ」

「どうぞご自由に。俺はあんたを名誉毀損で訴えてやる。俺とこいつに対しての。ああ、あとこの施設に対してのもだ。あ、あと俺のくろすけを先刻殴ったり蹴ったりしたな! 俺、見たんだからな。暴行罪もおまけしてやる」

 こいつ、と僕を指差して、その指先で丸眼鏡をずり上げた藤堂は偉そうに言い放つ。

「人間は動物だから、いつか必ず死ぬ。死がその人間の人生にピリオドを打つんだ。打たれたピリオドは覆らない。二度と生き返らない。だから、俺たちは生きてる間に、大切な人間ならば、その人に対して精一杯のことをする。愛したり。慈しんだり。一緒に出かけたり、飯食ったり、喧嘩したり、笑ったり。死んだら二度とそんなことできないからな」

 怒りのあまり顔を赤くし……それがファンデーション越しにもわかるほどに……彼女は叫んだ。

「あんたなんかになにがわかるのよ? 私だって父さんと一緒にいられるならば、そうしたわよ! でも、夫がアメリカに転勤になったんだから、ついていくしかないじゃない。人の家の事情を知らないくせに、知ったような口を聞くんじゃないわ。若造が!」

「今度は旦那のせいかよ! じゃあ、あんた、あの爺さんが急に死ななかったら今日帰ってきたか? アメリカに行ってから、爺さんが生きてる間に何回会いに来た? 施設に入るときも来なかったんだろ? 施設に入ってから何回来た? え?」

「と、藤堂。もうやめろよ。人にはそれぞれ事情が……」

「そうよ! あんた他人のくせに、人の家の事情に口を挟むんじゃないわよ」

「くろすけ、君は黙ってろ」

 止めに入ろうとした僕は逆に藤堂の勢いに気圧され唇からこぼれかけた言葉を飲み込む。

「俺は、ある日帰ったら親父が死んでた。おふくろもいなくなってた。だから、会えるときに会おうともしない、自分の都合ばっか主張するあんたみたいな奴が許せない。俺だってそうだったからな」

 フンと鼻を鳴らすも、藤堂の瞳は微かに淋しげで、僕は毒気が抜かれた。

「また会える、今度でいい、そうやって会いにこなかった自分の負い目を他人のせいにすんな! おばはん! 少なくとも、俺は、後悔してる。でも、それは自分のせい! 俺のせい! 他人の所為じゃない。いい年してんだから、それくらい理解しろ」

 言い方は兎も角、藤堂の正しすぎるほど正しい言葉に番場さんの娘は口籠る。それから、藤堂、僕、と順に憎しみのこもった眼差しで見つめて、なにか言おうと開きかけた唇を閉じた。

 その様子をじっと見つめる藤堂の静かで冷たい横顔は、僕の知らない他人のようだった。





■二十四


「ちょっと、世良さん。席変わって〜」

「いや、おまえはそこにいろ。僕の近くに来るな」

「と、藤堂先生。押さないでください」

「やだやだやだやだ。俺、くろすけにかまいまくりたい! もー。ストレスマッハなんだから。くろすけ、こっちおいで」

「世良さん、そいつ追い出してください」

 僕、世良刑事、ミシュランくん(あまりにもミシュランのマスコットに似ていて名前は失念した)、藤堂。大人の男四人が入ると僕の施設長室は満員御礼、といった様相だった。

 朝一番に襲来した災難は一時間ほどで撤退した。藤堂はああは云ってくれたけれど、正直、施設の入所者があんな形で亡くなったことに、僕は一抹の責任を感じていたから、ああして詰られるのはたいそうこたえた。

 午後からは、昨夜、僕たちが立てた仮説とそれから世良達が持ち込んだ最新情報を話し合う約束を藤堂が取り付けていたため、午後には世良とミシュラン刑事の二人がやってきた。

 世良さんは口の端が切れ、ほんのり青紫になって腫れている僕を見て、予想外に驚いていた。ことの顛末を話すと「いやー、厄介ですね。それは」と憐れむような眼差しで深く頷いた。

 藤堂は朝の一件の後、僕を慮ってか、僕の後をずっとついて歩いていた。邪魔だから世良さんたちが来るまで施設長室にいろ、と云っても聞かず、仕方なく、僕が施設長室に引きこもることにした。

 キャスターのついた回転する椅子に陣取った藤堂はその場でぐるぐると回って遊んでいたが、数分もすると「気持ち悪い」と三半規管の弱さを露呈する。

「ええと、藤堂先生から耳寄りなお話を伺えると聞いたんですがね」

 挨拶もそこそこに、世良が話の口火を切った。紙コップに入った自販機のコーヒーを手渡すと、一口、口をつけて、不味いな、と文句を言う。

「耳寄り、かどうかはわからないんですけれど、少し調べていただきたいことがあって」

「まぁ、まずはお話を伺いましょうかね」

 昨夜、藤堂と立てた仮説を詳らかにすると、世良は興味を示してみせた。

「しかし、警察を無料の宿泊所みたいに思われてるのはたまったもんじゃぁねえなぁ」

 不味いと言った割に、一息にコーヒーを飲み干すと、世良は紙コップをぐしゃりと手の中で潰した。

「でも、実際に、冬場には軽犯罪で捕まって留置所に入ろうとする人も、いますよ。ね? 世良さん」

 黙ってノートにメモを取っていたミシュラン刑事が体の大きさとはうらはらの小声でコメントする。

「そんな人、いるんですね」

 普通、警察に捕まるなんて人生の中で避けたいことベストテンに入るだろうに、自ら望んで行う人がいることに僕は衝撃を受ける。一時停止違反で張り込んでいた警察に捕まって罰金を払わされるのでさえ、胃がムカムカするくらい嫌なのに。わざわざ留置所に入りたいと思うなんて。

 隣に座った世良が溜息混じりに続けた。

「おー。いるよ。住む場所もねぇような人間にとっては、雨風しのげる場所ってなぁ、それだけで貴重だからな」

 僕はいままで、住む場所やその日の食事のことを心配したことはなかったから、世良の言葉がずしりと重たく感じた。

「こんなきれいなところで、毎日楽しく暮らせる人間ばかりじゃねぇってこったな。それで、俺たちはその覚醒剤の出どころをあたればいいんだな? 藤堂先生」

 キィキィと金属音を鳴らし、椅子の背もたれに体を預けていた藤堂はそのままの姿勢で笑みを浮かべる。

「うん! 正解! さっすが、世良さん。ツーと云えば、カキクケコ全部くらい伝わってる! あ、ちなみに胃内容物の追加検査は出してあるから。明日には結果がわかるはず〜」

「じゃあその、クロマトの結果が出たら動きますわ。榊先生。その姪って人の名前やら住所やら後で流してくださいよ」

 僕は頷く。

「その姪って奴もヤクをやってる可能性はあるんですかい?」

 そんなことはないと思う、と言いかけて僕は「あっ」と声を上げてしまう。

「あるかも……しれません。先日聞かれたときにはそんなこと思いもしていなかったので……。十二月の面談の時、寒かったのに、滴るくらいの汗をかいていました……そういえば」

 僕は馬鹿だ。なんでこんな大切なことを思い出さなかったんだろう。

「すいません……完全に、失念していました」

 謝る僕に、世良は手を振る。

「いや、疑わしいと思ってない時はそんなもんでしょう。医者の仕事だってそうでしょう? パッと入ってきた人を見ただけで病気かそうじゃねぇかわかるもんじゃないでしょうよ」

「……はい」

 よりにもよって、そんな機微には疎そうな世良から慰められ、僕は尚更落ち込む。

「そーそー。そんなことばっーっかり気にしてたらハゲちゃうぞ!」

 椅子に凭れかかっていた藤堂が話を混ぜっ返す。

「黙れ。藤堂」

「だってー。俺、暇なんだもん」

「じゃあ帰れよ」

「やだ」

 子供か! と言いたくなるような駄々を捏ねる監察医を横目に僕はもう一つの懸案事項を口に上らせる。

「それから、防犯カメラの件なんですが……」

 こちらも昨夜、僕と藤堂で話し合った推論を伝えると、世良は「はぁー」と呆れたように溜息をついた。

「しょうもねぇことやってんなぁ。なにやってんですかねえ」

「いえ……でも、まだ推測なんです。それを確かめるのに、警察のご協力をお願いしたくて」

「いやいや、勿論です。そいつぁ、警察の仕事ですからね。こっちより先にそこまで調べられただけでも、お恥ずかしい話ですわ」

 僕はコピーした勤怠表を世良に手渡す。

「……すいません。こんなことをお願いして」

「いやぁ、そりゃあ先生からは聞きにくいでしょうよ」

「恐縮です。それから、もう一点、調べていただきたいことがあるんです」

 僕が目配せすると、プラスティックの玩具ほどの薄っぺらい明るさで藤堂が会話に割り込んできた。

「はいはーい! これは俺が説明するね!」

「先生のお願いはややこしいことが多いからなあ」

 なぁ、と同意を求められたミシュラン刑事は「そんなこと言えませんよぉ」と小声で抗議する。ミシュラン刑事の脇腹をつつき「可愛いこと云ってくれるじゃーん」と笑いかけた藤堂は、ひょいと足を組み、笑みを消した。

「世良さんたちには解剖の時にも伝えたけど、亡くなっていたお爺さん。死因は頭部外傷による脳挫傷、クモ膜下出血、硬膜下出血でいいと思うんだけどね、いっぱい切られてたでしょ。で、宮内さん? だっけ? 自白した人がいるっていうじゃん。その人の職歴とか詳しく調べて欲しいんだ〜」

「でも、先生。あの宮内って爺さんが、もうひとりの爺さんを殴り殺すのは無理じゃねぇか、ってこのまえ話してたじゃないですか」

「うん。だから、遺体損壊のほうね。無抵抗な相手を切ることは可能っぽいし。だよね? くろすけ」

 丸メガネの奥で目を細めた監察医は明るい口調で続ける。けれど、その奥にある隠しきれない冷たさに僕の心はざわつく。

「知識がないと、あんなにきっちりと動脈のある位置を切ることはできないと思うんだよね〜。医療従事者かあとは、そうだなー。血管の走行がわかってそうなお仕事? あ、ゴルゴとか。ダブルオーセブンとか」

 よろしくねー、と軽やかな口調で続けて、藤堂は口角を上げてみせた。

 藤堂がこんな風なのは今に始まった事ではない様子で、世良たちは藤堂の軽口をさらりと受け流す。

「それでしたら、こちらからもひとつ……」

 世良がミシュラン刑事に目配せすると、ミシュラン刑事が一枚の紙切れをノートの間から取り出した。僕は差し出された紙を覗き込み、藤堂に手渡す。

「番場氏の遺体の下に落ちていた髪の毛の分析結果ですよ。ハゲてる爺さんの部屋に長い髪がかなりの量落ちてたもんで、気になりましてね」

「抜け毛の季節でも、抜けるものがないもんね〜。あの頭だと」

 茶々を入れる藤堂から紙を奪い返して、世良に返す。

「僕たちも出入りしているので、番場さん以外の髪の毛が出てもおかしくはないと思いますが」

「いや、それがね。ここ見てくださいよ。ここ」

 世良は拡大された毛髪の写真の根本を指差す。毛髪の根本には白くぷっくりとした膨らみがある。

「先生方はご存知だと思いますがね、これ。毛根がついてるでしょ。こんな髪の毛が何本も落ちてたんですわ。髪の毛を引っ張りでもしなきゃ、こんな風にはなりゃあしません。番場氏と犯人が揉み合った際に抜けた可能性があるってぇことになると思うんですわ」

「なるほど」

 流石、餅は餅屋、といったところか。僕は素直に感心する。

「で、この髪の毛なんですが……この施設では、患者同士で他の部屋と行き来することはあるんですかい?」

「人によっては」

「うーん。それじゃあ、証拠にできるかはわかんねぇってことですねえ」

 世良は紙片を持ち上げて、まじまじと眺め、首を傾げた。黒縁の分厚い瓶底メガネのレンズは今日も汚れていて、世良の表情を隠している。

「誰の、髪の毛だったんですか?」

「ああ、こいつは」

 僕は告げられた名前に目を見開いた。



 それから、僕たちは番場さんの部屋へ向かった。「気になることがある」と藤堂が主張したためだ。部屋の前には相変わらず立ち入り禁止のテープが貼られ、制服を着た若い警察官が立っている。

 世良、ミシュラン刑事、藤堂、僕……と、四人で連れ立って歩いているのを目ざとく見つけたちづさんと安岡さんが、「カナメちゃーん。クロちゃーん」とテラスから手を振る。

「藤堂先生、カナメちゃんって言うんですかい」

「そぉよー。いつも検案書にも報告書にも名前書いてあるでしょー」

「そんなとこまで見てやしませんて」

 引き戸をスライドさせると、やけにガタついて、引っ掛かるような手応えがした。

「このドア、建て付け悪いよね。リフォームした方がいいよ」

「……どっちにしろ、この部屋を今後どうするかも考えなきゃならないだろ」

 手袋をした手で電気のスイッチを入れると、あの日のまま保存されている部屋が嫌でも目に入った。すえたような臭いが鼻をついた。

 番場さんの倒れていた位置にはまだ黒ずんだ血液の染みが残り、そこにテレビで見るような人の形をかたどった線が引かれている。人の形は頭がドア側、足が窓側になっていて、僕はあの朝の光景をうっかり思い出しそうになった。そして、その体があったと思われる血液で汚染されていない場所に、世良さんの云っていた髪の毛が落ちていたのだろう。番号の書かれたテープが何枚か貼られている。

 それらを踏まないようにして室内に入ると、僕は改めて部屋をぐるりと見回した。

 入って右側の壁には直径二十センチほどの歪な赤黒い塊から波打った線が長短合わせて二十〜三十本ほど外に向かって伸びていた。

 子供の背丈ほどの高さに描かれたそれは、その拙い筆致と合間って酷く不気味な印象を与える。

 床の変色した血液と同程度に変色していて、おそらく、遺体から流れ出た血液で描かれたもののようだった。

「髪の毛は、ここに、落ちてました」

 案の定、世良は人型に縁取られたテープの中に貼られた番号札を指さす。

「全部拾って行かれたんですか?」

「そりゃあねぇ。手がかりになりそうなものはちゃんと調べるのが警察ですしねえ」

 室内にはあちこちに白っぽい粉の跡が残り、壁の不気味な落書きにもそれらしい跡が散見された。

「この壁の絵はやっぱり……」

「ああ、それねぇ。ダイインングメッセージってやつなんですかね。被害者の血液でしたよ。調べたところ」

「……ですよ、ね」

 子供の落書きのような拙さが、むしろ不気味で、僕はそこから目を逸らす。そんな僕の頭越しに、藤堂が「えー」と素っ頓狂な声を上げた。

「ダイイングメッセージなはずないじゃん。世良さん、俺が云ったこと忘れちゃったの?」

 世良は汚れた黒縁眼鏡の奥の目を瞬かせた。

「あのお爺さん、頭部外傷で死んでるんだよ。

死んでから血管を切断されてる(・・・・・・・・・・・・・・・)んだから、自分でその落書きをできるはずないじゃん」

「ああ、そうか。そりゃあそうですね。じゃあ、これは犯人からのメッセージってやつですか?」

「さあ? それはわかんないけど、あのお爺さんの血で描かれていたなら、どう考えたって、あのお爺さんが死んだ後でしょ」

 藤堂は子供のように唇を尖らせ、壁の絵を顎で示して見せる。僕は、思いついた可能性を問いかけた。

「……頭からの出血が先にあって、それで描いたってことは、ないの?」

「ないと思うよ。あれだけの頭の損傷を負った人が起き上がって自分の血液を手につけて、そんなものを描けると思う? ゾンビじゃないんだからさー」

 誰が、なんのために。

 ここでもまた、僕は最初の問いを繰り返す。

 壁の赤黒い模様の端にも番号札が何枚か貼られていることに気づき、僕はそれを指さす。

「これは、なにか見つかったんですか?」

「ああ。それね。先生、これ、どうやって描かれてたと思います?」

 僕のイメージの中では、顔のない犯人が、手についた血液を壁に擦りつける様が浮かんでいた。その通り世良に伝えると、世良は鼻で笑う。

「まぁ、二時間ドラマのイメージで行くとそうなりますわねぇ。ですが、違うんですわ。わたしらもね、指紋でも出ねぇかと調べてみたんですが、出てきたのはトイレットペーパーの破片だったんですわ」

「へぇ〜。じゃあ、これってトイレットペーパーアートなんだ〜」

 呑気な藤堂の台詞に、アートではないだろう、と心の中でそっと呟いて僕は首を捻る。

「じゃあ、この絵は、トイレットペーパーに血液を染み込ませて、それを擦り付けて描いた、ってことですか?」

「そう考えています」

「そのトイレットペーパーは?」

 世良は無言で部屋を入ってすぐのドアを指差した。各部屋に備え付けられた障害者用トイレだ。つまり。

「見つかってねぇってことは、描いたやつが流したってことでしょう」

「なんで……こんなものを描いたんでしょうね」

「さあ……そいつはさっぱり」

 手袋をはめた手を頬に当てた藤堂は、指先で頬をゆっくりと叩き、何やら思案している。

「そういえば、そこの扉、すっごい建て付け悪いけど。高級施設なのにそんなやっすい作りなの?」

「違うよ。このドアは開け閉めの時に音が出ず、障害のある人でも楽に動かせるように動きもスムースにできているんだ……けど」

「ねー。世良さん。そこのドア、一回閉めてみてよ」

 ギギギ、と音を立てながら、世良がドアを閉めるのを、監察医は丸眼鏡の奥の瞳を細めじっと見つめる。

「ねぇ。凶器って見つかったの?」

 肩をすくめて見せる世良に、藤堂が指をさした。

「それ、凶器じゃない?」





■二十五


 二日後。

すっかり顔馴染みになってしまった世良とミシュラン刑事が『雪の園』にやって来た。ほんの一週間前には、いけ好かない中年、でしかなかった世良が、今では頼もしい友人とすら思えてしまうことが不思議だった。とはいえ、やっぱり世良はどこまで行っても、無愛想で、口を開いて出てくる言葉はぶっきらぼうだったけれど。

 藤堂は今日も当たり前のような顔をして警察に着いてきたけれど、彼を見ても僕の胃は痛まなくなった。僕にとって、藤堂に投げつけた古い暴言は、僕自身に突き刺さって抜けない棘だった。それをまさか当事者の藤堂に抜かれるなんて思いもしなかった。尤も、まだなにもなかったかのように振る舞うなんてできなくて、でもそれは、以前の僕が抱えていた屈折した自己嫌悪や罪悪感とは違うもので、ほんの少しの照れと恥ずかしさがそうさせているだけで。

 僕は三人とともに二階のテラスに向かう。

 ガラス張りのテラスにはやわらかな陽射しが落ち、教会のような清らかさが漂っていた。

 藤堂と僕の姿を目ざとく見つけたちづさんが笑いながら手を振っている。テーブルには白衣姿の鈴木さんと師長さん、それに鴻池君、平野くん。車椅子に乗った宮内さん、と並んでいた。

「なんだい。クロちゃん。またそんな冴えない顔しちゃって」

 これから訪れる時間を思うと自然と沈む心を見透かされ、僕は無理矢理笑顔を作る。そんな僕に師長さんが静かに微笑んだ。師長さんは怪我でもしたのか、左腕に包帯を巻いていた。

「あー。すんませんね。お時間をとってしまって」

「興奮させたくありませんので、山口さんと安岡さんにはお部屋に居てもらっています」

 師長さんの言葉に「かまいません」と世良は答え、隣のテーブルに腰をすえた。少し離れた位置から揃っている面々をぐるりと見回し、世良はもう一度「あー」と声を張った。

「今日は、あんたさん方に確認したい事実関係がありまして、集まってもらいました」

 緊張した面持ちで鈴木さんがこくんと小さく頷くのが見えた。横に腰掛けた鴻池くんは不機嫌そうにそっぽを向いている。

「まずは、時系列に沿って行かにゃあならんと思うんですが、そのまえに、今回どうして防犯カメラが切られていたのか。そこから話してもらいましょうか」

 ほれ、と小突かれたミシュラン刑事が立ち上がると「ええと」と聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟く。

「おい、五反田。聞こえねーだろう。その図体に見合った声で話せよ」

 横から世良の大声が割り込む。ミシュランのマスコットに似た刑事は「はぃいい」と大声で答え、その勢いで続けた。

「以前にも防犯カメラが切られていたことがあったということで、こちらの榊先生にご協力いただき、切られていたタイミングの共通点を調べていただきました。えー。この件に関して、榊先生からご説明いただきます」

「あ、はい」

 僕が立ち上がろうとすると、隣で宙空をぼんやりと見つめていた藤堂が立ち上がった。驚く僕を椅子に座らせ、藤堂は小さなあくびを一つして喋り始めた。

「どーも。くろすけはヘタレだから、俺が代わりに説明するね! だって、身内の恥を指摘するのってしたくないでしょ。というわけで、俺、藤堂要。よろしくね」

 鴻池君は藤堂を値踏みするような目でみつめ、平野君は興味津々といった様子で藤堂を見つめている。

「まず、防犯カメラを切ったのは、君と、君だよね?」

 君、と藤堂は鴻池君を指差し、次いで、鈴木さんを指差す。鈴木さんは俯き、視線を逸らし、鴻池君は憎しみのこもった眼差しで藤堂を睨みつけた。

「は? そんなことしてねーし。証拠は?」

「うわぁ。云うと思った! すごいね! 本当にそんなこと云うんだね〜。テレビみたいだね」

 くすくすっと笑った藤堂は、ミシュラン刑事の差し出した書類をかざす。

「ええと、防犯カメラのスイッチには君の指紋が着いていた」

「そんなもの、ここで勤務してるんだから、着いたっておかしくないだろう」

「うんうん、そうね」

 藤堂はなおも笑顔を崩さず、言葉を重ねる。

「それだけのことで、人を犯人扱いするんですかねえ? 医者ってそんなに偉いの?」

「残念! そこは関係ない! 偉くても偉くなくても、事実は事実。そんでもって、医者は別に偉くないけど、俺はえらい」

 書類をもう一枚めくると、写真とその下に細かい文字がぎっしりと並んでいた。

「はい! これ〜。なにかわかる?」

「なにって……」

「俺が云っちゃってもいいの?」

 かわいらしく小首を傾げると、天然パーマの髪の毛がふわりと揺れた。

「ね、いい? 鈴木さん」

「えっ……」

 突然名前を呼ばれた鈴木さんは青ざめた顔で藤堂を見上げた。

「これは、処置室のゴミ箱にあったティッシュだよ。これを調べてもらったところ」

「や、やめてください」

 鈴木さんの悲鳴にも似た声が藤堂の言葉を遮った。

「わかりました。云います。自分で云いますから」

 椅子が音を立てて倒れた。

 立ち上がった鈴木さんは胸の前で手を組み合わせ、祈るような仕草をする。

「私……私と鴻池君と……」

「おい! さな」

横に座った鴻池君が非難がましい声をあげる。

「だって、もうバレちゃってるよ」

「認めなきゃいい話だろ! そんなもん」

「そんなわけないじゃない」

 藤堂は冷ややかな眼差しで鴻池君を見、ツカツカと歩み寄ると鴻池君の座っている椅子を蹴り飛ばした。

「おい! 君。君、体はでかいのにちっちゃい男だな。こういうとき、彼女を庇うのが男じゃないの? みっともないなぁ」

 もう一度、ゴツン、と藤堂のブーツが椅子にぶつかる音がする。

「女の子の方がよほど恥ずかしいだろうに、それを我慢して云おうとしてんのに、なのに、君はなんなの?」

「はぁ? うっせえよ、ヤブ医者」

「残念でした〜。俺はね、死んだ人間しか見ないから藪かそうじゃないかなんて超越してんだもんね!」

 偉そうに胸を張る藤堂に鴻池君が拳を振りかざしたとき、鈴木さんのか細い声が「私たちです」と呟いた。

「私たちが……私と鴻池君が、防犯カメラの電源を切りました」

「さな! おまえなあ。俺は関係ない。おまえが切ったんだろ!」

 振り下ろしかけた拳を握りしめたまま、鴻池君は鈴木さんに縋って、体を揺さぶる。

 ……情けない。

 思わずため息が零れた。

 藤堂は躊躇いがちに周りを見回しているミシュランのマスコットに似た刑事を指名した。

「五反田君、ちょっとその人どうにかしてよ。俺、暴力はそんなに好きじゃないんだよね」

「あ、はい。すいません」

 ガッチリとした鴻池君よりさらにもう一回りは大きな体をしたミシュラン刑事が鈴木さんに縋る男を引き離す。敵意をむき出しにした鴻池君は藤堂が蹴飛ばしたせいで脚の歪んだ椅子を薙ぎ倒し、ミシュラン刑事の腕から逃れようともがく。そんな鴻池君を尻目に藤堂は鈴木さんに続きを促した。

「はい。君は続けて」

 鈴木さんは怯えた様子で声を震わせながら、小さな声で答えた。

「わ、私と……鴻池君はお付き合いを、していて……それで」

「たまには刺激も欲しいよね」

 藤堂の言葉に鈴木さんは俯く。そこに鴻池くんの下卑た言葉が響いた。

「……そうだよ! 俺は、この女に唆されて、処置室でヤったんだよ。この女、すげーヤリマンなんだよ。エッロい体してさ。あっちの具合も最高で、上に乗って腰振ってる姿を見せてやりてーもんだぜ。理不尽な仕事ばっかで、世の中は休みなのに、仕事仕事仕事! ジジイもババアも感謝のひとつもねえ! やってらんねぇし、それくらいの楽しみがあったっていいじゃねぇか。それのどこが悪いんだよ」

 嘲笑するような声音の叫びに鈴木さんは愕然とした様子で鴻池君を見上げ、それから号泣した。両手で顔を覆うと椅子に力なく座り込みしゃくりあげる。

 僕は鴻池君の豹変ぶりに唖然とする。若いのに仕事はそれなりにきちんとしていると思っていた。だから、今回、勤怠表を確認してその可能性に思い至った時には驚いた。藤堂から「処置室のゴミ箱の中身を世良さんに渡せ」と云われた時には抵抗感さえ感じた。けれど、最初に彼らを疑ったその時以上に、鈴木さんに全てをなすりつけようとする鴻池君の姿に呆れ果てていた。そしてもうひとり。僕の隣では平野君が「鈴木ちゃーん」と情けない声を上げて鼻をすすっていた。

 僕の気持ちを察したわけでもなかろうが、藤堂が大きな溜息をひとつついて、ミシュラン刑事に押さえ込まれている鴻池君を顎を上げて見据えた。

「君さあ。ほんっと、クズだね。クズの中のクズ! クズおぶクズ! やることやっといて、女の子のせいにするなんて最低だね」

 それから、と今度は肩を震わせて泣いている鈴木さんに視線を流す。

「君も! こんなクズさっさとゴミ箱に捨てることだね。ゴミはゴミ箱に! 大体、君がこれだけ勇気を振り絞って話してくれてんのに、君のせいにするのがまず最低! ついでに中出しして責任取らない男はもっと最低!」

 鈴木さんの泣き声が大きくなる。

 藤堂は鼻息荒く「というわけで」と続けた。

「防犯カメラが切られていたのは彼らの逢瀬のためだったわけ。まぁ、仕事のストレスとか理不尽さとか同情すべき点はあるけど、そこのクズは許す余地なし! あっ、あとね、ちづちゃんたちが見たっていう人魂は、この二人が処置室に入る時に、回診用の懐中電灯で鍵穴を探すのに使っていた光だと思うよ。鍵穴をピンポイントで見つけるにはあの位置は暗くて、懐中電灯で手元を照らした光が処置室のドアに反射して大きくなったり小さくなったりふらふらと動いたりしてたのさ」

「ははァ、なるほどねェ」

 ちづさんが藤堂の説明に頷く。

「だから、ちづちゃんたちは別に祟られたりしないから! 安心して! あれ、幽霊じゃないから」

 一方的に言いたいことだけ云って、藤堂は両手を腰に当てる。

「で、タイミングわるーく、その日に事件が起こっちゃったからややこしくなったんだよね〜」

 ね、と藤堂はちづさんを見た。

 僕の胸がドキリと跳ねた。あの日、凶器がアレではないかと藤堂は指摘したものの、誰が何故番場さんを殺したのかまでははっきりしないまま、その場は解散になった。世良さんたちはその後、いくつか追加で調べることがある、と室内であれこれ採取していたようだけれど、その結果も僕には知らされていなかったし、まさか……まさか。

「ちづちゃん、嘘ついてるでしょ」

 首を傾げ、ちづさんをじっと見つめた藤堂は、僅かに口角をあげた。

「もういいから、教えてよ」

「やだねェ。カナメちゃん。あたしは嘘なんてついてないよ。ただ『忘れてた』だけさァ。この歳になると、物忘れが酷くていけないねェ」

「じゃあ、思い出したのなら教えて。大晦日の夜、大きな音がしたのは何時頃だった?」

「聞いてたようなことを云う子だねェ」

 ちづさんが笑った。寂しげに。

「あの晩、除夜の鐘が終わる頃に、大きな音がしたのサ。ドーン、と大きな音がね。あたしゃ、むっちゃんが転んだんじゃあないかと心配になって、隣の部屋に急いだ。むっちゃんはね、鐘が落ちたんじゃァないか、って大層心配してたよ」

「他の部屋のことは?」

「さあねェ。でも、あたしがむっちゃんの部屋に入るときに、松永の婆さんが出てきたから、様子を見に行ったンじゃあないかい」

「ありがとう。ちづちゃん。思い出してくれて」

 ちづさんにウインクをした藤堂は僕たちをぐるりと見回した。

「ここで、この辺の時系列について整理してみるね。まず、雪が降り出したのはくろすけが退勤してすぐくらいだったみたいだから十八時頃かな?」

 そうっス、と平野君が頷く。

「二十四時よりも前に宮内さんが毛布を持ってきてもらった。持って行ったのは鈴木さん。それから除夜の鐘が終わった頃に大きな音がした。ちづさんは安岡さんのところへ、松永さんは特室の方から歩いてきた。この時、師長さんは休憩室にいて、鈴木さんに様子を見に行くように指示した」

 目を真っ赤に泣き腫らした鈴木さんは静かに頷いた。

「そのとき、松永さんに会った?」

「……お会いしたので、お部屋に戻っていただくようにお話しして……お部屋まで付き添いました」

「つまり、この時点で化粧の濃いお婆さんは生きてたってことだね! で、君、そのとき、そのお婆さんに変わったところはなかった?」

「……変わった様子は……なかったんですが、山口さんのお部屋の前に飾ってある桃色の花を持ってきてしまっていたので、お部屋の前に戻しに行きました」

「で、その時には特室の様子は見なかったの?」

「……そのときは、まだ……」

「そこのクズとの待ち合わせの時間が迫っていたから?」

 こくん、と鈴木さんが頷く。

「で、そっちのクズはその間どうしてたの?」

 クズ、と云われた鴻池君は苛立ちを隠そうともせずに「ぁあん?」と唸る。

「処置室だよ。処置室。テメェが云ったんだろうが。俺とそのヤリマンがヤリ部屋に居たって」

「……ひどい……」

 鈴木さんが傷ついた目で鴻池君を見つめる。そんな視線に気づく風もなく、鴻池君は貧乏揺すりをしている。

「まぁ、ゴミには何を聞いてもゴミだねえ。むしろ粗大ゴミ」

 ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がろうとした鴻池君をミシュラン刑事が押し戻す。

「その時間、大きな音のした原因を鈴木さんも確かめには行かなかった。君は松永さんを部屋に戻した後、師長さんが休憩の間にそこのクズと会うつもりだったんでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、その大きな音の原因ってなんだったんだろう。ってことになるね。それについては、世良さん、よろしく」

「えー。まずは、番場氏の死因についてですが、頭部外傷によるものでした。その成因として、凶器が見つからず難渋しておったんですが、ドアの内側から血液を拭き取った後が見つかり、戸袋の内側にも血液が付着しておりました。壁に血液がべったりとついていた所為で、そちらに目がいってしまい……全く痕跡がなく、戸袋の中に隠れてしまう引き戸は盲点でした」

 ダミ声がテラスに響くと、ガシャンと音を立て、宮内さんの杖が倒れた。

「いあう。あいああ、あいおおいあんあ」

 宮内さんは必死の形相で僕たちに訴える。身を乗り出し、不自由な右手をよろよろと持ち上げようとする。椅子から落ちそうになる体を師長さんが慌てて支えた。

 世良に頷き返した藤堂が再び喋り始める。

「ごめんね。お爺ちゃん。俺は事実を歪めることはできない。殺したのはお爺ちゃんじゃない。あなたがあの人を殺すことはできないんだ」

「いあう。いあう! あいあ、あいあああああああ」

「あなたは確かにあの人の血管を切ったのかもしれない。でも、あの傷は死んでからつけられたものなんだ。あの人の死因は外傷性クモ膜下出血、外傷性硬膜下出血、外傷性脳挫傷。つまり、頭を強く打ったことが原因だ」

「いあうううううう」

 宮内さんの叫び声がテラス……いや、フロアに響き渡った。その悲痛な叫びに胸が痛む。

「そして、あなたは誰かを庇うために、遺体を傷つけた。自分が殺した、と見せかけるために。違うかな?」

 先刻までとは違う、少しだけ優しい眼差しで藤堂は宮内さんを見つめていた。必死で叫んだせいで口角から流れた唾液を師長さんがタオルで拭う。

「このお爺さんはスーパーの経営者だったって話だけど、そのスーパー、元々はお肉屋さんだったんだね」

 はい、と世良が頷く。

「当時のお肉屋さんは、自分たちで豚を捌くこともあった。だから、このお爺ちゃんは血管の走行にはある程度の知識があったんだ。体のどこに大きな血管があるのか、ね。だから、致命傷になるような大きな血管を傷つけた。誰かを庇うために」

「いあう……いあう……」

 宮内さんは「違う、違う」と繰り返し、藤堂に手を伸ばそうとする。

「幸いというか……不幸にも、と云うか、このお爺ちゃんが遺体の血管をナイフで傷つけた時には、もう亡くなっていたから、動脈を切断したからといって、血液は噴き出すことはなかった。生きている人間の動脈を傷つければ、噴水みたいに血が噴き出すからね。じゃあ、お爺ちゃんが誰を庇っていたか。それは……」

「やえおおおおおお」

 師長さんが宮内さんの肩を両手で抱き抱え、優しくその手で撫でる。涙を浮かべた宮内さんは不自由な言葉で、なおも「やめてくれ」と呟きを繰り返す。

「山口桃子さん、だね」

 僕は俯いた。

 番場さんの部屋をもう一度一緒に見に行ったとき、世良刑事が持っていた紙には、彼女の名前が記されていた。毛根のついた長い髪の持ち主は、あの、いつも穏やかで笑顔の似合う、桃子さんだった。

「彼女は『雪が降ってきたからお爺ちゃんと雪だるまを作りに行く』と云っていた。彼女の部屋は218号室。隣は217号室。宮内さんの部屋だね。けれど、もし、山口さんがその隣の216号室に間違えて入ってしまったとしたら? 先刻、そっちのお嬢ちゃんが云っていたよね。『松永さんが桃色の花を持っていたから』と。その花は、認知症のある人が部屋を覚えるためのものなんだろ? もしその花が隣の部屋に間違ってかけられていたら?」

 宮内さんは一瞬大きく目を見張ると、堪えきれなくなった涙がポロポロと溢れ出た。

「亡くなった番場さんが山口桃子さんにセクハラを繰り返していたって、俺はくろすけから聞いてる。だからこれはあくまでも仮説に過ぎないんだけど。宮内さんの部屋と間違えて、番場さんの部屋に入って行った山口桃子さんは番場さんに襲われて、それで突き飛ばしたんじゃないかな?」

 肩を落とした宮内さんが微かに、しかし、確かにゆっくりと頷いた。

「あいうあ、おおうぉあんうぉえうぉえいいおおおいあんあ」

 なんて言ってるんだ? と僕にこそっと問いかける世良に「あいつは桃子さんを手込めにしようとしたんだ」って云っています、と伝える。

「大きな音がしたからあなたは隣の部屋を見に行ったんだよね?」

「あいああっあうぉおおいああ、あいうああおうぇうぇいえ、うぉうぉおあんあうぇっうぉおうええあいえいあんえう」

「なにかあったのかと見に行ったら、番場さんが倒れていて、桃子さんがベッドに座って泣いていた、と」

 僕は藤堂にも世良にもわかるように、宮内さんの言葉を伝える。

「それから、どうしたの?」

 藤堂に促されると、宮内さんは涙まじりに話し始める。

「うぉうぉおあんああいあうあえうぉうぁいいえ、えあいおうっえいっえああ、あんあおえあいうぉうぉいあいあ」

「桃子さんが泣き止むまでそばにいてから、お部屋まで送っていって、それから番場さんの部屋に戻ったそうです」

「あえああ、うぉうぉおあんいいおいおおおあうあんいえいあああ、ううえああっあ。おおうぃえいあおうおおおいあいあ」

「以前から桃子さんにひどいことをしていたから許せなかったので……殺してやろうと……思ったと」

「番場さんが倒れているのを見て、助けを呼ぼうとは思わなかったの?」

「うぉいおあいうあえんうぃいあっああ、うぉうぉおあういうぉっおいおいおおおううんああいあおおおいあいあ」

「もしも番場さんが元気になったら、もっとひどいことを桃子さんにするんじゃないかと思った、って」

 師長さんの掌は優しく、優しく、宮内さんの背を撫でていた。

「あんえあんえうあ。うぉうぉおあんあ、いうぉあおおおおいああええう。うぉうぉおあんあ、あいおいえいあい」

「うん……そうだね。正当防衛だったのかもしれないね。でも、そのことを桃子さんは覚えていないから、宮内さんが証言してあげなくちゃいけないんだよ」

 なぜ、と慟哭し、桃子さんは身を守ろうとしただけだ、と訴える宮内さんに僕は話しかける。僕の瞼の裏には番場さんに襲われた桃子さんが全力で番場さんを突き飛ばすところが映し出されていた。雪だるまを作るのに宮内さんを誘おうとしていた桃子さん。それが部屋を間違えたばかりに、どれほど怖い思いをしたことか。勿論、亡くなった番場さんだけが悪かったわけではないだろう。でも、桃子さんも番場さんも、認知症という病のために、部屋を間違えたり、自制が利かなくなったりしただけかもしれないのに。

 僕は、なにが悪で、なにを憎めばいいのかわからなくなる。

「ところで、お爺ちゃんが部屋に入った時に壁に血の痕はあった?」

「あえあ、あいあうえあ」

 宮内さんの言葉を察した様子で藤堂が「うーん」と唸った。

「あれは、お爺ちゃんが『自分がやった』って示すためにつけたの?」

「こんな風に?」

 藤堂が現場の写真を示すと、宮内さんは目を見開き首を横に振った。

「だよねぇ。ドアの血も拭いてないよね」

 今度は首を縦に振る。

「そもそも、自分が犯人だと思わせるためにナイフで刺したのならば、わざわざそれを隠すような行動を取るのは不可解だと思わない? しかも、ドアの血はハイポアルコールで拭かれた形跡がある……んだよね? 世良さん」

「あー。はい。そうです。それでパッとわかんなかったんですがね。それも、トイレットペーパーにつけて拭いたようで。壁の血の痕と同じで」

「というわけで……」

 宮内さんの背をさする師長さん、それから、まだしゃくりあげている鈴木さん、と順に藤堂は見つめた。

「行動の内容からはあなたたちのどちらかがドアについた血を拭いて、壁には血を塗ったんじゃないかと俺は考えてる。そもそも、ハイポアルコールを使って拭けばいい、なんて医療従事者じゃないと考えつかないよね。そして、その時間、そこのクズと鈴木さんは一緒にいたはずだ。鈴木さん、合ってる?」

「……はい」

 消え入りそうに小さな声で鈴木さんが返答するのを確認した藤堂は、師長さんに視線を戻し、まるで夕飯の献立でも尋ねるみたいに、なんてことない口調で問いかける。

「そんなわけで、ね。どうかな? 師長さん」

 師長さんは、いつもと同じように微笑み、それから、静かに「はい」と答えた。淀みなく答える口ぶりは、堂々とさえしている。

「わたしが、ドアについた血液もドアの引き手も拭きました。そして、壁についた宮内さんの手の跡を消すために……上から血液を塗りました」

 淡々とした口調は、いつもとなんら変わらなくて、僕はぎゅっと拳を握りしめる。なんで、どうして、なんで、どうして、とそればかりが頭の中をぐるぐると回る。僕は、どうしようもない感情に突き動かされて、気づくと声を上げていた。

「師長さんがそんなことをする意味が、僕にはわかりません」

 尖ってしまった語尾をうまく隠すこともできないまま、僕は言葉を吐き出してしまう。  

微笑みを浮かべたまま、僕の尊敬してやまない師長さんは「守るためです」と言い放った。

「仮眠から起きてすぐ、わたしは先程の物音が気になったので患者さんのお部屋を回りました。鈴木さんからは、安岡さんの転倒だと報告を受けていたので、安岡さん、加藤さんと順に回っていきました。そして、番場さんのご遺体を発見しました。横には、宮内さんが座っていらして『山口さんを襲おうとしたので自分が殺してしまった』と。番場さんのご遺体を前にしたとき、不覚ですが、頭が真っ白になってしまいました。わたしは、宮内さんをお部屋に戻して手や靴を綺麗に拭きました。宮内さんから事情を伺って、山口さんの手についた血液も拭いました。そうしているうちに、少しずつ、気持ちも落ち着いてきました。でも、このままでは『雪の園』の人間が犯人だとすぐにわかってしまう、と思いました」

「それで細工を?」

 世良が口を挟む。

「ええ。鈴木さんが仮眠しているうちに、と急いでドアを拭き、宮内さんの手の跡が残った壁にはそれを隠すように番場さんの血液を塗りました。壁紙の素材は、ハイポで拭いても血液の痕跡を消すことは難しそうでしたから。本当は壁についた手の跡も消してしまいたかったのですけれど……」

 片手を頬に当てた藤堂は人差し指で頬を軽く叩きながら、うーん、と小さく唸る。

「まぁ、解剖すれば死因が失血死じゃないことはわかっちゃうんだけど、少なくともその場の情報は撹乱されるよね。そっちのお爺ちゃんが動脈を切断して血まみれになっている現場に大きな血の跡が壁にあれば、そっちに目が行くのは当然だしね」

「……はい。それが正しいことではないことはわかっておりましたが」

 そこで初めて師長さんは顔を歪めた。

「申し訳なく思いました。わたしが仮眠をとっていなければ、宮内さんまでこんなことに巻き込まずに済んだはずです」

 ごめんなさい、と師長さんは宮内さんの背をもう一度撫でた。

「あうあああいおあううあい。うあああっあ」

「そんなこと言わないでください」

 悲しげに微笑む白髪の天使に、世良が怪訝そうに問いかけた。

「なぁ、あんたさん、そりゃぁそうと、なんでトイレットペーパーを使ったんだ? ドアを拭くのにも、壁に血を塗るのにもトイレットペーパーを使っただろう? 壁からもドアからもトイレットペーパーの繊維が検出されていたんだが、看護師なら、手袋をしてやれば、指紋も痕跡も残らなかっただろうに」

 師長さんが口を開く前に、藤堂が「はっ」と息を吐いて肩をすくめて見せた。

「もーぅ。世良さんもお馬鹿さんだなー。トイレットペーパーはトイレに流せるじゃん。手袋はゴミに捨てなければいけないから証拠を残すことになってしまうだろう。だから敢えて、トイレットペーパーを使ったのさ」

 藤堂の言葉に師長さんは静かな口調のまま続ける。

「その通りです。わたしの考えることなんて……お見通しなんですね。ドアは、歪んでいましたが、戸袋の中に入ってしまえばそれもわかりませんし、血液を拭き取ってしまえばそれほど目立たなくなるかと思いました。ドアを拭ったトイレットペーパーと壁に血を塗ったものは全てトイレに流しました」

 面目ない、と世良が頭を掻く。

「あっ、もしかして」

「ん? どうした? くろすけ」

「桃子さんの介護服も……」

 微かな笑みをはいたまま、師長さんは頷く。

 桃子さんの爪に僅かに残っていた黒いもの……あれも、便ではないとすれば、血液かもしれない、と僕は思い至る。

 やっぱり僕は、不甲斐ない人間だ。

 守りたいものひとつ守れない、そして、守りたかったはずのものに守られるだなんて。

 俯く僕の頭に藤堂の大きな手がふわりと落ち、子供を宥めるように撫でた。





■二十六


さて、ここまでが一件目の『事件』だね」

 ふぅ、と微かな吐息を漏らして藤堂は大きく首を一度回した。バキッ、とどこかの関節が鳴る音がする。

「で、三時頃に近藤さんの容態が悪くなったので間違い無いかな?」

「……はい。わたしが詰所に戻ると、モニターのアラームが鳴っていて、脈拍数が低下していました」

「それで鈴木さんを起こした、って云ってたね」

 頷く師長さんに、鈴木さんが泣きすぎて掠れた声で同意する。

「間違いありません。私は三時少し過ぎたくらいに師長さんに呼ばれました」

「時間は合ってる?」

「はい……。悠ちゃ……鴻池君は休憩時間ではなかったのですが、私と一緒に居たので、師長さんに見つかると困る、って思って……だから、時間ははっきり覚えています」

 ひょいと肩を竦めた藤堂はテーブルに両手をつく。

「近藤さんの処置に三人で入った、というのに嘘はないと俺は思う。三人が共謀して口裏を合わせる必要はないからね。たしか、鈴木さんがベッドサイドにずっと付き添っていて、そこのクズが体を動かす手伝いをしてた、って聞いてるけど。これも間違いはないよね?」

 クズ、と言われた鴻池君が藤堂を睨みつける。

「で、もうひとりのあの化粧の濃いお婆さん。あの人の死亡時刻が大体この時間帯になるんだ。死因は急性心筋梗塞でいいと思う」

 覚醒剤使用による、という部分を口には出さず、藤堂は淡々と言葉を紡ぐ。

「亡くなっていた時の状況からは、かなり苦しんでから死亡しているみたいなんだけど」

 鈴木さんは躊躇いがちに目を伏せ、少し逡巡してから「あの……」と声を上げた。

「ナースコールが……鳴っていたと思います」

「ほぅ。一回? 二回?」

「いえ……頻コールでした。何度も何度も鳴っていて、それで師長さんが」

「そっか。師長さんはそのナースコールに対応しに行ったんだね」

 藤堂の台詞に「あたしだよ」とちづさんが手を挙げる。

「ごめんごめん。それを鳴らしたのはあたしだよ。新しい年だろう。むっちゃんの部屋で二人で居たら楽しくなっちまってねェ。さわちゃんも呼ぼうって二人でね」

 ちづさんがからりとした口調で云う。

「でもほら。まさか近藤さんがそんなことになってると思ってやしなかったからねェ。そんな時にあんな用事でナースコールを押したなんてみっともなくて……」

 その言葉を、師長さんの声がやんわりと遮った。僕は、その声に白髪を引っ詰めた厳かな横顔を見つめる。凛とした横顔はきっちりとアイロンの当てられた白衣と相俟って、昔写真で見たナイチンゲールのようだった。

「加藤さん、結構ですよ。そんな嘘、仰らなくても」

「やだねェ。人をボケ老人みたいに云うンじゃないヨ。さわちゃん。あたしゃ、嘘なんてついてないよォ」

「加藤さんの優しさは十分いただきました。ですから、もう結構ですよ。わたしは庇っていただけるような人間じゃありません」

 ちづさんは突然遮られた言葉の行き場を探すように唇を僅かに歪め、床に目を落とす。その様子に「ありがとうございました」ともう一度優しい声で呟き、師長さんは静かに立ち上がった。そして、僕たちに深々と頭を下げた。

「わたしが、松永さんを殺したようなものです。わたしは看護師としてあるまじきことをしてしまいました」

 ゆっくりと頭を上げ、白髪の天使は静かに語り始めた。

「わたしは、わたしの目の前で踠き苦しむ松永さんを見殺しにしました」

 藤堂は透明な眼差しで師長さんを見つめていた。僕は……僕はといえば、師長さんの告白にただ呆然とするばかりだった。

「あれだけ苦しんだ形跡があって、手元にはナースコールが落ちていた。けれど、ナースコールの根本は壁から抜け落ちていた。可能性は二つ。苦しみもがいた時に、本人がナースコールを引き抜いてしまった可能性。それからもうひとつは、誰かがナースコールを意図的に抜いた可能性」

 指を一本、二本、と立てて見せ、藤堂は感情の色を映さない声で続ける。

「いずれにせよ、彼女がナースコールを押している可能性は高い。もし、ナースコールをあらかじめ誰かが抜いていたならば、あのお婆ちゃんが自分で差し直したはずだ。つまり、鳴る状態にあるナースコールだったから彼女はそれで誰かを呼ぼうとした。事実、鈴木さんは頻回にナースコールが鳴っていたのを聞いている。じゃあ、なんで誰も行かなかったのか。たまたま近藤さんの容態が悪化したタイミングだったから、と云うのは整合性がある。だけど、師長さん。あなたはご自分で『鈴木さんに付き添いを頼んで自分はその場を離れた』と証言した。ナースコールが鳴ったから、様子を見に行ったんじゃないのかな?」

「……はい。ナースコールは……鳴っていました。何度も……何度も。けれど、わたしが松永さんの部屋に行ったのは……」


あの女が死ぬのを見届けるためでした(・・・・・・・・・・・・・・・・・)


 そう云って、師長さんは酷薄な笑みを唇に浮かべた。

 流石の藤堂も想定外と見えたその言葉に目を見開く。

 まさか師長さんが松永さんを毒殺? いや、そんなことはないはずだ。毒物は……覚醒剤以外は検出されなかったはず。ならば……。

 混乱する僕を尻目に藤堂は目を眇め「そっか」とだけ呟く。

「もしかして、甘酒に覚醒剤が入っていること、知ってたの?」

「いいえ。……入っていたのは覚醒剤だったんですね。そうでしたか。わざわざ甘酒を飲ませてやってほしい、なんて仰るから、てっきり毒でも混ぜてあるのかしら、と思っておりました」

「それをあなたは飲ませた」

「ええ。一応、ご本人にもご希望は伺いましたけれど。……死んでしまえばいい、そう思っていたのは事実です」

 師長さんの唇から紡がれる言葉が何を云っているのか、僕には理解できなかった。否、理解したくなかった。

「ですから、ナースコールが何度も鳴らされ、ついにその時がきたのだ、と思いました。あの女が息絶える瞬間をこの目に焼きつけよう、と部屋に行ったんです」

「ナースコールを抜いたのは?」

「わたしです。これ以上ナースコールを鳴らされて、鈴木さんや鴻池君が来てしまい、救急車を呼ばれてしまってはいけませんから」

 微笑みながら、なんでもないことのように云う師長さんに僕は背筋がゾッとした。いつもと同じ口調で、いつもとは全く違う言葉を師長さんは話している。

「胸をかきむしり『痛い、苦しい』と言いながらのたうちまわり、最後には動かなくなるまで。わたしは見ていたんです」

「……なんで……」

 喉がカラカラだった。

 祈るような気持ちで絞り出した声はみっともなく震えていた。

 ほんの数分にも満たない静寂が重くのしかかる。いつもと同じ微笑みのまま、いつもとは違う、爛々と光る肉食獣のような眼差しで師長さんは藤堂を見つめた。

 僕は息を殺し、静寂の途切れる瞬間を待つ。

「あの女はね、わたしの母を見殺しに……いいえ、殺したんです」

 鋭い針で刺されるように胸がズキン、と痛んだ。

「母はあの女やわたしと同じ看護師でした。五十年以上も前のことです。母が婦長をしていた病棟で働いていたのが松永です。あの頃はまだ煙草を吸う人も多くて。看護婦の仮眠室から火が出たんです。冬の寒い夜でした。当時高校三年生だったわたしは母とふたり、病院の宿舎で暮らしておりました。サイレンの音に胸騒ぎがして、夜勤中の母が心配で様子を見に行くと、木造の病院が炎に包まれ、真っ赤に燃え上がっていました。火の粉が爆ぜ、熱かった。ちょうど中から出てきた母は、わたしに気づくと抱きしめて『待っていてね』と言い残し、煤だらけの顔でまた病院の中に戻って行きました。取り残された患者さんを助けるために。そして……それきり母は……」

 師長さんの瞳から透明な液体が一粒零れた。

 握りしめた拳は色を失い、左手に巻かれた包帯と同じくらい白くなっていた。僕はそのとき思い出した。松永さんがずっと隠そうとしていた右手の大きなケロイド。あれは…。もしかすると……。

「そのとき、母を嗤う人がいたんです」

「……それが、もしかして」

 藤堂の言葉に師長さんは頷いてみせた。

「ええ。あの女でした。母と同じ白衣を着ていたので、その夜、夜勤をしていた看護婦だとわかりました。食って掛かったわたしにあの女は云いました。『死に損ないの年寄りを助けに入っていくなんて婦長さんも馬鹿よねぇ』って。それは……真実かもしれないけれど、わたしには許せなかった!」

 師長さんは感情の昂りを隠そうともせず、強い口調で続ける。

「後から警察が聞き込みに来て、そこで云われました。『今回の火事は失火で、看護婦の仮眠室から出火している。君のお母さんは煙草を吸うそうだね』と。母は煙草なんて吸いません。喘息があって、副流煙でも咳き込むような人が煙草を吸いますか? そう答えたわたしに警察は告げたんです。『同僚の若い看護婦さんは見たと言っている』って。それが……あの女でした。わたしは調べました。母のいた病院の看護婦さんたちに聞いて歩きました。そして……あの女こそが、あの晩、仮眠室で煙草を吸い、火事を起こし、母を殺した真犯人だと知ったんです」

「そんなことが……」

 藤堂も眉を顰め、口元を片手で覆う。白髪の天使の頬を涙が幾筋も伝い落ちるのを僕はただただ見つめた。

「母を嘲笑ったあの女が、あの火事を起こし、母を殺した。のみならず、亡くなった人間に罪を背負わせるような真似をした。わたしは怒りに打ち震えました」

 顔を歪め、吐き捨てるように師長さんは過去の記憶を僕たちの前に並べていく。痛みが、苦しみが、悔しさが、憎しみが静かに渦を巻くようだった。

「警察にも訴えましたが、警察は事を荒立てたくなかったのか、失火は失火といった対応でした。あの火事では母と足の不自由だった事務職員さん、それから患者さんが六名亡くなられました。母は一番奥の部屋で寝たきりになっていた患者さんに覆い被さるようにして亡くなっていたそうです。一時は新聞でも大きな話題になり、それもあって、警察としては死人に口なし、の方が都合が良かったのでしょうね。母の無念、母の正義、母の信念。そんなものが全て踏み躙られる思いでした」

 世良が居心地悪そうに視線を逸らす。

「あの女が施設に来て、名前を見たとき、驚きました。母が死んだ原因を作り、母の尊厳を踏み躙ったあの女が! でも、わたしは必死で我慢しました。殺したいほど憎い気持ちは勿論ありましたけれど、母がそうしたように、わたしは看護師としての職務を果たそうと、そう、思いました。ですが……あの、甘酒を飲ませてほしい、という姪御さんのお電話を受けて、わたしの中の鬼が囁いたんです。『きっと姪はあの女を毒殺するつもりだ。おまえの恨みを晴らすときだぞ』と。甘酒を飲むか、とあの女に尋ねたとき、わたしは悪魔になってしまったのだと思います。温めた甘酒を入れたコップを持っていくとき、わたしの手であの女を殺すことができるのだ、と愉悦にすら浸りました。それがどうでしょう。一口飲むの見守っていても、あの女は苦しみもしない。顔を歪めるわけでもない。なんだ、これはただの甘酒だったのか……いやいや、もしかすると遅効性の毒かもしれない、そんな問答を心の中で繰り返しました」

 テラスには正月明けの少し白っぽい太陽の光が満ち、館内にはバッハの柔らかな旋律が流れていた。その中に立ち尽くし、罪の告白をする師長さんは、天使のようだった。

 カバネルの絵画に描かれた美しい堕天使の羽が黒く染まっていたのを僕は思い出していた。

「近藤さんのお部屋でモニターの準備をしていたとき、ナースコールが鳴りました。何度も……何度も、何度も。あの女でした。部屋に入ると床に転がり、苦しむあの女がいました。わたしは無意識にナースコールを壁から抜いていました。そして、わたしに助けを求めるあの女が息絶えるまで……それを、見ていました」

 どうしようもない、悲しみとも虚しさとも違う感情が足元から這い上がってきた。

「師長さん……」

 こんなとき、どう云えばいいんだろう。なんて声を掛ければいいんだろう。僕は正解を見つけられなかった。

「先生、ごめんなさいね」

 僕はあのとき燃えカスになってしまっていた僕を助け出してくれた人を助けることはできないのか。僕は……。僕は。

「待った!」

 俯く僕の隣で藤堂が叫んだ。

 その鋭い声色とともに、ひょろ長い体が師長さんの元に駆け寄る。視界の端で、師長さんの手からシリンジが床に落ち、体が崩れ落ちた。

「師長さん!」

 倒れ込んだ師長さんは体をわずかに震わせ、白目をむいていた。

「おい、くろすけ。カリだ」

「えっ」

 足元に転がるシリンジには確かに見覚えのある印字がされていた。『KCL』と。

「藤堂、心マを!」

 反射的に僕は叫んでいた。

 師長さんの体を床に横たえると、藤堂は勢いよく心臓マッサージを開始する。

「鴻池君、患者さんを部屋に。平野君、穴熊総合病院に連絡。塩化カリウムをショットでいった患者の搬入依頼を。世良さんたちは鴻池君を手伝って。鈴木さん、呼吸も止まる。挿管準備をして」

 はらりと解けた包帯の下には、ルート内にまだ黄色い液体の残る点滴のチューブが残っていた。




■二十七


「師長さん、もうすぐ退院できるそうだよ」

 意識の戻った師長さんは、僕の顔を見て号泣した。ただただ泣いて、それから、ごめんなさい、と云った。助けてくれて、ありがとうございます、と。

 ICUに搬入して、すぐにPCPSと透析、大量の輸液に薬剤投与を行なって、ほどなく血清カリウム濃度は低下。心拍も再開した。

 お見舞いに行くと、元同僚が今も救命センターで忙しくしているのが目に入ったけれど、僕にはもうなんの感慨も負い目もなかった。僕にとって、いつの間にか、バーンアウトするほどの過去は『ただの』過去でしかなくなっていた。

 命への向き合い方はそれぞれなのだ、とようやく僕は理解できた。救急で運ばれてくるような急病や重症の患者を助けることだけが医療じゃない。生まれてくる命が健やかであるように手を差し伸べることも、病に倒れ後遺症を抱えた人を支えることも、ターミナルの患者さんの苦痛を緩和することも、亡くなった人の死因を明らかにすることも、医者として間違ってはいないし、必要なことなんだと。

 今回の事件で、すべてが変わってしまった。

よくも、悪くも。

 僕は今日も藤堂の家にいた。こいつとの関係性の変化も、そう云えばこの事件があったから変わったもののひとつだ。

 古い革のソファは体によく馴染む。僕はソファに沈み込んだまま、膝を抱えた。

 柔らかな影を落とすスタンドライトの明かりはどこか現実感がなくて今の僕には心地よかった。

「ふぅん。よかったじゃん。流石、元救命救急医。素早かったもんなぁ」

 台所と行き来している藤堂が茶化すような合いの手を入れる。

耳馴染みのいい藤堂の声はどこか遠くで聞こえるみたいだ。薄い膜一枚隔てた外の世界から聞こえるような声に僕は薄く笑う。

 高齢者たちが常春の楽園のように過ごしていた『雪の園』は閉園が決まった。あの事件で高級老健施設、というイメージは大きく損なわれ、入所希望のキャンセルが相次ぎ、存続は困難、と経営母体である医療法人が判断したらしい。それもやむを得ないことだとは思う。

 事件概要が公になるや否や、施設の電話は鳴り続けた。名前を名乗りもせず「人殺し」と叫んで切れる電話。管理体制の手落ちを非難する電話。高級老健を謳っていながら、夜間の勤務人数が少ない、人員配置を責める電話。実際の高齢者医療の現場なんて全く知りもしないくせに理由知り顔で恰もそれが正義であるかのように誹謗と中傷を投げつけてくる人の多さに僕は驚いた。自分の権利が阻害されたわけでもないのに、権利を振りかざし糾弾を繰り返す人。シゲさんや桃子さん、師長さん、松永さんの姪御さんを知っているわけでもないのに……彼ら自身がどれほど苦しんだかも知らないのに、殺人者呼ばわりする人。

 電話が鳴るたびに、事務室では「誰が電話をとるか」で押し付け合いになるのだ、と疲れ切った顔で平野君が呟いていた。

 そんな中で意外だったのは、番場さんの息子さんが施設に謝罪に来られたことだった。

僕たちの管理不行届もあるのだし、なにより、番場さんは亡くなられているのだから、そんな、謝罪を受けるなんて……とお伝えしたのだけれど、父自身が招いたことだ、と苦しい胸中を明らかにした。

今回の事件のあらましが明らかになり、性的暴力の被害にあった被害者の自己防衛による事故だと結論づけられた。

 息子さんは、恥ずかしながら、と前置きをして「家で介護していた頃から、暴力や暴言が酷く、僕の妻に手をあげることもありました。そのうちに、ただの暴力ではなく、妻や来訪する女性に性的な嫌がらせもするようになったので、施設に預けることになったんです」と俯いた。その挙句に起きた事件で、息子さんとしては父の体裁もあるから、これ以上おおごとにはしたくないのだ、と。だから勿論、番場さんの娘さんが息巻いていた訴訟の件も不幸中の幸いで立ち消えた。

 それを藤堂に云うと、「倍の金額ぶんどる機会だったのに」と笑った。

 指先がかじかんでいる。

 藤堂の家は古くて、底冷えがする。僕は右手の指先を左手で包み込む。

 藤堂は両手に持っていたスープ皿をローテーブルに並べて置くと、僕の隣に腰を下ろした。重さにソファがギシッと軋んだ。

 冬といえばボルシチ、と謎の理屈を口にして、僕が知るより遥かに具沢山のボルシチを藤堂は運んできた。ビーツの赤、トマトの赤。鮮やかに赤いスープからは甘い香りが漂ってくる。膝を抱えたまま、僕は真っ白なお皿によく映える赤い色を見つめた。

 そんな僕をよそに、藤堂は「いただきます」と同じトーンで「そういえば」と言葉を紡いだ。

「心筋梗塞で亡くなった人の姪、覚醒剤の使用で逮捕された、って世良さんが云ってたよ。甘酒に覚醒剤を混入した方もこれから取り調べることになるって」

「……そう」

 あの日。底冷えのする暗い部屋で姪御さんと面談をしていた窓の外では、綺麗に着飾った老人たちが陽射しの中、楽しそうに歓談していた。

 藤堂が世良さんから聞いた話では、入所費用の支払いが追いつかず、姪御さんは元々の日中の仕事に加えて、夜のアルバイトもしていたらしい。そこで知り合った人物から勧められて覚醒剤に手を出してしまったのだという。「死んでしまうなんて思わなかった」と呟いていた、とこれも又聞きだけれど。姪御さんの暗く虚ろな眼差しを僕は思い出す。

 あの暗い部屋と明るい陽射しに満ちた世界の隔たり。僕はやり場のない感情が溢れ出しそうになって、抱え込んだ膝に顔を伏せた。

 松永さんの姪御さんにはお子さんが二人いる、と云っていた。今までだって、松永さんの入所費用の支払いのためにかなりの金銭的負担があっただろうに、母親が逮捕されてしまって、子供たちはどうなるんだろう。

 老人たちの笑顔。俯いた姪御さんの疲れ果てた横顔。子供達の未来。

 僕たちだっていつかは老いる。老人になった時、悠々自適にあんな風に楽しく笑いながら過ごしたい。それは、当たり前の願望だ。

 だけど、誰かを犠牲にしてそんな生活をしたくない。かといって誰かの踏み台にもなりたくはない。

 誰のことも責めることなんてできない矛盾に僕はただただ唇を噛み締めた。

「ねぇ、くろすけ。どーせ、うじうじといじけてるんだと思うけど、君は神様じゃないんだから、できることなんてたかが知れてるんだ。たかが知れてるかも知れないけれど、君はできることを一生懸命やったんだから、それ以上のことをしようとするのは欺瞞だよ」

 ローテーブルに並べられたボルシチに手もつけず、行儀悪くソファに沈んだ僕にそう言った藤堂はマイペースに甘い香りのする真っ赤なスープをゆっくりと口に運んでいる。

 時折、スプーンとお皿がカチャリと音を立てるほかに、今は音もない。

「……欺瞞、か。でもこんな事件が起きる前になにかできたんじゃないかって考えないではいられないんだ」

 松永さんの支払いが滞ったときに、番場さんのセクハラが表面化したときに、強制退去にしていれば……こんな事件は起きなかったんじゃないか。

「なにかってなに? 君の云いそうなことくらいお見通しだぞ。どうせ、早く施設から出るようにしていたら、とかだろう? そしたらお金の問題もなかったなんて思ってるんじゃないの?」

 図星だった。

 藤堂は呆れたように、はぁ、と明からさまに溜息をついて肩を竦めた。

「それは自分の手元から問題を先送りしてるだけ。いずれどっかで破綻してたはずだ。だから、くろすけは馬鹿なんだ。悩んで過去を変えられるなら死ぬほど悩んでハゲたらいいけど、先刻も云ったけど俺たちは神様じゃない。過去は変えられないんだ。残念ながらね。だったら、変えようのある未来のことで悩んだらどう?」

 手のかかる子ねぇ、と母親のような呟きを漏らし、藤堂は大きな掌で僕の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。

「悩んでて解決しないことでハゲるより、ボルシチ食べてみなよ。こんな美味いボルシチ、食べたことない〜、藤堂好き! ってなるよ?」

 はい、と手渡されたスプーンを渋々手にすると、藤堂がニヤリと笑った。

「ハゲてないし、ハゲハゲ云うな。ハゲの人に失礼だ」

「えー。それこそ、君の偏見。ハゲは事象に対する形容詞。ハゲ、って口にすることが失礼っていう発想こそが失礼だ」

 勝手な持論……というか、もはや屁理屈を捏ねる藤堂を横目に僕はスプーンを持ち直す。

 真っ赤なスープはまだほんのりと湯気を立てていた。僕はそれをすくい、口へと運ぶ。

 砂糖とは違う自然な甘味とトマトの酸味、それにどこか懐かしい土の匂いが口いっぱいに広がり、体の奥がほんわりと暖かくなる。

「美味しい……」

 思わずぽつりと口をついてこぼれた言葉に、藤堂は嬉しそうに頷いた。

「ね。藤堂好き! ってなるでしょ」

「……それはならないけど」

「えー。素直になればいいのに」

 子供のように頬を膨らませ、ちぇ、と唇を尖らす藤堂はやっぱり大学生の頃と同じで、少しだけ懐かしく感じる。真っ直ぐすぎる子供のような言動の所為で、大人ぶった学生の多い医学部では浮いていたけれど、僕はそんなこいつを案外嫌いではなかった。そんなことを思い出す。

 あ、と突然大きな声をあげ、藤堂は満面の笑みを浮かべた。

「それより、くろすけ、この先どうするの? 施設、閉園になるんでしょ? 三十六歳、独身、無職」

 こういう人の嫌がりそうなことも平気でズケズケというあたりも変わらない。そして、つづく一言も、やっぱり、藤堂だった。

「いいな! 超自由じゃん!」

 僕はその言葉に思わず面食らう。

「自由?」

「そ。自由!」

 胸を逸らした藤堂は人差し指をピンと立て、僕の目の前につきだす。

「だって、体も健康で動けて、貯金もちょっとならあって、仕事もしたければできて、どこに行こうにも誰にも気兼ねしないでいいんじゃん。それって最高じゃん?」

 いいなぁ、俺、明日も仕事なのに、とその後に続ける様子に僕は吹き出す。

 そうだ。僕はこんな『普通』をあっさり蹴散らしてしまう藤堂に昔から憧れていたんだった。でも、それは藤堂には言わない。絶対に。

「自由……自由か。そうかもしれない、な」

 こいつは僕と同じものを見ていても、きっと僕とは全く違う景色に見えているんだろう。

 そして、同じものを見ていても、大学生の頃の僕と今の僕、救命救急医だった頃の僕と今の僕とでは、違う景色に見える。『雪の園』の事件に関わったそれぞれの人が見ていた景色は、どんなものだったんだろう。

 僕はスプーンを置くと天井を見上げた。

 昭和の建物にしては小洒落た折り上げ天井の一段高いところから下がったレトロなガラスの照明は、五つのうち四つも電球が切れている。電球は切れれば替えてしまえば済む。でも、人生は終わってしまえばそれまでだ。 

それならば、違う景色を見るのも、悪くは無いのかもしれない。

 僕は、老人たちの顔をひとりひとり思い浮かべて、そっと頷いた。



                             了

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老人館の殺人〜ナイチンゲールの啼く夜に 赤木冥 @meruta

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