いつか再訪したい赤
烏川 ハル
いつか再訪したい赤
「自転車を取りに来てください」
警察から電話がかかってきて、何かと思えば、そんな用件だった。
当時の私は学生で、京都市内に住んでいた。東一条と呼ばれる辺りだ。
一般的には、大学の西側という認識だろう。だが私の学部は南部キャンパスと呼ばれる地域にあるので、私としては「大学の北側に住んでいる」という感覚だった。歩いても10分くらい、自転車ならばすぐの距離だ。
そう、その自転車だった。少し前になくなってしまい「盗まれたのかな?」と思いながらも、大学へ通うだけならば徒歩でも構わないので、放置していたのだが……。
それが発見されたらしい。
警察には盗難届を出していなかったので「盗まれた自転車」という扱いではなく「放置自転車」として、電話がかかってきたのだった。交番の近くに置きっぱなしだったという。
私が「盗まれた自転車です」と告げると、今からでも盗難届を出す必要があるとか何とか、とにかく自転車を預かっている交番まで来るように言われた。
交番の場所を確認すると、方角的には北西で、私のアパートからでも歩いていける距離だった。ちょうど時間もあったので、急いで出発する。
京都は山に囲まれた盆地であり、夏暑く冬寒い街だ。しかしこの時は秋であり、歩きやすい季節だった。見知らぬ交番へ行くのも、私としては、ちょっとした散歩や一人ハイキングのつもりだった。
東一条通りをまっすぐ西へ進めば、鴨川の横を走る川端通りに出るが、私の進む道は違う。歩き慣れた裏道を使って、川端通りと今出川通りが交差する辺りに出る。
京阪電車の入り口があったり、コンビニがあったりという便利な地点だ。私は京都で学生をしていながら、趣味で頻繁に大阪まで行く機会もあったので、この辺りまでは、本当に『歩き慣れた』区域だった。
だが今日は違う。京阪電車には乗らない。秋の一人ハイキングだ。今出川通りを進んで、私は鴨川を渡る。
鴨川にはいくつも橋がかかっているが、今出川通りのところは、賀茂大橋と呼ばれている。鴨川が二つに分岐する辺り……というよりも、正確には合流する辺りというべきだろうか。北から来た加茂川と高野川が一緒になって、鴨川として南へ流れていくのだから。
賀茂大橋を西へ渡りながら左を向けば、南へ向かう鴨川の様子が、はるか先まで見えてくる。四季折々の顔を見せる鴨川だが、一番美しいのは桜がずらりと並ぶ春だろうか。夏も川原の草が青々としていて、私は好きだ。秋から冬に向かうと、川原の雑草の一部が茶色くなったり、刈られたりして、なんだか寂しくなってくる。
反対に右を向けば、二つの河川の合流地点が視界に入る。鴨川デルタと呼ばれる場所だ。その奥には下鴨神社があり、既にここからでも、神社っぽい存在があるという雰囲気は感じられる。
鴨川デルタは、この近辺の大学生の遊び場でもある。仲間とワイワイ楽しむとか、女の子と二人で遊ぶとか、私も色々とお世話になった。残念ながら、後者は滅多になかったのだが。
橋を渡って、鴨川西側の河川敷。公園のようになっており、ゲートボールの施設もあるらしい。テレビドラマなどには時々出てくるが、私がリアルでゲートボールを見たのは、鴨川の河川敷公園だけ。ただし、この日はゲートボーラーは目にしなかった。
京阪出町柳駅は鴨川の東側に存在するのに、出町柳商店街と呼ばれる商店の並びは、鴨川の西側だ。私は東一条通りにあるスーパーで買い物をするので、出町柳商店街は使わないが、鴨川東側の住人でも、出町柳商店街まで生活圏に含めている者はいるだろう。むしろ商店街よりも、河原町今出川の交差点に銀行があることの方が、私には重要だったかもしれない。
ただの散歩であれば、河原町今出川からさらに西へ歩いて、京都御所へ向かうというのも気分よさそうだが……。
とりあえず今日の目的地とは方角が違うので、そちらはパス。それよりも、日頃あまり歩かない地域を歩きたいので、出町柳商店街の中へ入っていく。
これから交番へ行くのだから、食料品などを買い込むわけにはいかず、ただ見るだけだ。それでも「ここには、こんなものが売っているのか」という発見があって楽しい。いつものスーパーにはないスパイスなど、帰りに立ち寄って買っておきたいものを、頭の中のリストに記していく。
そんな感じで、北へ西へ。河原町今出川の交差点より北西は、本当に足を踏み入れたことがない区画だった。今出川通りから見える範囲しか知らず、それより奥は未踏のエリア。そういう場所を歩くだけで、なんだかワクワクする。
特に今日は、自転車ではなく徒歩なのだ。周囲の景色をじっくり見る余裕があった。表通りには商店が並んでいるのに、裏通りになると住宅街になったり、緑の木々が多かったり、という違いを見るだけでも楽しい。
そうやって、適当に北西へ向かって歩くうちに……。
見知らぬ寺に迷い込んだ。
京都市内には、寺や神社がたくさんある。ここも、その一つなのだろう。
寺の境内は、厳密には私有地なのだろうか。散歩で通り抜けるのは、いけないのだろうか。だが、きちんとお参りするならば問題あるまい。
そう考えて、さらに奥へ足を進める。自転車ではなく徒歩だからこそ、という気持ちもあったのだろう。
ところが、少し歩いただけで、私は大いに驚かされることになった。
目の前に、一面の赤が広がっていたのだ。
紅葉だ。
それこそ「もみじ」というタイトルそのままの童謡もあるくらいに、紅葉は日本人には馴染み深いものだろう。
京都にも紅葉の名所と呼ばれる場所はたくさんあり、その中のいくつかに私も行ったことがある。
だが私の人生の中で、これほど真っ赤な紅葉を目にしたのは、生まれて初めてだった。木々の枝から広がる赤だけでなく、落ち葉も含めて、まさに視界いっぱいの赤だったのだ。
今日の一人ハイキングの目的も忘れて、思わず立ちすくむほどだった。
帰りは自転車だったので、あの寺は通っていない。結局、寺の名前もわからぬままだった。
大学時代は京都で過ごしたが、もともと関東の人間である私は、今では京都から遠く離れた地に住んでいる。もしも京都を再訪する機会があれば、いつかまた、あの紅葉の寺にも行ってみたいと思う。
だが名前もわからないし、正確な場所も覚えていない。
テレビの紀行番組や季節の名所紹介などで、しばしば京都は扱われる。そうした番組を見ていると「ああ、ここは行ったことがある!」という懐かしい場所もよく出てくるのだが……。
あの真っ赤な寺だけは、テレビで見たことがない。紅葉特集で紹介される寺や神社も、インターネットや地図で確認すると、別の場所ばかり。
もしかすると、あれは幻だったのだろうか。
年のせいか、最近、そう思うようにもなってきた。
(「いつか再訪したい赤」完)
いつか再訪したい赤 烏川 ハル @haru_karasugawa
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