百合の間に挟まってしまった男の話

プラナリア

百合とおれ

 大学4年の7月、おれは百合の間に挟まった。早めの梅雨明けを迎え、どこまでも昇るような入道雲を空に湛える季節、おれは百合の間に挟まる男になった。もう少し議事録的に言い換えると、駅で停車中の電車に座っていた男の両隣に女子高生2名が着席し、男を挟み込むような形になった、となる。ここで言う男というのはおれのことだ。


 事案は大学からの帰りの電車内で起きた。終点駅なので先客が全員下車したのをいいことに、おれは連なる座席のド真ん中に陣取る。

「どっこいしょっと」

 疲れのためか、腰かける際に声が出てしまった。疲れといってもおれは漫喫で漫画を読みふけってただけではあるが。卒研作業の予定を先延ばしにしておいて一仕事終えたみたいな疲労感を醸すなど自分でも軟弱だとは思ったが、まあ周りに聞かれてなさそうだから良しとしようか。発車まであと10分弱、この時間でおれがする事と言えばスマホでTwitterを開いて、ダラダラスクロールするばかり。開いてすぐ目につく場所に就職アプリのアイコンを置くという試みは失敗に終わり、就活は遅々として進まなかった。


 時間が経つにつれて乗客が増え、座席も埋まってきた。ふと液晶から目を離すと、ちょうど右側の入口から女子高生2人が入ってくる所がみえた。この駅最寄りの高校は確か1校あって、なんという校名だったかは忘れたが、きっとそこの学生だろう。パッと見なので詳細な容姿はわからなかったが、片方は背が高くて、もう片方の背が低いのは金髪だった思う。とにかく仲睦まじそうな様子だった。おれは再びスマホに目を戻す。


 まず言っておくとおれは、他の乗客へみだりに意識を向けるような趣味を持ち合わせてはいない。大声で笑い合う中坊やら、電話先を怒鳴りつける大人やら、そういった連中が車内に現れたりしても、俺の興味関心がそいつらに向けたりしない。

 おれは短い学生生活の、長ったらしい通学時間の中で、学んだことが一つだけある。それは、無関心だ。3年半費やしてまるで大人になれた気はしないが、人生に何ら与しない事象に気を向けて心をすり減らさなくなったのは、成長と言っていいだろう。


 何が言いたいかというと、とにかく車内で何が起きてもおれはどうでもいいという事。おれは相変わらずスマホを弄る。先程の仲睦まじそうな女子高生二人組がこちら側にやってきて、おもむろに両となりの座席に座った。


 

 えっええ~~~??なんで~~~??頭の中がばくはつした。いや、よりによっておれのようなクソ男子大学生を間に挟む判断、どういう?


 おそらく2人分席が空いてるスペースが無かったのでそうしたんだろうが、しかしその、困る。おれの両となりに女子高生がいて、柔らかい声で話し合っている。まるでおれの存在をまるで霞か何かのように意に介さずに。おれはスマホに目を落とす、何も気にしない、気にしない。


 彼女らが会話内容については逐一覚える余裕もなかった。いちおう、部活動のことや、Youtuberのことや、進学先のことを話し合っていたのは覚えている。内容から察するに2人は高3で、同じ運動部を引退する目前。どうせ同じキャンパスの学部を目指さないか、などと、顔を見はしなかったが、きっと目を輝かせていたことだろう。おれは目を落とす。気にしない。


 ふと、宜しくない考えが頭をよぎった。いや正確にはずっとそんな思いはしていたけれども、果たしてこれは百合なのではないかと。

 百合、そう呼ばれるジャンルを内包する漫画やアニメやゲームはいくつか、いや、いくつも履修していた。2者間に発生する感情の機敏や空気感、百合のそういった要素が好き……と気の利いたことを言いたかったが、結局は単に美少女がキャッキャしているさまを浅ましく有難がっていただけだった。それでも百合が好きだと言っていいのなら、おれは百合が好きなのだった。


 しかしそれも良くない考えだなと我にかえる。他人の関係に土足で踏み込んでこれは百合と認定し、消費する行為は下品だろうと。それに、やたらと他人の動向を気にするのはおれの信条に反する筈だ。やめておこう。そう決意したおれの前に右の女子高生の腕が横切った。どうやら食べかけの弁当を渡しているらしい。


 ベベーーーーッ!!!?

 弁当ですって!交換ですってよ!分からなくなってきた。お前コロナ禍やぞというツッコミはもはや浮かぶ余地もなかった。え、きみたち、気軽に食べかけの弁当を交換し合う仲なの。知らないんだけど。

 おれは女子の友情が分からなかった、小学時代からずっと共学に通っていた筈だが、女子同士で弁当を交換し合うのが正常な距離感なのか、さっぱり見当つかなかった。しかしもう、何が常識で非常識なのかは関係なく、おれの頭は狂いそうだった。


『2番線、ドアが閉まります、ご注意下さい』


 ドアが閉まり、進行方向と逆向きの慣性が生ずる。横に揺られる身体を必死の思いで制御した。隣の2人に、百合に触れてしまうのが恐ろしかったからだ。

 オタクというのは元来、1から100を想像し、AからZにもλにもつなげてしまうような人種だ。そういった連中の目に「食べかけの弁当を交換する女子高生」をブン投げてみろ、フリーズする、思考がパンクしたからだ。


 もう、おしまいだ。倫理とか思慮とかぜんぶブッ飛んで、これは完全に百合だとおれの脳は結論づけてしまった。同時におれは、おしまいになった頭で1つの重罪を自覚する。両隣に百合が添えられている、ということは、今のおれは『百合の間に挟まる男』になっているのではないか。


 『百合の間に挟まる男』……誰がそれを産んだのか、誰が初めにそれを糾弾したのか、恐らく誰にもわからない。しかしそれが百合のオタク共に蛇蝎の如く嫌われてきた歴史がある事は知っている。正直、最初はそこまでピンと来ない怒りだったが、オタクの間では『百合の間に挟まる男』を憎悪することがある種踏み絵として存在していて。ならそういう物なんだろう程度に思っていた。それから、心の底から忌避するようになったのはいつからだったか、覚えていない。

 

 それが、今やおれ自身だったのだ。おれが愛する百合を害する敵に図らずともなってしまった。何かにつけて壁になりたい、無になりたいとのたまう百合オタクがこれを聞けば憤死するだろう。ともかく取り返しのつかない過ちを犯したおれは、しかしショートした頭ではどうするべきかも分からなくて、ただ、スマホを見つめるしかできなかった。


 画面が歪む、Twitterアプリのアイコン、就活アプリのアイコン、それらがコーヒーミルクのように溶け、混ざり合い、そして水色の人型っぽい、薄汚いシルエットを成す。


「ゲギョーッギョッギョ!!!迷える子羊よ!ワシがズバッと解決して進ぜるゲギョーッ!」


 その不潔な幻はまずこう語り掛けてきた。


「結論!貴様はもう何もする必要はないゲギョ!貴様は百合光景を間近で目撃して喜んでいる1!欲に忠実になるゲギョ!なに、彼女らは別に貴様の存在を特に邪魔に思ってはおらんゲギョ!!」


 おれは、何となく察した、これは天使と悪魔が脳内でホワンホワンしてそれぞれ争うアレだった。心の葛藤のメタファーが、今は百合で頭がおかしくなってるせいで、幻覚として視覚化しているのだろう。


「やめなさい!この悪魔の誘惑に乗ってはなりませんよ!」

 

 ほら、天使がやってきた。いかにも天使な見た目のそれは、いかにも天使的なロールを行いおれを咎めてきた。


「百合の間に挟まるなんて、不可抗力だとしても言語道断なのです!それを甘んじて受け入れたら……地獄に堕ちますとも!!」

「耳を貸すなゲギョ!百合の間に挟まる男死すべし?厄介オタクの戯れ言ゲギョ!それとも、彼女らも本心では男を挟むことを望んでいるかもゲギョ?さあ、チャンネルはそのままで……ゲギョーーッ!?」

「一線を越えましたね、悪魔!己の都合によく2人の感情を解釈するなど!!!」

「ゲギョギョ……いきなり人中に拳を喰らわすなど野蛮なり。お主がその気ならこちらもゲギョ!?」

「問答無用です!!天使拳法シラットを喰らいなさい!死ねーっ!!」

「ゲギョ――!!」

「しねーーっ!!」


 ……そこでおれは幻覚を見るのをやめた。何が天使と悪魔だ、くだらない。でも、すこし落ち着く事はできた気はする。

 ここは天使の言いなりになろう。それが2人の為だ。そうだ、彼女のような尊い何かは、おれのようなクズを挟んで存在するべきではない。


 おれは足元に置いていたリュックサックに手をかける。問題なのは、いかにさり気なく、自然に席を立つかだ。立つ鳥跡を濁さず、おれが去った後には何も残らず、ただ2人の空間だけが残るようにしなければならない。これが、百合の間に挟まってしまった男ができる、せめてもの贖罪だ。

 というか、2人ともおれ越しに弁当を渡し合ったりしているし、比喩でもなんでもなくマジにおれの事を霞か何かと思っている可能性はあるよね。だからおれはまだ『百合の間に挟まる男』判定は発生しておらず、むしろ『百合を邪魔せず見つめる壁』に当たるかもしれない。そうだ、今ならまだ十分間に合う。


『間もなく、北内駅、北内駅、お出口は、右側です』


 ナイスタイミング。これに乗じて席を立ち、駅のホームに降りる。一切の不自然さもないだろう。本数の少ない路線ゆえ帰宅時間は遅くなるだろうが、家に帰ってから一体なにをすると言うのだ。どうせインターネットだ。

 おれは両足に力をかけ、上体を前に起こし、立ち上がろうとする。決して早すぎず遅すぎず、自然な速度でいつもしているように立つ。そう、いつも通りに……


「よっこいしょっと」


 はわーーーー!おわーーーー!!

 やってしまった。座席を立つ際「よっこいしょっと」とか言う奴は一般的にみて……不自然!!!!

 死んだ、おれは完全に2人に不審がられた。そして、この2人に不審がられるという事象こそが、百合の間に割って入った淀みであり、許されるべきではない失態だった。


 そんなおれに彼女たちはどう反応しているか、知ってしまうのが恐ろしかった。万が一にも見てしまわないように、恐る恐るドアの前に移動し、下車した。今思えばそれが尚の事不自然さを増大させてた気がするが、当時そんな事を考えている余裕はなかった。

 それからおれは駅を出て、すぐそばのコンビニの便所に入って、ようやく安堵を覚えた。同時に、耐えようもない劣等感に苛まれた。


 いや、「耐えようもない」というのも適切な比喩ではないか、元々おれは劣等感にまみれた人間で、そして自らを蔑むことで、ある種自分に酔うような人間だった。だからおれが耐えようもない劣等感だ~と言っても、それは結局耐えようもなさに酔っているに過ぎないのだろう。それはそれとしておれは、普段よりいっそう自分がゴミのように思えていた。


 おれは百合の間に挟まって、そればかりか2人の関係を汚したゴミだ、そもそも赤の他人を勝手に百合とパッケージングして消費する屑でもある。大声で笑い合う中坊、電話先を怒鳴りつける大人、おれが陰で見下してしる連中と同等、あるいはそれ未満の野郎だったいう事実に、ようやく向き合えた気がする。


 そう思うと、縛りの甘い風船みたいに全身がしぼんでいくような気がした。力が抜けて、この便座の上から全く動けなくなる。そうだ、いっそこのままずっと座ってみるのはどうだ。惨めに籠城を試みて、やがて当直のバイトに引きずり出されるか、あるいは空腹に耐えかねて降参するか、そうだ、それがおれという人間にふさわしいな……


 でも、そうはならなかった。急に湧いて来た悔しさが嘲りに勝ったからだった。極まった百合のオタク共が壁になりたい、無になりたい、もう観測すらしたくないだの、訳の分からないことを言い出すのを見て、くだらない事だと思っていた。それがどうだ、おれは、百合に干渉せず見守る壁にさえなれなかった。壁にさえだぞ。

 悔しさなんて感性はとうの昔に腐っていた。それが、百合の壁になれなかったという事実だけは、どうしてだか承服できなかった。この諦観クズが、怒りで涙目さえなったのだった。


 だからおれは、決めた。カビまみれの便所で1つの夢を掲げた。おれの夢は、壁になることだ。

 要は壁になるにふさわしい人間になるということだ。おれはクズでも、ゴミであろうとも、せめて、せめて壁としての用途に耐えうるだけのゴミさに留まりたい。ゴミ過ぎる奴は背景オブジェAすら似つかわしくない。それが今のおれで、そこから脱するのが夢だ。立派だろう。

 ……冷静に考えると、あの2人に挟まってしまったのは単なる事故で、おれの内面や能力は関係ない気もするが、あくまでこれはおれ自身の納得が重要だった。頭も性根も腐ったおれはきっと何物にもなれないだろうが、それで十分だと思うと、少しやれる気がしてきた。

 そうだ、やってやろうじゃねえか。おれは最高の壁になってやる、世界の主役の背景になって何ら問題ない、つまらない人間になってやる。そうして産まれてはじめて、心の底から自分のことを誇ろう……


 おれはコンビニを出て、スマホに目を落とす。それから、就活アプリのアイコンを指で押した。

 


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